Otaku ワールドへようこそ![256]遥か彼方の無限とこの手中の無限
── GrowHair ──

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数学は、矛盾やら不明瞭さやらの入り込む隙を一分たりとも許さない、絶対的な論理体系を構築することを旨とする学問であるにも関わらず、無限が絡んでくると、どうも悪魔っぽいものがうろちょろする気配が漂ってくる、という話をしてきました。

今回はシリーズ第5回目になります。4月21日(金)配信分の続きです。前回、最後に問題を出しておきました。その解答から。




●問題再掲:論理の筋道に穴があるので指摘せよ

まずは、問題を再掲しておきましょう。

自然数の集合Nの部分集合からなる集合2^Nを考えると、これの濃度もまた集合Nの濃度に等しいということを、次のようにして“証明”しました。これのどこが間違っているのか、指摘してください、というものでした。

「濃度」がなんだったか忘れている方、一般に集合Aと集合Bとの「濃度が等しい」とは、集合Aの各要素と集合Bの各要素との間に過不足なく一対一の対応づけが可能であることをいうのでした。

まず、n以下の自然数からなる集合をNnと表記することにします。例えば、3以下の自然数からなる集合N3は、要素を書き下す形で表記すれば、

  N3 = {1, 2, 3}

となります。

次に、Nnの部分集合からなる集合を考え、これを集合2^(Nn)と表記することにします。例えば、集合2^(N3) は、

  2^(N3) = {φ, {1}, {2}, {1, 2}, {3}, {1, 3}, {2, 3}, {1, 2, 3}}

となります。ただし、φは空集合を表します。

集合2^(N3)の例について、要素の個数を勘定してみると、8個あるのが分かります。8は2の3乗です。

一方、集合N(2^3)すなわち集合N8を考えます。書き下せば、

  N(2^3) = {1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8}

です。

そうすると、集合2^(N3)の各要素は、集合N(2^3)の各要素と一対一に対応づけが可能ということになります。どちらも要素の個数が8個なので。

これは、どんな自然数nに対しても成り立ち、集合2^(Nn)の要素の個数は2^nになります。なので、集合2^(Nn)の各要素と、集合N(2^n)の各要素との間には一対一の対応づけが可能です。

さて、ここで、nを限りなく大きくしていってみましょう。すると、n以下の自然数からなる集合Nnは、すべての自然数からなる集合Nになります。

集合Nnの部分集合からなる集合2^(Nn)は、Nの部分集合からなる集合2^Nになります。

一方、2^n以下の自然数からなる集合N(2^n)は、nを限りなく大きくしていった結果、すべての自然数からなる集合Nになります。

さて、集合2^(Nn)の各要素と集合N(2^n)の各要素との間に一対一の対応づけが可能だったことを先ほどみているので、nを限りなく大きくしていったとき、集合2^Nの各要素と集合Nの各要素との間に一対一の対応づけが可能ということになります。

よって、集合2^Nの濃度は、集合Nの濃度に等しい。以上、証明終わり。

この証明のどこかに間違いがあるというのだから、数学というのはほんとうに油断のならないものです。うっかり気を抜いた隙に沼にドボンと落っこちたりしないよう、細心の注意を払って論を進めていく必要があります。

では、上記の論をよくよく検証してみましょう。

●よくよく検証してみる、まずは前半部分から

上記“証明”の前半部分、nを限りなく大きくしていく手前までには、実は、誤りはありません。ですが、まずはこの部分をよくよく検証してみましょう。そうすることによって、同じ議論が後半部分でも成り立つかどうかが見えてきたらいいな、ってもくろみです。

集合2^(N3)と集合N8は、どちらも要素の個数が8個なので、一方の集合の各要素と他方の集合の各要素との間を線で結び、過不足なく一対一に対応づけすることが可能です。

どれとどれを結びつけたって過不足は出ないので、そこは自由にやって構わないのですが、しかし、話を一般の自然数nに持っていくためには、対応づけのルールがあると便利です。

