はぐれDEATH[56]「大人が子供をどう育てるか」という意識の格差
── 藤原ヨウコウ ──

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副業探しで難儀しているのが、いわゆる「履歴書」というヤツである。内容で難儀しているわけではない。長すぎる学歴を書くのに難儀しているのだ。

ちなみにボクの最終学歴を正式に表記すると

京都工芸繊維大学大学院工芸学研究科意匠工芸学専攻

と、かくも長たらしくなる。これに大学の入学卒業、大学院の入学修了が加わるのである。字を書くのがめちゃくちゃ面倒くさい者にとっては、苦痛以外のなにものでもない。しかも、丁寧に書かないといけない。ここまでくると、ボク的にはほとんど拷問である。

最近「PCが使えない(キーボード入力ができない)新人が増えている」といううそのようなまことがあるようだが(どうやら、スマホの文字入力しかできないらしい)、それを鑑みればPCで履歴書を書くぐらい大目にみてもイイような気がするが、さすがにそこまで大胆にもなれないので、忍の一字で学歴を書くわけだ。

PCならコピペでかなり楽できるんだけどなぁ……。







さて、これまでずっと「ボクの学歴など役に立たん」と思っていたのだが、副業・出向で考えを改めざるを得なくなった。

ボクの最終学位は工学修士なのだが、実質的にはエカキ稼業とはほとんど関係ない。基本、ここで書いているようなネタ・レベルである。周辺情報の量は学術論文と関係なく、大量に持ち合わせているが、こっちは完全に趣味の世界。普段の読書とさして変わらない。

ところが、この学位が就職の際、有利に働いたのは言うまでもない。もっとも、ボクの世間知らずもモノを言っているのだが(笑)

再三書いているが、ボクの一族郎党は教育者・技術屋の世界に集中している。もちろん、就職とは「この両者の内のどちらか」という、アホな二択しかボクにはなかった。

幸いバブル期だったので、業界大手の凸版印刷に入社することができたし「大学院卒」というだけの理由で(もっとも他にも理由はあったようだが、推測と伝聞レベルなので詳細はパス)デジタル・プリプレス黎明期に、デジタルの研究をさせてもらえた。中身はともかく、学歴が助けになったのは事実だろう。

こうした考えを肯定的に捉えざるを得なくなったのは、先にも記したが副業・出向先での経験である。特にこの春からの新入社員さん達を見る限り、最終学歴はそれなりのフィルタリング機能を持っている、と言わざるを得ない。

本当の意味での最終学歴の評価は、入社後、各自の努力なり社内教育環境によるところも大きいだろうが、そもそもそれぞれの立場にいる人間の基礎教養なり将来設計の明確さがないと、お話にならないのは言うまでもあるまい。

大企業に入ったり高級官僚になるというのは、ゴールではなく、社会に出るスタートに過ぎない。

組織の大きさにはメリットもあればデメリットもある。最大のメリットは資本力であろう。資本力があるというのは、社員を育成するゆとりがあるということである。理想論であることは百も承知だが、一方で事実でもある。

勘違いしないで欲しいのだが、会社は社員に支払う給与以上の投資を、人材育成という面で行なっているのだ。これはボクの実体験からの話である。

ボクは会社員時代に、相当ヘマをぶっかましている。もちろん、損失は会社が埋める。無条件じゃないですが、一個人が賄えるような額ではありません。

ボクのヘマひとつが与える影響範囲は恐ろしく広いし、それぞれの部署にかかる人件費や原材料費、工賃、加工費、流通費、水道光熱費、設備維持費など含めると、一発のヘマで軽く1000万は超えるはずである。これでも安めに見積もっているのだ。10回ヘマすれば1億円越え(!)

これにデジタル研究に関わる費用が加わると、ボクの部署だけに限っても軽く2000万円は超える。これにボクの給与が加わる。とてもではないが、中小企業が賄える額ではないのは明白だろう。

民間企業でこれである。親方日の丸がバックにつけば桁が変わる。

こういう好条件を活用できるかどうかは、個々の人次第。本当に使える人材が1割未満と考えても、組織としては最終的に帳尻が合うどころか、純利益そのものが上がる。これが本来の資本主義経済のあり方である。

更に立ち位置があげられる。巨大資本がある組織から見る風景というのは、そうそう見られるものではない。視野の広さは圧倒的である。もっとも、これまた個々の人に関わるのだが。

