[4477] 一工夫付け加えたがる人々

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《怖いものは怖いのです》

■はぐれDEATH[47]
 はぐれは目を見られたくないんです
 藤原ヨウコウ

■晴耕雨読[38]
 一工夫付け加えたがる人々
 福間晴耕




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■はぐれDEATH[47]
はぐれは目を見られたくないんです

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20171215110200.html

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ボクの目付きがどうこう、とか審美眼の話ではありません。もちろん視力や老眼(困ってますけど)の話でもありません。

普段外出する時サングラスをかけます。ファッションでも威嚇でもありません。
威嚇してるみたいですが(笑)

目を見られたくないのです。

単純に心理的な意味なのですが、知らない人や通りすがりの人に目を見られるのが怖い。もちろん、ボク自身も通りすがりの人の目を見るのが、怖くてイヤなのです。

根性なしと言われようが、社会人としてどうかと言われようが、怖いものは怖いのです。

「慣れろ」というごもっともな意見もありますが、努力してもやって出来ることと出来ないことがあるのは分かっていただけるでしょう。無理なもんは無理なのです。

ボクが怖がりなのは、以前に書いたので詳細は省きます。ボクの恐怖の対象というのは、本当に留まるところを知らず、全方位から“怖い”に囲まれていると言ってもいいくらいです。

もともと視覚情報には敏感な方です。過敏と言ってもイイかもしれません。もちろん、目だけではなく耳や鼻から入ってくる情報も、大抵の場合強かったりするのですが、やはり目からの情報が一番インパクトが強いと思います。

まず、集団の中にいること自体が怖いのです。もちろん人混みなどはもってのほかで、気になり出すと電車の中ですら怖いんです。これは最近、出向で大阪に京阪で行く時に気が付きました。

今に始まった話ではないのですが、「世の中どんどんややこしくなって、しか
も怖いことが増えている」と思っています。

混んだ電車内でまわりの迷惑も考えず、さも当然とばかりにスマホを触る人たち(年齢性別はまったく関係ない)なんかは気が付いただけで怖いし、あまりに酷い時は恐怖が高じて「よろけたフリして足を踏んだろか」とすら思い、実際やったこともあるんです。

人混みの恐怖は目を逸らす隙すら見当たらない、という極めて物理的な理由により、抑圧感は倍増どころの話ではなくなります。人とすれ違う時に身体が触れるのすらイヤなのです。

後ろから唐突にぶつかって来る馬鹿もいれば、急に斜めに横切る馬鹿もいます。歩きスマホをしている皆さんには、ボク的には論外なので近寄らないように気をつけているのですが、歩きスマホそのものが“でふぉ”になってる雰囲気もあるので、もう逃げ場がありません。

何でもそうだと思いますが、社会的に多数派は常に正義であります。元々、少数派なのですから、多数派が増え続けるともう地獄であります。少数派の中の少数派。超少数派。もしかしたらボクだけかも知らん、とも思い始めました。

まぁ、だから「はぐれ」なんですが。

それはともかく、人混みの中でたまに乳幼児さんに出会うことがあります。この時ばかりはホッとするのです。興味津々でボクを見てくれるケースが多いので、これで救われているところはあります。ほんとにカワイイし。

乳幼児さんは、興味があれば目を思いっきり見てくるので逃げようもないし、こっちも他意がないのは丸分かりだから、安心できるのです。猫とか犬もそうかな? ヤツらは何かと分かりやすい♪

怖いから集団行動などまともにできるはずもなく、大抵浮いた存在になります。浮くことでイジメにあったりするのですが、大抵の場合は放置してくれるので、後は周りと目を合わさないように遠くを見たり目線を伏せたり。この手は小学校時代の常套手段でした。

ただし、ボーッとしてたりビビっている時のボクは、顔が無表情で目がすわっているらしく、メチャメチャ怖いようです。実際は、こっちがビビってるんですがね。

こういう見た目を素直に「危ない」と思ってくれる同級生はボクと距離を取るし、「攻撃的」と思うごく少数はイジメに走る。この辺の事情も前に書いたような気がします。

これは社会人になってほんの少しだけごまかせるようになりましたが、ただごまかしているだけで、怖いのには変わりありません。あくまでもごまかしです。ちなみに今もまったく慣れていません。

