ショート・ストーリーのKUNI[223]いつか進化する日/ヤマシタクニコ

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「あんたって雨が降るたびぶつぶつ言うわよね」

かつてつきあっていたサユリは言った。サユリに言われるまでもなく、おれは雨が降るたびぶつぶつ言う。自覚している。雨は嫌いだ。雨が降ると傘をささないといけない。これがまたいやだ。

たまに、少々の雨ならぬれても平気で、傘もささないというやつもいる。でも豪雨とか土砂降りとかになると、そういうやつも傘をさす。もっとひどい雨だと、もう災害レベルだから屋内に隠れる。人間は雨に勝てないのだ。そう思うと気が滅入る。

ぬれたって別に体がとけるわけじゃなし、と言う人もいる。でも、手に持っている書類はぬらしたくないだろう。精密機器は防水じゃない限りぬれたらやばいし、パンもケーキもぬれたらまずいだろう。

それ以前に雨にどんどん降られて髪がぬれ、ぼとぼととしずくが垂れるようになり、それが襟元からつつつーと背中に入り込む。靴の中に水がしみこみ、一歩ごとにぬちゃりぬちゃりと音を立てる。

ああ、いやだ。あの感触を思い出すだけでぞっとする。





傘というものも不完全だ。すぐに破れたり骨が折れたりする。満員電車でぬれた傘ほどぞっとするものはない。それになくなりやすい。これは必ずしも持ち主の責任ではないとおれは考える。傘はもともとなくなりやすいという特質をもっているのだ。

「わかった、わかった」

その次につきあっていたヨウコが言う。

「雨がいやなのよね。わかったわかった。それでどうしたの?」

人間以外の生き物はどうだろうと考える。犬や猫は雨は好きじゃないだろう。ぬれたら毛がぺちゃんこになって見るからに哀れだし。

でも、昆虫なんかはだいじょうぶじゃないのか。テントウムシとかカブトムシみたいな虫は、固い殻の中まで雨は染み入っていかないのではないか。雨にぬれても平気なのではないか。

そう考えると人間は虫より劣っているわけだ。さらにいやになる。

学生時代、昔の絵を見て驚いた。それは絵巻物の本で、一遍上人絵伝というやつだったが、そこに傘をさして歩く人が描かれていた。13世紀に描かれたものらしいが、傘は今と同じ形をしているではないか。

さらにページを繰ると、8世紀のものだという絵因果経が載っていて、そこにも傘が描かれている。日傘っぽいけど。骨組みまではわからないけど、やはり今の傘と同じようだ。

おれは気になってWikipediaを見た。「傘が使われ出したのは約4000年ほど前」と書いてあった。まじか。Wikipediaには洋傘と和傘の違いとか細かく書かれていたが、基本、同じっぽい。

人間は、何千年も昔から、洋の東西を問わず、みんな今とあまり変わらない傘をさしていて、そのままずるずる年を取った、じゃなくて、なんかすごい年月が経っているのだ。4000年だぜ、4000年。

おれは絶望的になった。人間は雨に対して、これ以上、どうすることもできないのか。雨に立ち向かうには傘しかないわけ? 「傘をさす」or「ぬれる」なのか。間抜けすぎる。おれは死にたくなった。

「オーバー、オーバー」

うんざりしたようにエミカが言う。

「そういえばちょっと前、ネットで変わった傘を見たことあるわよ。傘の進化形? 手に持たなくていいの。えっと……ベビーカーの屋根みたいなやつを頭の上につけてたわ」

それはおれも見たことあった。でも、頭と肩のあたりしか覆っていなくて、普通の傘のほうがずっとましにみえた。少なくとも「進化形」だなんていえるものじゃない。

と、声に出さずにつぶやいたおれは気がついた。

人間が進化すべきなんだ。

そうだ。それしかない。

おれは雨が降るたび、そのことばかり考えるようになった。

「また雨か。いやだな。あんたがぶつぶつ言うのを聞かされる」

トモミがため息をつく。ちなみに、おれは女と出会っても雨の話ばかりする。雨の話は人類共通の話題だから。雨が降らない地域でもやたらと降る地域でも、それなりに話題になる。

