まにまにころころ[117]ざっくり日本の歴史(後編その32)龍馬と竜馬はかなり違う
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。今日は予告通り、坂本龍馬について。まあ有名人ですし、改めて振り返る感じでざっくりと。数年前に大河ドラマにもなってましたね。福山雅治が龍馬役で。見てなかったんですが、人気だったようで。

ちょうど一昨日、偶然ですが、坂本龍馬が暗殺された近江屋の前を通りました。「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難の地」との石碑と経緯を記した立て札があって、その隣には龍馬の写真と「回転寿司100円〜」の看板が並んでいます。(笑)

河原町通り沿い塩屋町にある碑で、ここは近江屋があった場所の北隣だそうで。碑を建てるときにその土地の所有者が断ったために、隣に建てたんだそうです。数年前まではサークルKの前だったんですが、今はかっぱ寿司になっています。

さて坂本龍馬と言えば、開明的な行動派で、薩長同盟を成し遂げた偉人として取り上げられてきた人物ですが、龍馬を称える逸話の多くは司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が元ネタであると言われていて、歴史上の人物である龍馬とはかなり違っているようです。





反動というか、持ち上げられた龍馬像に異論を唱える側からは、龍馬なんて単に偶然薩長同盟の会談の場に居合わせただけに過ぎない、とまで言われていたり。まあ実際は、その真ん中くらいなんじゃないかなと思うんですが。

偉人は偉人だけど、小説ほどじゃない、というか。「竜馬」は「龍馬」をモデルにした架空の存在だけど、モデルにされるだけの功績はちゃんとあったんじゃないかと。

龍馬を持ち上げた書き方をしたのは、司馬遼太郎が最初ではないんですが、司馬遼太郎は、上手いんですよね、本当っぽく書くのが。

まるでその場にいたかのように書くことは、歴史小説家の誰もがよくやることですが、司馬さんはそれを資料による裏付けがあるように書くから。

だから、どこまでがフィクションでどこからが事実なのか読み手が混同して、全部を事実と思い込んでしまうと。歴史家にしてみればやっかいな人だったと思います。(笑)

なお、先に言っておくと、私は坂本龍馬があまり好きではありません。まあ、正直よくは知らないので、好きじゃない理由も大したものではないのですが。

龍馬は、妻のお龍と、日本で最初と言われる新婚旅行に出かけているんですが、その道中、高千穂峰を登るんですね。天孫降臨の際にニニギノミコトが山頂に突き立てたという天の逆鉾を見るために。

で、山頂に行って、二人はふざけてこの天の逆鉾を引き抜いたんです。龍馬はその時のことを、イラスト付きで姉の乙女への手紙に書いています。私、こういうことする輩が大嫌いで。(笑)

ちなみに龍馬のその旅行が日本最初の新婚旅行と言われているのは、大河でも岩崎弥太郎からあれこれ話を聞いて新聞小説『汗血千里駒』を書いていた坂崎紫瀾に、「ホネー、ムーン」(ハネムーン)と表現されていたからだそうで、それが日本最初のハネムーンってことになったようですが、新婚旅行自体は、龍馬より十年も前に、薩摩藩士の小松帯刀が行っていたそうです。

小松帯刀の旅行先も龍馬と同じ霧島だったそうですが。龍馬の場合は、新婚旅行というか、お龍を連れてはいたものの、寺田屋事件を受けての療養と逃亡を兼ねたもので、愛妻家の小松帯刀による旅行とは少し趣も違うんじゃないかと思いますけどね。

前置きがずいぶん長くなりましたけど、ここからは龍馬の人生を追っていこうと思います。


◎──坂本龍馬(1836年1月3日-1867年12月10日)

龍馬は土佐の郷士である坂本家の次男として生まれました。郷士というのは、土佐藩の下級武士のことで、土佐には上士と下士(郷士)がありました。上に兄がひとり、姉が三人いました。三人の姉のうち、末の姉が乙女姉さんです。

坂本家は元々商家であったのが、何代か前に郷士となった家系で、龍馬の父はその坂本家に養子として入った人でした。槍の名人で、文武に優れたその父の末っ子として生まれたのが龍馬で、長男とは二十歳ほど離れていました。

龍馬は十歳で母と死別、乙女姉さんが母代わりに龍馬を育てたとのことですが、乙女姉さんとは四歳しか離れていません。

幼少の龍馬は出来が悪く、いつまでもおねしょするわ、泣き虫だわ、塾に通わせれば上士の子と喧嘩して退塾するわと散々だったと言われていますが、そのあたりの話はどこまで本当か定かではないようです。

後に偉人となる人物的に、幼少時代は愚鈍であったほうが物語が面白くなるだろうって程度の理由から、そんな風に言わただけとの話もあります。おねしょと泣き虫は、どうやら実話らしいですけども。

