[4624] 生体意識をもって人工意識を味わうことは可能か(前編)◇「IT」と「THAT」

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《脳をやられているんですか?》

■Otaku ワールドへようこそ![286]
 生体意識をもって人工意識を味わうことは可能か(前編)
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■Otaku ワールドへようこそ![286]
生体意識をもって人工意識を味わうことは可能か(前編)

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https://bn.dgcr.com/archives/20180824110100.html

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『シンギュラリティサロン #30』 7月21日(土)聴講レポート

名称:シンギュラリティサロン第30回公開講演会
日時:2018年7月21日(土)1:30pm〜4:00pm
場所:グランフロント大阪・ナレッジサロン・プレゼンラウンジ
主催:シンギュラリティサロン
共催:株式会社ブロードバンドタワー、一般社団法人ナレッジキャピタル
講師:渡辺正峰氏(東京大学大学院工学系研究科 准教授)
演題:「『人工意識の脳接続主観テスト』が切り拓く意識の科学のこれから」

講演概要:

研究対象としての「意識」は、長らく哲学と科学の間を彷徨ってきた。意識の仮説を検証する術を、我々が持たないためだ。素直に考えれば、意識を有する脳を用いて仮説群を検証すべきところだが、生体である宿命から、仮説検証に必要な「意識の本質」の抽出が許されない。無理に抽出しようとすれば、今度は脳が死んでしまう。

ここで「意識の本質」の候補をあげるなら、哲学者のチャーマーズは、すべての情報が意識を生む(「情報の二相理論」)と主張し、神経科学者のトノーニは、統合された情報のみが意識を生む(「統合情報理論」)と主張している。

拙書「脳の意識 機械の意識」(中公新書)ではこの壁を乗り越えるべく、機械へと意識を宿す試み、すなわち、アナリシス・バイ・シンセシスによって意識の本質へと迫る手法を取り上げた。

ここで必須となるのは、機械の意識を検証する手法である。空気がなければ飛行機械の開発がままならないように、人工意識の検証法なくして、アナリシス・バイ・シンセシスによる意識の探求は成立しない。

私が提案するのは、「人工意識の脳接続主観テスト」[1]である。当該機械を自らの脳に接続することにより、自らの意識をもって機械の意識を“味わう”。ただし、人工網膜や人工鼓膜によっても感覚意識体験が生じてしまうように、単に脳に機械を接続すればよいというものではない。

テストの可否を握るのは、機械に意識が宿った場合にのみ、脳との間で感覚意識体験が共有される機械と脳の接続のあり方だ。ヒントとなるのは、ロジャー・スペリーによって二つの意識が共存することが示された分離脳である。検証の原理が指し示されることにより、意識の科学が「真の科学」(仮説提案と仮説検証の繰り返しによる本質の追求)へと昇華することが期待される。

最後に「人工意識の脳接続主観テスト」を思考実験として用いることにより、情報に意識が宿るとするこれまでの仮説群の問題点を指摘し、その代案として、神経アルゴリズム(生成モデル)が意識を生むとする自身の仮説[2]を紹介する。

[1]Watanabe, M.(2014). “A Turing test for visual :: an
experimental method to test various hypotheses on consciousness.”
Talk presented at Towards a Science of Consciousness 21-26 April 2014,
Tucson: online abstract 124

[2]渡辺正峰(2010)「意識」『イラストレクチャー 認知神経科学─心理学と脳科学が解くこころの仕組み』村上郁也編 オーム社

定員:100名
入場料:無料
聴講者:小林秀章(記)
https://singularity20180721.peatix.com/



【タイムテーブル】

13:30〜15:00 渡辺正峰氏(東京大学大学院工学系研究科准教授)講演「『人工意識の脳接続主観テスト』が切り拓く意識の科学のこれから」

15:00〜 15:30 自由討論


【ケバヤシが聴講する狙い】

意識の謎が常に頭から離れなくなって、「無限後退思考障害」という名の(実在しない)病に罹患しているほどの私であるから、この講演会を聴講しに行かないという手は考えられない。

もともとの必然性の上にさらに必然性を上塗りする、ちょっとした裏話がある。

2018年3月11日(日)10:12am、シンギュラリティサロンを主宰する松田卓也氏(神戸大学名誉教授)から、Facebookでメッセージが届いた。

この日は、大手町サンケイプラザにてシンギュラリティサロンが開催され、中野圭氏と中ザワヒデキ氏が講演する予定になっており、出かける準備をしているところだった。
https://peatix.com/event/351900


