[4511] AIの判断と人間の判断の話

投稿:  著者:  読了時間:30分(本文:約14,700文字)



《またまた京都を面白おかしく擁護したい》

■晴耕雨読[40]
 AIの判断と人間の判断の話
 福間晴耕

■はぐれDEATH[52]
 続・「京都人の高慢と偏見」とは、ただの都市伝説である
 藤原ヨウコウ




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■晴耕雨読[40]
AIの判断と人間の判断の話

福間晴耕
http://bn.dgcr.com/archives/20180216110200.html
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大昔にサーバー管理をしていた錆びついた知識をリフレッシュするために、最近のセキュリティ事情をおさらいしている。

今のセキュリティ最前線で使われている技術は、基本的にはこれまでと変わらないものの、多くの手法が自動化されている。

これまでなら人間が試行錯誤しなければ出来なかったことでさえ、AIを使った機械学習によって自動化されていることに驚いた。

例えば、少し前に仮想通貨交換業者のコインチェックがハッキングを受けて、P2P暗号通貨XEMが流出した事件では、その攻防は互いに自動化されたAIによって行われ、人間は直接細かい作業をせずに監督作業だけをしていたという。

これはインターネットの世界だけに限らない。インフラの制御でもあまりに巨大化複雑化したために、人間が個別に対応してはダメという段階に入っていて、その制御は自己学習するDeepLearning系AIによって自動化が進んでいる。

更に軍事分野でさえ、今では多くの部分が電子化・ネットワーク化しているが、最初に書いたようなAIを使ったサイバーセキュリティの流れも、いずれ軍にも降りて来るのだろう。

既にロシアの最新鋭戦闘機Su-57では、パイロットの負荷を下げるために行動指針を提示する、人工知能システムが搭載されてるといわれている。

問題なのはその先だろう。有名な論理学のテーマに、トロッコ問題というものがある。これは「ある人を助けるために、他の人を犠牲にすることは許されるか?」という思考実験だ。

例えば、線路を走っていたトロッコの制御が不能になった時に、ポイントを切り替えれば、その先にいる5人の代わりに一人が犠牲になるが、どうするのが正しいのかというものだ。

一見すると、より少ない犠牲の方を選べばいいという見方も出来るが、それなら誰がそれを判断して実行するのかという問題もはらんでいる。

これまでは運転手など責任を負った人間がその責を負っていたわけだが、AIによって多くの機械が自動化されるにつれて、こうした論理的な問題も出てくるのだ。

現在、軍隊など人命に関わる判断については、AIはあくまで提案をするだけで最終的な判断は人間が行うという方針が貫かれている。

しかし、より高速化する戦場で、コンマ数秒の時間でこうした判断を行うのは人間であっても難しい。

映画「ロボコップ」の中では、実は主人公マーフィーは電子頭脳の補助を受けて常人の何倍もの速さで動くことができるが、実は人間の頭脳が追いつかないので、緊急時にはAIが先行して判断・動作を行い、後からマーフィーの脳に結果を送る仕組みになっていた。

結果、当人は自分がやったと思っていた動作が、実はコンピュータによって行われていたと言う裏設定があって戦慄したことがある。

しかし、こんな極端な例でなくても、例えば先程のSu-57に搭載された行動指針を提示する人工知能であっても、A、B、Cと提示された中から人間が判断してどれかを選んだとしても、元のA、B、Cは機械が考えた結果に過ぎないといえないだろうか。

もしかしたら、提示されていないDが真の正しい回答かもしれないのだ。こうした問題を秘めながら、今では多くのものがAIによって制御されつつある。


【福間晴耕/デザイナー】

フリーランスのCG及びテクニカルライター/フォトグラファー/Webデザイナー
http://fukuma.way-nifty.com/

HOBBY:Computerによるアニメーションと絵描き、写真(主にモノクローム)を撮ることと見ること(あと暗室作業も好きです)。おいしい酒(主に日本酒)を飲みおいしい食事をすること。もう仕事ではなくなったので、インテリアを見たりするのも好きかもしれない。


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■はぐれDEATH[52]
続・「京都人の高慢と偏見」とは、ただの都市伝説である

藤原ヨウコウ
http://bn.dgcr.com/archives/20180216110100.html
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◆◇◇◇◇◇◇

