[4413] イナゴ袋と記憶のピント

投稿:  著者:  読了時間:14分(本文:約6,800文字)



《最後の一週間に展示を行う》

■装飾山イバラ道[207]
 イナゴ袋と記憶のピント
 武田瑛夢

■Scenes Around Me[11]
 岡画郎の展示(7:2000年1月-2003年3月)
 岡画郎閉郎
 関根正幸




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■装飾山イバラ道[207]
イナゴ袋と記憶のピント

武田瑛夢
http://bn.dgcr.com/archives/20170912110200.html
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●母との会話から

高齢の母と話をしていると、最近のことはなかなか話の内容が広がっていかない。洗濯はいつしたのかとか、最近は何が美味しいとか、まぁだいたいいつもの暮らしの定番のネタだ。

ところが、新潟の田舎に住んでいた昔の話を聞くと、とたんに色々と話してくれる。母の母が羽釜の御釜で炊飯していた話、竃があった頃の記憶だ。昔の人は竃を使ってご飯を炊いていたので、今とは比べものにならないほど大変だったろう。

私の家では今ちょうど電気炊飯器が壊れてしまって、買うまでの間は電子レンジや土鍋などで炊かなければいけなくて、面倒な思いをしている。

しかし、竃でご飯を炊く苦労に比べたら、何のことはない。本格的に炊いた新潟のお米は、さぞかし美味しかったのではないだろうか。

昔から聞いていた話なら、どんどん話してくれるだろうと思って、「イナゴ採り」のことも聞いた。虫嫌いの私にとってはホラーでしかないけれど、面白いのでココでも書いたことがあるかもしれない。

イナゴは子供たちが田んぼに採りに行くらしい。虫カゴは? と聞いてみたら、布の袋の口の部分に竹を切った筒を取り付けて、採ったイナゴを放り込みやすいようにしてあるものを使うそうだ。

後でWEB検索してみたら、よくある仕組みの袋らしい。虫が大丈夫な人は「イナゴ袋」と呼ぶそうなので、WEBの画像検索で見て欲しい。

そんな話をする母の目は生き生きとしていて、袋を手に持って捕まえたばかりのイナゴを放り込んでいた頃に戻っているようだ。袋にいっぱいになったイナゴは一晩置いておくと、糞を出しておとなしくなるという。

「袋にいっぱいになったイナゴ」と書いているだけでゾワゾワしてくる。

後ろ足のゲジゲジしたところは硬いので取るし、羽ももぐんだそう。「足と羽をもぐ」という言葉も昔から聞いていて、なんとも怖かった。「脚と翅」と書いた方が正しいのかな。

この仕事も子供達の役目で、皆が頑張るらしい。次の日に大鍋に入れて水で煮て、悪いものやアクを出させてから、味付けをする。火を使う部分は大人の仕事として、皆で分担して食卓のものを用意していたのだ。

豊かな日本の美しい風景。しかし、大鍋のお湯の中に大量のイナゴが煮えている様子は、想像するとすごく怖い。

私などは、早く味を付けてーっと思ってしまう。醤油と砂糖の濃い味と匂いがつかないと、なんだか耐えられないような気がする。一刻も早く濃い目の味を付けて欲しい。早く茶色い佃煮になってしまえばいい。

母には、虫なのになんで平気なのか、よく子供の頃から聞いていたのだけれど、「米しか食べてないから大丈夫だ」という。極めてシンプルな答えで、ごもっともだ。

イナゴは自分たちと同じ、米しか食べていない生き物だから、きれいだし、美味しい。確かにそういえばそうかな、お米だけ食べているからほとんどお米と同じかもな。

と思ってみようとするけれど、やっぱり違う。ほとんどバッタで間違いないと思う(笑)。今は無理に食べる必要もないけれど、イナゴは高級食品らしい。懐かしい味として愛している人には、失礼な話で申し訳ない。

●焦点の合う記憶

母にとってのイナゴの記憶の中の景色は、ピントの合った見え方をするらしい。私にとってもハッキリと思い出せることもあれば、ボンヤリとしか出てこないことがある。記憶のピントの合い方は、何が違っているのだろう。

私の最もピントの合う記憶は、旅行の時に海で魚にエサをあげた時のものだ。

宿泊場所からも近いクラゲ防止ネットの中の海だったのに、なぜか白いタイのような魚がたくさん入り込んでいて、私たちが手から投げるエサを狙って泳いでくる。

キラキラと光が差し込む水の中で、ゴーグルから見えてくる魚の美しさは素晴らしかった。夫と一緒に見たあの魚たちとの時間は、今後も鮮明に思い出せるような気がする。

きっと、楽しさや感動と一緒に結びついている記憶は、焦点が合うのだろう。こうやって何度も思い出すことで、薄くなりかけても濃く焼き直されているとも言える。

思い出したいことと、どうでもいいこと。歳を重ねて脳がパワーを失いつつあるなら、どうでもいいことなんか本当にどうでもいいのかもしれない。

記憶も断捨離で、大切なことだけがクリアに残る仕組みがあると思えばいい。まだまだ新しい記憶を刻めるうちに、何度も思い出したくなるような経験をしなければと思う。


【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/

先日、ちょっと郊外の畑の脇道を一人で歩く機会があった。私にとっては冒険的な散歩だった。初めて歩く道で、どれだけ歩けば大きな道に出るかわからなかった。木々に囲まれてのどかな感じで、最初はとても楽しかった。

