まにまにころころ[114]ざっくり日本の歴史(番外編)歴史上の人物は40歳ごろに何をしていたのか/川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

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コロこと川合です。実は今日が30代最後の日でして、今回はちょっと番外編ということで、歴史上の人物は40歳くらいに何をしていたのかを見てみようと。思いっきり個人的な話ですみません。

四十にして惑わず、なんて言いますが、今日までは惑っていいんですよね?

なお、生年月日が曖昧な人も多いので、生年とされる年に40を足したあたりのことを見ていくことにします。





◎──聖徳太子(574年2月7日-622年4月8日)

まずはこのお方。聖徳太子こと、厩戸皇子。最近は教科書になんて載せるかが話題になったり、いなかったんじゃないかとまで言われる聖徳太子。

生年に40を足した614年頃、何をしていたのでしょうか。

614年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を隋へ派遣していました。遣隋使はこれが最後になりますので、高校で日本史を選択していた方なら習ったかも。

また翌615年に三経義疏(さんぎょうぎしょ)のうち、聖徳太子の真筆として唯一現存する『法華義疏』が完成したとのことなので、40歳頃の聖徳太子はこれを書いていたのではないでしょうか。

なお聖徳太子は、お妃の膳大郎女が亡くなった翌日に48歳で亡くなっています。


◎──中大兄皇子=天智天皇(626年-672年1月7日)

続いてはこの方、今に至る天皇の礎を築かれた中大兄皇子。大化の改新という一大改革の端緒である乙巳の変で、蘇我を討ったのが19歳の時です。

666年のことは分からないのですが、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗、667年4月17日に近江大津宮へ遷都し、668年2月20日に天皇に即位されています。40歳の時は、遷都準備の真っ最中でしょうか。

天智天皇の弟で、後の天武天皇となる大海人皇子は671年に40歳。天智天皇崩御の前年で、天智天皇から後事を託す旨を告げられましたが、出家して吉野へ。


◎──藤原道長(966年-1028年1月3日)

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだのが1018年、52歳のこと。40歳の1006年のことは分からないのですが、1000年に長女である彰子を一条天皇の皇后(中宮)にしています。

1008年、彰子は後の後一条天皇である敦成親王を出産、翌年は後の後朱雀天皇となる敦良親王を出産。40代の道長はこの世の春を謳歌していた感じですね。

紫式部日記にも、初孫にメロメロな道長の様子が書かれています。どれほどのメロメロっぷりかというと、抱いてた孫が粗相してしまい、濡れた着物を自ら火で乾かしながら、おしっこされて濡らされて、嬉しいなあ、と呟くほど。1008年、42歳です。


◎──源頼朝(1147年5月9日-1199年2月9日)

源頼朝の40歳は1187年。イイクニ作ろう鎌倉幕府の少し前で、イイハコ作ろう鎌倉幕府の少し後です。国内の平定を進めている時期であり、奥州の藤原秀衡が没したのが1187年。

義経が平泉に落ち延びた年の暮れのことで、二人の息子国衡、泰衡と義経に、義経を主君として結束するよう遺言したそうです。

頼朝の圧力に屈した泰衡が義経を討ったのが、1189年のこと。頼朝と義経は12歳離れていて、義経は30歳で亡くなっています。


◎──楠木正成(1294年-1336年7月4日)

楠木正成が40歳を迎えた1334年は、建武元年。後醍醐天皇が親政を始めた翌年で、建武の新政まっただ中。

楠木正成としてはやり遂げた感でいっぱいだったと思うのですが、この年、楠木正成の後ろ盾であった護良親王が謀反の嫌疑をかけられて失脚。楠木正成も役職を辞任しています。

翌1335年に足利尊氏が離反。正成は天皇に尊氏との和睦を進言するも却下され、ならばと迎え撃つための策を進言するも却下され、それでも天皇に尽くして、望みのない戦場へ投入されて、1336年湊川の戦いに敗れて自害。42歳でした。

足利尊氏の40歳は1345年。1338年に征夷大将軍に任ぜられ、後醍醐天皇の南朝と抗争を続けつつ、身内の足利直義と高師直が対立を深めていった時期です。

楠木正成の嫡男、小楠公こと楠木正行が父の遺志を継いで南朝方として四條畷の戦いに臨み、敗れて自害したのが1348年。22歳でした。


◎──織田信長(1534年-1582年6月21日)

