[4425] はぐれは色が苦手だ(色彩のほうの色です)

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《小学生のときの学芸会以来》

■アナログステージ[157]
時はすでに神無月、また25年後に 東三十六不動 総開帳[中編その2]
べちおサマンサ

■はぐれDEATH[42]
はぐれは色が苦手だ(色彩のほうの色です)
藤原ヨウコウ




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■アナログステージ[157]
時はすでに神無月、また25年後に 東三十六不動 総開帳[中編その2]

べちおサマンサ
https://bn.dgcr.com/archives/20170929110200.html

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コンニチハ、べちおです。2014年暮れから2015年にかけて満願した、関東三十六不動のお寺さんを区切って、リメイクして綴っております。一部デジクリで掲載したものもありますが、巡礼していた当時の記憶を辿りながら、少し書き加えてみます。

お散歩も気持ちいい季節、ご縁があれば、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。続きです。

【廿六番札所】五智山 遍照院 總持寺(西新井大師不動明王)

雨が本格的に強くなり、作務衣に雪駄姿のオイラの足元はグチャグチャ。代わりの雪駄や履きもを持ってこなかったので、我慢。車を停め、お参りのまえに蕎麦屋さんで遅めのランチ。冷たい雨風にあたり、すっかりと体が冷えきったところに食べる鍋焼きうどんは、最高に美味しかったです。

体が温まったところで参拝へ。お寺さんはとにかく立派の二文字。ちょうど護摩供を行っていたところでしたが、本堂内にはあがらずに、勤行だけ済ませて寺務所へ。個人的な感覚というか、お寺さんのピントが合わず、お寺を後に。山門前に広がる商店街を、軽くブラブラして次のお寺さんへ。

【廿七番札所】成田山 川越別院 本行院(川越不動尊)

秩父から川越まで、またまた大ワープ。到着した少しまえに護摩が終わったのか、本堂には残り香が。サラりと勤行を済ませてお隣の喜多院へ。

【廿八番札所】星野山 無量寿寺 喜多院(川越大師不動尊)

本当にお隣にある喜多院。お寺横のコインパーキングまで車を移動させたはいいが、ここでまさかの駐車場難民に。さっきガラガラだったのに、なにコレ状態。仕方ないので、大人しく順番待ちして、お寺さんへ。

しかしすごい人だ。お隣さんはガラガラだったのに、なんだこの差は。本堂で勤行を済ませたあと、庫裏横にある客殿と庭園を拝観。なるほど、徳川家ゆかりのお寺さんだったのか。

江戸城から移設された客殿には、徳川家光が産まれた間や、当時のお風呂やトイレもそのまま。うむむ、江戸の香りがする(気がしてドキドキ)。

最後に五百羅漢像を拝観して、この日は打ち止め。思ったよりも移動に時間が掛かってしまった(当たりまえだけど)ので、この日の宿泊先でスケジュールを組み直すことに。

【廿九番札所】不動山 白山寺 洞昌院(苔不動尊)

不動ヶ岡から秩父に大ワープ。加須市から高速は使わずに、のんびりチンタラと秩父まで向かったのですが、渋滞もなく小一時間で到着。

途中、秩父三十四観音の札所を見かけ、生唾を飲み込むも、今回の目的は関東三十六不動。「そうだ、今年は総開帳なんだよなぁ...」と思いつつ、苔不動さんへ。

本堂で勤行を済ませると、横で巡礼者の対応をしていた、お寺の奥さんから
「元気がないから般若心経をもういっかい!」と、まさかのレッスンがスター
トw その後、いろいろなお話といただきました。

この寺さんは萩でも有名で、たくさんの種類の萩が、敷地いっぱいに咲き乱れるようだったのですが、残念なことに、数か月前に半分以上を伐採してしまったというお話を聞いて、とても残念。

苔不動を後にしたあと、つぎの目的地は川越。「その前に少しだけ……」と、秩父三十四観音の一番札所、四萬部寺に寄っていきました。さすが一番札所なだけあって、遍路アイテムの品揃えが豊富w ヨダレでちゃう。秩父巡礼は、車移動ではなく、自分の足で廻りたいので、いずれまた。

【丗番札所】玉寿山 總願寺(不動ケ岡不動尊)

朝8時30に到着も、境内には人影はなし。人影はないが、マイナスイオンの量がすごい。普段、朝イチからマイナスイオンを吸収することがないので、清々しいったらありゃしない。

本堂側面に、たくさんの著名人のお名前がズラり。なんでも、当寺の鬼追い豆まき式(節分会)には、毎年たくさんの著名人のかたも参加されるようです。来週開催のようですので、ご近所のかたが、いかがですか?

