ショート・ストーリーのKUNI[234]伝言よろしくお願いします
── ヤマシタクニコ ──

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冬が終わって春になり、さらに夏に向かうにつれ私の心は重しでもついたように沈み込むのだ。虫の季節がやってくるから。

あ、またカメムシのこと書いてる! と言われそうだが、その通りだ。仕方ないじゃないか。人間、だれだって苦手なもの、できれば目の前に出現してほしくないものはあるはずだ。

カメムシなんかコワクもなんともないという人は、他のものに置きかえて読んでほしい。ナメクジでも便所コオロギでもキュウリでもちくわぶでもいいし、昔の恋人でも会社の上司でもいい。

物理の教科書でもネコがガラス戸をひっかく音でもなんでもいい。そういうものに遭遇する可能性が高くなってきたという状況を、思い浮かべていただければよいのである。

とはいっても、カメムシが洗濯物についたりするのは、冬眠を控えて動きも鈍くなる秋である。いま少し間がある。

梅雨のさなか、駅から家に帰る道で今年初めてカメムシを見た。正確にはクサギカメムシ。目を合わさないようにして帰ってきたが、いよいよだと覚悟した。

そして、それから数日後、ベランダで一匹発見に至る。





そのとき、室内の私のパソコンから「ジョニーへの伝言」が聞こえてきた。YouTubeの仕業だ。ジョニーへの伝言を聞こうとしたのではないが、古い歌を聴いていたら勝手に同じ時代の歌をどんどん推してくるよね。なんだかばかにされてるようで、ふだんはキャンセルするのだが、油断していた。

ジョニーが来たなら伝えてよ

すると私は急に思いついたのだ。

そうだ。今ベランダにいるこいつに伝言を頼もう。

もう、今年の秋はうちのベランダに来ないでほしい。仲間にそう伝えてくれないかと。

急に頼んでも向こうにもいろいろ都合があるだろうし、手続き上もう無理なんてこともあるかもしれないけど、今からだと間に合うんじゃないか。

私は自分でいうのもなんだが、まじめな人間なのである。自分がカメムシが嫌いだからといって、カメムシになんの落ち度もないことは理解している。単に薄気味悪い外見で差別しているだけじゃないかと、時に自責の念にもかられる。

できたらカメムシとわかりあいたい。誠意をもって話せばわかるのではないかとも思っている。対話重視でいきたい。

膠着していたかにみえる関係は急激に好転することもある。努力の向こうに感動のシーンが待っているかもしれないのだ。

しかし、どうやって話したらいい。どうやってこちらの意図を伝えればいいのだ。じっと見ているだけでは、伝わるはずがない。もどかしい。

すると、いきなり頭の芯がぐわらぐわらっ! と揺さぶられるようなすごい衝撃に見舞われ、私は思わず目をつむって、その場にくずおれた。

次に気がついたとき、目の前に巨大なカメムシがいた。

あまりのことに私は失神しそうになった。だが、その気分は数秒でフェイドアウトした。

私は理解した。自分と同じくらいのカメムシが出現したのではなく、自分がカメムシになっている。げげげげ! カフカか!

「何びっくりしてんだよ」

目の前のカメムシが言った。ていうか、カメムシの言語が聞き取れる! 対話可能か!

「あ、あのう、ええっと私の言葉が通じますか」

「あたりまえだろ」

「ひえー」

「だから、何びっくりしてんだよ。忙しい時期に」

「忙しいって、あのう」

「みんなもう産卵してるし。あんたもどこかいい場所見つけて産みなよ。そこの網戸でもいいんじゃないか」

くいっと顎でうちのベランダの網戸を示す。

「いや、だめだめ、だめですって! だいたい私、カメムシじゃないんで!」

「むははは。わかってるさ、そんなこと」

「えっ」

「ちょっと言ってみただけさ。おれはすっかり見ていたんだ。ひとりのおばはんがベランダに立っておれを見ていた。おれも何だ? と思っておばはんを見た。一瞬目が合った。と思うとおばはんは急に苦しみだしてどさっと倒れ込み、その次の瞬間、目の前にメスカメムシが現れたというわけだ」