ごまかしていても怖いは怖いし、怖い怖いが高じると被害妄想みたいな気分にすらなります。さすがにそれは自分でも、「考えすぎだし自意識過剰にもほどがある」とブレーキをかけますが。

ですから、深い付き合いというのは、ほとんど血縁者に限られます。もっとも、極めて稀ですが普通に会話ができる人もいますが、こういう皆様を友人と呼んでいいものかどうか正直分からないので、「知人」という言い方しかボクにはできません。

ただ気楽に付き合える皆様とは目を合わせて話せますし、彼らなら目を見られても不快な思いはしません。我ながら実に間口の狭い人だと思います。

攻撃的な行動に出る時、というのは大概“怖い”が後押ししているのも白状しておきます。怖さが一定のレベルを超えると、ボクの攻撃性は歯止めが効かなくなるのも事実なのです。

競争における攻撃性というのはほとんど皆無で(とにかく競争そのものがキライだし)、攻撃性を帯びるのはごく一般的な人たち(どんな人たちか分からんけど)にとって、どうでもイイようなコトすら含んでいる領域だったりもするので、けっこう質が悪いのです。歩く地雷原みたいなもんですね。

ボクにとっての目は、恐怖の感情に直結しているのでかなりややこしいんです。せめてもっと穏やかな表情ならまだマシかもしれませんが、上記したように目付きが悪いので、大抵悪い方へ悪い方へと転んでしまいます。

自分でもどうしようもないし、周りの人達にイチイチ断りをいれるのもさすがにどうかと思いますので、放ったらかしにはしています。

こんな人が会社員だの、専門学校の非常勤講師だの、今行っている会社の顧問だの、となるとこれはこれで結構疲れるのですが、このへんは素直に諦めています。直しようがないから諦めるしかないのです。

「社会不適合者」の烙印は、小学生の時にさっさと押されているので諦めるのも早いのです。勝手にそう思ってますし、受け入れた方がむしろ気分的には楽です。だからと言って、タダで済むわけではありません。

大抵ストレスになって、自分の身体に返ってきます。

胃潰瘍なんかはその典型ですし、自律神経失調症もやっぱりそうですし、一時は偏頭痛にも悩まされ、目眩を起こすこともありましたし、最近なんかは手足が痙攣するようになってきました。

一番困るのは、手の指が痙攣することなのです。痙攣といっても、指が震えるわけではありません。逆に筋肉がつったように強ばって、動かなくなります。もちろんめちゃめちゃ痛いんです。

今なんかは痙攣が高じて、右脹ら脛が肉離れを起こしたような状態になっていて、足はテーピングの嵐です。

過呼吸もあるし、もうストレス系の病もどきは腐るほど。就寝前の読書の時ですら、指がつったようになって本を支えられなくなり、諦めて眠るなんてのもあったりするぐらいですから相当なもんでしょう。で、夜中に足がつって目が覚めたりもします。

先にも記しましたが、とにかく集団生活とやらに入るのが遅すぎた上に、ボクの性格も災いしたのでしょう。とにかく出鼻を挫かれたような格好で、そのまま今に至っています。

無理に直す気もなかったし、他にも楽しいコトは沢山ありました。人と関わらなくても楽しめることはあるのですが、こればかりをしていると、ボクのように「はぐれ」になってしまいます。

「成り行き任せ」に関しては以前にも書きましたが、結局のところ、この著しいコミュ障が原因であることも否めません。大体、無理をすると大抵ロクなコトにならないのです。

それでなくても他人様の機嫌を損ねたり、誤解を招くような言動にしかならないのです。進んで集団に突入する方がよほど迷惑ではないか、と思っても仕方ないでしょう。

母集団が小さければ小さいほどまだマシではありますが、それでもダメな時はダメですし、母集団の大きさ故にすくわれるケースもあったりしますから、世の中というのは不思議なものですね。

その一番危険な時期が、やはり関東単身赴任時代だったことは言うまでもありません。東山を越えるともうダメ、となるのです。

そんな人が三年も関東暮らしをするというのは、無茶とか無謀の域を遥かに超えた自殺行為に等しいと言えましょう。

今だからこうしてのんびり書けますが、当時はそれどころではなかったのです。米海軍戦闘機の練習飛行のエンジン音でも随分痛めつけられましたけど、あれなんかは今思うとまだ分かりやすい方だったのかもしれません。