【丗一番札所】光岩山 釈迦院 彌勒密寺(喜多向厄除不動尊)

この日の宿泊先は、加須市(埼玉県)のホテルを予約していたこともあり、不動ケ岡不動尊で締めくくる予定でいたものの、いい具合に時間が過ぎてしまって、この日は岩槻大師で打ち止め。

さて、初日最後になった岩槻大師ですが、またもや駐車場の場所が分からずにフラフラと彷徨うことに。分からなかったというよりは、駐車場が閉鎖されていて、「もしかして、今日は定休日とかじゃないよね?」と一瞬焦るも、閉門の時間も迫っていたことから、裏側にあったお寺さんの駐車場の前に停めて、お寺へゴー。

大雨ということもあり、参拝者はゼロ。誰もいない本堂へあがり、勤行を終わらせると、存在に気がついたのか、「暗いところですみません、いま灯りを点けますね」と奥様らしき人が。お話を伺っていると、お砂踏みができる地下仏殿があるとのことで、さっそく案内していただきました。

玉川霊場(東京都世田谷区)のような独特の『重さ』はないのですが、地下に響く、子どもたちが唱えている御宝号の声が、良くも悪くも怖いです(笑)

【丗二番札所】普和山 最上寺(厄除岩瀬不動尊)

高速道路でビューンと移動し、千葉県に突入です。お寺の駐車場に車を停めると、境内を改修工事している最中で、土木資材があちらこちらにゴロゴロしておりました。石像の仁王さまが、とても印象的です。

本堂にあがると、檀家さんなのか、地元のかたたちなのか分かりませんが、本堂で机を並べて井戸端会議をしており、「ものすごいタイミングが悪いときに来てしまった」と後ずさりしてしまいました。

さすがのオイラも、こんな大勢のかたたちが見ている前での勤行は、気後れする。視線もバッチリ集まっているのが、背中から良く分かる。ほかに参拝者さんがいれば気持ちも楽だが、とにかく気まずい。線香だけ焚いて、経も唱えずにご朱印だけいただくのは、今回決めたオイラ流儀に背くので避けたい。

どうしようか戸惑っているところに、先日の苔不動(秩父)の奥さんからいただいた「プロじゃないんだから、お経を間違えたっていいんだよ! 堂々と発声することが大事」という言葉を思い出す。

とはいえ、すごい緊張してしまいました。こんなに緊張するなんて、小学生のときの学芸会以来です。小学生のころは、まだシャイだったんです、ボク。中学生になってから、変人として生まれ変わり、今に至ります。

【丗三番札所】妙高山 大聖院(高塚不動尊)

最上寺から一時間以上の道のりを移動し、着いた高塚不動さんも、また静かな佇まいのお寺さんでした。お墓参りにきていた檀家さんを除けば、またもやオイラひとりの参拝でしたが、お寺のムスメさんらしきかたに対応していただき、軽く会話を楽しみました。

「この裏の奥にも不動さまを祀ってあるので、そちらもよかったらどうぞ」と声を掛けてくださったので、足を運んでみることに。ここで、大きな勘違いをしていることに、まったく気がついていないオイラがおりました。

境内に『奥の院はこちらから』と書かれている案内板を見かけ、その案内に従って進んでいくと、かなりへヴィーなハイキングコースに突入。「なにかおかしい」とうっすら思いながらも、獣道のような山道を登って進む。

20分ほど経過しただろうか、ムスメさんが言っていた不動堂の存在が遠い。引き返すのも癪だし、そのまま進んでいくも、足元はスニーカーではなく、裸足に雪駄。足が痛い。しかも、くもの巣が容赦なく纏わりついてくる。「ぜったいに間違えたわ、これ」と気がついたのは、山頂近くの鳥居の前でした。

おそらく、ムスメさんが言っていた裏の不動堂は、本堂の裏のことを指していたのだと思い、ハァハァいいながら山頂に到着。風神雷神門をくぐり、そこから見渡せる南房総の海は、絶景のひとこと。ものすごい充実感だ。しばし休憩し、奥の院と呼ばれるここは、元不動堂だったようです。

キレイな景色と澄んだ空気を、たっぷりと体に沁み込ませ、「リフレッシュ完了!」と満足しているも、来た道を戻らないといけないという現実がやってきた。周りにはマイナスイオンで溢れているが、気分はマイナスで溢れる。

顔面蒼白でハァハァしながら下山し、お寺に着いたときには、「今日はもう帰ろうかな」モードに。そして、本堂だとばかり思っていた堂が、じつは庫裏であり、本堂は庫裏の奥だったことを知る。

本堂で勤行しなければ、巡礼の意義がない。ハァハァしながらも本堂へ向かうが、これまた本堂が遠い。すごい階段で、ハァハァをとおり超えて無言。

目玉が、黒目から白目に回転しかかったころに、本堂へ到着。無事に勤行を済ませ、境内を散策してみると、秋葉権現の祠が。神仏習合だったんですね。

なんだかんだで、高塚不動さんで2時間近く時間を費やしてしまい、先を急ぐことに。後々、この時間遅れが、成田山での悲劇を引き起こすとは、このときはまだ分からなかったのでした。

【丗四番札所】幸野山 宝勝院(夷隅苅谷不動尊)

札所の順番は、先ほどの波切不動さんのほうが後なのですが、つぎの成田山へのルートを考慮し、順番を入れ替えて夷隅苅谷不動さんへ。波切不動さんからは、車で10分もかからない距離にあり、千葉で唯一、隣接している札所だ。

この日初めて、ほかに参拝している人を見かけ、ちょっとだけ嬉しかったり。そういえば、そうだ。千葉の札所で、オイラ以外に参拝している人がいなかったのも不思議でしたが、関東三十六不動以外の札所になっているお寺さんが、千葉はないんですね。