「ええっ」

「おれも実はかなりびっくりしたんだけど、そんなこともあるかと。つまり、あんたはたぶん、おれに何か伝えたいことがあるんじゃないかな」

「な、なんでわかるんです」

「いや、たぶん、何か伝えたいという気持ちだけがうわーっと盛り上がって、一時的にこうなったんだろうと」

なるほど。私は改めて自分の体をまじまじと見た。硬い外骨格で全身覆われ、おなかは白くて段々になっている。自分では見えないが、背中には白っぽい斑点があるだろう。

脚が6本ある。動かせる。そして、このカメムシの体というものを、今の自分はグロテスクだとか気味悪いとか、思っていないということにおどろく。私はすでにカメムシ脳で感じ、判断しているのだ。

一方、ちょっとそこらに目をやると、近所の奥さん連中が立ち話をしているのが見えるのだが、まあなんとぶよぶよして醜いことか。無駄にでかい肉の塊。そもそも肉が外にあるなんて、無防備すぎるじゃないか。外骨格、神……。

「で、何を伝えたいっていうんだ」

それだ。いよいよ本題、カメムシとの交渉。できるのか私に。

「え、実はですね。あのう、えっと、ちょっと、その……あのう、気を悪くしないで聞いていただきたいんですが、よろしいでしょうか」

「気を悪くするかしないか、聞いてみなきゃわからんだろ」

その声音に私は思わずびくっとした。私は自分で言うのもなんだが、まじめな人間である。いまはカメムシだけど。

まじめな人間ではあるが、超肝っ玉の小さい人間でもある。ほとんどないかもしれない。その私を震え上がらせるような響きが、声音にあった。

私は思い切りびびった。脳内ではただちに保身および逃走のための、あんなパターンこんなパターンの検索が猛スピードで始まる。

「え、あああああのう、失礼しました。私はあの、あくまで平和裏にものごとを進めようとしておりましてですね、他意はないのでありますが、その、えっと、何と申しましょうか、至らない点も多々あるかと」

「早く用件を言えよ」相手はゆらりと触覚を揺らせて言う。

汗が噴き出る。いや、これはあくまで比喩だ。カメムシ、汗かかない。落ち着け私。誠意をもってすればきっと、相手も耳を傾けてくれるはず。

私の中のまじめな部分が、なおも前向きであろうとするが、私の小心者の部分はもう逃げ時をはかっている。

「ここここれはひとつの提案なのでありますのでございますが、今年の秋は、えー、その、あの、よそのお宅に行っていただけないかとかなんとか言っちゃったりして、それを、えー、お仲間のみなさんにお伝えできないかと、おおおお思っている所存で」

「秋?」

「ええ、あの、秋口になりますと、みなさん洗濯物やふとんにくっついたり、それからサッシの陰で冬眠に入ったり、なさいますよね? 時には日当たりのいいサッシに、ずらっと何匹も並んでいたり……うち、去年も一昨年もそうだったんですけど」

「ああ」

「あれをですね、できたら、今年はうちのベランダではなく……よそのおうちで……だめですか」

「よそに行けだあ?!」

「あ、はははは、はい」

「なんでそんなことしなくちゃならないんだ!」

私はもう全身固まってしまってる。泣きそう。

「そ、それは……」

「それは?」

「いや、単に……私、カメムシ超苦手なんです! いまこの姿で言うのも変で
すけど……ごめんなさい!」

「なんだそういうことか」

力が抜けた。こけた。

「そういう人間は多いもんな。おれたち臭いで嫌われるけど、それ以前に見た目がいやだという人間はいっぱいいるし。てか、カメムシが好きとかかわいいとか、ふつう言わねえよな」

「そそうですよね!」

「いいよ。でもな。じゃあ代替案を出してもらおうか」

「だいたいあん?」

「あったりめえだろ! 何かやめてくれというときは代替案を持ってくるもんだろ! でないとおれたちはどこの洗濯もんにくっついて、どこで冬眠すりゃいいんだ! えぇ?! これは死活問題だからな!」

私が死にそうだ。至近距離で、でかい声ですごまれて。胸がばくばくする。

どどどどうすれば。なにか、えっと、なにか言わなければ!