前回の「『京都人の高慢と偏見』とは、ただの都市伝説である」の回で、編集長が後記で井上章一著「京都ぎらい」(2015/朝日新書)を取り上げられていたが、ボクはこの本を読んでいない。

リンクを辿ってAmazonでこの本にやっと遭遇(?)したのだが、目次にざっと目を通し、編集長の感想とAmazonのレビューを併せて読んだ上で(編集長の感想は信用できるがレビューはイマイチ信用できん)「読む必要なし」とあっさり見捨てた(笑)

続編になっていない続編らしき本が更に一冊、京女ネタの本が更に一冊あるが「ここまで京都を食い物にしてケチな金儲けをしていたのか」と、ガックリこの上ない気分になったのは言うまでもなかろう。

この本の存在自体は編集長から伺っていたのだが(実はそれが前稿の執筆動機だ)、個人的にはできるだけ外部情報が入らないようにして、主観に基づいて書きたかったので敢えて無視した。前回の稿が掲載されて初めて、本書の存在を確認(?)したのだ。

前稿で「『京都人のプライド』で酷い目に遭った人が、『人を勝手に判断するな』というのは筋違いで、そもそも『人としてどうよ?』というケースの方が多いのではないだろか?」と書いたのだが、この本の筆者が正にその「人としてどうよ」の典型で、ガックリ倍増である。

人としてどうかしていると思しき作者の本を、ボクが読むはずもなく、忘却の彼方にソッコー消えていった。

というコトで、今回は終わり。

というワケにもいかないので、ちょっと気になるポイントをいくつか書きだして、またまた京都を面白おかしく擁護したいと思う。

とにかく義理があるんで(またかいっ!)

◆◆◇◇◇◇◇

まず「洛中以外は京都とみなされない」だが、この時点でいくつも勘違いをしている。

まず「京都」という名称そのもの、「京」に由来する「天皇がおわす場所・都」という意味がすっぽり抜けているのだ。もっと言えば、京都はあくまでも元は平安京であり、後に「京」と呼称されるようになったに過ぎない。

この辺の事情をややこしくしているのが、南北朝時代と御所の存在だが、とにかく本当に「生まれついての京都市民か?」と思うほど基礎知識が抜け落ちているし、知識がグチャグチャになっている。時系列すらまともに把握出来ているとは思えない。

「京」と「京都市」は根本的に違うのである。

御所ついでに一応、念のために書いておくが、平安京そのものは南北朝時代にはほぼその姿を留めていない。詳しい経緯は自分で調べましょう。とにかく色んな説がありすぎて、どれが本当かなんてのはほとんど分からない。火災絡みであることだけは確かなようだ。

さらに平安京の時、天皇がおわした建物は「内裏」あるいは「大内裏」と呼ばれていたらしい。「御所」という名前もどうやら南北朝時代につけられたものと推測される。

平安京絡みでもう二つ程、重要なことがある。場所の選定と、そもそもの規模である。

選定に関しては「陰陽五行」説がもっぱら目立つが、実を言うとこの場所の選定に関しては、渡来系の秦氏が大きく関わっていたという説がある。

「太秦」(映画村のあるところです)という地名からも分かるように、秦氏の山城・南部丹波地域での(今の京都で言うと右京区から南区の北部一帯か?)基礎地盤は今の花園・嵯峨・嵐山あたりだったようだ。

ここで井上章一氏は教養の低さを露呈しているとしか言えない。「生まれは花園、育ちは嵯峨」らしいが、平安京遷都に大きな功績を残した人のホームではないか。劣等感を抱くコト自体がもう既におかしい。

更に平安京の位置である。

「北は一条大路、東は東京極大路、西は西京極大路、南は九条大路」であり、現在の位置よりもかなり南西に位置していたようだ。ちなみに朱雀大路(平安京の中央を通る道)を軸に、東に東寺、西に西寺が羅生門に沿うような形で建立されている。

今の感覚から見ると、「なんでこんな西に東寺やねん」と思う方も少なくないと思うが(ボクも不思議に思った口だ)こういう事情があったからだ。

現在の御所に落ち着いたのは南北朝が統一されてからで、どうも南朝の動き次第では更に移転していた可能性もある。

現在呼称される区の名前は、恐らくこの頃に成立したのだろう。

御所の上(かみ)だから上京区、御所があるから中京区、御所の下(しも)だから下京区、天皇は南面しておられるので、御所から見て左(東)が左京区、右(西)が右京区、というような塩梅である。