不動堂の中に入ると、なんとも珍しい配置の堂内。今回の巡礼で、天台のお寺さん特有の、シックな護摩壇が目にとびこむ。庫裏にて、住職さまから直接ご朱印を頂戴し、最後の札所、成田山へ。

【丗五番札所】阿舎羅山 不動院 大聖寺(波切不動尊)

高塚不動からどのくらい車を走らせたのかはハッキリと憶えていないが、千葉県の地形を、そのまま沿うように移動してきたのだけは憶えている。というのは、車の右側から見える景色は、つねに海だからだ。

ナビの画面では、目的のお寺さんに近くなってきているが、お寺さんの匂いはまったくしない。完全に地元民しか通らない道だ。ここにきて、アホナビが再稼動したのかと、おへその辺りがキューっとしてきたが、なんとか到着。

天気も崩れはじめ、車を降りたときにはザーザー降り。駐車場のすぐ上が不動堂だったので、堂まで駆け足。勤行を済ませ、不動堂の周りをキョロキョロしても、本堂や庫裏が見当たらない。場所が離れているのかと、いったん駐車場まで戻り、周辺を歩いてみると、本堂を発見。

時計を見ると、13時手前だったので、まだお昼休憩して申し訳ないかな……と思いながらも、庫裏の呼鈴を躊躇なく押す。「どうぞー」と、なんとも形容できないキレイな声にドキっとしながらと扉を開けると、めちゃめちゃ綺麗な女性が立っておりました。

(奥さんなのかな……、いや、息子さんの奥さんなのかな……、いやいや、ムスメさんなのかな……、そんなことはどうでもいいとして、綺麗だわぁ)という具合に、巡礼中なのに不謹慎者そのもの。煩悩で覆われているような。

『激しい大いなる怒りの相を示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたまえ。障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ(日本語訳)』

不動明王のご真言、ここにあり。


【べちおサマンサ】pipelinehot@yokohama.email.ne.jp

NDA拘束員であり、本当の横浜を探しているヒト。ぶら撮り散歩師。愛機はD90とGRD4。最近はiPhone6で写真撮影多し。全国寺社巡りで、過去の懺悔道中をしております。→ついに西国を打ち始めました。結願まで何年掛かるのやら。


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■はぐれDEATH[42]
はぐれは色が苦手だ(色彩のほうの色です)

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20170929110100.html

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自慢ではないが、色彩感覚に関してはカラっきし自信がない。というか、絵そのものだって、本気で自信があるかと問われれば「町内でTOP10に入れるかどうか」としか答えられないので、かなり怪しいと思っていただいて結構である。

前にも書いたが、他人と自分を比較すること自体に興味がないので、自信もクソもないのだ。

「○○の時の絵はスゴく良かった」と言ってくださることも、ないことはないので、その時は素直に喜ぶのだが、後から「あれはホンマにエエんやろうか?」と疑心暗鬼になり「きっとあの人にとっては良かったのだろう」というところで止まってしまう。

これほど、褒め甲斐のない人も珍しいと思う(笑)

描く方だってかなり怪しいのだが、不安になっても仕方がないのでetudeに明け暮れるわけだ。もっとも、それで不安が解消されることは一向にないのだが。

色は本当に苦手で、これは絵を描き出した頃からずっと筆記具が鉛筆だった、というだけの話だ。色鉛筆やクレヨン、水彩絵具にはそれほど興味が向かなかったし、とにかく相手が先生だろうがなんだろうが、指図されるのが大嫌いなのだ。

さすがに稼業にしてからは耳を貸すようになりましたが、聞き過ぎてボク自身ワケが分からなくなってるというのも事実だったりする。

決定的だったのは小学校2年生の時の図画工作の授業での事件である。

好きな色の色画用紙を選んで(色の種類はそれなりにあった気がする)何かを作りましょう、といったような趣旨の課題だったのだが「他の人が選ぶものは選ばない」法則は、この時期すでに確立されていた。

残った色の中から「誰も選んでないのにキレイなんが残ってる」と喜んで手にしたのが、紫色の色画用紙だった。すると担任の先生が血相を変えて「紫を選ぶのは気が狂ってる」と言いだしたのだ。

正直「はぁ?」と思った。「分かってるなら持ってくんな!」とも思った。

色の変更を求められたのだが、こうなったらボクは頑として受け付けない。不興を買いながら、そのまま作業に取り掛かったのは言うまでもあるまい。

そして、なぜか後日お袋が学校に呼ばれたらしい。いつも通り「あの子はああだし、別に他の子と同じでなくてもいいのでほっといて下さい」とあしらったようだ。

ちなみに、お袋が学校に呼び出されるのは、たいていボクがクラスに馴染んでいなかったり、クラスメイトと明らかに違う行動をしていた時で、大体上記したセリフで片付けていたようだ(笑)