織田信長公、日本史上最も人気の高い偉人である我らがノッブが40歳を迎えたのが、1574年。時の天皇に「蘭奢待の切り取り」を望んで認められた年です。

長島一向一揆に対する第三次長島侵攻がこの年で、追い詰められた門徒の反撃に一族はじめ多大な被害を受けながらも殲滅、完全制圧した年でした。

翌1575年には長篠の戦いで武田勝頼を撃破。40代の信長は覇道を突き進んで、天下一統目前の1582年、48歳で本能寺の変を迎え、生涯を終えます。


◎──豊臣秀吉(1537年-1598年9月18日)

戦国一の出世頭、太閤秀吉は遅咲きの印象がありますが、40歳の1577年には、信長から命ぜられた中国攻めの端緒となる播磨平定に道筋をつけて、信長から褒められています。

大河ドラマ『軍師官兵衛』で官兵衛が奔走していた、秀吉を姫路城に迎えて、小寺政職らを説得して押さえ込んだ、あの辺りです。近年雲海で有名な、但馬の竹田城もこの頃に落としています。


◎──徳川家康(1543年1月31日-1616年6月1日)

家康が40歳を迎えたのは、本能寺の変の翌年1583年。つまり大騒ぎの最中です。大河ドラマ『真田丸』で真田昌幸が、あっちに寝返りこっちに寝返りとしつつ、沼田を渡す渡さないって駆け回っていた頃です。

1583年、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破っています。


◎──徳川吉宗(1684年11月27日ー1751年7月12日)

吉宗40歳の1724年は、将軍になって8年、享保の改革まっただ中。小石川養生所の設置が1722年のことです。足高の制の施行が1723年。吉宗が規制した心中が流行した元凶とも言える、近松門左衛門が亡くなったのが、1725年です。


◎──佐久間象山(1811年3月22日-1864年8月12日)

幕末、多くの人物に多大な影響を与えた佐久間象山が、40歳を迎えたのは1852年。兵学者として名声を轟かせ、江戸の木挽町に「五月塾」を開いた年です。

ここで、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らが象山に出会っています。

松陰がやらかして巻き添えをくったのが1854年。1862年まで松代で蟄居します。暗殺されたのは1864年、53歳の時です。

吉田松陰は1859年、29歳で斬首。松陰門下の三秀とされる高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿らもみなそれぞれ20代で亡くなっています。


◎──勝海舟(1823年3月12日-1899年1月19日)

1863年、40歳の勝海舟は船に乗っていますね。咸臨丸での渡米が1860年。翌年、講武所砲術師範にされ、海軍から外されたことに腐っていた海舟ですが、1862年軍艦操練所頭取として海軍に復帰し、ほどなく軍艦奉行並に就任。

1863年は、海軍の強化に奔走しています。この年、薩英戦争が起こっています。


◎──西郷隆盛(1828年1月23日-1877年9月24日)

1868年、40歳の西郷さんは誕生日の4日後から戊辰戦争に突入。で、大勝利。


◎──桂小五郎=木戸孝允(1833年8月11日-1877年5月26日)

木戸孝允の40歳、1873年は、岩倉使節団の全権副使として欧米を回り帰国した年です。翌年、台湾出兵の決定に反対して参議を辞職しています。


◎──大久保利通(1830年9月26日-1878年5月14日)

1869年、参議に就任して版籍奉還や廃藩置県を実施。1870年に40歳となって、翌1871年には大蔵卿に就任、岩倉使節団の副使として米国へ渡ります。


◎──今回はここまで

歴史に名を残す人は、40歳までには十分に名を上げていますねえ。

番外編と言えど、まあ流れ的に幕末の人を多く紹介しようと思っていたのですが、幕末は40歳を迎えることなく散っていった人が多くて……

さて、不惑を迎えるわけですが、振り返れば三十にして立つところから怪しく、五十にして天命を知れるとも思えず、六十、七十なんて想像もできずという……

十五で学に志さなかった身としては、四十だろうが惑いっぱなしの予感ですが、どうぞ今後ともひとつ、よろしくお願いします。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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