しかし、歩くにつれて畑の規模も大きくなり、草の匂いも強くなる。懐かしい夏の匂いだ。途中枯れた畑の草が鬱蒼としている所があって、草の匂いとか言っていられないほど臭い所を通った。

枯れ草が湿度を持って腐った感じで、通り過ぎれば大丈夫と思っていたけれど、一向に通り過ぎることができない。鼻と口を手で押さえつつなんとか我慢して歩いた。

これは本当にヤバいかもしれない、と思っていると運良く我慢の限界が来る前に、匂いのない爽やかな畑地帯に入ることができた。

考えてみれば、臭い畑がどれだけ長く続くかなんて、誰にもわからない。あと数十メートルあのまま歩いていたら、暑い中で息ができなくて倒れていたかもしれない。

明日になればカラっと乾いていて、普通の畑に戻るのかも。そもそも、そんなところを一人で歩かなければ良かったと反省した。

途中で出会った猫も、驚くほど可愛くなかった。猫が可愛くなかったことなんて初めてのことだ。写真を撮って見返してみても、やっぱり可愛くない。気分が悪いところで見つけた猫が可愛ければ救いだったのに、と思う自分の都合の良さが一番悪いけれど。


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■Scenes Around Me[11]
岡画郎の展示(7:2000年1月-2003年3月)
岡画郎閉郎

関根正幸
http://bn.dgcr.com/archives/20170912110100.html
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2000年以降、2003年に閉郎するまで、岡画郎の展示は5つしかありません。

この間、岡画郎界隈のメンバーの関心は岡画郎の外に向かっていて、演劇(岡画郎演劇部)、映像、ライブ、ポエトリーリーディング、DJパーティー等の活動を行なっていました。

これらの活動もある程度記録しているのですが、それらの紹介は他の機会に回し、今回は残りの展示を紹介します。

・2000年1月-3月「ポセリ」

各自の不用品を展示し、ポエム(詩)でセリおとすという展示。

おそらく、詩人である小川てつオ君の発案で、てつオ君は詩を貨幣の代わりに流通させられないかと話していました。

展示は最初の週の定例会しか顔を出さなかったのですが、この時扇風機が展示されていました。

その扇風機を欲しい人が思いを詩にして応募、多数決で選ばれた詩を書いた人に扇風機を贈呈するということでした。

が、冬場ということもあり、その週の詩の応募はなかったと記憶しています。扇風機自体、かなり後まで(もしかすると最後まで)売れ残ったという話を聞きました。

・2000年12月 高橋敦彦「カラー」

高橋(アット)君は、「色を感じ」てもらうために、岡画郎内の照明の色を週ごとに変化させました。

1週目:青
2週目:ピンク
3週目:黄
4週目:七色

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写真は2週目のピンクの展示で、この頃しばらく定例会に顔を出していなかったのですが、岡画郎で展示をやっているらしいという話を聞いて、見に行きました。

ところが、平日の夜に行ったので岡画郎には誰もおらず、ドアにも鍵がかかっていたので、郵便受の隙間にレンズを突っ込んで部屋の中を撮影しました。

3週目の黄色の展示は定例会を撮影した写真があります。

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・2001年1月 富永剛総「新しい窓枠」

コンクリートで作った16×16の格子状の枠にろうそくを置き、毎日炎で違う絵柄を浮かび上がらせました。

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毎日の絵柄の図案は剛総さんが用意していて、写真のように図案を元に、岡さんがろうそくを立てて火をつけました。

・2002月4月 大塚秀記「ふくら見」

大塚さんはつげ義春(と言っていた記憶がありますが、詳細は不明)のマンガにインスピレーションを受け、部屋が膨張するというイメージを元に窓枠にビニールで作った袋を貼りつけ、中から空気を送りこんで膨らませました。

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・2003年3月 「閉郎展」

岡さんは1999年に松澤千秋さんと結婚、その後、二人で暮らす家を建てるための土地を探していましたが、2001年頃、港区の三田に狭くて使い道のない土地があるのを見つけ、交渉の末、相場より安く入手しました。

そのため、岡さんは高円寺から三田に引っ越すことを決意、岡画郎は部屋の賃貸契約の更新があった2003年3月に、閉郎することになりました。

そこで、最後の一週間に展示を行うことになり、希望者が作品を持ち寄って展示しました。

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最終日には、岡画郎の道の向かいにあった、双眼鏡を入れておくための箱を御神体とする神輿を作り、高円寺の街中を練り歩きました。