ネットで「色彩心理学上の紫」をググってみたのだが、正直どれもこれもピンとこない。不安定とか神経質とか、そういう判定は結構出た。

「赤と青の混色」というのがその理由らしいが、それを言い出したら、三原色以外の色は全部不安定になるではないか。

実は一年生の時の図画工作でも痛い目にあっている。前にも書いたかもしれないが、「運動会の思い出を絵にしましょう」だった。この時ボクは運動場をピンク色で塗ったのだ。

運動会が華やかで楽しかったから、というだけの理由なんですが。これまた担任の先生から「運動場は茶色でしょ!」と怒られて塗り直しをさせられた。

もちろん、それでなくてもコミュ障のボクが、ピンクを選んだ理由を説明できるはずもなく(ホンマにノリだけで塗ってたしなぁ)不承不承やり直した。しかも、何度もだ。

「ピンクが完全に塗りつぶされていない」というのがその理由だが、いま考えると結構無茶な話だ。

というのも、ボクは元々「塗る」という行為そのものが苦手なのだ。基本、鉛筆なので、線を描くことはあっても塗ることはほとんどない。鉛筆でも塗ろうと思えば塗れるんですが、なぜかそっち方面には興味が向かなかった。とにかく「描く」のである。

この二回の事件で「色」と「塗る」はボクが勝手に放棄した。とくにあれこれ言われて従うのは本当にイヤだったので、小・中・高の図画工作・美術の成績は惨憺たるものだった。


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色が突如目の前に表れたのは大学受験の時である。第一志望のボーダーラインに届かず、親父が見つけてきてくれた大学(母校だ)を受験するのに実技があって、いわゆる「素描」と「色彩構成」があったのだ。

もう何度も書いているが、共通一次が終わって受験校を急遽変えたので、もちろん実技の準備なんかしてない。頼れるツテなど当然なかったので、美術の先生に見ていただくことにした。

ボクの美術の成績を熟知しているので意外だったようだが、家業を継ぐために美術系大学に進学しなければいけない同級生がいて、一緒に(ついでに)みてもらった。

素描は一枚で、「これなら大丈夫」とあっさり太鼓判を押してもらったのだが(これは先生もボクも驚いた)、問題は色彩構成である。とにかく過去問をお手本に色彩構成はかなりやった。といっても、使える範囲は「寒色系」と「暖色系」の対比という、基礎中の基礎までがせいぜいだった。

先生もかなり「危ない」と思ったのだろう。倉敷かどっかでやってた、美術系の模試を奨められて一度だけ受けた。

ところが、ここの模試は本格的に美術系なので、我が母校(となる学校)など眼中にないのだ。仕方がないので京都市立芸大デザイン科志望ということで模試に臨んだ。結果は総合15段階評価総合でCーである。ちなみに素描はC+、色彩構成はDー。合わせ技でなんとかCー。一浪確実というワケですな(笑)

ボクはこの時初めて(そして恐らく生涯最後)美大受験の最前線を見ることになったのだが、とにかくみんな上手くてびっくりした。何しろこっちは共通一次が終わってからだから、準備が二週間強しかなかったのだ。

いつから準備をしているのか分からない同じ年の受験生に、歯が立つワケがないとは思っていたが、予想以上にすごかった。

彩色デッサンなんて、初めて見てびっくりした。恐らく日本画コースの生徒さんだと思うのだが「こりゃまた立派な」と、自分のことを棚に上げて感心していた。

これでボクはもう100%浪人を覚悟したのだが、盛り上がったのは美術の先生である。準備期間の短さにもかかわらず、市美のデザイン科でCーを取ってしまったのだ。

ボクは元々美大になど行く気はなかったので「結果はこうでした。ご指導ありがとうございました」で終わりだったのだが、先生の方は「これはもしかしたらいけるんちゃうか?」と本気で思いだしたらしい。

同級生も同じ模試を受けていて、こちらはもう確実に一浪決定らしく、先生はなぜかボクにテコを入れ始めた。

ボクも貴重な時間を割いて教えていただいている以上は「これは受験当日までマジメに付き合わないとしゃあないなぁ」と思ったので、けっこう真剣に指導を受けた。ダメ出しもちゃんと一回でクリアしてたし、なにしろ先生がノリノリなのだ。

「浪人して史学科」と決め込んでいたので、在学中は完全に開き直って指導を楽しむことに決めた。何しろこっちは受かる気ゼロなのだ。春までのちょっとした遊びのつもりだったのだが……。

受かってしまった。京都工芸繊維大学工芸学部意匠工芸学科。

ボクはめちゃめちゃ驚いたのだが、先生は「やったか! もしかしたらやるかと思ってたけど、本当に受かるとはなぁ。近年稀な例だぞ」と言って大いに喜んで下さった。こっちの方がボクには嬉しかったかな。

とにかくボクが通っていた高校は、備西・備後間でも名だたる進学校だったのだ。芸大方面に行く生徒などもちろん皆無に等しく、ほとんどの生徒が旧帝大だの有名私立大学、医大に進学するような環境だったのだ。普通の(?)国公立は滑り止め扱い、という凄まじい環境だった。今は知らん。

それでなくても美術の成績は悪い上に、元々の志望は理系で、三年の夏休みに突如史学科に乗り換えた挙げ句、共通一次が終わってから実技込みとなると、ボクの高校では完全に超少数派(というか開学以来ボクだけかもしれん)の物珍しいにも程がある例なのだ。


