ショート・ストーリーのKUNI[226]優先席は待っている/ヤマシタクニコ

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ある日の満員電車の車内に、女はいた。仮に名前をエリカとしておく。すでに軽く定員をオーバーしてむんむんしている車両に、自分の体をねじ込むようにして乗ってきた。

人と人の間をさらに押し進み、エリカは見た。ぽっかりとあいた席がひとつ。いかにも座り心地の良さそうなローズ色のシート。

背もたれの部分に「優先席」という文字が明朝体の文字で表示され、驚くべきことにそれは金色の糸で刺繍されたものだ。さらに

──この席は妊娠している女性専用の優先席です。

という説明書きのプレートが添えてある。こんな優先席があっただろうか? 毎日乗っている線なのに今まで気づかなかった。新しくできたんだ。説明書きは無視しよう。ラッキー。





座ろうとしてエリカは気づいた。自分のすぐそばに、腹の大きい女がいるのだ。一瞬ためらったが「気づかなかったことにすればいい」と考え、その優先席に座った。もし女が何か言えば、そのとき考えよう。

エリカはとにかく、足が痛かった。昨日買ったばかりの10センチのヒールの靴。駅まではいて歩いてきただけで痛くてたまらない。

でも、今日は絶対これをはいて行くのだ、パーティーに。ヒールにきらきら光るストーンが埋め込まれて、私の足にぴったりなのだから。

腹の大きな女はどこかに移動したようだ。エリカは安心して深く座り直した。足の痛みが薄らぐ。よかった。

だいたい、なんでこんな混雑した車両に妊婦が乗ってるのよ。各停ならもっと空いてるはず。おなかの赤ちゃんが心配なら、急行になんて乗らなきゃいいじゃない。ばっかじゃないの。

だいたい、妊婦がなんで優先席なのよ。最近、子育てが大事だとかなんとかいうけど、自分の勝手で妊娠しただけじゃない? 自己責任でしょ。しんどいのは妊婦だけじゃないわよ。あたしだってしんどいわよ。

しばらくするとエリカはなんだか体が重くなってきた。
いや、体、ではなくおなかだ。
おなかが重い……。

マスカラで倍くらいに増量したまつげをぱたりと動かし、エリカはひざに載せたトートバッグをちょっと持ち上げ、その下の自分の腹を見た。それは確実に膨らんでいた。膨らみ続けていた。

エリカは息をのんだ。

ワンピースのニット地がどんどん伸びていく。トートバッグを、腹が持ち上げる。腹は、バッグを持ち上げるだけでなく、エリカ自身にも、ものすごい勢いで圧力を加え続けていた。

自分の腹の中で何かが、内臓をおしのけ骨をきしませ、急激に育っている。シートは膨れあがる腹の重みで沈みつつある。突き出た腹でバッグがとうとうはねのけられる。ワンピースが裂ける。

──おい、見ろ、あれを!
──え、何なの、あれ……
──うそ!

まわりの人々が気づき、エリカから一歩あとずさる。信じられないものを見る目つき。あちこちから叫び声が上がる。

何よ、見せものじゃないわ。エリカはそう言いたかったが、腹の中からものすごい圧を受け、声を出すことさえかなわなかった。腹の中のものが、まるでのど元までいっぱいに詰まっているみたい。

耳にわんわん響く音は、中のものが外に出ようとする吠え声なのか。苦しい。

苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい!

腹は、もし妊娠しているとしたら三つ子、四つ子、いや十つ子、いや、もっと多いに違いないと思えるほど膨らみ続けていた。吐きそう。

冷や汗で顔から首までびっしょりぬれる。いやだ。今日はパーティーに行くのに。メイクが。台無し。だが、かまってる余裕がない。

このまま生まれるのだろうか、何かが。私の体を裂いて。まさか。まさか。私はどうなるの。苦しい。苦しい。ああどうなったって。いい。何も。考えられない。意識が遠のく。

そのとき、エリカは見た。遠巻きに自分を見ている人々の中にさっきの妊娠している女。そして、そのそばに奇妙な緑色の帽子をかぶった男。だがそこまでだ。エリカは意識を失い、ずるりとシートから滑り落ちた。わあああああっと人並みが後ずさる。


次の瞬間、すべてが元通りになる。

優先席などどこにもない。もちろん、説明書きも。電車は揺れながら次の停車駅に向けてゆっくりと速度を落とす。


別の日、若い男が電車に乗っている。一応サラリーマンという分類に属する。どこからも内定をもらえず、親に頼んで探してもらった就職口にやっとすべりこみ、五年余りになる。仮に名前を俊也としておく。