そのルールは、次のようにして設定することができます。

集合2^(N3)に属する8個の要素それぞれに対して、表現の言い換えをしてみましょう。

  φ は「1 がなく、2 がなく、3 がない」。
  {1} は「1 があり、2 がなく、3 がない」。
  {2} は「1 がなく、2 があり、3 がない」。
  {1, 2} は「1 があり、2 があり、3 がない」。
  {3} は「1 がなく、2 がなく、3 がある」。
  {1, 3} は「1 があり、2 がなく、3 がある」。
  {2, 3} は「1 がなく、2 があり、3 がある」。
  {1, 2, 3} は「1 があり、2 があり、3 がある」。

単に言い換えただけなので、特に問題はありませんが、表現が長ったらしいので、省略して書いてみましょう。「1が」、「2が」、「3が」の主語は省き、さらに、「ある」を1で置き換え、「ない」を0で置き換えます。すると、次のようになります。

  φ は 000。
  {1} は 100。
  {2} は 010。
  {1, 2} は 110。
  {3} は 001。
  {1, 3} は 101。
  {2, 3} は 011。
  {1, 2, 3} は 111。

これを2進数で3桁の数を表しているとみて、位取りの上位と下位を通常とはひっくり返した上で、10進数になおしてみましょう。

  φ は 0。
  {1} は 1。
  {2} は 2。
  {1, 2} は 3。
  {3} は 4。
  {1, 3} は 5。
  {2, 3} は 6。
  {1, 2, 3} は 7。

出てきた数に1を足すと、0から7までが、1から8までになります。結局、集合2^(N3)の各要素は、1から8までの数字に対応づけができることが分かります。

逆に、集合N8の中から任意にひとつ自然数を選ぶと、それに対応する集合2^(N3)の要素を決定することができます。上記の過程を逆向きにたどればいいだけです。

例えば、7を選んだ場合、1を引いて6が得られ、2進数表記して桁順をひっくり返すことで011が得られ、これを「1がなく、2があり、3がある」と読み替えることで{2, 3}が得られます。

いま、n=3の場合を例に取り上げましたが、一般のnについても同じ議論が成り立ちます。

ここまでは、問題ないですね。“証明”の後半部分の検証に移る前に、ひとつ、ヒントっぽい話を挟んでおきたいと思います。

●遥か彼方にある無限とこの手中にある無限は別物か

山のあなたの空遠く「幸」(さいはひ)住むと人のいふ。

「無限」って、そんな感じがしませんか? 桃源郷はあっちのほうにありそうだ、ってんで、そこを目指して、一歩一歩踏みしめて歩いていきます。

踏みしめた一歩一歩の分だけは、着実に目的地に近づいていっているはずなのだけど、しかし、歩けども歩けども、そこに到達することはありません。

羊が一匹柵越して〜、羊が二匹柵越して〜、……って、こんな調子で自然数を数え上げようとしても、途中で寝ちゃうのが関の山で、最後まで数え終わったって話を聞いたことがありません。

それもそのはず、任意の自然数nに対して、必ず、その次の自然数である(n+1)が存在します。この数に到達したことをもっておしまい、という最後の自然数は存在しないのです。

行けども行けども決して到達することのできない、遥か彼方の彼方のまた彼方にある「無限」というのが、概念としてひとつあります。これを何と呼んでおきましょうか。「未到達無限」もいい感じですが、ここではいちおう「事前無限」としておきます。

一方、「すべての自然数からなる集合」というものを考え、これを「N」と呼ぶ、と言い切っちゃったらどうでしょう。決して数え終わることのできないほどの大量の要素をひとまとめにして袋に放り込み、その袋に「N」とラベルづけしたイメージです。