むしろじわじわと効いてくるストレスの方が、身体的にも精神的にもきつかったような気がします。

辻堂なんぞ、都心に比べれば田舎そのものなのですが、それでも駅前には大きなモールがあったし、あの土地にはあの土地ならではなの習慣なり風土なりがあって、それらを全然受け入れられなかったのがきつかったのです。

もちろん、人混みは上賀茂や伏見からすれば、規模が違いすぎます。

それでも、辛うじてまだ世間様と関われるのは、幼少期に可愛がってくれた親類縁者の存在は欠かせないし、何よりもアホな好奇心が旺盛だからでしょう。

ボクのネコ並みの好奇心についても、以前書いたので詳細はじゃんじゃん飛ばしますが、何か気になることがあると、脇目もふれずにずんずんそっちへ進んでいくという奇癖があるんです。

「楽しい」が“怖い”に勝ってしまう稀な例なのですが、こうなった時は周りの雑事など完全にどうでもよくなっていますから、それこそ怖いもんなしであります。

もっとも、ハタと気がついた時は悲惨ですが……。

ひたすら面倒な人であることは自覚してます。イヤ、本当に。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/

http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/


最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m


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■晴耕雨読[38]
一工夫付け加えたがる人々

福間晴耕
https://bn.dgcr.com/archives/20171215110100.html

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以前、週刊誌にも取り上げられて話題になった話だが、「料理が苦手な人ほどカレーを指示通り作らず、チョコなど入れる」と言う。

レシピというのは専門家が美味しく作るために書いたものなので、書かれた通りに作るのが、美味しく作るための一番の早道だと言うわけだ。

だが、初心者はもとよりある程度料理を作り慣れた人でも、自分なりのアレンジを付け加えたがることが多い。

もちろん、自分は濃い味が好きだからとか、食事制限でカロリーを減らしたいとか、ちゃんとした事情のある人もいるだろう。そこで結構多いのが、自分なりの「オリジナルティー」を出したいと思ってアレンジをする人だ。

しかし、考えて見れば分かるが、単純に何かを足したりしたくらいで劇的に美味しくなるなら、既にレシピに入ってる筈だ。

また、本当に美味しくしたいなら、当然元のレシピは理解してないとどこをいじっていいか分らないし、少なくとも料理の基本を知っている必要がある。

だが、実際にはカレーにチョコレートを足すように、単なる思いつきレベルのアレンジを加えた「工夫」ばかりを耳にする。

では何故、人々は普通に作ればいいところを、こうした思いつきレベルの「工夫」をするのだろう。

思うにこれは、レシピ通りに作るだけでは自分の料理ではなく、他人の作ったものに乗っかっているだけだという思いがあるのではないだろうか。

とはいえ、本当に自分のレシピを作るなら上に書いたように、まずはレシピや料理の理解が不可欠だ。

それが大変なのは皆が分かっているので、オリジナルレシピに一工夫付け加えることで、自分のものにしたいのだろう。

料理なら微笑ましい話で済ませられるが、困るのは仕事でこれと同じことをしたがる人が、後を絶たないことである。

普通に進めれば無事に済むところを、この手の人たちは自分なりの工夫を付け加えたがるのだ。その結果、無駄な作業や時間を費やし、最悪その「工夫」によって、プロジェクトに障害をもたらすのである。

しかし、何とかそれらを克服して無事にプロジェクトが終わったとたん、この人たちは「俺の工夫でプロジェクトは良くなった」と言ってはばからず、場合によっては「○○というプロジェクトは最初は全然ダメな内容だったのを、俺の工夫で成功に導いた」と言いかねない。

こうした人々が、プロジェクトの上部にいないことを祈るばかりである。(身近な事例を書いてるわけではないので、念のため)