通りの名前と区の名前はそれぞれ成立時期が異なるし、時代によって変化しているので、混同しないように注意をしておきたい。

さて、悲しいかな平安京そのものには、あまり人が集まらなかったらしく(特に南西部は湿地が多かったためらしい)、ナゼか現在の御所辺りに貴族を中心として(貴族はあくまでも別宅です)人が集まったようだ。

ちなみに、現在の御所も元を辿れば土御門東洞院殿(勘違いしないように、建物とその土地の名前です)であり、紫宸殿が焼失した時の移転先の候補地の一つに過ぎなかったようだ。

もっと言えば、明治維新後の廃藩置県で誤魔化されているところも否めない。

東京はあくまでも「東の京」であって、既存の「京」は「京都」として残しておこうという、腹黒さ満点な措置なワケだ。

どこがどう腹黒いかというと、東京遷都で大騒ぎになっている中、京の人々が「天皇様はちょっと東に行っているだけで、いずれ帰ってくる」という希望らしきものを与えておかないと、何がどう転ぶか分からないという維新政府の危機感もあっただろう。

いずれにしても、偽勅を飛ばしまくった張本人達が政府の首班なのだ。「京に天皇を置いたままにしたら、また同じことが起きかねない」と考えても不思議はなかろう(あくまでも私見です)。

実際には「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(『告諭大意』)を京都府から出させ、人心の動揺を和らげることに努めたようだ。

「京」の名称を残しつつ「京都」で誤魔化したわけだが、本来なら奈良だってこの資格はあるし、もっと言えば大津京、近江京、飛鳥京、養老京などなど語尾に「京」が付く場所は、ことごとくこのルールが適用されてもおかしくない。

だが、そうしなかった。ナゼか? 答えは簡単「千年の都」という事実が重いからだ。

おまけに明治維新当時は、リアルで御所に天皇がおわせられた。このリアルさは今の東京では恐らく感じられないだろうが(少なくともボクは感じない)、とにかく狭い場所なのだ。

おまけに今と違って、インターネットがあるわけでもないので(当たり前だ)情報だってこの狭い地域内で真偽を問わず、飛びまくることになる(ネットも似たようなもんだけど)。

実際、東京遷都に同行するような形で公家、天皇家御用達をはじめとする当時
の大店が東京へどんどん移転していき、これに連れて多くの住人も移転し「三
都」と呼ばれた江戸時代末期の繁栄はあっさり崩壊したという。実数は自分で
調べてください。

ちなみに、ここまでの記述は怪しい記憶だけなので気をつけるように。

さすがに「洛中」という言葉が発生した時期は分からない。専門家じゃないからね。

でも面倒くさいので、以下のリンクを参考にしてください。Wikiなので怪しいところもあるけどまぁ概要は掴めるかと。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD

◆◆◆◇◇◇◇

「洛中」に関して言えば、ボクは『洛中洛外図』をすぐに思い浮かべるのだが、とにかく種類が多すぎて(時代により変化があるが、主立った場所や行事はたいてい共通して描かれている)「ボクが詳細に見てたのはどれかしらん?」と混乱するだけである。

「洛中」に関して、その定義を明確にしたのは桃山時代、豊臣秀吉が作った「洛中惣構え」という御土居だろう。これはまだ鷹峯辺りに残っているらしい。

規模は相当大きく、北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近(現在の千本通り辺り)にあたるらしい。

ちなみに、加茂川中学は上賀茂の自宅の目と鼻の先で、おねえちゃんはこの中学の卒業生。

この「洛中総構え」の特徴は、北限の緯度が上賀茂神社付近であり、今の北山通りよりさらに北にある点と、東端が賀茂川に沿っている点だろうか?