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そして、さっさと初志を曲げて入学してるし。デタラメにも程がある、とボクも思ったのだが、また一年受験勉強をするか素直に入学するかの二択なら、迷わず後者を取るのがボクという人間である。

入学したのはよかったのだが、とにかく模試の時の光景はまだ生々しく頭に残っていた。「あんな連中に付いていけるんか?」と不安になっていたところへ入学ガイダンスである。

当時ボクが進学したコースは、一学年30人という徹底した少人数クラス構成の上に、れっきとした工学部である。二次試験では数学もあったのだ。ちなみにこっちはほぼ全滅だ。

高校三年間を数I習得だけに費やしたような理系音痴である。共通一次はそれでも数学はどうにかなったが(理数系科目は数Iに特化してたからなぁ)化学と物理は最悪を通り越して「開学以来の大馬鹿もの」と、担任の先生から怒られたぐらい悲惨だった。

大学の同級生や先輩からは、「鉛筆転がした方がまだいい点になったんちゃうか?」と言われて、「その手があったか」と納得したのだが、時既に遅しである(笑)

共通一次のボーダーを超したのは傾斜配点(英語が200点満点で他の教科は100点満点で計算される)のおかげだ。英語はちゃんと点取れたし。これで合格しているのだ。反則としかいいようがない(笑)

さて、ガイダンスだ。一クラスがちょうど小・中・高のクラス範囲だし、それぞれの学年に実習室が与えられていて、365日24時間オープンだったので、いやでも同級生の話が耳に入る。

「あそこの美術研究所やったん?」とか「もう三年間デッサン漬け」とか、聞くだけで恐ろしい情報がどんどん入ってくる。完全にびびってしまって、またボッチになったのだが、肝心要のことが頭から完全に抜けていた。

当時はかなり珍しい工学部付きのデザイン科である。本来は理系大で、もっとはっきり言えば実技などどうでもいいのだ。理論である。

これでボクは見事に落ちこぼれた。何しろ「デザイン」という言葉とまともに顔を突きあわせたのが、大学に入ってからである。こんなヤツはクラスにボクぐらいしかいない。みんな絵は下手でも頭はいいのだ。

そもそも「デザイン」という概念をまったく理解できなかった。最初の最初で躓いたのである。いわゆるモダン・デザイン論から、実技を交えプレゼンテーションまでを徹底的に叩き込まれるのだ。

理論と実技の違いが分からないボクに理解できるはずもなく、四年間、呆然と怠慢に費やしたようなものだ。

余談だが、日比野克彦が一世を風靡しはじめた頃の話で「アート」「デザイン」「イラストレーション」があらゆる所から噴出していたような時代で、ここにボクの落ち込みが加わると、もう疑惑しかわかなくなったのも無理ないだろう。

せめてデザインの概念だけでもマスターできれば良かったのだが、それすらままならなかった。

ちなみにボクの母校では、正確無比で微塵の揺るぎもない均一な太さの直線・曲線と平塗りのスキルが必須である。一回生の時にみんながスイスイこなしていくのを見ながら「なんで?」と焦りまくっていた。

焦っているうちに二回生になり、一回生でマスターすべきことをマスター出来ていないところにまた新しいスキル獲得が加わる。実技だけでもこの体たらくだ。理論と実技の両立など、逆立ちしても無理なのだが、同級生は易々とこなしていく。

「情けなさもここに極まれり」というところまで追い込まれて、脱出する術すら見つからない。お得意の素描など、なんの役にも立たないのだ。

おまけに、イラストレーションの世界は「ヘタウマ」が流行りだしていて、その前の「スーパーリアル」路線からころっと変わってしまっていたのだ。これを「アート」の一言で片付けられるほど、ボクは度量が広いわけでもなければ、頭がいいわけでもない。

「こっちもあかんわ」と、もうどん底まで落ちた(と当時は思っていたのだが、今考えると、まだどん底からは程遠い浅瀬だった)


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それでも四年はあっという間に過ぎる。出来損ないは出来損ないなりに、何とか単位をかき集め、先生方の温情にすがって、卒業資格は取れたのだが問題は就職である。

とにかく凹みきっていた上に、就職のことなど考える余裕はなかった。たまたま親父に「これからの時代は大学院ぐらい出ておけ」と厳命されたので、大学院を受験することになったのだが、これまた先生方の温情だけで合格したようなもんである。

一番お世話になった当時助教授だった先生は、「フジワラ社会復帰更正プログラム」を大学院で展開して下さった。

印刷も浮世絵も近世・近代日本史も挿絵も何もかも、この先生から教えなおしてもらったようなもんだ。もちろん、これらのカリキュラムは一・二回生でマスターしてるはずなのだが、ボクはこのレベルですら理解できていなかった。

近代日本の技術革新を、印刷という場に限定して下さったのも、この先生である。これでそれまでまったく理解できていなかったことが、一気に氷解した。

それまで理解できなかったデザインという概念も、工学部という立場から見直せばすんなり分かる。どうやら、一度に色々教えられて頭がパンクしていたようだが、この辺を先生はちゃんと見抜いて下さっていた。