松田氏からのメッセージは、本文がなく、産経ニュースの記事にリンクが張ってあるだけ。記事は、渡辺正峰(まさたか)氏の著書を紹介する内容であった。

 2018.3.10 07:24
 産経ニュース
 高みをめざしたチャレンジ「脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦」
 渡辺正峰著
 上林達也(中公新書編集部)
 http://www.sankei.com/life/news/180310/lif1803100019-n1.html


記事自体は前日に上がったものだが、渡辺氏の著書は、去年の11月に出版されている。

 渡辺正峰(著)
 「脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦」
 中央公論新社(2017/11/18)

無限後退思考障害に陥るほどの私であるから、そんなのはとっくに読了していた。……と言いたいところだが、不覚にも、チェックから漏れていた。私の関心をよーく把握していて、そのド真ん中を衝いてくるような本を紹介してくれた松田氏に感謝しつつ、即、Amazonでポチる。

Facebookに渡辺氏がいるのを見つけ、「友達」申請を送る。まだお会いしてもいないどころか、著書も読んでいないうちから、馴れ馴れしくて失礼かな、と多少は気にかけつつも、ずうずうしく。翌日、12日(月)7:54pmに承認していただけた。

3月26日(月)には読み終わり、そこらじゅうのページの端が折り曲げてあり、赤のボールペンで書き込みだらけという状態になった。

7月14日(土)に町田で開催される「NHK カルチャー」で講演することになったと、渡辺氏がFacebookでアナウンスし、私は5月19日(土)に聴講申し込みしている。
http://www.nhk-cul.co.jp/nhkcc-webapp/web/WKozaShosaiInsatsu.do?kozaId=1670698


その後で、「シンギュラリティサロン」のアナウンスがあった。まず、6月23日(土)に大手町サンケイプラザで。
https://peatix.com/event/392444


このとき初めて渡辺氏にお会いした。開始直前、すでに壇上に上がっている渡辺氏のところへ松田氏が私を呼んでくれて、紹介してくださった。「真面目な人なんです」と。その真面目な人の姿が、どう見ても変態にしか見えない、セーラー服を着たおっさんだったのはシュールだったかもしれない。

それから、7月7日(土)に大阪で。
https://singularity-salon-30.peatix.com/


この大阪の回が大雨で延期になり、今回、7月21日(土)の開催となった。
https://singularity20180721.peatix.com/


ってことは、3月にリンクだけを送ってきた松田氏のFacebookメッセージは、「シンギュラリティサロンに渡辺氏を呼ぶからね」っていう予告だったのか。そこまでは読み切れなかったっす。

さらに、8月7日(火)には、原宿で茂木健一郎氏(脳科学者、作家)との対談「身体と意識(Body & Conscious)─脳の未来を科学する─」が開催された。
https://bodyandconcious.peatix.com/


私の中で渡辺氏ブームが起きている。難解なところは多々あっても、さすがに4回も聴講すれば記憶には刷り込まれ、なんなら、風邪引いたから代打でしゃべってくれ、って言われたら、できちゃいそうだ。魂の入っていない、ものまねロボットになっちゃうだろうけど。


【内容】

□松田氏よりイントロ

このところ「意識シリーズ」というのを意識的にやっている(※)。慶応義塾大学の前野隆司先生から始まり、アラヤの金井良太氏と続き、前回が中部大学の津田一郎先生だった。今回は、東京大学の渡辺正峰先生。さらに次回はアラヤの大泉匡史(まさふみ)氏を予定している。

※松田先生は、シンギュラリティを起こすという観点からすれば、機械に意識なんか宿ってないほうが人間にとって都合がよいとお考えで、意識の謎の深みに引き込まれているのはむしろ私のほうだ。意識シリーズは私にとって、非常にありがたい。

このシリーズ、セーラー服おじさんが講演者候補をサジェストすることが多いけど、渡辺先生に関しては、松田先生が“発見”した。著書に「脳の意識 機械の意識」があり、これを読んで、お呼びしなきゃとなった。ところが、連絡が取れなくて、えらく大変だったのだとか。

渡辺氏は、日本の研究者たちとそれほど密には交流をもたないようで、人づてに連絡をつけようとしても、近い位置にいるはずの人でさえ、どこにいるか分からないという。教授会に出てこないんだとか。

さては、地下の実験室にこもって出てこない、天才ならではの変人か。かつて、研究に没頭するあまり、日露戦争に気づかなかった学者がいたらしい。

東大の大学院生の三上氏という方が、連絡つきますよ、とFacebookで言ってくれた。ドイツにいますが、と。神経科学の権威であるニコル・ロゴセシス氏のもとへ行っていることが多いんだとか。

