ショート・ストーリーのKUNI[233]夜の木
── ヤマシタクニコ ──

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この春、はじめてユリノキの花を見た。ユリノキは高木になる。花はその高い枝に上を向いて咲く。望遠レンズでも花を見上げることしかできない。

たいていの木は花を咲かせるが、小さくて地味な花も多い。地上の人間に気づいてもらう必要などないと言いたげだ。

突然思った。私たちが実際に見ることができる動物はせいぜい体高数メートルで、それさえふだん近くにいるわけではない。だけど木だと、20メートルを超えるものが珍しくないということを。

それからずっと、木のことを考えている。







ある春の夜。ひとりの男が歩いていた。

その日は会社の同僚二人と駅前で少し飲んだ。二人と別れてから、さらに少し、一人で飲んだ。

彼は酒に強いほうではない。三人で飲んだときにもすでに気持ちよくなっていたが、それから一人で……さてどのくらい飲んだだろう。

ふだんはあまり飲まないが、たまに「酔っ払ってしまいたい」気分になることがあり、その夜がそうだった。彼の胸のうちにはあまりおもしろくないことどもが澱のようにたまっていて、同僚たちがいないところで、好きなだけ飲みたかったのだ。

すっかり酔っ払って店を出ると、ふわふわした足取りで歩き出した。いつも乗るバスは最終がもう出たあとで、ゆっくり歩いて帰るつもりだった。

どのくらい歩いたものか。ふと見ると闇の中に大きな木が現れた。白く、ぼうっと浮かび上がってみえる。

「これは……なんだろ。おみくじか?」

暗くてよくわからないが、その木にはおびただしい数の白い紙切れが結びつけられているらしい。正月の神社でよくみかける、おみくじを結びつけた木を思わせる。だけど、ここは神社ではないようだ。

「おもしろいでしょ」

声がした。そのほうを見ると女がひとり、立っている。思わず

「これは……なんですか?」と聞いた。

「あなたも、書いてみる?」

「書くって、何を」

女はもう、手に真っ白な紙を持っていた。

「なんでもいいのよ。願い事でも、単にうっぷんを晴らしたいことでもいいの。書いたらその木に結びつけるの」

「結びつけると、どうなる」

「さあ。どうなるかしら」

「願い事がかなうのか」

「だといいわね」

「なんだそれは。まあいいさ。書こう。そうだ。書いたらキスさせてくれるかい」

「いいわよ」

彼は女が差し出したサインペンを手にした。少し考えて、まず「残業代払え!」と書いた。われながら単純すぎる。もう一枚紙をもらい、

「下沢部長、辞めろ!」と書いた。

「おかしいかな。酔っ払ってるもんで」

「おかしくないわ」

また紙を差し出された。

「青木由子と」

そこまで書いて手が止まった。青木由子は職場ではいわゆるマドンナ的存在の女だ。文句なしの美人で、売れっ子モデルの誰々に似ているとか似ていないとか、あちこちで雑談のネタにされている。

彼が手を出せる相手ではない。それはわかっているが、二、三日前、偶然女たちが噂話をしているのを立ち聞きしてしまった。

──部長はどうなの、下沢部長は。

──論外!

──高見原課長は?

──それも論外。キモいし。

──変に自信ありげなところもね。

──わかるわかる。

──じゃあ、○○とかは?

彼は突然自分の名前が出てきて驚いた。息をひそめていると

──ないない! なんか変な嗜好もってそう。

──そう? 単なる地味な人じゃない?

──いやー、裏表ありそうだよ。

──とりあえずキモい。

──キモいひとばっかりじゃん、うちの会社。

──ほんと! 笑えるよね。

──がはは!



声の中に青木由子も含まれていた。あのときの笑い声が耳によみがえる。頭の中がかっと熱くなった。サインペンを持つ手がぷるぷる震えた。彼は迷った末に書いた

「……やらせろ!」

それでもまだ女は紙を差し出し続けた。もっと書け、もっと書けというように。彼は書いた。

「女なんかクソだ!」

「青木由子も、ほかの女も、仕事もできない、頭の中からっぽのクソ女ばっかりだ!」

「ぶすのくせに濃い化粧しやがって」

「キモいのはおまえらだ! 会社に来るな!」

「会社なんかつぶれろ!」

「いいかげんなマニュアルばっかり作りやがって、現場のこと何も考えてなさすぎ。能なし高見原課長、ヘンタイ下沢部長、みんなやめてしまえ、ばか上司!」

「やめないならおれがぶっつぶしてやる、こんな会社! SNS使うとか、なんでもいい、汚い手使ってでも、やってやる!」

何枚書いたかわからない。書いているうちに彼は妙な快感さえ得て、どんどんエスカレートした。ペンが勝手に卑猥な言葉を書きつける。書けば書くほど気分が高揚した。

そして、ついに書き疲れて女に渡すと、女はそれらを木に結びつけた。

「ほら、花が咲いたようでしょ」

木はもはや隙間もないくらいびっしりと、花をつけたようにみえた。闇の中で四方八方に大きく広げた枝は、まるで自分がすべてを受け入れるとでも言うようだ。

「だれでもみんな、いろんなこと考えながら生きてるのよ。それでいいのよ。でないと、この木がこんなに美しくみえるはずないもの」

女はそういうが、どんな表情で言ってるのか、暗くてわからない。

「どうでもいい。それより約束だからな」

彼は女を荒っぽく引き寄せ、その唇に唇を押し当てた。なまあたたかくやわらかな肉の感触が確かにした、と思った。



次に気づいたとき、彼は自分の部屋で朝を迎えていた。頭が痛い。前夜、どうやってこの部屋にたどりついたか記憶がない。

身支度を整えていつものように会社に向かう。遅刻しそうになり、ふと近道があったことを思い出した。住宅地に入り、細い道を通ると会社の入っているビルの裏口に通じる。

小走りでその道を過ぎようとして、彼ははっとした。見覚えのある木が目の前に立っている。

それは大きなハナミズキの木だった。前夜、彼を招くように闇の中に現れた、あの木。

──なんてことだ。夜道をさんざん歩き回ったつもりだったのに、こんな近くだったとは。

木は、枝いっぱいに花をつけている。ハナミズキの「花」と思われているのは実は「苞」と呼ばれる部分であり、中心の緑色に見える部分が本当の花であることは割合知られている。