【福間晴耕/デザイナー】

フリーランスのCG及びテクニカルライター/フォトグラファー/Webデザイナー
http://fukuma.way-nifty.com/


HOBBY:Computerによるアニメーションと絵描き、写真(主にモノクローム)を撮ることと見ること(あと暗室作業も好きです)。おいしい酒(主に日本酒)を飲みおいしい食事をすること。もう仕事ではなくなったので、インテリアを見たりするのも好きかもしれない。


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編集後記(12/15)

●渡邉哲也「平和ボケお花畑を論破するリアリストの思考法」を読んだ(飯塚書店/2017)。こういう書名にイラッとする人もいるだろう。平和ボケ、お花畑、ドリーマー、お困りの人、なんて揶揄されて不愉快に決まっている。そういう人こそ読んでおくべき本である。敵の理屈を叩くためにもぜひ読むべし。

お花畑な人は「憲法9条があるから、これまで日本は戦争に巻き込まれずにすんだ。だから、9条だけは絶対に死守しなければならない」と言う。明かな間違いである。日本が平和を維持することだできているのは、「9条があるから」ではなく、「自衛隊を持ち、日米安全保障条約に基づいてアメリカの安全保障の傘の下にいたから」である。「9条があるから」と配慮する外国などない。

お花畑な人は「憲法を守れ! 憲法を改正してはいけない!」と叫ぶ。これは大いなる錯誤である。というか、無知のレベルだ。憲法には憲法改正の手続について規定する96条がある。改正まで含めて憲法である以上、「憲法改正はいけない」というのは、憲法改正の手続について定めた96条も否定することになってしまい、「守る」と言っているはずの現行憲法を否定することになる。

お花畑な人は「安倍政権は国民の声を無視して暴走している。これは立憲主義の冒涜だ」と叫ぶ。本当に自分の言っていることを分かっているのか。これは基本的な大間違いである。無知や勘違いではない。分かっていながら撒き散らす大ウソである。大学教授までこんなことを言うんだから、恥を知りなさい。

民主主義というのは基本的に多数決が原則であり、安倍政権を選択したのは紛れもなく国民の意思である。じっさい「国民の意思を無視して暴走」などしていないし、民主主義国家の日本ではそもそも政権の暴走などできっこない。ところが、民主党政権は本当に暴走したんだから、ものすごい時代だった。

普通選挙が国民の意思表示の最大の手段である。立憲主義の上位の概念として民主主義がある。普通選挙による多数決という民主主義の原則を規定しているのも憲法である。そのため、選挙を通じて選ばれた政権が政策を実行するというのは立憲主義の冒涜でもなんでもない。三権分立が機能し普通選挙が行われている国において、独裁などありえないのである。民主党時代にあったけど。

だから、「ノーモア民主党」というのなら分かるが、「安倍政権は国民の声を無視して暴走している」というのは、子供の悪口以下の戯言であり、相当恥ずかしいことだと思う。民主主義の日本では選挙の結果がすべてであり、それが唯一の答えとして機能する。立憲主義の冒涜はお花畑の人たちがやっている。

お花畑の人は「国の借金が1000兆円もあるのは大問題で、国が破綻してもおかしくない」と叫ぶ。国債の約9割は国内消化であるため、国民は借り手ではなく貸し手だ。内閣府によると日本の正味資産(国富)は、2014年時点で約3108兆円、りっぱな黒字国である。ことほどさように、いわゆる平和ボケお花畑はことごとく論破されてしまう。これに反論できたらすごいのですが。 (柴田)

渡邉哲也「平和ボケお花畑を論破するリアリストの思考法」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/475226028X/dgcrcom-22/



●しばらく使っていなかったKindle Paperwhite。見ると、大きな電池マークがど真ん中にあり、「!マーク」が表示されている。

あれ、こんなんだっけ? と、MacにUSBで繋ぐ。オレンジランプは点灯するけれど、電池マークは変わらず。電源ボタンを押しても変わらず。

電池切れなんだろうな〜と1時間ほど放置するが変わらず。さすがに焦ってきた。検索すると、同じ現象の方のブログが。

原因はバッテリーに負荷がかかったとか何とかあるのだが、しばらく放置していたので定かではない。とにかく電源ボタンの長押しで再起動となった。2分以上押していたように思う。(hammer.mule)

Kindle paper whiteが起動しない
http://d.hatena.ne.jp/RepsolFireBlade/20170403/1491189651