ユーレカの日々[63]ヒドゥン・スモーク/まつむらまきお

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「ヒドゥン・フィギュアズ(邦題:ドリーム)」という映画を見た。60年代初頭のマーキュリー計画で活躍した、NASAの3人の黒人女性を描いた作品だ。

実話をベースにしたこの作品は、人種差別、女性蔑視という問題をテーマにしながら、有人ロケット打ち上げという大プロジェクト映画として、たいへん面白く仕上がっている。

この歳になってくると、フィクションよりもノンフィクションの方が面白くなってくる。

NASA賛歌だった「オデッセイ」や、「インターステラ」、言語学者を主役に置いた「メッセージ」といったSFもよかったが、実話の方がずっと面白い。派手さはないが、上手い脚本で、ぐいぐいと引き込まれる。

いい映画を見た……と思ったが、見終わってしばらくして、この映画の致命的なウソに気がついてしまった。

この映画の邦題が当初、「わたしたちのアポロ計画」というアホなものがつけられていて(アポロではなく、マーキュリー計画である)、Twitterで炎上していたが、ぼくが気がついたこの映画のウソは、だれも指摘もしなければ、炎上もしない。いや、それを指摘することが炎上対象なのかもしれないが、気がついてしまった以上、指摘しないわけにはいくまい。

この映画には、タバコが一切、出てこないのだ。





●隠されたタバコ

この映画の舞台は1961年、設立まもないNASA。クライマックスは、アメリカ初の有人宇宙飛行を果たした宇宙船「フレンドシップ7」の打ち上げシーンだ。

NASAが出て来る映画はたくさんあるのだが、どうも印象が違う。何が違うんだろう……と過去の他の映画を思い出してみて、気がついたのがタバコだ。

同じ出来事を描いている「ライト・スタッフ」では、管制室の描写は少ないのだが葉巻やパイプを吸う描写がある。少し先の時代だが、映画「アポロ13」の管制室は、みんなイライラしながらタバコにすぐ火をつける。

実際はどうだったのか? 喫煙は映画の演出である可能性がある。NASAの管制室は精密機械が多い。

そこでYouTubeで、フレンドシップ7(本作のロケット)のドキュメンタリーを見てみると、多くの人々が仕事しながらタバコを吸っている。



管制室の場面だけではない。もっと不自然なのは会議の場面だ。この映画の重要なシーンに、NASA、米軍合同の会議の場面があるのだが、このシーンでも、だれもタバコを吸っていない。

ぼくがサラリーマンだった80年代。会社の会議室では灰皿が配られるのが、ごく普通の光景だった。会議が長引くと(いつも長引く)、部屋はものすごい煙で、喫煙者であるぼくですら、気分が悪くなるほどだった。

タバコは会議の象徴だった。洋画でも邦画でも、会議の場面といえば、タバコの描写があたりまえで、「ライト・スタッフ」の会議の場面も、煙だらけ。

今では信じられない光景だが、駅のホームでは各柱に灰皿が設置され、皆、電車を待ちながらタバコをくゆらせていた時代。それが普通の風景だった。

「ヒドゥン・フィギュアズ」がタバコの場面を入れなかったのは、明らかに教育的配慮からだろう。

数学が得意な主人公が、黒人&女性という、当時の差別対象となっていた境遇に負けずに、大きな仕事を成し遂げ、まわりに認められるというストーリー。日本なら「文部科学省特選」がとれそうな内容(現在ではどうだろう?)で、子どもに見せたい映画としての意識は当然あったのだろう。

昨年、WHOが映画の喫煙シーンに、レイティングや警告を付け加えるよう、勧告したそうだ。

実際にはレイティングの対象にはなっていないようだが、ディズニーはそれ以前から、タバコの場面を自主規制し、メリー・ポピンズの制作の様子を描いた「ウォルト・ディズニーの約束」では、愛煙家だったディズニーがタバコを吸うシーンはひとつもない。

この映画のタバコ排除も、こういった動きのひとつだと思う。

なるほど、とは思うものの、よく考えてみると、子ども向けのコンテンツだからといって、タバコを出さないというは理由がよくわからない。子どもが興味を持って吸うといけないから、ということなのだろうが、「タバコは害である」と教えることと、「隠して見せない」というのは、同じではないだろうと思うのだが。

それよりなにより、この映画でタバコを隠すということは、作り手がこの映画が描いていることを、自ら否定してることになってしまうのではないか?