ちなみに、この「洛中総構え」だと御所はほとんど東端に位置することになる。あくまでも私感だが、南北の中心軸は現在の堀川通りで、東西の中心軸は丸太町通り(御所の南端)に位置することになる。

「北大路通、東大路通、九条通および西大路通の内側」という認識は、明治時代になって路面電車が敷かれたことによるらしい。めちゃめちゃ最近やんか!(ボクの歴史的な時間スケールに関しては、かなり狂っているので真に受けないように)

明治時代と言えば、ボクの曾祖父母や祖父母が生まれた時代である。祖父母はさすがに明治末期ですが、父方の曾祖母が存命だった頃に相手をしてもらっていたので、どうも明治が大昔に思えないのだ。

上述したように、東京遷都に伴う住民の大量流出と、ボクの曾祖父母の生まれた時期から考えると「三代以上続かないと京都人ではない」という認識そのものが「近代になってからの話とちゃうか?」と疑いたくなる。

もちろん、東京遷都時に京都を離れなかった人もそれなりにいただろうが、京都の近代化と共に再び繁栄を取り戻した背景を考えると、近代化以降に流入した人々(更にはその末裔)がかなりいたように思える。

現在言われる「千年の都」の「京都人」というブランドは、ここで完膚なきまでに破壊されたと言ってもイイだろう。

ちなみに、再三書いているが奧さんは立派な京女である。何しろ生まれは中京区。奥さん方の家は祖父母まで、余裕で京都に住んでいたことが確認できるし。ただしその前は分からん。ボクが聞いていないだけだからだけど。

奧さんの祖父が一時期西陣織の職人さんをしていたようだが、西陣だってボクに言わせれば、商品に対するプライドは持っていても、人は優しい。特に職人さんやその家族は優しい人が多い。「よそ者だから」という扱いをされたことは一切ない。

ここまで言い切れるのは、ボクが西陣に一時期アトリエを構えて通っていたからだ。

ボクが借りていた建物は元西陣織の町家のお宅で、車一台通れるか通れないかという細い表通りに面した、お向かいのお婆ちゃんとよくお喋りをしていたのですが、随分珍しがって可愛がって頂いた。ついでにおねえちゃんも随分可愛がってもらった。何かというと差し入れまでくれてたし。

このお婆ちゃんに言わせると、「すっかり寂れた」らしい。確かに織機の爆音はほとんど聞こえないし、高齢化がかなり進んでいたのも事実である。一時期は織機の音と納品で賑わっていたらしいのだが、ボクには往事を想像することが難しい。奧さんはリアルで見て知っているようですが。

京都の繊維業については散々書いているのでパス。付け加えるコトがあるとすれば去年(だったかな?)起きた「西陣織職人募集。ただし三ヶ月(?)無給」事件だろう。SNSであっという間に拡散して炎上したので、憶えておられる方もいらっしゃるかもしれない。

この募集をした方は炎上後とにかく謝罪しまくっていて、巷間言われるような「京都人」からは、かけ離れたようにボクには見えた。もう本当に普通の人である。

西陣織そのものの現状と、きちんとした後継者をまともに育てられるような環境ではないことを赤裸々に告白し、その上で(無茶は本人も十分自覚されていたようだ)の募集だったのだが、炎上にうろたえまくる姿は市井の人とさして変わらない。

さすがに無給はどうかと思うが(まぁ、小遣い程度はあげるんだろうけど)、西陣織が置かれている現状と、一人前の職人を育てる上では個人的にあまり違和感を感じなかった。

時代錯誤な価値観であることは百も承知している。ただ人材教育・養成はめちゃめちゃ費用が掛かるのも事実である。

大企業だって最低三年は、先行投資という形で給与を払っているに過ぎず、この先行投資だって本当に回収できるかどうか怪しいもんなのだ。

最近横行する新入社員も巻き込んだ時間外労働隠しなんてのは、その最たるもので「とにかく払った分以上回収しなくては」という、ケチくさい現場のトップや経営陣の顔がすぐに浮かぶ。

ボクはバブル入社だったので、初年度は残業代も休日出勤代もしっかり頂いていたが、二年目からはスーパー・フレックスなる面妖極まりない制度で固定給になった。

だからといって、即会社がイヤになったわけではない。仕事そのものが面白かったし、とにかくお金を使う暇がないので、給与明細をまともに見たことすらなかったのだ。

◆◆◆◆◇◇◇

何度も書いているが、ボクは会社員時代工場の職人さん達と広く浅い繋がりがあったのだが、共通するのは「職人さんはベテランになるほど、手は動いていても下らないコトしか喋らない、気のいいおっちゃんばっかり」というふざた項目ぐらいか?