高い場所にいられる立場がでふぉであるというのは、低い場所まで降りても、また高い場所に上がれるということを意味する。

ただ、再三この連載で書いているように、この立場を勘違いをする馬鹿は圧倒的に多数派である。バックに看板があることを忘れて、すべて自らの能力と思い込むと、これはもうただの迷惑な人にしかならないし、正直な話、邪魔者以外の何ものでもない。

ここに「縦社会の弊害」の王道をいくような人が多数いると、その組織は大抵腐敗する。現政権なんてのはめちゃめちゃ酷い例にしかならないのだが、批判をしている人も知らず知らずにやっている可能性の方が高いだろう。

もちろん、ボクも例外ではない。気をつけてはいたし、今でも気をつけるよう心がけてはいるのだが、「上から目線な人」という評価を与えられても、それはそれで仕方ないと思っている。何しろ常識とやらが通用しないのだから、そのような見方をされてもしゃぁなしである。

それでもやはり、高い位置にいられるというのはメリットが高いだろうし、そのスタート地点に辿り着こうとすれば、現実にはやはり学歴がモノを言うのだ。

誤解しないように敢えて付け加えるが、最終学歴の格差が即それぞれの人格を決定するワケではない。

どれだけ高学歴でも、性根が腐っていれば間抜けなことしかできないし、中卒レベルでも本人次第で人徳もあれば、きちんと結果を出せる人もいる。

いま学歴格差が問題になっているが、本来の問題は学歴格差でもなければ経済格差でもない。「大人が子供をどう育てるか」という、意識の格差にあると思っている。

もちろん、それなりの環境を各家庭が整えなければどうしようもないだろうし、それには経済的な側面に大きく左右されるのは言うまでもない。さらに、親自身が育った環境も大きく影響する。

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実際、いわゆる貧困層(今のボクもそうだ)のご家庭を見る機会が、最近やたらと多いのだが、それでなくてもコミュニケーションが上手に出来ないボクは、ほとんど会話が成立しない。

中高年層はもうどうでもいいのだが、若年層でこうだと絶望的である。何しろ彼らの会話はほとんど「呑む・打つ・買う」ネタだけなのだ。ボクが一番苦手、というか生理的に最も嫌いな話題である。

鉾立の大工さん達は、この手の話をまったくしなかったので、実はめちゃめちゃ驚いたのだ。

というか、こんな会話が成立するのはフィクションだと思っていた。京都に来るまで関西弁をフィクションと思っていたのと同じような、まさにカルチャー・ショックである。

「呑む」はまだ何となく分からないでもないが、そもそもボクはさっぱり呑めないので興味の対象外。

「打つ」は辛うじて馬でなんとなく推測はできる。何しろ、京阪で中書島のお隣は淀競馬場である。土日ともなれば、競馬新聞を持ったおっちゃん達で淀の駅は満員である。

馬が走るのは一度生で見たいのだが、あの血走った目のおっちゃん達の群れとは、できるだけ距離をおきたい。というか、絶対近寄りたくない。

一般的にパチンコが「打つ」に該当するのかどうかは分からないが、これまた論外である。

無駄に高い光量の照明と騒音だけで、ボクにとってはそっこーイヤな場所になってしまうのだ。そんな環境で何かをするなど、考えるだけでも恐ろしい。ストレスがたまるだけである。

あくまでもボクの個人的な好き嫌いの話なので、あまり真に受けないように。他人の趣味に口出しをするつもりは毛頭ない。何が面白いのかさっぱり分からない、というだけなのだ。

バクチにまったく免疫がないワケではないのだ。親父が会社員時代はよく同僚や後輩達と一緒に、家で麻雀をやっていたのを眺めていたし、今でも実家に戻れば妹夫婦が加わって一族麻雀大会があったりする。素直にゲームとしての麻雀を楽しむだけである。

ゲームの面白さは分かるが、お金が絡むバクチになると話は別である。ボクはバクチに使うお金があるなら本に回す。

「買う」は論外である。もちろん、そうした職業に従事している人を否定する気はないが、根が女性なので(!)どうしても嫌悪感が先に立つし、それ以上に男性の野卑な欲望となると、やっぱり「不潔っ!」と叫んでしまうボクがいるのは事実だ。ボクも肉体的にはちゃんと男なんですがね(笑)