なぜなら、「ヒドゥン・フィギュアズ」とは「隠された人々(隠された計算というダブルミーニングでもある)」。差別によって「隠されていた」ことを描いているからだ。

白人と有色人種でトイレが違う。部署も違う。学校も違う。そういった「人種分離法」が描写される。奴隷解放から100年近くたっているこの時代でも、そういった差別がごく普通に行われていた。

公民権運動が盛り上がりをみせた時代であり、人種分離法が撤廃される3年前である。劇中、黒人たちの公民権運動が、反対派に襲われたというニュースがテレビで流れる場面がある。

それを見ていた、主人公の友人(黒人)が「子どもたちに見せないで」と言うと、夫は「いや、見せるべきだ」と言う。まさに、「ヒドゥン・フィギュアズ」というタイトル、テーマを描いたシーンだ。

が、黒人が迫害されている様子は「隠すな」と言っているのに、タバコは隠すべきなのか? 喫煙者であるぼくの被害妄想だろうか?

●ホワイトウォッシング

映画で隠された、といえば、日本のアニメ「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」のハリウッド実写リメイク「ゴースト・イン・ザ・シェル」。

主人公、草薙素子をスカーレット・ヨハンソンが演じていることに、「ホワイトウォッシング」であると批判が集まった。日本人である主人公を、白人に変更することが、白人至上主義的であると批判されたのだ。

もともと、原作のマンガ、アニメの絵は無国籍性が高いし、さらに深読みすれば、全身義体(脳以外は機械)で、さらには「めだたない、大量生産品のルック」という設定、多国籍化が進んだ未来社会という設定があるのだから、草薙素子という名前で、見た目が白人でも別にかまわないと思う。

個人的にはこの映画に関しては「ホワイト・ウォッシング」というのはいささか過敏すぎるのでは、と思うが、草薙素子に思い入れがある人にとっては、違和感もあるだろうが。

「七人の侍」が「荒野の七人」としてリメイクされたように、舞台や人種を変えてしまうリメイクは数多い。近年では「シャル・ウィ・ダンス」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」がそうだし、日本のアニメ「東京ゴッドファーザーズ」はアメリカ映画「三人の名付親」がベースになっている(原作ではない)。

「ゴースト・イン・ザ・シェル」の場合は、中途半端に原作に忠実にしてしまったため、演者の人種が問題になったのだろうか。

映画「アイアン・スカイ」では、黒人の宇宙飛行士を、ナチの末裔が捕まえて、肌の色を「善意から」白くしてしまうという描写がある。

黒人の本人は「なんてことしてくれたんだ!」と激怒するが、ナチの末裔は、何が悪かったのか理解できないという、かなり皮肉めいた名場面。このホワイト・ウォッシングは、とても理解できる。あなたの善意は、わたしの感謝とは限らないのだ。

●東京・ウォッシング

日本に住んでいると鈍感になってしまう、こういった感覚だが、ふと思い出した。80年代にテレビ放映されたテレビアニメ「おじゃまんが山田くん」。

原作はいしいひさいち。特定の作品が原作ではなく、「おじゃまんが」「バイトくん」など複数の作品を原案としている。

小学生の頃から、いしい4コマの洗礼を受けて育ったぼくは、テレビアニメを心待ちにしていたのだが、一回目の放送のオープニングを見て、のけぞってしまった。

なんと、オープニングの歌詞で「東江戸川三丁目」と歌っているのだ。それどころか、本編でも「東江戸川」、舞台が東京の下町。全員、標準語、江戸っ子なのだ。

いくらなんでも、これはひどい。ひどすぎる。原作というか、いしい作品に登場するのは「東淀川」という、実在する町である。

原作のバイトくんたちは「東淀川大学」という架空の、だが、関西人ならだれでも「関西大学」とわかる(なぜなら、千里山〜下新庄という、関西大学沿線の駅が実名で出てくるから)大学に通っている。

さらに、いしいひさいちのマンガは、関西のローカル情報雑誌「プレイガイドジャーナル」から出版されたという経緯があり、関西人にとって、とてもローカルなマンガなのだ。

ここまで描写されたベタベタの大阪の話が、なんで架空の東江戸川になるんだ?大阪が舞台だと、なにかまずいのか? 東京の下町は全然嫌いではないが、だからといって、東江戸川はない。まさに国辱的。

当時、関西の人間は全員激怒し、テレビ局に殴り込んだ……ということはなかったのだが、憤りを感じた関西人は多かったと思う。実際ぼくは、その後このテレビアニメは不愉快すぎて、見ることはなかった。

