まにまにころころ[126]ふんわり中国の古典(孫子・その6)兵勢篇(一〜六)/川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

投稿:  著者:  読了時間:7分(本文:約3,300文字)



コロこと川合です。えーと、今、まにころ始まって以来二番目くらいのピンチに陥っています。

大和川の氾濫だなんだと、台風ニュースに釘付けだったんですが、それらもやっと落ち着き、さあ原稿を完成させなきゃとMacbookを開くと……




動かない。

正確には、キーボードとトラックパッドが認識されない。

実は先日からちょいちょいこうなってて、でもUSBのキーボードやマウスは認識されるので、それらを使って再起動をかけると復活していたんです。

ところが今回は、何度再起動させても復活しない。それどころか、再起動も途中で止まって、強制終了させないといけないような状態。

あれこれ試せる手はまだ他にいくつかあるんですが、万一上手く行かなかったり、時間がかかりすぎると、もうどうにもならなくなるので、Windowsマシン用のUSBキーボードでなんとかこれを書いています。使いにくい……

ちなみに、過去最大のピンチは、当番日を間違えていて配信日の朝9時くらいに知り、出張中の新幹線の中で超速で書いた回です。(本当にゴメンナサイ)

さて、気を取り直して、今回も孫子。第五章の「兵勢篇(勢篇)」です。


◎──『孫子』兵勢篇(一〜三)

大軍勢をまるで小さな部隊のごとく自在に指揮するには、部隊編成がカギになる。そして、それらをスムーズに戦わせるには、旗や太鼓を使い指揮を執る用意がカギになる。

全軍を、ことごとく敵に対して上手く立ち回り、負けない態勢を整えるには、「奇正」つまり正攻法の戦い方と、状況に応じた臨機応変な戦い方とを組み合わせた戦い方の運用がカギになる。

兵を投入し、まるで卵に石を投げつけるかのように撃破するためには、「虚実」、つまり充実した戦力で敵の隙を衝くことがカギになる。

およそ戦というものは「正」すなわち正攻法をもって対峙し、「奇」すなわち状況に応じた変化を用いて勝利をつかむものだ。

だからこの「奇」に長けた将の采配は、天地のごとく限りなく、長江や黄河の水のごとく尽きることがない。

終わってはまた始まる様は太陽や月の動きのごとく、死からまた生まれてくる様は四季の移り変わりのごとく、変幻自在である。

音は五音に過ぎないが、その組み合わせによる音階の変化は、聴き尽くせない。色は五色に過ぎないが、その組み合わせによる色彩の変化は、観尽くせない。味は五味に過ぎないが、その組み合わせによる味の変化は、味わい尽くせない。

同様に、戦というものも「奇正」を組み合わせた運用に過ぎないが、その変化は無限で極め尽くせない。奇から正が生まれ、正から奇が生まれる様は、円の循環に端が存在しないようなものである。誰にこれが極められようか。


◎──『孫子』兵勢篇(一〜三)について

端的にまとめれば、「編成と指揮の工夫を徹底し、奇正をもって自在の用兵を行え。難しいけどね」ってところでしょうか。

ちなみに、
五音は、宮・商・角・微・羽、
五色は、青・黄・赤・白・黒、
五味は、酸・辛・鹹(塩辛さ)・甘・苦、
とのことです。

音がよく分からないですが、宮をドとすると、商はレ、角はミ、微はソ、羽はラにあたるそうです。詳しくはWikipediaで「五声」を調べてみてください。


◎──『孫子』兵勢篇(四〜六)

堰を切られた激しい水の流れが岩石をも押し流す、これが「勢」というものである。猛禽類が獲物を一撃で打ち砕く破壊力、これが「節」というものである。

戦上手というものは、勢い険しく、瞬間的な破壊力を持つ。強い弓を引き絞り蓄えられた力が「勢」で、放つ瞬間の力が「節」である。

混戦状態となっても乱されず、混沌として前後も分からない状態になっても破られない。(※注・この一文は別の箇所との説もあります)