職人さん絡みだと、鉾立でお世話になっている船鉾の大工さんも同様で、段取りの確認が終われば、あとはどうでもいいような話しかしない。ただ、道具を使うと「ををっ♪」というようなことを難なくしてしまうし、とにかく道具の手入れがスゴイ。あとは単位が尺貫法なところか?

田舎者なので尺・寸ぐらいは最初からある程度理解していたつもりだったが、「分」が出てくるとお手上げである。ただこの方法できちんと部品を組むのだから文句を言う筋合いなど当然ないし、ずっとそれでやってきたのだからそれでイイのだ。

ちなみに、メートル法を持ち出すと鉾や伝統的な建築物は端数だらけで、まともに復元したり再現したりするのが困難になるのは言うまでもあるまい。

「伝統的な度量衡」にプライドを持っているのではなく、作り出すために必要不可欠だから使っているに過ぎない。高慢とは程遠いコトは、言うまでもあるまい。

話が逸れた。職人さんの世界というのは本当に特殊で、つい最近(?)まで徒弟制度は確実にあったと思う。でなければ、伝統技術の継承などとてもではないが無理だからだ。

下っ端見習いの間に、全体の工程を眺めて憶えさせ(もちろん作業上の小間使いなコトや手伝いはさせられる)、そこから各工程の段階を順を追って実践・訓練させる。

一つの工程が一人前に出来るようになったら、次の工程……、という具合に教えないと、どうにもならない世界なのである。でなければ、棟梁なり親方なりをはれるはずもなく、的確な指示や助言など到底できないだろう。

職人さんに限って言えば、比較的まともに年功序列が機能していると言ってもイイかもしれない。もちろん例外はあるのでしょうが……。

もうちょっと時代を遡れば、最初は住み込みで修業するのが普通だったようで(これは商人も一緒)衣食住は保証されていたコトがある。さすがにここまでくれば「無給」でも済まされるかもしれない。今は違いますが。

もっとも、職人さん達の存在意義自体が薄れているのも確かだ。これは京都に限った話ではないだろう。西陣織を持ち出すまでもなく、需要と供給、大量生産、さらにこの国の歪な資本主義体制と価値観が生み出している現状である。

ちゃんとしたものは本当にイイもので、これは西陣織や繊維産業に限った話ではない。職人さんがこつこつ手間と時間を掛けて作るのだから、コストも当然大量生産品よりも遥かに高くなり、高嶺の花から工芸品という非日常的なものに成り下がる(?)ケースなど、この国ではザラにある。

それでも大量生産品の貧弱さに気がつかないのは、そういうものしか見ていないからか、眼力が極端に低いからのどちらかだろう。

特に「イイものを身近に見る」という機会は、相当少なくなっているだろう。もっと言えば、「本物のすごさ」を体感できる環境はかなり狭いと思う。

先天的なものもあるかもしれないが(おねえちゃんはこの例に該当する)、後天的であっても、本物を見る機会が多ければ多いほど目は肥えるし、上があることを知れば謙虚に努力するしかないではないか。

実際、目の前で熟練の職人さんの技に触れると、「今日明日じゃこうはならないからコツコツやろう」という感想しかボクには浮かばないし、それでも先達の域に達することができるかというと、これまたかなり疑問である。

なんだか本来の主旨から離れてきたような気がするなぁ……。無理矢理、話をめちゃめちゃ前に戻す。

◆◆◆◆◆◇◇

「洛中」という概念が、巷間言われているほど京都の人の間で厳密に守られているかというと、そうでもない。まぁ、上記したように時代によって「洛中」の定義自体が移り変わっているのだから、むしろ当たり前であろう。

ちなみにボクの仮寓がある伏見は、まったく京都ではない。よそ者のボクが言うのだから、コア(?)な京都人は当然そう思う。上賀茂ですら京都の外れなのだ。

上賀茂に引っ越してきた当時、奧さんは「静かすぎて眠れない」とこぼしていたのだが、ボクとおねえちゃんは「静かさ万歳」だったので奧さんもしぶしぶ諦めたみたい。もっとも、この静かさに慣れたせいか、その後特に文句らしきことを口に出すことはない。

そして、おねえちゃんは繁華街に出ることすら大嫌いな子になってしまった。この子も人混みや騒音が苦手なのだ。本当にど田舎並みの静かさやからなぁ……。

伏見とは「奈良・大阪などからくる様々な物資を京都に運ぶための出入り口」というのがボクの考えである。意地の悪い言い方をすれば、時代によっては伏見がストライキをすれば、困るのは京都の人達なのだ。だからそれなりのプライドはあるし、かつては港町として栄えた時代だってあった。