ぎゅうぎゅう詰めというほどではないが混雑した車内で、俊也はどこかに空席はないかときょろきょろしている。すぐそばに緑色の帽子をかぶった男が立っている。

すると、目の前にぽっかりと空いたシートが見えた。美しいネイビーブルーのシート。背もたれの部分に「優先席」と明朝体、それも丁寧な刺繍で表示され、さらに

──この席はお年寄り専用の優先席です。

という説明書きのプレートまである。

なんだこりゃ? こんな席、あったっけ? ていうか、さっきまで気づかなかったぞ。

すると、俊也の横からその席に座るために、一歩前に出た者がいた。老人だ。哀れなくらいにやせた、年取った男。だが、俊也は思った。おれが先に見つけたんだ。早い者勝ちだ。

俊也が老人より一瞬早く、その席に座ることは簡単だった。そして座るなりポケットからスマホを取り出したから、俊也の視界からも脳裏からも哀れな老人は消え去った。

俊也はアプリを立ち上げ、昨日、友人の紹介で知り合ったばかりの女の子にメールを打ち始めた。入力の早さは自慢だ。指を器用に動かし、みるみる長文メールができあがる。

昨日は楽しかったね。話、合うよね。あの漫画知ってる子がいたなんてまじ感動。今度ゆっくり話そうよ。そうそう、あの続きはどうなったんだっけ、ほら

打っているうちに、なんとなく俊也は感じていた。スマホがだんだん重くなってるみたいだ。気のせいだろう。女の子から返信が来た。

──昨日、楽しかったよ、私も。あの店いい感じだったしね?。チーズがおいしかった。

チーズ、好きなんだ。

そう打とうとして、俊也はふと指を止めた。
……これ、どうやったらいいんだっけ。

目の前の画面には、自分が打ち込んだらしい文章が見える。それはどうやって書いたんだっけ。

俊也はあせったが、見当もつかない。ど忘れだ。だれにでもあることだ。適当に指を動かしてみたが「いあかなしはさは」と意味不明な文字列が出る。

しかも、うっかりしてるうち、そのまま送信してしまったようだ。

──え、何のこと?

女の子からすぐに返信が来るが、どうしたらいいのかわからない。そのとき、気づいた。自分の指、いや手が、しわだらけのかさかさの手であることに。どういうことだ。

さらに気づく。自分の背がすっかり丸まってることに。まっすぐにしようと思うと、腰に痛みを感じた。まるくなっているほうが楽なのだ。一方でスマホの画面がなんだかぼやけて、遠ざけるとはっきりすることにも気づいた。

これって……。

──ねえ、見てみて。おじいさんがスマホ持ってるよ。
──ほんとだ、年寄りのくせに最新型のスマホ。
──でも、使えないみたい。さっきから画面見つめて悩んでる。

ぷーっと吹き出す声、くすくす笑いがそれに続く。

──やめなよ! じいさんだってスマホ使っちゃいけないってことないし。
──そうだけどさー。

何が起こっているんだ。俊也はわけがわからなかった。目がしょぼしょぼした。動悸がする。血圧も上がっているのだろうか。

家を出るときはぴしっとキメていたつもりのシャツは、だらしなく胸元でたるんでいた。胸の筋肉が落ちて腹が突き出た体型に、若向きのシャツは全然合っていなかった。指に生えている毛には白髪が交じる。

ふと手元の画面を見るといつの間にか真っ暗になっていて、そこに一人の老人の顔が映っていた。

これは……まさか。

俊也は思わず右手で自分のほほに触ってみた。画面の中の老人も同じことをした。たるみきったほほを手で触れている。

うそだ!

信じられない。だが、画面の中の老人の顔には確かに見覚えがあった。自分……なのかも知れないと思う。なぜかはわからないが。この小さな機械はそんなこともできるのかもしれない。

だれでもここに写ると老人になるのかもしれない。するとそのとき、急に奥歯が痛み出した。舌で口の中をまさぐってみると何本もの歯がぐらぐらしている。

──歯周病だな。

だれだ? 思わず声に出し、あたりを見回すと自分を見下ろしている男の視線に出会う。ぎょっとした。それは俊也自身だ。まだ若い俊也。その俊也はにたにた笑いながら、さらに言う。

──みっともねえなあ。じじいになんかなりたくないもんだ。

おれはじじいじゃない。まだ27歳だ。目の前の俊也は吹き出した。がは、がは、と大げさに笑う。

──どこがだよ! だれがおまえを27歳と思うんだ。終わったじじいが。

俊也だけでなく、何人もの人間がへらへらと笑いながら自分を見ていた。その中にさっきの老人もいる。さらにそのそばに緑色の帽子が見える。何者だ、あいつは? 

