ゆずみそ単語帳[22]日本がふつうの国になる日/TOMOZO

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2年ぶりに日本に帰省して、東京と大阪、京都に滞在した。信じられないほど暑かった。

自分でもびっくりだけど今年で在米、21年めになる。もはやほぼインバウンドの観光客みたいなもので、ひさびさの母国にいろいろ感動したり、微妙な違和感を感じたりした。

2年ぶりの日本で感じた一時出戻りの勝手な感想を、今回はダラダラと書いてみます。





◎過剰で繊細なおもてなし

東京や大阪の街を歩いていて毎回圧倒されるのは、ありとあらゆる消費物の種類の多さと、小売形態の豊富さ。とにかく種類が多いし、街中にモノが溢れかえっている。

どの駅の中にももれなくスイーツを売る店があって、ターミナル駅にはお弁当やおみやげの店、カフェ、書店、雑貨店がところ狭しと並んでいる。ホームの自動販売機に並んでいる飲み物の多くは初めて見る新製品。冷たいのだけでなく常温のドリンクもある。

店員さんはおおむねとても親切で有能で、実に細かい気配りをしてくれる。800円のランチを食べに入った店でも、まるで王族のように丁重に扱ってくれるし、小さなものを買っても(菜箸もおろし金も)無料で綺麗な包装紙にきちんと包んでくれる。

なんと気配りの行き届いた繊細なおもてなし精神。でも、そこまでしてくれなくてもいいのになあ、と思うこともしばしばだった。

スーパーのレジ袋はもうだいぶ前から有料になっているけれど、スーパー以外の小売店では、書店でも雑貨店でもパン屋さんでもブティックでも、もれなく店のロゴが入った小奇麗なビニール袋に入れてくれる。これがけっこうかさばる。袋はいらないというと怪訝な顔をされることもあった。

このなんでもかんでもちまちまと包装してくれる繊細さは、懐石料理や和菓子、お弁当の美にも通じる繊細な美意識のたまものだろうと思う。素晴らしい美点ではあるが、たぶんグローバルスタンダードからするとえらく過剰だ。

700円の本にきちんとブックカバーをかけた上に、ビニール袋にいれてくれる書店なんて、たぶん世界中でも日本にしかないんじゃないかと思う。

この人はこれを万引きしたのではないという、わかりやすいマーキングの意味もあるのかもしれないが、買ったものは丁重に扱ってもらうのが当然という客の期待に応えた習慣には違いない。

一方でアメリカの消費の場は、露骨に格差がある。最もお安いウォルマート的な店では、店員になにか聞いてまともな答えが得られれば大変幸運と思って、ありがたがらねばならない。

超高級店では19世紀英国の執事みたいな店員がお客をうやうやしく迎えて、靴下でも歯ブラシでも丁寧に紙でくるんでくれるのかもしれないけど、そういう店には行ったことがないので知らない。

その真ん中へんである大多数の街のショップやレストランの接客は、フレンドリーではあるものの、日本の常識に比べたらずいぶん雑に映ると思う。高めのベーカリーでも、何もいわなければ茶色の紙袋さえ出てこない。

日本の小売店の消費者は、お値段のレベルにかかわらずサービスには最上級の礼節を期待するし、これまではその期待が満たされてきた。

それはやっぱり戦後の高度経済成長のたまもので、社会のほぼ全体にお金がいきわたった稀有な国だったからだろうなあ、と思う。

日本は本当に普通の国なんかじゃなく、むちゃくちゃに恵まれた国だ。戦後の日本が最も成功した社会主義国だというのは本当だなあ、と、アメリカからくるとしみじみ思う。

◎オウム報道で思い出した対立の不在と粘菌感

私が関西に滞在していた時に、オウム真理教の教祖と元幹部7人の死刑が執行された。この時の報道になんだか違和感を持った。

民法のニュースは、号外が出た日に街でつかまえた通行人3人の感想に続いて、被害者の会の代表の「特に感慨はない」というコメントを20秒ほど流し、サリン事件から逮捕にいたる経過を数分間にまとめて、「オウム真理教の事件とは何だったのか、真相はナゾのままです」と結んでいた。

ん? と思ったのは、「真相はナゾのまま」といったような言葉を、その後数日間の報道で何度も見聞きしたからだった。「真相」ってなに? ていうか、事件のどの部分の「真相」がどうわかっていないって言っているんだろう?

23年間この事件を追ってきたジャーナリストや学者もいて、そこにはとてつもない情報量があるのだが。

「なぜ教団が凶暴化したのか」という問いに対してだけでも、何層にもなった相反する真相があるはずなのに、誰にでも2分で事件のすべてを手軽に納得できる真相があるはずだったといわんばかりの物言いに、強烈な違和感を感じたのだった。

もちろん、そんな簡単な答えがあると本気で思っている人はそんなにいないと思うけれど、なぜテレビの人がそんな意味のない呪文のようなことを言って話を締めくくろうとするのかわからない。

探し求めるべきは、あるはずのない「真相」じゃなくて、「されこれから何を問うべきなのか」という問いじゃないのかな。

それからもうひとつ、とても不思議だったのは、なぜ今、幹部7人の死刑をまとめて執行したのか? という点に、見た限りだけど、メインストリームのニュースがまったく触れていなかったこと。