そんな伏見に桃山城(伏見城)を築いた秀吉という人は、畿内の要衝を押さえたに等しい。京はもとより、大阪・奈良、極端な話、滋賀にだっていつでも簡単に行くことが出来るし、ここに兵を常駐させておけばいざという時だって対処が出来る。

もっとも、関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城攻防戦では、西軍によって落城しているが、関ヶ原へ向かう東軍の時間稼ぎはしたようだ。

また話が逸れた。とにかく、伏見は伏見としての歴史もあれば矜持もあるだろう。京都市に合併されるまでは、伏見市として地方行政の一端を担っていた時期もある。

洛外だからといって、特に拗ねる必要などない。むしろ、この地の利を誇りに思った方が健康的だと思う。

実際ボクが伏見を仮寓の場所として選んだのは、大阪と京都への行き来が楽だから、というそれだけの理由である。住んでみて京都とは明らかに違う雰囲気もあるし、個人的には好ましくもある。まぁ、エエ感じな場所なのだ。

ちなみに伏見も上賀茂に負けず劣らず静かである(笑)。賑やかな場所もあるのですが、ボクは滅多に行かないし。

さて、ここらで話をまとめたい。というか、次から次にネタは浮かんでくるので、とにかくキリがない(笑)

◆◆◆◆◆◆◇

アホな「京都ブランド」の原点は、恐らく明治維新にある。上記したように、「三代以上云々」が通じるなら、明治時代に京都へ移住してきた人達の子孫は余裕で「京都人」と名乗る資格がある。

それまでの京都の風習を無視して、出自のルールを持ち込み「それが常識である」という態度で家庭環境を作り、ここに「京都ブランド」の看板を添付すれば、「高慢」と言われても仕方ない子孫が生まれるのは容易に想像できるだろう。この手合いは現代にもいくらでもいることは、前稿に記した。

更に、いわゆる「洛中」で先祖伝来の土地家屋を維持するのは、経済的に恐ろしく敷居が高い。地価をちょっと調べて頂ければ予想しやすいのだが、とにかく高いのである。

ここに相続税が加わると、市井の人は家屋を売っていわゆる「洛外」に移住するしか手がなくなる。その「洛外」ですら、場所によっては維持が難しいのが実情である。

よほど上手に土地を活用しない限りは不可能だし、活用する以上は現代のテクノロジーや資本が入ってきても不思議ではない。

もちろん、国や京都府・京都市から「重要建築物」(だったかな?)という名目で補助はしてもらっているようだが、住んでる方はそれだけでは到底維持できないし、そもそも「重要建築物」認定を受けた家屋は、修理すら行政に許可をもらわないと出来ない仕組みになっているのだ。

ややこしいコトこの上ない。更に致命的なのは、知識の少なさである。自分の生まれ育った場所の歴史をロクに知らないというのは、もう絶望的である。

ここに大学の肩書きなど付けば、もうただの「偏屈で心も知見も狭すぎるアホな人」というレッテルを、ボクはソッコーで貼ってしまう。

たった18年しか住んでいなかった、生まれ育った福山の歴史ですら、ボクはある程度知っているのだ。概要は学校で雑談混じりに先生が教えてくれたし、興味があったので自分で調べたりした。

なかでも地名が面白いのだ。「入舟町」と「御舟町」という二つの町名があるのだが、もちろん共にかつては港町だったろうし、機能もまた異なっていたはずである。話が逸れた。

「洛外」だからといって、京都の歴史を習っていないとは到底思えない。もし「洛外」にコンプレックスがあるのなら、本来の「洛中」「洛外」を調べないと、コンプレックスは自己内で小さく収束してしまう。

自己内で小さく収束するというのは、アイデンティティーに関わる問題であり、本人が学ぶ気さえあれば、自己内世界はより豊かで広いものになるだろう。

学習をしないというのは自己の矮小化に過ぎず、イイことなど一つもないどころか、百害ばかりになる。

出自がそれほど気になるなら、ちゃんと調べればいい。もちろん限界はあるだろうが、世の中知らないことの方が圧倒的に多いのだ。もちろん、ボクだって知らないことの方が遥かに多い。ボクより博学な人は沢山いるし、そういう方に会ってお話を聞くのは楽しい。