あ、そうだ。思い出した。私、かしこい。

「あの、それでしたら、えー、うちの隣の隣のMさんが、近く引っ越す予定で
して」

「それで?」

「秋までに引っ越すとか言ってた、ような。で、実はうちの団地、建て替えになるらしくて、だから、新規の入居者募集をしてないはずなんです。つまり、あの、隣の隣は秋には空き家になると……だじゃれじゃないんですけど」

「ほう?」

「ですから、お友達と大挙してこられても、苦情を言ったり追い払う人もいないわけで……春までゆっくり冬眠していただけるんじゃないかと」

「なるほどな」

「いいいいかがでしょうか」

「悪くないな」

やった! 交渉成立! 気がゆるんで、なんだか泣けてきた。涙出ないけど。

「あれ、どうしたんだ」

「なんでもない」

相手は笑った。

「あんた、なんだかおもしれえな」

「あ……ありがとう……ていうのかどうか」

「このままずっとカメムシでいたらどうだ?」

「いやいや、それはないです! 用が済んだら元の人間にもどりますから! たぶん」

私はそう言ったが、なんだかちょっといい雰囲気になってないか、これ。で、あっさりさようならと言いたくない気がして、でも、どうしたらいいのかわからず、聞いた。

「あのう……あなたの名前、教えてもらえますか」

「いいよ。ウニタラバリャドパンドニモゴライデンタスゲボッホヨって言うんだ」

「え? ごめん、もう一度」

次の瞬間、私はベランダにひっくりかえっているおばはんに戻っていた。ぶよぶよした肉に包まれたおばはんに。


ひと月後、私は団地内で隣の隣の住人であるMさんにばったり会った。

「あら、Mさん! ひさしぶり! そろそろ引っ越しだよね?」

「ああ、引っ越し、やめたの」

「えっ」

「いろいろ迷ったんだけど、引っ越すと職場も遠くなるし」

「そうなんだ。でも、いずれうちの団地、建て替えだよね」

「遠い将来はね」

「そうだっけ? もう決まったんじゃなかったっけ?」

「いや? 地区によって違うし、うちの棟は早くて8年後だから当分今までどおりよ。こないだ詳しく書いたお知らせの紙が入ってたでしょ、ポストに」

なんか間違ってたようだ……。


それ以来、私はあのとき伝言を頼んだカメムシを探しているのだが見つからない。悪気はなかった、だますつもりはなかったのだと、秋までに弁解しておきたいのに。でも見つからない。とっくに出会っているかもしれないが、見分けられない。ひょっとしたら、夕方の遊歩道で気づかず踏みつぶしたかもしれない。一瞬心が通い合った気がしたのに。ちょっと悪な感じがよかったなとしみじみ思うのに、名前さえ覚えていないのだ。


【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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http://koo-yamashita.main.jp/wp/


最近大阪で地震があったり西日本豪雨があったりで、いろいろ不安になり、緊急避難に必要と思われるものをリュックに詰めている。

これを機会にモバイルバッテリーもやっと買った。とにかく連絡できないと困ると思う。ポケモンgoにも役立ちそうだし。

で、そのポケモンだが、つい先日、近所の駅前でのレイドバトルで珍しく12人も集まって感動した。その前、3人ではびくともしなかったレジアイスも難なく倒すことができた。

なんで今日は? と思ったら、そのときは突然の猛烈な雨で、傘を持ってない人たちが「雨がやむまで」と思って参戦してくれたようだ。なるほどな。で、肝心のレジアイスをゲットできなかった私は、どんだけ間抜けなんだ。