「呑む・打つ・買う」に共通して言えるのは、「なぜ、ここに、お金を使えるのか? 使う価値を見いだすことができるのか?」という、単純素朴な疑問に過ぎない。

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そうした経済的なゆとりがあるのなら、ボクは本に回す。それでなくても、お金はないのだ。だから、おねえちゃんの学費稼ぎのために副業をしているのであって(もちろん、本業で賄えるのならこんなことはしない)、身の丈以上の金銭的なゆとりを求めての副業など、ボクは間違ってもしない。そもそも極端な怠け者だし(笑)

ちなみにおねえちゃんも、アルバイトは一切していない。本代とちょっとしたハンドクラフトの材料代は、お小遣いで十分賄っているみたいだし、そもそもこの子も「お家大好き」な怠け者なのだ。ここは奧さんに似て欲しかったのだが、まぁしゃぁなしだ。

こうした生活基盤の持ち主が、「呑む・打つ・買う」に価値を見いだせなくても不思議ではない。むしろ、この三つに価値観を見いだすことの方が理解不能なのだ。

だって、この三つって、後に何も残らないのですよ。文字通りの消費。バクチなんて、場合によっては瞬速でお金が消える。

しかし、一方でこの三つに価値観を見いだす人がいるのは事実だし、なんとなく想像はしていたのだが、間近に実物をみるとやはりボクには驚きよりもショックの方が大きい。

逆に、彼らからすれば「本なんて」になるのだろう。まぁ、相容れない価値観なので、可能な限りこの手の人達とボクは距離を取らざるを得ない。批判なんて無意味だし、余計なお節介以外の何ものでもないし、だからと言って彼らと対立するエネルギーを使うほどボクは勤勉ではない。

ただ「呑む・打つ・買う」に価値観を見いだす人達の共通項目は、興味の対象がそれ以外にまったくないという点である。特に学歴が低くなると、この傾向は強くなる。

色々勝手に分析してみたのだが、どうも最終的には「余暇の過ごし方」に帰結するように思える。

余暇に何をしようが、その人の勝手だ。好きにすればよろしい。

肉体労働に従事しているなら、身体をゆっくり休めるのも重要な要素だと思うが、ここで分からなくなるのは疲労した身体に鞭を打ってでも「呑む・打つ・買う」に走る思考である。

まぁ、こういう人達には苦にならないのかもしれないが(むしろメリットの方が大きいのだろうとしか思えない)、ボクからすれば「?????」としかならない。

上記したように、最終学歴が低くなるとこの傾向は強くなるのだが、これは興味の対象の初期設定が著しく狭いからなのだろうか? まぁ、興味の対象が狭いという点では、ボクも似たり寄ったりなので、正直この分析には自信がない。

ただ、こうした人達と話をしている時に(滅多にないけど)「きみ、暇な時はなにしてるの?」と聞かれて、「本を読んでます」と言うと、途端にハブられる(笑)

「住む世界が違う」と突き放すのだろう。まぁこれはこれで、ボクもありがたいのだ。変にからまれるのもイヤだし、面倒だし。

こうした傾向は低学歴者だけではない。それなりの学歴を持っていても、「呑む・打つ・買う」にしか価値観を見いだせない人はいくらでもいる。いわゆる一流企業勤めの人の中にだって、結構いるものである。

こうなると、学歴など尺度として成立しない。もっと単純に、「好奇心の稀薄さ」しか見えてこないのだ。

いわゆる「学者馬鹿」というのも、こうしたグループに入るのかもしれない。高度な専門知識を持ちながらも、それ以外に興味の対象を見いだせないケースである。

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となると、やはり生まれ育った環境で、どこまで興味の対象が広くなるようにできるかになってしまうのだが、正直ボクには論理的な説明ができないし、ボク自身、無意識に生まれ育った環境の中にいて今に至ったのだ。

強いて言うなら、「とにかく家には本がやたらとあった」という程度であり、これはおねえちゃんも同様だ。

繰り返しになるが、興味の対象をそれなりに広く持てる環境を与えることができるかどうか、というのはどうもある程度世代を遡らないと環境そのものが整わないのかもしれない。

こうなると、子供だけのせいには到底できないし、かといってご先祖様を恨んでも無意味である。なかなかに厄介で、根が深そうではある。

例えこうした環境が成立したとしても、親の歪な価値観でコケれば、どれほど高度な教育をしてもロクなコトにならない。別の言い方をすれば、強制的に高度な教育を施すことができない環境でも、本人の刻苦勉励でどうにかなってしまうケースもある。