中身の一個一個すべてとご挨拶することは、われわれにはできない相談なのだけれども、それをひとくくりにした「袋」というものは概念として考えることが可能です。

これを何と呼びましょうか。「無限袋」? 「くくられ無限」? まあ、なんでもいいですけど。ここではいちおう「事後無限」としておきます。

驚くべきことに、これら2種類の無限のことは、ギリシア・ローマ時代から認識されていました。紀元前3世紀ごろ、アリストテレスが前者を「可能無限」、後者を「実無限」と呼んでいます。

時代は下り、ヘーゲル(1770─1831)は次のように述べています。

「無限には2種類ある。否定的無限と真無限である。否定的無限は果てしのない進行をいい、これは有限を超えて進むが、どこまで進んでも有限に止まる。これに対して、真無限とは他者のうちにおいて自己自身に止まるところの普遍者、有限なものを契機として止揚している精神・絶対者である」。

はい? 私にはたわごとのようにしか聞こえませんが。おーい、ヘーゲルよ、もしかして、なんか変なもん食っちゃった?

次のようなジョークがあります。「高校から大学に進んで分かること」。
生物学は、実は、化学だった。
化学は、実は、物理学だった。
物理学は、実は、数学だった。
数学は、実は、哲学だった。

この段でいくと、哲学は理系の科目に入れておくのが、しっくりと落ち着くはずです。

アダムとイブが禁断のリンゴの実を食ったら、いかがわしい知恵がついて、エデンの園を追い出されたように、哲学は、なんか変なもんを食っちゃったら、言葉の下痢に陥って、理系の楽園から追い出された模様です。哲学よ、よーく反省して、下痢が治ったら、戻ってきていいかんね。

話を元に戻そう。

事前無限においては、羊の数を数えていっても決して終わることがなく、無限は遥か遠くにあったのに、事後無限においては、あたかも数え終わったかのごとく、無限はこの手中にあります。

事前無限から事後無限に移行する瞬間、ガッシャンパリーンと嫌な音が聞こえてくる感じがしませんか? それは論理が飛躍するときの音です。聞き逃してはいけません。

シリーズの最初のほうで、1を3で割って、しかる後に3倍したら、1に戻るか、って話をしました。

  0.9は 1 に等しくない。
  0.99は 1 に等しくない。
  0.999は 1 に等しくない。
  ...

一般の自然数 n に対して、

  0.999...999(9がn個)は1に等しくない。

ここまでは正しいのです。nはいくらでも大きくすることが可能であるけれども、無限は遥か彼方にあります。つまり、事前無限の状態です。

ところが、調子に乗って、

  0.999...(9が無限個ある)は1に等しくない。

と言ってしまうと、これは誤りです。上記、点々々の中に、実際には9が無限個詰まっているので、これは事後無限の話です。

ここで例の効果音。はい、論理が飛躍しましたね。

つまり、任意の自然数nについて、ある命題が成り立っているからといって、nを事後無限にまで持っていったとき、同じ命題が成立しているとは限らないのです。

さて、最初の問題に戻って、例の“証明”の後半で、まさにこれをやらかしてないでしょうか。

●よくよく検証してみる、核心の後半部分

n以下のすべての自然数からなる集合Nnにおいて、nを限りなく大きくしていけば、Nnはすべての自然数からなる集合Nになると言っています。

ここにおいて、事前無限から事後無限への移行が起きています。いやな音が聞こえてきます。しかしながら、有限のnで成り立っていた命題を事後無限の世界へと不用意に持ち込んじゃうという論理飛躍を起こしているわけではないので、ぎりぎり助かっています。

次に、集合Nnの部分集合からなる集合2^(Nn)は、nを限りなく大きくしていけば、Nの部分集合からなる集合2^Nになる、と言っています。うーん、これもかなりきわどいですが、よしとしましょう。

一方、2^n以下の自然数からなる集合N(2^n)は、nを限りなく大きくしていけば、すべての自然数からなる集合Nになります。これも、まあ、いいです。

さて、問題は次です。再掲しましょう。

集合2^(Nn)の各要素と集合N(2^n)の各要素との間に一対一の対応づけが可能だったことを先ほどみているので、nを限りなく大きくしていったとき、集合2^Nの各要素と集合Nの各要素との間に一対一の対応づけが可能ということになります。