12歳で剣術と柔術を教える小栗流の道場に入門して、5年で目録を得ていますので、愚鈍ってことはないんじゃないですかね。

目録を得た龍馬は、江戸への剣術修行を藩に願い出て許されます。北辰一刀流の千葉道場に入門し、また短い期間ですが佐久間象山の塾にも入門します。

剣術修行で江戸に着いたのが1853年4月、佐久間象山の塾に入ったのが12月。この年、6月にペリーが来航しています。ペリーが来た際、龍馬も臨時招集され品川の土佐藩下屋敷の警護にかり出されています。

この時、父宛の手紙の中で、「其節(=戦になれば)は異国の首を打取り、帰国可仕候」と書いています。

ペリーの再来は翌年2月。その時に吉田松陰が密航を企てた煽りで、佐久間象山も処罰されたため、龍馬が象山に師事した期間は短かったんです。まあもともと15か月の短期留学だったんですけども。

象山先生の影響もあってか、留学を終えて土佐に戻った龍馬は、オランダ語の勉強も始めます。国元に帰った翌年末、父が他界。翌1856年、兄が家督を継ぎます。龍馬はその年の夏に再度、江戸留学を願い出て許され、1858年までまた江戸で修行します。

世の中は黒船来航後のばたばたした時期。安政の大獄や将軍の家督争いの余波もあって、土佐も揺れていた時期です。

龍馬の親戚で幼なじみでもあった武市半平太は、他藩の尊王藩士とも交流を持ち、土佐で土佐勤王党を結成、龍馬もそこに参加します。しかしその頃の土佐藩は公武合体を唱えていて、勤王派は相次いで脱藩。龍馬も脱藩を決意します。1862年のことです。

龍馬の脱藩計画に気づいた兄はその動きに警戒し、龍馬の刀を取り上げてまで押しとどめようとしますが、刀を取り上げられた龍馬に対して乙女姉さんは、兄の秘蔵の名刀を盗み出して与え、送り出します。すげえ。(笑)

脱藩して江戸に行った龍馬は、同士の伝手で松平春嶽に拝謁し、勝海舟を紹介されます。海舟は開国論派でしたが海舟の話に感銘を受けた龍馬は海舟を師と仰ぎます。

海舟の日記によると、龍馬は開国論派の俺を斬りに来やがったけど、話したら弟子になりやがった、ってな経緯が書かれていますが、他の資料からその日時には龍馬は既に海舟に弟子入りしていたようで、海舟が誇張して日記に適当に書いたものみたいです。海舟の日記なんてそんなものだそうで。(笑)

何にしても、龍馬は海舟の弟子になりました。後に海援隊(亀山社中)を作る龍馬と海舟との接点ができたわけですね。海舟の取りなしで、龍馬の土佐脱藩は許されることになりました。大恩人です。

土佐では龍馬脱藩の翌月に公武合体派の有力者が暗殺され、藩論は武市半平太の力で勤王に転じていましたが、その翌年には山内容堂の意向で、土佐勤王党は粛正される流れになります。

同年、京都では薩摩と会津が手を組み長州を京都から追い出す「八月十八日の政変」が起き、世の中は佐幕に傾きます。直後、武市半平太は投獄されます。1863年です。

龍馬はその頃せっせと海舟の手伝いを続け、神戸海軍塾塾頭にまでなりました。留学中って形だった龍馬は、帰国延期の申請を藩に出していましたが許可されず、結局、脱藩という道を選びます。1864年のことです。

この年、龍馬は妻となるお龍に出会っています。尊王攘夷派の志士が大量粛清された池田屋事件もこの年です。

同年、海舟の紹介で西郷さんとも出会っています。その年11月、海舟は軍艦奉行を罷免されて、江戸に戻って蟄居生活に。その際、海舟は薩摩藩の城代家老だった小松帯刀に龍馬たちのことを頼むと依頼します。

薩摩藩は龍馬たちの持つ航海術を評価し、出資して亀山社中を設立させます。亀山社中は長崎を拠点に、下関、京都に支社を持つ貿易会社として活動します。薩摩の出資でできた会社が、長州の要地、下関に拠点を持っていたわけです。

同時期、同じく土佐藩の脱藩志士で長州に身を寄せていた中岡慎太郎は、長州を苦境に陥れた薩摩の島津久光を暗殺しようとしたり、禁門の変や下関戦争で長州の一員として戦うなど、長州にべったりで、長州による討幕を望んでいたのですが、次第に、薩摩も含めた雄藩連合での討幕へと考えが変化。

その過程で、龍馬とも知り合い、龍馬もまた薩長同盟を望んでいたため、タッグを組み、両者は行動を共にします。龍馬は薩摩寄りで、中岡は長州寄りと、バランスも良かったわけですね。

1865年5月、龍馬は桂小五郎に下関で西郷さんに会うよう説得。同時に、中岡は薩摩へ行って西郷さんを説得。話は上手くいって両者とも下関へ向かいますが、桂を伴った龍馬の元に、中岡だけがやってきました。