ボクがやたらと挿絵に興味があること、素描だけは言われたら言われただけやること、この二つから印刷に導いて下さり、更にはデザイン理論と実践の概要をある程度俯瞰できるようにして下さったのも、全部この先生のおかげである。

ここまでが、大学院入学から夏休みまでの話で、本当にものすごくお世話になった。もちろん、学部の卒業制作の頃からそれとなく布石は打っていてくれたので、短期間で印刷関連だけだが(ここがキモ)どうにかこうにかなるようになれた。

学部在学中から「漫画家にならへんか?」と言われていたのだが、これはこっちから願い下げだった。ストーリーが作れないのだ。絵が上手ければ漫画家になれる、といったものではない。

大学院の修士修了制作(これは別にやらなくてもよかったのだが、節目としてちゃんとしたかったのでやった)は挿絵本を作った。

この時、またまた一色だけで片をつけた。学部在学中の経験から「あれもこれも」はロクなことにならんと、さっさと見切りをつけたのだ。こういう切り捨て方というのが、実はデザインという概念の中にあるのだが、六年かけてやっと応用できるようになった次第である。


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就職してからは色との格闘だった。特に一年目はすごかった。

印刷という生産工程は、一人で片がつけられるほど甘いものではない。特にボクが就職したような大手印刷会社では、役割分担が明確なので、ボクはそれぞれの部署の現場を覗いて回るという実にアホな行動に出た。

結果的にはこれが良かったのだが、別の意味で、変な影響を受けたのも事実である。

もちろん、眺めるだけではなく質問をしまくったのは言うまでもあるまい。分からないこと、気になることがあれば、とにかくその時に聞いてまわった。迷惑な社員だと思うが、ボクはそうやってでしか、印刷という巨大なシステムを肌で感じ理解することができなかったのだ。

大学院時代に印刷は初歩から全部おさらいをしたし、学部時代に実習で一通りのことはやっているのだが、工場規模となると話は別である。理屈は一緒でも、それぞれの工程はさらに細分化され精緻になっていく。

特に製版部門はすごかった。商業印刷の世界で最後の煌めきを見せた、写真製版オフセットの製版現場に足繁く通っていたので、その凄まじさには度肝を抜かれたし、「こっち方面はこの人達がいるから任せて大丈夫」と勝手に役割を押しつけたのも事実だ。

とにかく、クライアントの得体のしれない朱書きを、製版の皆さんは解読して成果を出すのである。もちろん、ボクもさすがにある程度は解読していたが、色校が上がってきて「そうそう、これこれ」と何度喜んだことか。

ボクが上手に口で説明できないのに、ちゃんとクライアントの意向を読み取って具体化するのだ。本当にスゴいと思ったのは言うまでもなかろう。

写真製版オフセット時代を熟知している人なら、経験値としてご理解いただけると思うが、CMYK+特色で出せる色域など高がしれているのだ。特殊な例(化粧品会社のポスターとか、呉服店のカタログとか、プレミア・カレンダー)を除けば、大半がCMYKだけでどうにかしないといけない。

重要なのは「原稿通りに再現する」ことではなく、「原稿の印象を再現する」ことで、ここでキモになるのが墨版である。

ちなみに、当時は10%刻みでしか色指定が出来なかったのだ。それでも「印象」だけは見事に再現する。他の版をそのままにしておいて(いやさすがに多少は触ります)墨版だけを集中的に触るのだ。

そして、出来上がった墨版にあわせて、他の版の調整をちょろっとする。色味を崩さずに印象を再現しようとすれば、これが一番合理的で効率的なのは言うまでもあるまい。

だから製版部門それぞれの部署に、「主」と言われる神業を持った職人さんが必ずいる。この人達にかかれば、印象はころっと変わるし、明らかに原稿の印象に近づくし、再現も出来る。

校正刷りの部門には、ちょっとここでは書けないような恐ろしい技をもった職人さんもいるのだが、これは内緒にしておく。裏技どころか、ほとんど反則技、ケースによっては……これ以上は書けません。

こうした印刷現場の色再現の世界を目の当たりにしながら、ボク自身の色彩感覚はまったくと言っていいほど進歩しなかった。なぜなら、適切な指示をすればちゃんとその色彩を出してくれるのだから。

製版現場もそうだが、デザイナーの皆さんにも随分助けていただいた。ここまで組織的に動くと、ボクが無理をするよりエキスパートに任せた方がいいに決まっているからだ。

特にデザイナーの皆さんには、結果的にずいぶん教えてもらうことになったのだが(ボクが勝手に盗んでいたとも言う)、とにかく変な口出しは滅多にしなかった。コンセプトに沿っていればそれでイイのだ。

ボクはそこだけを確認して、複数案あればボクの責任で選択をし、クライアントにプレゼンテーションする。上手くいけばデザイナーさんのおかげ、失敗したらボクのせいでいいと思っていたし、そういう立場だと思っていたから、ボクの立場内でけっこう無茶なこともした。