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写真は神輿を部屋の中に引き上げた時のもの。何十人もの人たちが、狭い部屋の中に集まりました。

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【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://www.geocities.jp/sekinemajp/photos

1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔。


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編集後記(09/12)

●「渡部昇一の少年日本史 日本人にしか見えない虹を見る」を読んだ(致知出版社/2017)。86歳の学者が日本史をいちいち調べ直したりしないで、今まで学び理解してきたことを一気呵成に述べたものだという。歴史は虹のようなものだ。正しい歴史観がなければ七色に輝く虹(国史)は見えないのである。

歴史研究とは遺跡と文献の二つを調べることだ。「古事記」と「日本書紀」は西洋近代国家にも類のない古い時代のものである。戦後日本の特殊事情として、歴史界をマルクス主義の唯物主義者が牛耳った。文献を重んじず遺跡に価値を置いた。天皇制を否定しているので、「古事記」と「日本書紀」を無視した。

日本の歴史を語るのに「記紀」にあたらず、わざわざ海外の別の文献を捜してきて使う悪い習慣が生じた。「魏書」の「東夷(=東のほうの蛮族)伝」に含まれる「魏志倭人伝」は3世紀の末頃に書かれたという。東方に「やまと」という島があるそうだという噂から、「邪馬台」という悪意ある漢字をあてた。

支配者は「ひみこ」というらしい。日本人は昔から天皇を「日の御子」と読んでいた。「魏志倭人伝」では野蛮人の国の日の御子だからと、「卑」という字を使って「卑弥呼」としたのだろう。戦前までのまともな日本の歴史家は、誰も「魏志倭人伝」など取り上げていない。こんな仮説は無視するのが正しい。

「記紀」には現在の地名と合致する地名がいくつも出てくる。「日本の歴史を見るためには記紀という文献の研究から始めて、それを補う意味で考古学的な発見、つまり遺跡に目を向けるというのが正しい道筋ではないかと思うのです」神話を歴史として見ろというのではなく、太古の日本を知るためには、記紀神話の理解が欠かせないのだ。嗚呼、神話を完璧に消去した東京書籍の教科書……。

「古事記」は日本最古の歴史書であり、日本の文化に巨大な影響を与えた超重要な本である。稗田阿礼という特殊な暗記能力の持ち主がいて、彼が誦する古代の歴史を太安万侶が筆録したのが「古事記」である。彼は稗田阿礼が語る古代の日本語を漢字で書けないだろうかと考え、漢字の意味は無視して、その音を日本語に一つずつ当てて表すという方法を考えついた。大発明である!

漢語で簡略化できるものは漢語を使い、漢語で表現できないところは漢字を表音文字として用いるという、柔軟な和漢混在方式である。たとえば、「久羅下那州多陀用弊流」は「くらげなすただよえる」と読む。画期的である! 漢文を仮名で表す、すなわち日本語に変換することができるようになったのだ。

漢字を発音記号として用いたのが「万葉集」の万葉仮名である。万葉仮名が発達して片仮名と平仮名の仮名文字が生まれ、日本独自の仮名文化が花開く。漢文を日本語変換して日本文明の中に消化吸収できるようになった。漢文化や漢文学の研究と実践(漢詩を作るなど)が日本文学をますます豊かにしていった。

ところが「古事記」は十分に普及せず消滅状態にあった。1000年以上後の江戸時代中期、本居宣長が35年かけて「古事記」を完璧に読み解き「古事記伝」という注釈書にまとめた。我々はいま「古事記」を自由に読めるのは、本居宣長のおかげである。といった、いい話が90本超。「こういう国に生まれたんだなあ」と喜べる幸せといったら……。もっと紹介したいので、つづく。(柴田)

「渡部昇一の少年日本史 日本人にしか見えない虹を見る」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4800911427/dgcrcom-22/


●断定的な発言続き。ポケモンGO。結果約1分残して勝利。上席1は早々に伝説のポケモンをゲットし、私の横を通りながら「取れたで〜」と報告し、ほこほこ顔で帰って行く。支店長レベルかもしれない。取れなかった人のこと考えてないもん(笑)。

まだ取れていなかったので焦っていると、それまで発言をしていなかった女子が、小声で「お疲れ様でした〜」と声をかけてくれた。笑顔だったから取れたのかも。私も無事取れて、上席2はどうだったのかなと見たら、暗い顔をして消えていった。

負けたら責任取れないし、もし次のチームが勝利し、次の次のチームを編成する頃には諦めた人がいて人数が減っていたら、勝てないままってこともあるのに、なぜか強気発言で無理矢理戦わせてしまった。でも怖いとは思わなかったのよね。勝てる気しかしなくて。何なんだろうね。 (hammer.mule)