ガッシャーンパリーン!! まさにここです! ぜーったいにやってはいけない論理飛躍をやっちゃっています。さきほどの0.999...の例と同様、任意の自然数nで成り立っているからと言って、nを限りなく大きくして事後無限の世界まで持っていったときにも、やはり成り立っているはずだと勝手に決めつけちゃっています。これは、いけないのです。

ここにおいて、論理の筋道がちゃんとつながっていないので、証明としては欠陥があるということが分かりました。じゃあ、いったいどんなマズいことが起きているというのでしょうか。

有限の範囲内にある任意の自然数nに対しては、集合2^(Nn)は2^n個の要素からなり、各要素はある自然数と対応づけが可能であるため、小さい順に1から2^nまで数え上げることができたのでした。

実は、事前無限から事後無限に移行した瞬間、とんでもない大爆発が起きていて、今までのやり方では勘定に入っていなかったやつらが、ぶっわーーーっと大量に湧いてきちゃっているのです。どういうことか、分かりますか?

では、これから、大爆発の決定的な証拠をご覧に入れましょう。

すべての自然数からなる集合Nのすべての部分集合からなる集合2^Nを考えるとき、この集合には、次のような要素が含まれています。

(1)集合 N 自体。これを集合 A1 とします。要素を書き並べれば、

    A1 = {1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, ...}

  です。

(2)集合 N から 1 という要素だけを除去した残りの自然数からなる集合 A2。

    A2 = {2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, ...}

(3)すべての正の偶数からなる集合 A3。

    A3 = {2, 4, 6, 8, 10, 12, 14, ...}

(4)すべての平方数 (自然数を 2 乗して得られる数) からなる集合 A4。

    A4 = {1, 4, 9, 16, 25, 36, 49, ...}

(5)すべての素数からなる集合 A5。

    A5 = {2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, ...}

(6)フィボナッチ数列に登場するすべての自然数からなる集合 A6。

    A6 = {1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, ...}

挙げてくときりがないので、これくらいにしときますが。これらはすべて、集合Nのれっきとした部分集合です。けども、要素の個数が有限で終わってないですね。

さて、これらについて、先ほど述べた手順にしたがって、0と1の列に置き換えてみましょう。

(1)A1: 1111111...
(2)A2: 01111111...
(3)A3: 01010101010101...
(4)A4: 1001000010000001000000001...
(5)A5: 01101010001010001...
(6)A6: 111010010000100000001...

点々々の部分の中身ですが、1が出てくる頻度がだんだんスカスカになっていくやつもありますけど、いずれにせよ、どこかで最後の1が出て来て、それ以降はずーっと0ばっかり、ということにはならず、行けども行けども1は出てきます。

さて、これらを桁表記が逆順の2進数とみなして、10進数の自然数表記に置き換えようとすると、何が起きるでしょう。あ。あれ? あれ? あれあれあれ?

全部、無限大になっちゃいますね。対応する自然数がありません。しかも、お互いの区別がつかなくなっています。

なので、nを事後無限まで持っていったとき、集合Nの部分集合からなる集合2^Nの要素の中には、集合Nの要素と対応づけできないものがぼろっぼろと大量に湧いて来てしまうことが、決定的に示されました。

これをもって、上記“証明”の欠陥が指摘できたことになります。以上が解答です。いかがでしょうか。

(1)楽勝、楽勝。問題読んだ瞬間に答えが分かったぜー
(2)しばらく考えて、なんとか自力で見破れたよ
(3)自力では答えに思い至れなかったけど、解答読んだら納得ー、もうちょっと真剣に考えれば自力解答できたかも
(4)解答読んだら納得できたけど、自力じゃぜーったい無理ー
(5)解答読んでも、なに言ってんのかさっぱり分かりませんー