お呼びしたら、セーラー服おじさんのほうがハマってしまい、ほとんど追っかけ状態で、前回の東京でのシンギュラリティサロンに引き続き、町田にも行ったそうで(報告者注:はい、その顛末については後述します)。

□自己紹介

哲学者ジョン・サールの言葉。「脳を研究して意識を研究しないのは、胃を研究して消化を研究しないようなものだ」。

渡辺氏は、サール氏の示唆を地で行き、脳の研究を通じて意識を研究している脳科学者である。

意識研究は、哲学と科学の間をさまよっている状態が、数千年来続いている。仮説は出てくるけど、検証できなくて、同じところをぐるぐる回っている。

これを何とか打破したいというのが、著書『脳の意識 機械の意識』を書く動機だった。一番のポイントが主観テストなのだが、今日の話の途中ぐらいで出てくる。

もともとは東京大学の合原一幸教授のもとで、脳の理論研究をやっていた。他人の研究の出がらしみたいなデータを使っていたが、出がらしだけあって、おいしいところはすでに持っていかれている。自分の立てた仮説に沿って実験を組み立てたくなり、理論から実験のほうへ流れていった。

まず目をつけたのが、心理実験。認知心理学者である下條信輔先生(カリフォルニア工科大学教授)のもとで、一年間勉強した。しかし、心理実験では仮説検証に不十分と感じ、やっぱりサルを使って、実際にニューロンを計測しなきゃと思うようになって、ドイツのロゴセシス先生のところへ行った。

2005年ごろから数年のつもりだったのが、10年ほど行っていた。下條先生の下にいたころ、意識の問題に出会い、金井良太氏や土谷尚嗣氏からインスパイアされてしまった。

もうひとつ裏テーマがあり、対象に意識が宿っているかどうかをテストする方法を提案し、その可能性について考えてみたい。

□錯視を通じて実感できる意識とは

意識とは何か、言葉をもって客観的に定義しようとすると、ややこしいことになりかねない。しかし、実感をもって「なるほど、これが意識か」と手っ取り早く分かる手段がある。

ロゴセシス先生が、サルの実験を通じて、どうやって意識を研究したのか。「両眼視野闘争」という、若干、物騒な響きのある錯視がある。右目と左目とが、意識を奪い合う。

現実の景色を両目で眺めているとき、右目と左目の位置が離れているため、左右の目は、物体をほんの少しだけ異なる角度から見ている。なので、左目の見ている映像と右目の見ている映像とは、異なっている。近くにある物体ほど、それを見る角度のずれが大きいので、映像の相違も大きくなる。

この相違を利用して、自分から物体までの距離を算出することができる。おかげで、われわれは周囲にあるものを三次元的にありありと頭の中に描き出すことができる。これが両眼立体視である。

では、もし、左右の目に対して、どうがんばっても立体像を構築できないくらい、がらっと異なる映像を強制的に見せたらどういうことが起きるか。

この実験は、赤青メガネを使って簡単にできる。グレーの地の上に、赤い縦縞模様と青い横縞模様とを重ね合わせた図柄を用意する。赤と青の重なり部分は紫色に塗られている。

この図柄を、赤青メガネを通して見る。左目には赤、右目には青の半透明のフィルタを通して映像が入ってくる。赤いフィルタを通して見ると、グレーと赤の区別がつかなくなるので、青い横縞模様が見える。一方、青いフィルタを通して見ると、赤い縦縞模様が見える。

立体像復元問題を解決できない無茶苦茶な入力に対し、われわれは、いったい何を見るのか。渡辺氏は、聴講者に赤青メガネを配布し、実際に体験させてくれた。

結果、縦縞か横縞かのどちらか一方だけしか見えず、それがぱっぱぱっぱと切り替わる、不思議な現象を体験する。切り替わるタイミングは周期的ではなく、不規則である。右目と左目とが、自分が見ている映像こそ本物であると主張しあって、結論としての映像を奪い合うような現象である。

このとき、今現在見えているのがどっちであるか、それが視覚のクオリアである。元となる絵柄自体は何も動かないので、この切り替わりの現象は、純粋に主観の側の作用であることが明確なのがミソである。

左目で見ている景色の左半分と、右目で見ている景色の左半分とが、右脳へ行く。両者の右半分は左脳へ行く。左右それぞれの目で見ている絵の情報は、ちゃんと左右の脳半球までは間違いなく届いている。今現在、こっちの絵が見えている、というのは、主観の側の現象である。