乱は治から生まれ、臆病は勇敢から生まれ、弱さは強さから生まれるもので、いずれも移ろいやすいものである。

乱れるか治まるかは「数」すなわち、部隊編成によるところで、臆病か勇敢かは「勢」すなわち、勢いによるところで、弱さ強さは「形」すわなち、軍の態勢によるものである。

だから、上手く敵をコントロールする戦上手は、敵をおびき出す態勢を作り、相手に有利になると思わせるエサをちらつかせて、その裏をかくのである。

つまり戦上手は、全体の勢いを重視してそれを個々の人に求めず、巧みな人選によって、全体として勢いが生まれるようにする。その勢いに任せることで兵士の戦いはまるで丸太や石が転がるかのようになる。

丸太や石というものは、平坦なところでは静かに止まり、傾けば動き出す。角があれば止まり、丸ければ転がる。つまり上手く兵士を戦わせる時、その勢いは、千尋の谷へと丸い石を転がすようなもので、これが「勢」というものである。


◎──『孫子』兵勢篇(四〜六)について

そのままだとちょっと回りくどくて、何言ってるのか分かりにくい箇所ですね。

まず「勢」と「節」について。激流が「勢」で、猛禽の一撃が「節」。後には「勢」しか出てこないですけど。

軍の統率は「数(編成)」、勇猛さは「勢」、強さは「形(態勢)」による。
それらを駆使して巧みに相手を崩し、その虚を衝く。

自在な用兵を可能にする「数」は戦前からの大前提として、後はいかに相手の勢いを削いで、態勢を崩して、その隙を衝くか。

この部分、すっごくワクワクしませんか? 軍を率いる将は、これを必死に考えるわけですよ。もちろん相手も同じことを考えるから、バチバチの頭脳戦になるわけですよ。

で、最終的にその頭脳戦の勝敗を分けるのは、大前提であるところの「数」だったりするんですよ、きっと。軍の編成や指揮系統の乱れが、誤算を生んで。

続くところで「勢」についてまた語る。これがまた、軍師らしくてかっこいい。

「善く戦う者は、これを勢に求めて、人に求めず」

個の力をあてにするのではなく、全体の勢いを重視する。集団としての力をどう引き出すかが、将の腕の見せどころなんです。

物語の「三国志」みたいに、張飛や関羽、呂布が大暴れして敵の軍勢をなぎ倒していくような話ではなくて、まあそういった強力無双も手駒のひとつとして考えつつ、軍全体の勢いを最大限に引き出すことを考えるのが、戦に勝つために将がすべき仕事だと。

一時のジャイアンツみたいに、四番ばかり揃えりゃいいってもんじゃないんだよ。チームとしての強さを引き出して勝つのが野球の妙味なんだよ、と。

軍師っぽいと思いませんか。かっこいいですよね。諸葛亮なら大きく頷いて、ここに線を引いたり、書きだして貼ったりすると思います。張飛ならきっと、そんなことはいいから槍の素振りを毎日千本だ、とか言ってそう。

もちろん、素振り千本も大事なんですよ。個々の兵の強さは最大限に高めたい。でも、将の役割は、一緒に素振りするんじゃなくて、また強力無双の兵だけを並べて終わりじゃなくて、彼らをいかに統率して、軍全体としての強さを引き出すか。勝つ集団にまとめあげるか。それが大事なんだと。

色々と考えさせられる一節です。


◎──今回はここまで。

上・中・下巻に分けると、ここまでが上巻です。孫子の面白いところは、割と汎用的な話が多くて現代のあれこれにも喩えやすいところじゃないでしょうか。何かと応用しやすい。そうじゃない部分もありますが、だいたい共感しやすい。

だからまあ、なんて言うか読んでて、二千五百年前の人が言ってることなのに、全然できてない自分っていったい……と、凹んでしまうことも多いんですけど。

でもきっと当時読んだ人も、歴史の中で読んだ人も、「そうは言ってもさあー」って反論したくなった人は、いっぱいいると思うんですよね。(笑)

言ってることはその通りなんだけど、そう理想通りにいかないんだよ、って。

だから今なおベストセラーなんでしょうね。なんとかこの境地にいたろうと。精進します、孫先生……


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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