ちなみに、これは「京都ブランド」とその周辺に限った話ではない。むしろ我々の日常生活や環境にあり、それらを忌憚なく眺め、心に収め、学ぶ必要があれば学ぶべき行為だとボクは思う。好奇心だけでも十分だと思うけど。

「洛外」にだって「洛外」の機能や風習はあるし、いいところは沢山ある。というか、「洛外」あっての「洛内」であり、相互に共存していたと考える方が自然であろう。

平安京は大陸の「洛陽」を参考に作られたとされる。「洛陽」は都市そのものを外敵から守るために外壁で覆われていたのだが、この思想をそのまま日本に持ってくるコト自体おかしい。あくまでも格好を真似たと解釈した方がいい。

唯一の例外は「洛中惣構え」だが、これだって結構そっこーで無くなってる。人やモノの流通を考えれば、これまた自然なことだ。

「洛中」にあたる「洛陽」と、「洛外」に当たる外壁の外は根本的に異なる。「洛陽」を一種の要塞と考えれば特にそうであろう。

この辺は東洋史、特に中国史をざっと調べればすぐに分かることなので、さっさと省く。

更にかつての都である。時代を問わず人の流入もすごければ、流出もすごかっただろう。むしろかなり流動的だったと考える方が腑に落ちる。今の東京を見れば想像しやすいと思う。

今はまだ比較的緩やかになっているように見えるかもしれないが、学生さんをはじめとして転勤で引っ越してこられる方も多いし、卒業して京都を離れる人も、これまた転勤で離れる人だってある程度の比率でいる。

そもそも京都市内自体が、それほど多い人口を抱えられるほど広くはないのだ。むしろ「この狭い場所によくもまぁ」と思うくらいだ。

とまぁ、歴史的な経緯を加えても、「天皇がかつておわした」と古跡を除けばただの一地方都市であり、日常生活となれば緩いローカルルールはあるものの、他の街とそうさして変わらない。ボクが「都市伝説」と言い切るのは、こういう理由からである。

◆◆◆◆◆◆◆

京都ばかり持ち上げては何なので、東京もちょっと持ち上げておこう(笑)

もうかなり昔、編集長の紹介で東京在住のデザイナーさん(大先輩だ)と一緒にお仕事をさせていただいたことがある。

ちゃきちゃきとした歯切れのいい喋り方に、「ああ、ちゃんとした江戸言葉の一端なんだろうなぁ」と感心したもんだ。もちろん、とてもイイ方でこっちが頭を下げなければいけないような場面が度々あった。面倒見のいい人だった。

前稿でも書いたが、どこにだっていい人もいればロクでもない輩はいるのだ。京都に限った話ではないことを重ねて付け加えておく。

最後に出自だが、ボクの場合はあってないも同然である。

確かに福山で生まれ育ったが、幼少期に北九州の両親の実家で過ごした時間と環境が、ボクの人格形成に大きな影響を与えているのも事実なら、福山だって、京都だって、東京だって、辻堂だって影響力は計り知れない。

新幹線からしか見たことがないのだが、富士山だって見えた時はいつもその美しさと雄大さに大感動している。

富士山ついでに言えば、日光東照宮も度肝を抜かれたし、講談社の本社ビル22Fから眺めた関東平野の壮大さには言葉も出なかったし、冬の玄界灘の厳しさも、穏やかな瀬戸内海も、琵琶湖の広さも、飛行機から見た雲海と空の青さも etc,etc

とにかくイチイチ感動しているので、出自がどうこう言ってる暇などないのだ。「はぐれ」でありながら「根無し草」とボクが自分を称するのは、決してコンプレックスからではない。どこへ行っても影響を受けることが出来るのだ。むしろ誇りに思っているぐらいである。

「人間ここまで楽天的になれるのか?」という疑問を持たれる方も少なくないだろうが、何しろボクは「はぐれ」なので基本何でもありなのである(笑)


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/
http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/

最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m


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編集後記(02/16)

訂正 2月15日(#4510)もじもじトーク[79]
非売品のフォントワークスバージョン
http://bit.ly/2nYgjAe 
とありますが、これは本蘭明朝と石井明朝です。以下に訂正します。
http://bit.ly/2nZS4BA