(1)と(5)の方には、どうもすみませんとしか言いようがないです。はい、ほんっと、どうもすみません。

●何が分かったのか

われわれは、いま、どこにいるのでしょう? 大きな流れを見失って迷子になってはさびしいので、シリーズのこれまでの流れをざっと振りかえってみましょう。

すべての自然数からなる集合Nの要素と一対一に対応づけ可能な集合を「可算無限集合」というのでした。

有限集合の場合だと、その集合に要素をひとつつけ加えた集合を作れば、要素の個数は着実に1だけ増えて、元の集合よりも濃度が高まるわけですが、可算無限集合の場合、そうはなりません。

無限にある要素に対して、ひとつやふたつ、新たな要素をつけ加えたところで焼け石に水で、ちっとも増えていかないという現象を見てきました。可算無限に1を足しても、可算無限であることに変わりはないのでした。

じゃあ、2倍してみたらどうでしょう。これも変わりませんでした。じゃあ、2乗したらどうかというと、これも変わりませんでした。3乗しても4乗しても増えていきゃしないのでした。

ひょっとして、可算無限はどう料理しようとも、それ以上大きくなることはないんじゃなかろうかという疑いが出てきました。

じゃあ、2の肩に乗せて、2の可算無限乗はどうか、って話でした。で、「集合2^Nの濃度は集合Nの濃度に等しい」という命題が正しいことを“証明”したわけですが、これには欠陥があることが、たった今、示されたのでした。

集合2^Nの各要素と集合Nの各要素との間に一対一の対応づけができたような気がしていたら、それは大きな勘違いで、実は、集合2^Nの側に、余るやつが大量に湧いて出てきていたのでした。

では、これをもって、集合2^N側が多いということが確実に言えたのでしょうか。いやいや、あわててはいけません。

上記命題を肯定的に証明しようとしたけど、その証明の仕方が間違っていることが分かった、ってだけのことです。ある“証明”が無に帰したってだけのことであり、元の命題自体はまだ肯定されたわけでも否定されたわけでもないのです。

一般的に、集合Aと集合Bとがどちらも可算無限集合であるとき、集合Aの各要素と集合Bの各要素との間には一対一に対応づけすることが可能です。

しかしながら、恣意的に別の対応づけをすると、集合Aの要素の中に、相手となるべき集合Bの要素がなく、余っているやつがいるように見せかけることが可能です。ここが有限集合と違うところです。逆に、集合B側から余りが出ているように見せかけることも可能です。

いろいろな対応づけが可能な中で、過不足なく一対一に対応づけする方法が一通りでもあれば、「濃度が等しい」と結論づけることができます。

なので、上記“証明”においては集合2^Nの側に大量に余りが出ているように見えているとしても、もっと上手に別の対応を考えれば、一対一に対応づけできてしまう可能性があり、今のところ、それは否定されていません。

一方、集合 2^N の側が着実に多いということを証明しようとするならば、限りなくありうる対応づけのうち、どのようなものを採用したとしても、絶対に集合2^Nの側にあぶれる要素が出て来てしまうことを言わないとなりません。

現時点においては、まだどちらもできていないので、上記命題が正しいかどうかについては、まだ何も分かっていない、というのが、ここまでの結論です。

長めのコラム2回分を使った、壮大な空振りだった、ってわけです。どうもすみません。

●カントールの偉業

この問題に決着をつけたのは、ゲオルク・カントール(1845─1918)という人です。

で、結論はどっちだったのでしょうか? 実は、集合2^Nの濃度は可算濃度よりも大きいことが分かったのです。

なので、先ほどの偽の“証明”は論破しておかないと、決定的な矛盾が生じちゃうところだったわけです。

可算無限はどう料理してもそれ以上大きくなっていきようがないのではないか、という予想はくつがえされました。

これって、かなりとんでもないことだと思いませんか? 可算無限でさえ、われわれにとっては最後まで数え切ることのできない、遥か彼方の彼方のまた彼方にあって、ちゃんと把握することのできないものでした。