役割の範囲内で、クライアントの意向(コンセプトと言ってもいい)が反映されていれば何をしてもいい、とすら思っていたから周りはかなりヒヤヒヤしていたようだ。

色に戻る。写真製版オフセット最後の時代は、デジタルの黎明期でもあった。ボクはここで、アナログとデジタルの両方をまたぐことになる。

本来ならしなくてもいい作業を、実験と称してボクがやらなければいけない羽目になったのだが、ここでデザイナーさん達から盗んだ色彩構成を徹底的に利用した。

何しろ相手はMacである。平塗りが苦手でも、正確で微塵の隙もない線を描くスキルがなくても、全部Macがやってくれる。

勘違いしてもらいたくないのだが、ボクはIllustratorなりPhotoshopなりを実際に使っていたが、気分はアートディレクターのままだったということだ。

デザイナーさんに指示を出すように、Macに指示を出す。ボクはそういう使い方しかしなかったし、今でもそれは一緒である。指示以上の効果は求めないし、期待もしない。

特に相手がMacだと、言った通りのことしかしないので余計に厄介である。Macはピンときたり、思いついたりはしてくれないのだ。

今のAIならやりかねない気もするが、当時はとにかく言われたことすらままな
らない状態だったのだ。ベテランのデザイナーさん達よりもずっと質が悪かっ
たなぁ。

とはいえ、相手は疲れを知らない計算機である。演算処理速度は遅いけど、とにかくマジメに計算はしてくれる(たまに落ちるけど)。だがそこまでである。当然だが、デザイナーさんと作業をするようにはいかない。

こうなったら根競べだ。いや、機械相手に根競べもクソもないのだが(相手が勝つに決まってる)とにかく機械を慌てさせないように、ゆっくり順序よく指示を出しながら(いや、マウスとキーボードを触ってるだけ)、なかなか変わらない画面と睨めっこである。

Macが必死こいて計算している間に、ボクは次の工程を考える。とにかく待ち時間が長かったのだ。Photoshopなんかは、ぼかしフィルターをかけただけで(大した量じゃないけど)コーヒーが飲めて、雑談まで出来るぐらい時間が掛かった。その間に、頭の中であらゆる可能性をシミュレーションをする。

どっちがPCか分からんような状態ですな(笑)

特に色に関しては、ボク自身がシミュレートしてはMacに結果だけを出させて、試行錯誤を散々繰り返したので、多少はマシになった。

埋もれさせていたショボい色彩感覚を無理から引っ張り出してきて、デザイナーさん達の仕事を思いだしながら、とにかく繰り返す。もちろん印刷会社なので、印刷可能な色域でだけである。この辺はボクよりも編集長の方が詳しいと思うので省く。

先にも書いたが、色の指定は基本10%刻みである。これは遵守した。Macだけで商業印刷が出来るほど、世の中甘くはないのですよ。とにかく製版の時の工程に気を使った。

それでも結構な色の組み合わせは出来るし、印刷インク特有の再現性もある程度は理解していたので、無茶な色の指示はMacにもしなかった。

こう書いてしまうと「ひどく窮屈な……」と思われるかもしれないが、もともと色彩感覚が悪いのだ。当時の印刷インクで再現できる範囲は、ボクにとっては十二分に広かった。

娘が産まれてから、ボクの色彩感覚はカンブリア爆発を起こしたような勢いを出し始めた。あくまでもカンブリア紀なので、それ程大したことではありません。とにかく、娘の色彩感覚の豊かさに度肝を抜かれたのだ。

奧さんの色彩感覚も、これまた並外れてすごい。すご過ぎて真似のしようがないのだが、娘となると話は別である。詳細は省くが、とにかく娘には色の楽しさを教えてもらったし、ちゃっかり盗んでもいる(どんな父親やねん)。

とある編集さんが命名した「フジワラ・ブルー」とやらが生まれたのは、ほとんど娘の功績と言っていい。ただの青じゃないんですが、まぁなんか得体のしれない紫がかった変な青ですわ。独特らしいのですが、ボクには分からない。

小学生の時に紫で痛い目に遭ってるはずなのに、わざわざそこに戻るというのは自分でもどうかと思うのだが、やはりキレイだと思ってしまうのである。

もちろん変な紫もありますが、ボクの守備範囲は狭いし、変な色からは自然と目が逸れるように出来ている。それでも紫が気になるのは不思議である。まぁ、性にあってるんでしょう。


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そしてタブローの再開である。

色はウルトラマリン・ブルー、ニッケル・アゾ・イエロー、パーマネント・ローズ、パーマネント・サップ・グリーンだけ。この四色だけでも手にあまる。ホワイトの代わりにジェッソを使っているが、色は全部透明色なのでホワイトの使い方もちょっと変な具合になる。

ああ、あとからロー・アンバーとバーント・シェンナは加えました。これまたなぜか透明色。全部の絵の具を混色すると、何とも言えない不思議で落ち着いた濃色が出来る。

ボクが色を使う時、ホワイトとブラックを極端にイヤがるのは、こいつらの周囲の色への影響力が半端なく強いからだ。こんな影響力の強いモノを使いこなすほど、ボクの色彩感覚は良くない。だから極力避ける。