他のご家庭は知らないので、うちに関して言えば、おねえちゃんには「うちは貧乏だから国公立オンリーね」と、園児さん時代から言っているし、本来なら必要もない中学受験(もちろん公立だ)もさせて、受験の恐ろしさを体験させたし、高校は素直に公立、来年大学受験なのだが、おねえちゃんの狙いは公立一本である。

もっともおねえちゃんが狙っている大学は、「家からチャリ圏内」という斜め上のフィルターも含まれている。

それでも「家からチャリ圏内」には、ボクの母校もあれば京都大学もあるし、その他の公立で言えば京都府立大学、京都府立医大まであったりする。私学が加わると、もう両手の指では足りないぐらいだ。

どんだけ大学密集地域やねん、と思われる方もいるだろうが、再三書いているように、京都そのものが狭い上に、ボクが住むところというのは基本、母校周辺しかなかったからだ。

理由は簡単。適度に田舎で、地理を知り尽くしているからである。怠け者のボクが、何の理由もなくわざわざまったく未知の場所に住もうと思うはずもない。

伏見だって、島流しになっているのでいるだけの話だ。それでも2年もいれば、それなりに地理には通暁してきた。もっとも、とんでもない落とし穴があったのは言うまでもないが、今回は省く。

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本来、国公立は「経済格差を可能な限り排除して広く人材を集め教育・研究するための機関」である。大小の差はあれ、自治体がバックにいるのだから、やはりそれ相応の学力は必要だし、当然それなりに狭き門になる。

が、現実はかなり狂っているとしか言えないだろう。東大や京大に入るために小学校低学年から塾通い(それも帰宅時間は10時を過ぎたりするのはザラだ)、中学・高校はひたすら模試に明け暮れ、念願の大学に入学した途端に学問を捨て、バイトに遊びに精を出しているようではどうしようもないだろう。

そもそも大学という機関そのものが、本来の意味を失ったのは最近の話ではない。ボクの年代あたりで既に崩壊している大学は腐るほどあった。中堅未満の私学はその傾向が顕著であり、そもそも中堅未満の大学にしか入れない、というのは、もう高校までの学力がそれなりにしかないのだ。

大学生活が余暇にしかならなくなるのは、別に不思議でも何でもない。勉強してないんだもん。みんながみんなそうだとは言いませんが。

それでも有名私立や上位国公立大となると、どうしても高校までの学力が上位クラスにいなければどうしようもないのは事実であり、これに異常な塾通いが加わると、もう負の無限ループが見事なまでに形成されてしまう。

異常な塾通いの原因は当然、親に帰結する。半ば強制的なこうした行為を子に強いるケースが大半であり、そういう意味ではやはり負の学歴偏重のスタート地点になってしまうのだ。

こうしたケースの弊害は、あまりにも大きすぎる。なぜなら「教養とは?」「学問とは?」という根幹部分がすっぽり抜け落ちるケースが多くあるからであり、こうした素朴な疑問の発露となる好奇心そのものが、阻害される可能性があるからである。

もちろん、上記した危惧はボク自身の勝手な思い込みである可能性を否定しないが、出向先にしろ副業先にしろ、高卒レベルの教養で十分成立するはずの会話が、まったく通用しないというケースがやたらとあったからだ。周辺情報となるともう絶望的である。

もちろん、ボクの偏った嗜好がコミュニケーションを阻害しているのも大きな要素なのだが、「池波正太郎って誰ですか?」と言われると、もうどう答えていいのか分からないではないか。これはネタではなく、実際にあった話である。

今の日本が「努力次第で報いられる」社会環境、ではないことは百も承知している。だからといって、子供達の未来に影を落とすような真似が正当化されるとは思えない。ボクに言わせれば、それこそ「大人のエゴ」であり、無責任の誹りは免れない最低の行為である。

ただ、この「最低の行為」がまかり通っているのも事実であり、そうした現場を目の当たりにすると、さすがのボクでもクラクラしてくる。

これを単に学歴差と断じてイイのかどうかは、正直疑わしいが、表層的にはそう見える。もっとも、深さがどれほどあるのかもまた疑問ではある。

ただ単に、人類が致命的な欠陥のある種なのかもしれない。ちなみにボクは、実際そう思っている。どう考えても不自然過ぎる。ここに、自然界ではまったく意味をなさない学歴が加わると、もう決定的である。

正直、人類のことなどどうでもイイ。ボクにとって重要なのはおねえちゃんであって、おねえちゃんが面白おかしく幸せに生きてくれれば、それで満足なのである。

結局、親バカな結論にしかならなかったなぁ(笑)


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com