雨が降ってきたときの対処の仕方。雨の日はどうするか。これまでの人生で傘を何本なくしたか。「雨」のつく歌。「雨」のつくことわざ。いくらでも話ができる。

だけど、こんなにしつこく雨や傘の話ばかりしているとは、どの女も想像していなかっただろう。だからすぐ愛想をつかされるというわけだ。サユリ、ヨウコ、エミカ。すまん。みんな雨が悪いんだ。

そんなことばかり考えていると、何年も会っていなかったお袋から電話があった。物置を整理したいが、何が出てくるのかわからないカオス状態で恐ろしい。手伝ってほしいという。

それでおれは電車を乗り継ぎ、また乗り継ぎ、バスに乗り換えてえっちらおっちら20分ばかりも歩いて、お袋と物置の前に到着した。

どんな化けものが出てくるかと楽しみにしていたのに、物置の中は平凡極まる品揃えだった。使ってもいないバケツや釣り道具、古本、壊れたラジカセ、壊れた扇風機や中途半端に汚れたカーペット、座椅子、もらいものの額絵等々。

ただひとつ、予期していなかったものがあった。おれが小学生のときに死んだじいさんの、若いころの日記だ。しっかりしたハードカバーの日記帳が10数冊、箱の中にぎっしり詰め込まれていたのだ。おれはついページをめくってみた。


○月○日

私は雨が嫌いだ。雨が降ると傘をささないといけない。これがまたいやだ。

はあ?

──たまに、少々の雨ならぬれても平気で、傘もささないというやつもいる。でも豪雨とか土砂降りとかになるとそういうやつも傘をさす。もっとひどい雨だと、屋内に隠れる。人間は雨に勝てないのだ。そう思うと気が滅入る。

いや、これって……。

人間以外の生き物はどうだろうと考える。犬や猫は雨は好きじゃないだろう。ぬれたら毛がぺちゃんこになって、見るからに哀れである。でも、昆虫なんかはだいじょうぶじゃないのか。天道虫とか甲虫みたいな虫は、固い殻の中まで雨は染み入っていかないのではないか。雨にぬれても平気なのではないか。そう考えると人間は虫より劣っているわけだ。さらにいやになる。

ちょ、ちょっと待てよ!


×月×日

今日、たまたま昔の絵を見て驚いた。それは絵巻物の本で、一遍上人絵伝というやつだったが、そこに傘をさして歩く人が描かれていた。13世紀に描かれたものらしいが、傘は今と同じ形をしているではないか。

さらにページを繰ると8世紀のものだという絵因果経が載っていて、そこにも傘が描かれている。日傘のようだが。骨組みまではわからないけど、やはり今の傘と同じようだ。私はむなしくなった。

おれはあせってページをどんどん繰った。


●月●日

私は不意に悟った。人間が進化すべきなんだ。

そうだ。それしかない!

私の脳裏には、たちまち進化した人類の像が明瞭に浮かんだ。それは、傘を内蔵した人類。雨が降ると頭頂部から傘がにょきにょきと伸び、開けと念じるとぱっと開くのだ。もはや傘は不要。人類はその日、長年の課題を克服し真の意味で自由になるのだ……。

おれはもう、なんと言っていいかわからなかった。おれと同じ事を考えている、いや、先行している! 驚いたというかあきれたというか、うれしいような、がっかりしたような、遺伝というものはおそろしいと思ったり、これではおれは別に生まれてこなくてもよかったのではないかと思ったり、それどころか人類全体がもう、ばかすぎて存在しなくてもいいんじゃないかと思ったり、そんなこともないか、おれがばかなだけかと思ったり、じいさんもやっぱり雨や傘の話ばかりして女にウザがられたんだろうかと思ったり、それでもばあさんと結婚できたおかげでおれが存在しているわけだし、結婚できただけおれよりましか、じいさんよくやったと自分のことのように喜んだり、もう混乱のきわみだった。

そしておれはさらにページをめくった。


○月×日

私は例の問題、人類の進化について考え続けている。そんな日ははたして来るのか来ないのか。はっきりしてほしい。といってもそんなこと誰に言えばいいのか。

と思いながら床に就くと、夜半、私を呼ぶ声がした。

──おい、おい。

驚いて体を起こして部屋の中を見回してみると、足下の空間、畳から二尺ほどのところにぼうっと浮かぶものがある。ひとの形をしているように思える。それが声を発している。

──おまえは、人類の進化を望んでいるな。

 はい、と私がうなずくとそれは言った。

──心配するな。その望みはかなう。

 本当ですか!と思わず私は言った。すると

──強く願うと、望みはかなう、ということを聞いたことがあるだろう。それだ。おまえはかなりしつこく人類の進化、傘内蔵人間の出現を望んでいる。その結果、人間達の数ある願いの中でかなり上位に上がりつつある。あともう少しだ。

そうなんですか!