だが、膝がびりびりと痛み、腰はかちんかちんのセメントでできたみたいにこわばっている。きーんと耳鳴りがする。何かを集中して考えることができない。

指先がぶるぶる震えるのは怒りのせいではない。力が入らなくてスマホは今にも手の中から滑り落ちそうだ。それより、なんで自分はこんなものを持っているんだろう。いったいこれは何の役に立つものだったのだろう。

ポケットから名刺が落ちる。自分の名前と、会社名、係長代理と書かれている。拾おうとして、そろそろと腰をかがめる。すると俊也──若い俊也──が足を出し、その汚い靴で名刺を踏みつけた。

何をするんだ。

──意味ないだろ。おまえはすでにその会社を辞めたんだ。

う、うそだ。

──うそなもんか。その次に入った会社もその次に入った会社もその次もその次もその次も、おまえは辞めるんだ。おまえは役立たずでどこに行っても使いものにならないんだ。そして職もなく、金もないみじめな老後を送るんだ。歯医者に行く金もない、みじめな老後。くっそ笑える。

やめろ!

そう言ったつもりが「やへおう」にしかならない。歯が何本も抜けてるから息がもれるのだ。涙がほほを伝っていることに気づき、それではじめて、くやしいと思う。くやしい。こんなやつに罵倒されて。こんな年寄りになって。

──見て。泣いてるよ、あのじいさん。

女子高生たちのひそひそ声が笑いに変わる。目の前の俊也が言う。

──おれはおまえのことを何でも知っている。おれはおまえだからな。ああ笑える。草はえる。おれはおまえが大嫌いだ。いまのおれだって嫌いなのに、年取ったおれなんか見たくもねえ。さっさと消えてくれ。

まわりの人たちがうなずいて同意を表す。俊也は優先席のシートの上で、なすすべもなく背を丸めて座っていた。まずいことに尿意を催してきた。次の駅まで何分あるだろう。このうえ、ここで恥をかくわけにいかない。

──あ、どうしたんだ。顔しかめて。まさかトイレ行きたいんじゃないだろうな。やめてくれよ。迷惑だからな。

うふはい。

年老いた俊也は思い切り体を丸め、力を入れて次の駅まで耐えようとした。目の前の俊也が笑いながら蹴りを入れたのはそのときだ。固い靴底が額に命中する。彼の口から悲鳴がもれる。

お、お、おがあさあああああああああああああん!


次の瞬間、すべてが元通りになる。

優先席などどこにもない。もちろん、説明書きも。27歳の俊也は床に転がっているが、別に誰も気にしない。電車が揺れたときにうっかり転んだだけだ。緑色の帽子の男が、混雑の中をゆっくりと別の車両に移動する。


また別の日。緑色の帽子の男が夜の混雑した電車に乗っている。

ある駅から何人かの乗客とともに、まだ若いひとりの男が乗り込んできた。仮に名前を英二としておく。英二が車両の中ほどに進むと、信じられないことに空席がひとつ、目の前に出現する。「優先席」と書かれている。

──この席は、身も心も本当に疲れた人のための優先席です。

英二は自分がそれに値するのかどうか、一瞬ためらう。だが、だれも座ろうとしない。まるで英二以外の人間には見えていないように。

英二は遠慮がちに座った。シートはそれまで座ったどんな椅子より心地よかった。それは英二の全身を温かく包み込み、緊張をほぐし、いやした。

その日あったいやなこと、いやな客、見当違いな上司の叱責、疑い深い同僚の陰口、自分の時間が持てないつらさ、先の見えないあせり、もう限界かと思ったこと、すべてを一旦忘れさせた。英二はゆっくりと背をシートに預け、目を閉じた。自然にほほえみが浮かんだ。

降りるべき駅に着き、英二が立ち上がって歩き出すといつの間にかその優先席も消え、周りの人々は一瞬「さっきの男は座っていたようだがどこに座っていたんだろう?」と首をかしげた。だが、そんなこともあっという間に忘れ去られるのだ。


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薬局でたまたま見つけて、鼻孔拡張テープ(商品名・ブリーズライト)というものを買ってみた。一見絆創膏みたいだがプラスティックの芯が入っていて、鼻に貼り付けるとプラスティックの反発力で、鼻孔がちょっと広がるというものだ。

試してみたら確かに効果あり。貼ったとたんに鼻の奥がすーっとするのがわかる。私はアレルギー気味で寝るときは鼻がつまって口呼吸になり、口の中が乾ききってがさがさになるのだが、これを貼ると口をちゃんと閉じていられる。やった! という気分。気のせいか今までよりぐっすり寝られるみたいだ。それ以上ぐっすり寝てどうするんだといわれそうだが。