●原口泉「西郷隆盛はどう語られてきたか」を読んだ(2018/新潮文庫 書き下ろし)。西郷隆盛という、一人の歴史上の人物についての語り手はおびただしくいる。次から次へと新たな西郷の人物論が現れる。この本は多くの西郷論の「論を論じよう」とする。西郷論の集成の決定版は1980年の大和書房「西郷隆盛全集」第6巻にある。アーネスト・サトウから山路愛山まで74人の西郷論。

物理的に超重量(1100g)で、古い文体が手ごわく、わたしは早々と退散した。筆者がまとめたこの文庫は、同時代の人に、家族親族に、明治の新聞・庶民に、明治の知識人に、異国の人に、大正から昭和へ、右派・左派思想家に、戦前・戦後の庶民に、現代の作家・思想家に、映画・ドラマで、それぞれ「どう語られてきたか」をまとめたもので、約70人の語り手を動員するのだからすごい。

勝海舟「氷川清話」で、勝は「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ」「その意見や議論はおれの方が優る程度だったけれども、いわゆる天下の大事は負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ」「西郷に及ぶことのできないのは、その大胆識と大誠意にある」というが、この人も曲者だから少し割り引くべきだろう。

勝海舟になかなか鑑識のあるやつだヨといわれていた坂本龍馬が「もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と評したのはよく知られるが、勝が保証してもなあ。西郷という人物は、多くのエピソードがあるが、よくわからないという人も少なくない。そのわからなさ自体が大きな魅力でもある。

やはり第一章の「同時代の人に、どう語られてきたのか」が一番リアルで、一番まともなような気がする。第二章の「家族親族に、どう語られてきたのか」もよくわかる。だが、時代が進むにつれて、なにやら牽強付会度(ってあるのか、わたしの発明か)が高くなっていくような気がする。西郷を利用するなよ。

西郷を「歴史の進歩に抵抗する反動勢力の首魁」扱いするのが、戦後の学会を覆ったマルクス主義史観、左翼史観で、この勢力が全盛の頃は「歴史に逆らうものは、ほろびるしかなかった」となる。ナンセンス。そんな中で、右でも左でもない立場で孤軍奮闘して、西郷を書き続けたのが海音寺潮五郎だった。

彼は西郷研究をライフワークとし、大長編史伝「西郷隆盛」をはじめ何編もの西郷本を執筆した。西郷に対する特別な思いがあり過ぎて、長大な作品が完結しないまま亡くなってしまった。世界を挙げて、弱肉強食、帝国主義全盛の時代に、西郷は富国強兵を超えた向こうに、道義国家の建設を考えていたと説く。

同郷人である筆者は「西郷隆盛という人物の全体像は、その全体を構成する部分の一つ一つを知れば知るほど、ますます途方もなく広がり、多面性を見せ、さまざまな解釈の可能性を生み出していきます」と語る。平成30年が明治維新から150年という時代の区切りになる。期せずして同時期に、直木賞作家4人が「西郷」を執筆。それぞれ西郷隆盛を取り上げた作品の執筆を始めた。

その一人林真理子の「西郷どん!」が中園ミホ脚本でNHK大河ドラマになったようだが、女性の視点を大事にして西郷を描くというから無謀なコンセプトである。「漠然として人にはわからない」西郷を、敢えて言うが、女に描けるものか。NHKのプロパガンダになりそうな気もする。杞憂ならいいが。(柴田)

原口泉「西郷隆盛はどう語られてきたか」
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●洗濯機、食洗機に続き、トイレ。電源ランプが高速点滅をしていて、何があったのかと検索した。手順に沿って「点検時期お知らせ表示」か「故障表示」か確認するようにあったので、確認したら点検時期。

「セルフチェックはこちら」とあって、チェックシートがPDFで掲載されていた。8つの項目をチェックし、念のため電源プラグにある漏電テストまでやってみた。問題なし。続く。 (hammer.mule)

シャワートイレ「点検時期 お知らせ表示機能」について
http://inax.lixil.co.jp/aftersupport/safety/nextprogram/time_stamp.html

点検時期お知らせ表示のご確認
http://inax.lixil.co.jp/aftersupport/safety/nextprogram/showertoilet.html

セルフチェックについて
http://inax.lixil.co.jp/aftersupport/safety/nextprogram/self_check.html