なので、桃源郷のごとく、想像力を働かせておぼろげながらにイメージするしかなかったのでした。

到達不能なその可算無限よりもさらに先に、もっと大きな無限がある、ってことが言えちゃった、ってことです。

つまり、直観的に把握しようとどんなにあがいても、とうていあたわぬことであっても、論理の力をもってすれば、光を当てることができちゃう場合がある、ってことです。

カントールは「対角線論法」というテクニックを考案し、証明の中で使っています。同じテクニックは、「ゲーデルの不完全性定理」の証明の中でも使われています。

これを考え出したカントールはすんごい大天才ってことになるわけですが。

ひとつ、気がかりなことがあります。カントールに限らず、このジャンルで研究に勤しみ、大きな成果を上げた人たちの中には、晩年を精神病院で過ごして終わったって人がけっこう多いのです。自分が発見した真理を自分の直観が受け入れ拒否して、齟齬を来たしたのでしょうか。

人をおかしくさせてしまう危険なジャンルだという見方もできますが、逆だという説もあります。このジャンルで研究に手をつけるための素質として、そもそも元から頭がちょっとおかしい人でないと無理だ、という説です。鶏が先か、卵が先か。

さて、今回、対角線論法の話ができるかなーと思っていたのですが、すでに紙面が尽きました。次回に回しますので、みなさん、お気を確かにもっていてくださいませー。

ちなみに私は、おっさんなのにセーラー服を着て出歩いたりしてますけど、頭はおかしくないつもりです。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/



【シュレーディンガーの猫】

5月22日(月)配信分のデジクリで古籏一浩氏が「シュレーディンガーの猫」のことを書いていて、なんか呼ばれたような気がするので、軽く解説しておきましょうか。
https://bn.dgcr.com/archives/20170522110200.html


まず、押さえておくべき一番大事なポイントは、現実に起きている現象がクレイジーであるという点です。

たとえて言うと、こんな感じです。野球で、ピッチャーがキャッチャーミットを目がけて投球します。ピッチャーの手から離れた瞬間、ボールは粒子であることを止めて波に化け、ゆんゆんゆゆゆんと拡散していきます(消える魔球)。

しかし、キャッチャーミットに収まった瞬間、しれっと元のボールに戻っています。

野球のボールだと、こんなことが起きるのは漫画の中でだけですが、電子とか、それよりやや大きめの分子だと、現実にそんなことになっていると言われています。そのように考えないと、「二重スリット実験」で干渉縞が生じる現象に説明がつかないのです。

ピッチャーとキャッチャーとの中間に鉄板を立てます。ボールが鉄板に当たると、そこで跳ね返って地面に落ち、キャッチャーには届きません。鉄板には縦長のスリット状の穴が左右に二つあけられています。ボールがどちらかのスリットを通り抜ければ、キャッチャーに届きます。

ボールを次から次へと投げていき、キャッチャーがどの位置で捕球したかを記録していくと、左右のどちらのスリットを抜けたかに応じて、二か所に集中するであろうと考えるのが普通です。

野球のボールだとそうなのですが、電子や分子だと、そうはなりません。頻度の高い低いの分布が、二本ではなく、たくさんの縞々となって現れるのです。

この縞々は、粒子ではなく、波に特有の「干渉縞」と呼ばれる現象です。ボールは波の状態で左右両方のスリットをすり抜け、自分どうしで干渉しあい、縞模様を描くと解釈せざるを得ないのです。

つまり、左のスリットを通り抜けたという事実と、右のスリットを通り抜けたという事実とが、それぞれに適当な係数を掛けて足し合わせたような「重ね合わせ」の状態で存在しているはずだ、ってわけです。