──ただ、こういう願いはかなり長期的な展望のもとで検討されるべきものだ。今すぐには無理だ。もっとたくさんの人間が強く願わないといけない。最も早くとも、おまえの孫の世代、いやその次あたりになるだろう。

孫かひ孫の世代……だいぶ先ですね。仕方ありません。この目で見届けることができなくても、未来に希望があると確信できるなら……。

気がつくといつものような朝になっていて、もちろん夜半のできごとに何の痕跡もない。夢だろうか。それにしてはいやにはっきりとしていて、今でも一部始終を思い起こすことができる。何だったのだろうか。


おれは興奮した。孫って、孫って……おれじゃないか。おれとか、おれの子の世代には、ひょっとしたら進化した人類が現れるかも知れないって……まじかーっ! 

そうか。じいさんだけじゃなく、孫のおれもこんなにぶつぶつ言いながら人類の進化を願ってきたんだから、トータルすると大したもんだ。いよいよその成果が現れるのか。

ひょっとして、死んだ親父もひそかに同じようなことを願っていたのかもしれない。もう死んだし、日記も何も残ってないから確認できないけど。ああ、なんだかわくわくしてきたじゃないか。

おれは夢想する。街を歩いていると急にぽつ、ぽつと雨が降り始める。それを察知した人々の頭頂部の中心部はむくりと隆起を始める。

雨はどうやら本降りになりそうだ。傘が必要だ! 傘を開こう! するとあちこちで人々の頭の上に、ぱすっ、ぱすっ!と傘が開く。色とりどり、さまざまな意匠の傘が街にあふれる。

でも、両手は自由に使えるんだ。カバンは持ったまま。スマホも使えるし、財布もパスモもさっと取り出せる。恋人の手を握ることもできる。なんて便利なんだろう!

「あんたって、時々ひとりでにやにやしてるよね」

マリコが言う。おれとマリコは電車で並んで座っている。マリコは二週間前に知り合った女だ。

「そうかい? 想像するのが好きなんだ」

「そうみたいね」

マリコはにこにこしている。おれが楽しそうなので、マリコも楽しいのだ。

おれの視線はふと、向かいのシートに座った子どもに釘付けになる。年は二歳くらいか。やんちゃそうな男の子で、座っていてもきょろきょろしたり脚をぶらつかせて落ち着きがない。おれが注目したのはその頭頂部だ。

なんだか……盛り上がっている。ひょっとして、あれは、進化の兆候では。すでにそういう例が見られても不思議ではないはずだ。

おれはふらふらと子どもに近寄り、頭を触ってみた。盛り上がっている部分を触って手応えを確かめたり、念のためたたいてみると、急に子どもはギャーッと泣き出した。

「何すんだよ!」母親が怒鳴る。

「さっき棚から落ちてきた鍋があたってたんこぶができてるのに、そこをさわったら泣くのあたりまえだろ!」

おれは謝りながら元のシートに戻った。マリコがくすくす笑っている。

「そんなにおかしいか」

マリコはやはり笑い続ける。おれはどさくさに紛れて小声で言う。

「なあ、子どもつくらないか」

はあ?! とマリコがおれの顔を見る。おれはまじだ。進化した人類を見たい。じいさんが見ることができなかった未来を見たい。もしおれの生きているうちにかなわなかったら、子どもに託すのだ。そう考えると楽しくなってきた。

サユリ、ヨウコ、エミカ、トモミ、すまん。君たちには感謝している。


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夕刊に「オーバンド」のことが載っていたのでなつかしくなった。小学校一年生のころ、学校からの帰り、壁面に大きく「オーバンド」と書かれた工場の前をよく通った。国内で初めて輪ゴム生産を始めた「共和」の工場だったらしい。

二年生の春に引っ越したので、それ以降は通らなかったけど、一年生としては「オーバンド」と読めたのがうれしかった。ちなみに「帰り道」と書いたのは、行きは姉や兄といっしょに別の道から登校したけど、帰りはひとりで川のこっちとあっちを、行ったり来たりしながら帰った、その途中にあったからだ。