装飾山イバラ道[207]イナゴ袋と記憶のピント/武田瑛夢

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●母との会話から

高齢の母と話をしていると、最近のことはなかなか話の内容が広がっていかない。洗濯はいつしたのかとか、最近は何が美味しいとか、まぁだいたいいつもの暮らしの定番のネタだ。

ところが、新潟の田舎に住んでいた昔の話を聞くと、とたんに色々と話してくれる。母の母が羽釜の御釜で炊飯していた話、竃があった頃の記憶だ。昔の人は竃を使ってご飯を炊いていたので、今とは比べものにならないほど大変だったろう。

私の家では今ちょうど電気炊飯器が壊れてしまって、買うまでの間は電子レンジや土鍋などで炊かなければいけなくて、面倒な思いをしている。

しかし、竃でご飯を炊く苦労に比べたら、何のことはない。本格的に炊いた新潟のお米は、さぞかし美味しかったのではないだろうか。

昔から聞いていた話なら、どんどん話してくれるだろうと思って、「イナゴ採り」のことも聞いた。虫嫌いの私にとってはホラーでしかないけれど、面白いのでココでも書いたことがあるかもしれない。




イナゴは子供たちが田んぼに採りに行くらしい。虫カゴは? と聞いてみたら、布の袋の口の部分に竹を切った筒を取り付けて、採ったイナゴを放り込みやすいようにしてあるものを使うそうだ。

後でWEB検索してみたら、よくある仕組みの袋らしい。虫が大丈夫な人は「イナゴ袋」と呼ぶそうなので、WEBの画像検索で見て欲しい。

そんな話をする母の目は生き生きとしていて、袋を手に持って捕まえたばかりのイナゴを放り込んでいた頃に戻っているようだ。袋にいっぱいになったイナゴは一晩置いておくと、糞を出しておとなしくなるという。

「袋にいっぱいになったイナゴ」と書いているだけでゾワゾワしてくる。

後ろ足のゲジゲジしたところは硬いので取るし、羽ももぐんだそう。「足と羽をもぐ」という言葉も昔から聞いていて、なんとも怖かった。「脚と翅」と書いた方が正しいのかな。

この仕事も子供達の役目で、皆が頑張るらしい。次の日に大鍋に入れて水で煮て、悪いものやアクを出させてから、味付けをする。火を使う部分は大人の仕事として、皆で分担して食卓のものを用意していたのだ。

豊かな日本の美しい風景。しかし、大鍋のお湯の中に大量のイナゴが煮えている様子は、想像するとすごく怖い。

私などは、早く味を付けてーっと思ってしまう。醤油と砂糖の濃い味と匂いがつかないと、なんだか耐えられないような気がする。一刻も早く濃い目の味を付けて欲しい。早く茶色い佃煮になってしまえばいい。

母には、虫なのになんで平気なのか、よく子供の頃から聞いていたのだけれど、「米しか食べてないから大丈夫だ」という。極めてシンプルな答えで、ごもっともだ。

イナゴは自分たちと同じ、米しか食べていない生き物だから、きれいだし、美味しい。確かにそういえばそうかな、お米だけ食べているからほとんどお米と同じかもな。

と思ってみようとするけれど、やっぱり違う。ほとんどバッタで間違いないと思う(笑)。今は無理に食べる必要もないけれど、イナゴは高級食品らしい。懐かしい味として愛している人には、失礼な話で申し訳ない。

●焦点の合う記憶

母にとってのイナゴの記憶の中の景色は、ピントの合った見え方をするらしい。私にとってもハッキリと思い出せることもあれば、ボンヤリとしか出てこないことがある。記憶のピントの合い方は、何が違っているのだろう。

私の最もピントの合う記憶は、旅行の時に海で魚にエサをあげた時のものだ。

宿泊場所からも近いクラゲ防止ネットの中の海だったのに、なぜか白いタイのような魚がたくさん入り込んでいて、私たちが手から投げるエサを狙って泳いでくる。

キラキラと光が差し込む水の中で、ゴーグルから見えてくる魚の美しさは素晴らしかった。夫と一緒に見たあの魚たちとの時間は、今後も鮮明に思い出せるような気がする。

きっと、楽しさや感動と一緒に結びついている記憶は、焦点が合うのだろう。こうやって何度も思い出すことで、薄くなりかけても濃く焼き直されているとも言える。

思い出したいことと、どうでもいいこと。歳を重ねて脳がパワーを失いつつあるなら、どうでもいいことなんか本当にどうでもいいのかもしれない。

記憶も断捨離で、大切なことだけがクリアに残る仕組みがあると思えばいい。まだまだ新しい記憶を刻めるうちに、何度も思い出したくなるような経験をしなければと思う。


【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/

先日、ちょっと郊外の畑の脇道を一人で歩く機会があった。私にとっては冒険的な散歩だった。初めて歩く道で、どれだけ歩けば大きな道に出るかわからなかった。木々に囲まれてのどかな感じで、最初はとても楽しかった。

しかし、歩くにつれて畑の規模も大きくなり、草の匂いも強くなる。懐かしい夏の匂いだ。途中枯れた畑の草が鬱蒼としている所があって、草の匂いとか言っていられないほど臭い所を通った。

枯れ草が湿度を持って腐った感じで、通り過ぎれば大丈夫と思っていたけれど、一向に通り過ぎることができない。鼻と口を手で押さえつつなんとか我慢して歩いた。

これは本当にヤバいかもしれない、と思っていると運良く我慢の限界が来る前に、匂いのない爽やかな畑地帯に入ることができた。

考えてみれば、臭い畑がどれだけ長く続くかなんて、誰にもわからない。あと数十メートルあのまま歩いていたら、暑い中で息ができなくて倒れていたかもしれない。

明日になればカラっと乾いていて、普通の畑に戻るのかも。そもそも、そんなところを一人で歩かなければ良かったと反省した。

途中で出会った猫も、驚くほど可愛くなかった。猫が可愛くなかったことなんて初めてのことだ。写真を撮って見返してみても、やっぱり可愛くない。気分が悪いところで見つけた猫が可愛ければ救いだったのに、と思う自分の都合の良さが一番悪いけれど。