途中の過程では波なのに、最後には粒子に戻って、キャッチャーミットに収まります。観察した瞬間に、波がしれっと粒子に戻る現象を「波動関数の収縮」といいます。

粒子は、人が見ていないところでは波に化けており、人が見た瞬間に粒子に戻る。「だるまさんがころんだ」。これを「コペンハーゲン解釈」といいます。

「おかしいだろ!!」。まあ、誰もが思いますわな。「そこは神サマに聞いてくれ」。物理学者は答えます。「俺たちに説明責任はないよ」と。現実に起きている現象に対して文句をつけても始まらんじゃないか、ってわけです。

数式を立て、起きている現象を量的に正確に記述するのが俺たち物理屋の仕事なもんで。そこはたしかに、非常に高い精度で、出来るようになっています。この理論が量子論です。「俺たちの仕事は、これで済んでるよ」。

「いやいや、やっぱりおかしいだろ!!」。そこをあぶり出すのが、例の「シュレーディンガーの猫」です。ミクロで起きている現象をマクロに反映させる仕組みを考えたら、猫は生きている状態と死んでいる状態との重ね合わせとして存在するんかいな? という問いを投げかけたわけです。

数学者・物理学者であるロジャー・ペンローズ氏は、量子論に関する物理学者の仕事は、まだ終わっていないと考えています。これから発見されるべき重大な基本原理が残っているはずだ。しかるのちに、「心脳問題」の謎に対する答えが、もうちょっとクリアに見えてくるはずだ、と考えているようです。

ペンローズ氏は、心脳問題に対して、物理学方面からだけでなく、数学方面からもアプローチしています。ゲーデルの不完全性定理などを引き合いに出し、われわれの思考は「計算的ではない」と言います。

ペンローズ氏の思想に迫りたい、という動機から、私はここ数回にわたって数学シリーズを書いているわけです。本文とつながる話なのです。

ところで、空間上の位置をコンピュータのメモリのアドレスになぞらえ、その位置における物体の状態をメモリに格納されたデータになぞらえることの意味が、よく理解できてないんですが。笑えばいいってことで、いいんでしょうか。


【バンコクに行ってきました】

曼谷は どんな谷かと 夜の街

タイは、暑い季節とものすごく暑い季節しかありません。4月がいちばん暑いと言われているのですが、5月も「ものすごく」寄りの暑さでした。

国王逝去からすでに7か月経ってるけど、まだ喪の空気が明け切っておらず、地味な格好の人が多いのには驚きました。

実の父親のこと以上にショックで、仕事も手につかなくなる人がいたと聞きます。在位期間が70年4か月と長かったし、まるで有能な実業家のように、国の隅々まで歩きまわって人々の話を聞き、国のために働き続けた人だったので、その慕われ方も、ひとかたではなかったようです。あの陽気なタイ人が、ちょっとしおれちゃってるなぁ、という印象でした。

10月に行ったときは敬意を表して三角スカーフを黒にしていた私ですが、今回は考えもしなかったことで、うっかり赤のをしてっちゃいました。が、もうさすがにその程度ことではとがめられない雰囲気でした。

5月20日(土)は女装飲み会とカラオケ。
写真:
https://goo.gl/photos/1edyQvJt8Dz8eDne9


21日(日)は世界コスプレサミットのタイ代表決定戦。今回は、呼ばれたわけでもないのに、自費で勝手に押しかけていきました。いつもお世話になっている滋野真琴さんが主催しているので。

そしたら、公式サイトで告知してくれた上に、物販スペースまで用意してくれました。行くたびにお世話になってばっかりです。

コンテストは二階で進行しており、一階で物販にいそしんでいる私は見に行けなかったのですが、優勝者として名前が呼ばれたコスプレイヤーはボロ泣きして、それにつられた滋野さんも、本人を上回る泣きっぷりだったそうです。その世界をよーく分かってる人だと、やっぱ気持ちが移っちゃうよねー。

イベントの写真が大使館のサイトに:
http://www.th.emb-japan.go.jp/itpr_ja/photo.html


写真:
https://goo.gl/photos/E8FgdZjLdRJtkP9HA