いま枝いっぱいについている花の二〜三割くらいは、その苞をすっかり開いているが、残りはまだ苞を、まるで両手をあわせたように頭の上で閉じている。その様子が夜目には白い紙を結びつけたように見えたのか。

彼はぼうぜんとして木を見つめた。それからそばに寄り、手の届くところにあった花のひとつひとつをあわただしく見ていった。どれも,何の異常もなかった。彼は安堵のため息をもらし、会社に向かって走った。なんとか間に合った。

その日はなぜか仕事がはかどった。自分でも頭が冴えているような気がした。

──いつもより遅くまで寝て睡眠時間が十分だったからか、それとも……あんなふうにして、思っていることをぶちまけたからだろうか? いや、あれは本当にあったことなのか? 夢だったのだろうか? まあいい。あまり考えないでおこう。

この間まで手こずっていて、どう処理していいかわからなかった仕事があっさりできた。断られるのではないかと思って、連絡するのをずるずる後回しにしていた仕事は、いざ先方に連絡するとあっさり「いいですよ」と返事がもらえた。なんだか楽しくなってきた。

自分の表情に余裕が出てきているのを彼は知らない。

昼になり、隣の席の同僚と近くの店に昼食を食べに行くと、偶然、青木由子たちのグループと一緒になった。ごく自然に会話がはずむ。自分で驚く。ありきたりのジョークを口にすると、青木由子は笑った。信じられない。自分は今まで何か思い違いをしていたのか。

三日後に下沢部長に呼ばれた。

「まだ確定じゃないんだが、今年の秋に新部門を立ち上げる。ネットを利用した事業を始めるんだ。おれみたいな年寄りはだめだ。君に、新部門の中心になってもらおうと思ってるんだが……」

風が吹き始めた、とはこのことか。彼は殊勝な表情をつくりながら、腹の中では笑いがとまらない。

急速に彼は職場の女たちと親しくなる。中でも青木由子と。女たちは昼食をともにしたり他愛ない会話の相手になるだけでなく、仕事でも協力してくれた。彼より有能だったかもしれない。

いろんなことがどんどんやりやすくなっていった。彼は思った。この調子だと、いけるかもしれない。もう少し。あと、もうひと息だ。青木由子と。



ハナミズキの花は春の終わりに咲く。花が終わると夏はすぐそこだ。

気温がにわかに上がって、日差しが強く感じられるある日。彼や女たちは近所の店の日替わり定食で昼食を終え、午後の仕事に戻るべく歩いていた。

「あっちから帰ろう」

だれかがそう言い、裏口から入ることにした。あの木のそばを通って。

ハナミズキの枝に、もう花はなかった。青々と葉が茂っている。

「花びら、もうないね」

「花びらじゃないんだよ、あれ」

「わかってるわよ。なんとか言うんだよね」

「そうそう、なんとか」

「あ、下に落ちてるよ、それ」

だれかがそう言い、彼は下を見た。

ついこの間まで咲いていた、同じ花のものとは思えないくらい、薄茶色に醜く変色した苞が足下にいっぱい散らばっていた。青木由子がそのうちの一枚を拾い上げた。

「え……やだ!」

泣きそうな声を上げ、青木由子は拾い上げた苞を放り投げた。そのまま数歩後ずさり、口に手を当ててうずくまった。

「どうしたの?」

他の女たちも拾い上げ、うっと息をのんだ。

「何なのこれ……」

彼はしゃがみこみ、あたり一面にひろがった薄茶色のものを見た。みるみるその顔から血の気がひいた。苞の一枚一枚に、彼があの夜書きなぐった文字がくっきり浮かび上がっていた。

──青木由子とやらせろ!

──青木由子も、ほかの女も、仕事もできない頭の中からっぽのクソ女ばっかりだ!

──キモいのはおまえらだ!

──会社なんかつぶれろ

──能なしの高見原課長、ヘンタイ下沢部長、みんなやめてしまえ、ばか上司!

そして、おびただしい数の、目を背けたくなる卑猥な言葉。


【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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財布がぼろぼろになってきて、ふと気づくと人前で出すのもはばかられるようになってた(どんな!)ので、急遽ネットで安いのを買った。

長財布が苦手で、今回も二つ折りタイプ。届いてみると、スナップがめっちゃ固い。開け閉めするたびにちぎれそう。こりゃいかん。で、例によってネットで調べると「ロウソクのロウを塗ればいい」とのこと。

さっそく100円ショップで買って、塗ってみたらほんとに、あっという間に解決した。しかし、当然、そんな用途に必要なロウはほんのちょっと。箱いっぱいのロウソクがほぼそのまま残ってしまった。役に立つ日はくるのだろうか。昔は停電がよくあったもんだけど。