その代わりと言ってはなんだが、なぜか墨にはご執心である。ここに金・銀・雲母・水晶末・胡粉が加わって、ボクの今の絵はもう光りもんの世界である。

物質色ってやっぱりスゴイと思うし、とにかくPCでは絶対にできないから描き甲斐もある。ちなみに金・銀・雲母・水晶末・胡粉は、色名ではなく素材名である。色じゃないからボクにとっては使いやすいのだ。この辺の感覚がやっぱり完全に狂ってるのだと自分でも思う。

……と長々書いた結果が、「やっぱり色は苦手でした」で終わってしまうところが、ボクのアホさ加減を物語っていると言ってもいいだろう。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/

http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/


最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m


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編集後記(09/29)

●廣淵升彦「メディアの驕り」を読んだ(2017/新潮新書)。テレビ朝日出身のジャーナリスト。偏向報道の総本山関係者かと少し警戒しながら読んだが、タイトル通りの内容で「変に使命感に駆られ、存在もしない物事を興奮気味に伝える報道が、どれほど危険なものか」がよく伝わってくる好著であった。

筆者のメディア論は、「ベニスの商人=悪人」論は間違いだという指摘に見られる。日本人はみな金に目がくらんでいる、という論調があった。「万事を金で見ていくというのはあたかもベニスの商人シャイロックのようなものだ。そうなってはいけない」というお説教がかつてあった。「ベニスの商人」というシンボルは、大衆の意識を大きく変えた。マスコミは、金持ちを悪人にした。

好況経済そのものを悪者にした。しかし、マスコミには根本的な誤りがあった。シェークスピアが描いたベニスの商人とは、金貸しシャイロックではない。親友の苦境を見かねて借金の保証人になってやる、友情厚いアントーニオのことなのだ。彼こそ、正義の味方であり、プラスの価値の体現者なのである。

マスコミが煽った極めて情緒的な「ベニスの商人=悪人」論は最大級の誤解で、無知に基づいていた。誰も気がつかなかったのか。この誤謬が世論になってしまい、国策を誤らせた。その後、20年も官製大不況が続いた。筆者は1995年の文藝春秋2月号にこの件を書き反響を呼んだ。その後、「ベニスの商人=悪人」論はメディアから姿を消した。誰も世論をミスリードした責任をとらぬまま。

筆者は「同じような『実体とはちがうシンボルを用いて自説を押し通そうとする人々』は後を絶たない」と警告する。メディアが真っ当なら、悪意のシンボル操作をする論客は排除できるはずだが、メディアが挙げて偏向報道まっしぐら。モリカケ報道なんて「ベニスの商人=悪人」論以下の、愚劣ネタである。

「日本が戦争に巻き込まれる」「この道はいつか来た道」などという情緒的報道に慣らされ人々は、理性的な判断力を失っている。大東亜戦争に負けかけていたのに、朝日新聞らは勇ましい標語で国民の志気を高めようとした。日本を悲惨な運命に導いたのは、情緒過多のマスコミのせいではなかったのか。

新聞社出身のテレビキャスターたちは、例外なく自分の意見を言いたがる。この欲望がニュースの質を著しく低下させた。大方はピント外れか偏向。こんな連中をあたかも良識の代表のように扱い起用し過ぎる。どう考えても、これはフェアではない。最近はメディアの望まぬ「事実」は、なかったことにされる。

筆者の経験では、英国の街角でインタビューしようとすると「私には(それについて)語る資格がありません」と丁寧に断る人がかなりの割合でいた。思慮深い人は、微妙な領域についてはコメントを避けるのが普通だ。このような慎重さ、賢さが日本のマスコミを覆うようになれば、報道内容は深みを増すだろう。今の日本のニュースには、お仕着せの価値観しかない、愚論ばかりである。

「戦後72年、日本が最も大切にしてきたもののひとつが、多様で柔軟な価値観でした。さらに権力や周囲の圧力をはねのけて、自分の考えを表現できる『自由』でした。その自由が、いま失われそうになっている、と私は感じています」いよいよ総選挙、日本に迫り来る国際的危機に触れる野党はないだろう。大方の驕り高ぶるメディアも同様だ。魑魅魍魎を担ぐのに邁進中である。(柴田)

廣淵升彦「メディアの驕り」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106107260/dgcrcom-22/



●約8年前に買った洗濯機の修理。たまに洗濯物が破れることがあった。タオルの糸が飛び出たり。ネットに入れている場合でも、ネットの一部生地が薄くなったり、破れが出たり。

ドラム式の洗濯槽の外側に、プラスチックのカバーのようなものがあるのだけれど、そこが傷んでギザギザになっていた。洗濯物がそのギザギザに引っかかっているのではないか?

メーカーサイトから修理を依頼。まずは診断・見積の方が来られた。iPadを起動し、何やらマニュアル的な一覧を見る。ドラム式洗濯機の補修用性能部品の保有期間は生産終了後6年。

型番を検索し、モノクロの図面を表示させる。ただの図面に見えたが、タップすると各部品の番号やら何やらがポップアップされる。Acrobatの注釈みたいな感じ。

何やら別のアプリを起動して番号を入力すると、在庫の有無がわかり、これまたいろいろ操作されての見積り。出張費合わせて、税込16,351円とのこと。た、高い! 続く。 (hammer.mule)