西郷さんは途中で行き先を京都に変えてしまったとのことで。まあ、その理由は、朝廷がどうやらまた長州征伐を計画していると聞いたために、それを阻止しようとしてのことだということですが。

結局、翌1866年1月、今度は京都で改めて両者の会談が行われます。小松帯刀の屋敷で、数日にわたっての話し合いの後、ここに薩長同盟が成立しました。

話し合いが始まった時、龍馬は不在で、数日後に到着したのですが、西郷さんと桂が会談を始めて十日以上も経っていたのに、まだ同盟が成立しておらず、龍馬が両者を説得して、やっと同盟成立が成し遂げられたと言われています。

ただ、事実上の同盟はその会談よりも前に既に成し遂げられていたとの話で、前年には長州藩は薩摩藩名義で長崎のグラバー商会から武器を購入しており、その買い付けを担当したのはもちろん亀山社中です。

また薩摩の小松帯刀から、長州の井上聞多に薩摩は長州に手を貸すと伝えていて、長州藩主から薩摩藩主に「よろしくね」と手紙を送っているそうで。

じゃあ桂と西郷さんの会談は、いったい何だったんだって話ですが、実務レベルでの調整だったんじゃないかということです。

でも、龍馬たちの尽力で薩長同盟が成立したと言っているのは当の桂で、桂は龍馬に盟約の裏書きまでさせています。

桂が龍馬を持ち上げたのは、土佐を意識してのことだったんじゃないかとの説もあるようです。土佐を巻き込むためというか。龍馬も中岡も脱藩してますが、それでもその二人が尽力してくれたんだと言われれば、土佐も無視はできないでしょうし、なるほどなーって思います。真偽は知りませんけど。

ま、ともかく薩長同盟は成立。龍馬は護衛に連れていた三吉慎蔵と、宿にしていた伏見の寺田屋に帰って祝杯を挙げていました。そこを伏見奉行に襲撃されます。奉行、つまり幕府方にしてみれば、討幕を企てている輩なわけですから。

夜中、奉行の手のものが寺田屋を囲み浸入してくると、ちょうど入浴中だったお龍が慌てて二階の龍馬たちに異変を知らせ、龍馬たちは応戦の準備をします。三吉は槍を、龍馬は拳銃を持って挑みますが多勢に無勢、龍馬は両手の指などを斬られて大怪我を負い、二人は窓から逃げ出します。

二人は濠川沿いの材木小屋に逃げ込みますが、龍馬の出血はひどく、衰弱する龍馬を鼓舞して、三吉は材木小屋を飛び出して薩摩藩邸を目指してダッシュ。

夜中で暗かったことも幸いしてか、なんとか追っ手にも見つからず薩摩藩邸に駆け込んだところ、薩摩藩邸には既に、先に脱出していたお龍が事情を伝えており、龍馬救出の準備は整っていました。

三吉が薩摩藩士を案内して、龍馬は無事に保護されます。お龍の機転で龍馬は一命を取り留めたわけです。

お龍はその後もずっとつきっきりで看護し、龍馬もゆっくり回復していきます。ある程度回復した龍馬は、西郷さんの勧めで、薩摩の温泉に湯治に向かいます。これがお龍との新婚旅行と言われる旅です。

その年、幕府は第二次長州征伐を開始。龍馬は長州へ向かい、艦船を指揮して幕府軍と戦います。戦いは最新鋭の武器を持つ長州の連戦連勝でした。

翌1867年、時勢の流れを感じた土佐藩が龍馬に接触。龍馬たちの脱藩を許し、亀山社中も庇護します。亀山社中はこれを機に海援隊と改名しました。

庇護を受けたといっても、この頃事故で船を失ったりもした海援隊の財政は厳しく、岩崎弥太郎は、海援隊の連中が何度も金をせびりに来やがってうぜえって感じのことを書き残しています。弥太郎、冷たいな。

龍馬はその年7月、後藤象二郎と船で長崎から兵庫へ向かう途中、「船中八策」として知られる八か条の政治要綱を述べ、それは後に新政府の指針となったと言われていますが、それを証明する資料は残されていません。

ほどなく大政奉還がなり、世は大きく転換していく節目を迎えます。しかし、その年の12月10日、近江屋の二階で中岡慎太郎と話をしていたところを襲われ、龍馬はこの世を去ってしまいます。襲撃者は判然としません。

犯人が誰なのかさえ分からないのに、最期の様子がある程度伝わっているのは、中岡は即死でなく、二日ほどは息があったからです。当初は新選組の仕業と噂されて、後に近藤勇が捕縛された際、土佐藩が近藤の斬首を強要したのはそのためとも。

今の定説では、元見廻組の仕業ということになっています。


◎──今日はここまで

とりあえず、今日はここまで。これまた偶然ですが、来週、高知に仕事で行くことになったので、時間があれば桂浜の龍馬像や室戸の中岡慎太郎像でも見てこようと思います。桂浜の龍馬像は学生時代に一度見に行ってるんですけどね。行けたら、次回はその報告でも。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
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