もちろんネットでは、執行の是非についての議論もあって陰謀論みたいなことをいう人もたくさんいるのだけれど、9時のニュースで法務省の見解を分析したり、大量の同時執行を批判したりする言説がまったく見られなかったのは、ちょっと衝撃的だった。

執行は自然現象ではなくて権力を持つ政治家の判断なのに、なぜそれについてニュースアンカーがコメントしたり、コメントを求めないんだろう? アンカーが死刑執行を批判すべきだというのではなく、その判断についての議論がニュース番組のまな板に乗ってないことに不自然さを感じた。

アメリカの主要「リベラル」メディア数社は今、現政権との間で全面戦争を継続中だ。CNNもワシントン・ポストもニューヨーク・タイムズも、現職大統領から「フェイクニュース」呼ばわりされながら論陣を張っている。

それは見ていてとても疲れる不毛な戦いに見えるが、とりあえず世の中に立場がいろいろあって、それぞれ戦っていることの証明ではある(それがうまく機能しているかどうかは別にして)。

アメリカは20世紀になってからずっと、共和党と民主党が代表する二項対立に慣れていて(中身はコロコロ変わるし、立場が入れ替わったりもしているが)、対立する相手があってこそ自分の立場が明確になる的な、体育会系弁証法みたいなところがある。

それはそれで思考停止になっていたり、議論は空回りするばかりであったりすることも多いけど、社会の中に自分とは相容れない他者がいることを、アメリカ人は常に意識して暮らしている。

でも日本ではそうではなかったんだった。日本では、ほとんどの人が、社会の中に対立する他者はいないといいな、とうっすら望みながら生活しているようなところがある。

みんなを不安にさせるほど突出して違うことをいう他者は、みんなの意識から排除されてしまうか、粘菌のような何か柔らかいものにからめとられて一見同質なカバーを着せられていく。

これは一般的な生活感覚とメディアでの話で、もちろん、プロフェッショナルな世界ではまともな議論がかわされているはず、だと思うけど。

日本のニュースって、コメントを言う人はいっぱい出てくるのだけど、すべてがぺったりした粘菌的なトーンの下にあって、期待に沿った予定の域をはみ出たことを言う人はあまりいないように見える。

80年代後半には麻原彰晃もバラエティ番組に出演して、その予定域の中で嬉しそうにいじられる、ちょっとヘンな教祖を演じていたのだ。

そのときのメディアの不見識を責めるのは、まったくの見当違いだと思う。問い直すなら、なぜそれが面白いと思ったか、の方だ。

何が期待されている予定域なのかは不文律で、理屈じゃなくある種の(いってみれば)美意識に基づいているのだと思う。

私が見ている範囲が狭すぎるのかもしれないけど、現在は20年前に比べてその予定域がますます狭まってて、はみだすものに対する感情的な反応が激しくなっているような気がして不気味だ。気のせいだと良いのだけど。

マツコ・デラックスさんに人気があるのは、その予定域を完璧に把握しながら、絶妙に少しだけ外した発言をするからなんだろうなと思う。

◎内向きの洗練

包装や料理やスイーツに限らず、日本のサービスも工芸も、マンガやアニメや文学といったコンテンツも、すべてが繊細で洗練されている。

なんだかここ10年ほどの日本はすごく内向きで、ますます繊細さを増しているように見える。

1年半ほど前にシアトルから東京に移住した友人夫婦がいた。40代はじめの旦那さんはアメリカ中西部出身で、シアトルの某大手IT企業に10年ほど勤めたあとで日本の某大手IT企業に転職したのだけど、2年とたたずに戻ってきてしまった。

東京生活は面白かったけれど、今後のキャリア展開を考えると、ずっと日本に居続けるのが不安になった、というのが主な理由だという。

ビジネスの進め方でも技術面でも日本はやっぱり特殊なので、あまり長くいすぎるとその後外に出るのが難しくなると考えたそうだ。待遇は悪くはなかったが、これから10年間の収入を考えるとアメリカで仕事をする方が有利と判断したというのもあるようだ。

エンジニアやデザイナーについていえば、日本の給与水準は欧米だけでなくてアジアに比べても格段に安いんだ、と、これはまた別の、東京のコンテンツ制作会社で人事の仕事も手がけている友人が言っていた。うーんそうなのか、と軽くショックだった。

日本経済の尾ひれにしがみついてご飯を食べさせて頂いている身としては、日本の経済が縮小してしまうのはたいへん困るのだけど、日本が豊かな「社会主義国」であった時代にはもう幕が降りているのだし、それは誰がどう何を頑張っても取り戻せないのだなあ、と今回はまたひしひしと実感したのだった。

日本がどんどん普通の国になっていってしまうとしたら、2年後、5年後、10年後にも、まだ駅ナカにスイーツが溢れ、お店のロゴの袋も、エコノミーなお店での王族を迎えるようなおもてなしも健在なのだろうか。それとも富裕層向けのハイエンドだけに、かつてのおもてなし精神が生き残っていくのだろうか。

粘菌のような同調圧力のほうは、経済が傾くと同時にますます分厚く不透明になっていきそうな気がしないでもない。


東京の中野で、セーラー服おじさんGrowHairさんにお会いしました。魔境に続くような中野の飲み屋街のディープな懐に感心するとともに、お忙しいのに「A面」で登場してくださったキュートなハイソックス姿に、同行の友人マダムともども感激。

道行く人に何度も呼び止められていて、わたしもちょっと誇らしかった。


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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