その後作られた、高畑勲監督の「ホーホケキョとなりの山田くん」では、ちゃんと登場人物は全員、関西弁(そりゃそうだ、じゃりン子チエをあれだけ見事に映画化、テレビ化した高畑監督だもの)で、正常化された。

おそらく高畑監督は「東江戸川」という、ホワイト・ウォッシングならぬ、東京・ウォッシングを改めるために、あの映画を作ったのだ(と、関西人はみな、思っている)。

●ひとつのウソがすべてを疑わしくする

「ヒドゥン・フィギュアズ」のクライマックスで、とても重要な場面がある。白人の上司が「あなたに偏見は持っていないわ」と言うのに対し、主人公が「わかってます。あなたがそう思い込んでいるということを」というのだ。このセリフは、この映画の中でも屈指の名セリフだ。

「おじゃまんが山田くん」でも、制作側は悪気などなかったのだろう。関西に偏見も持っていないのだけれど、全国ネットにするには仕方ない、と言うのだろう。いつの時代でも、どの国でも、差別とはそういうものなのだ。

この映画の中でも、主人公の彼氏(黒人)が、主人公を女性蔑視してしまうエピソードがある。

大阪は東京と比べてマイノリティだが、大阪は関西においてマジョリティだ。大阪人であるぼく自身も、無意識に関西圏を「大阪」といっしょにしてしまい、他府県の人を傷つけているかもしれない。男性である自分が、女性を傷つけていることは無数にあるに違いない。

反公民権運動者なら、まだわかりやすい。レイシスト、ならまだわかりやすい。最もタチが悪いのは、ぼく自身を含む、自分は差別などしていないと思いこんでいる、普通の、善良な人間なのだ。だがそれは、この映画で描かれているように、少しづつ理解していけるものだ。

タバコの話に戻ろう。これだけのセリフを演出できたのに、なぜ、この映画でタバコが隠されるのか。偉業を成し遂げた人NASAの人たちがタバコを吸っているのが、そんなに臭い、汚い、カッコわるい、間違ったことなのか。なかったことにしなくてはならないのか。

「インターステラ」という映画では、人類は月に行ってないという、ウソの歴史を学校で教えているという描写がある。この描写だけで、舞台となっている社会全体が、都合のいいように作り変えられている、疑わしい世界だとわかる、さりげなく、そしてショッキングな演出だ。

タバコがないことに気がつくと、「ヒドゥン・フィギュアズ」の世界も、急にウソの世界のように見えてくる。

この映画のテーマさえ、偽善じみて見えてくる。

「タバコのない60年代」。それは、「黒人差別などなかった」と言っているのと、同じことではないのか。

●史実に基づいた映画は事実ではない

調べてみると、この映画の主人公三名は実在する人物だが、現実は物語とかなり違うらしい。映画の舞台、1961年には、NASAではすでに、差別的な設備はなく、すでにエンジニアや管理職に昇進していたそうだ。映画のラストで解散になる、有色人種計算班は、実際には58年には解散している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0_(2016%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)#.E5.8F.B2.E5.AE.9F.E3.81.A8.E3.81.AE.E7.9B.B8.E9.81.95.E7.82.B9

それぞれのエピソードは、実際にあったことを元にしているが、61年のマーキュリー計画の一時期に集約しているのは、映画の脚色というわけだ(原作者は映画の脚色上やむを得ないと理解を示している)。

マーキュリー計画のドキュメンタリードラマとして見ると、大変な間違いということになる。映画で脚色されるのは一向に構わないのだが、脚色するのであれば、わざわざ映画の冒頭に「事実に基づいた物語」などといれるべきではないだろう。

映画の最後、主人公たちのその後の人生が紹介される場面で「この映画は事実を元に再構成されたフィクションです」と入れるべきだろう。

「ヒドゥン・フィギュアズ」はとてもいい映画だし、たくさんの人々に見て欲しいと思うのだが、喫煙場面という一点において、この映画は、ぼくには信用できない映画になってしまった。なにもかもが、嘘くさくなってしまった。

クリーンな会議場面だけで、この映画のあらゆる場面が、本当ではない様に思えてしまうのだ。それが残念でならない。

今や、喫煙者は本当に少数になった。数十年以内に地球上からタバコは消滅するのだろう。それはそれでしかたのないことだと思うが、タバコを吸っていた過去の事実を隠すような世界で、禁煙して健康に暮らしたいとはどうしても思えないのだ。


【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学教授】
twitter: https://twitter.com/makio_matsumura
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mailto:makio@makion.net

娘の結婚式が近い。すでに入籍し同居しているので、いまさら感もあるのだが。なんだか別の世界の出来事のような気分である。