とにかく、ものが見えていれば、それが視覚のクオリアである。音が聞こえていれば聴覚のクオリアだし、においや味がしていれば、それぞれ嗅覚と味覚のクオリアだし、痛みを感じていれば、痛みのクオリアだし、オタクはメイドさんから萌えのクオリアを感じ取っているかもしれない。

どれかひとつでもクオリアが生じていれば、そこに意識があると言える。睡眠中、五感からの情報入力が遮断された状態にあっても、夢をみているときにはクオリアが生じている。なので、意識がある。

デジタルビデオカメラを使えば、リアルタイムで映像情報を取得することができるが、カメラ自体が、映像が見えていると感じ取っているとは考えづらく、おそらく意識は宿っていない。二眼式3Dカメラで縦縞・横縞の実験をしても、カメラ自身が両眼視野闘争を起こすことは、もちろんない。

ある人が両眼視野闘争を経験している最中において、それを眺める他人からは、今現在、この人がどっちを見ているのか、直接的に知る手段は存在しない。他人の意識をみるには、その人の自己申告を信じる以外にない。このことを指して、意識は「第一人称的」であるという。

サルは、両眼視野闘争が起きるので、意識があると考えられている。縦縞が見えているか、横縞が見えているかに応じて、左右それぞれのレバーを引くようにサルを訓練しておいて、上記の実験をすれば、今現在、どっちが見えているかを自己申告してくれる。

結果、人間と同じように、不規則なタイミングで、ぱっぱぱっぱと切り替わる。サルの自己申告を信じれば、サルにも意識があることになる。

サルを訓練するだけで2年ぐらいかかるのだが、ヒトではなく、わざわざサルを使って実験する意味は、両眼視野闘争の最中に脳のどの部位のニューロンが発火しているのかを観察できる点にある。

脳に電極を入れていいことになっているのは、ニホンザルとアカゲザルで、チンパンジーとオランウータンはやっちゃいけないことになっている。違う目的のついでであれば、ヒトに対してもやっていいことに、なぜかなりつつあるんだとか。

哲学者であるデイヴィッド・チャーマーズ氏は、思考実験上の仮想的な存在として「哲学的ゾンビ」というのを1990年代に提唱した。外からみると、その人はいかにも意識を宿しているように振る舞うが、その実、本人にとっては、映像も見えてないし、音も聞こえていないし、痛みも感じていないし、夢もみないし、萌えもしない。

もし、自分以外が全員哲学的ゾンビだったとしても、それを見抜く手段はない。また、他人から「おまえ、ゾンビだろ」と嫌疑をかけられたとしても、身の潔白を立証する手段はない。ここに気がつくことは、意識を理解する上での第一歩と言える。

意識とは、第一人称的な感覚体験のことだ、と言える。

□意識は脳のどこに宿るか

大脳や小脳が腫瘍などで損傷を負った場合、記憶や運動がどうかなることはあっても、意識それ自体はびくともしない。一方、皮質や視床あたりが損傷を負うと、途端に、意識がどうかなってしまう。このことから、意識は脳全体にわたって宿るわけではなく、ある特定の部位が役を担っていると考えられる。

1990年に神経科学者であるFrancis Crick氏とChristof Koch氏が「意識に相関する神経活動(neural correlates of consciousness;NCC)」という概念を提唱している。ある特定の意識的知覚を共同して引き起こすのに十分な、最小の神経メカニズムとして定義される。Wikipediaには「意識に相関した脳活動」という見出しがある。

両眼視野闘争が起きている最中、脳のどの領域の神経細胞(ニューロン)が発火しているかをサルで調べてみると、どちらか一方が見えているときにだけ発火率の高い領域があるので、そのあたりは意識に関わっているかもしれないと推測することができる。

しかし、NCCをちゃんと特定しようとすると、精密な論理運びに基づいた綿密な実験構成が必要で、それはそれはたいへんな苦労を強いられる。特に、第一次視覚野(V1)がNCCに含まれているかどうかについては、説が揺れて、2011年に渡辺氏が決定打を放つまで、20年以上かかっている。渡辺氏はこれを「V1をめぐる仁義なき戦い」と呼んでいる。

網膜に映った倒立画像が、V1からV4まで順々に伝達されていき、低次の視覚野は、点や線や縞模様など単純なパターンに反応するニューロンが占め、高次の視覚野は、顔などに反応するニューロンが占める。V1を強制的に機能しなくすれば、もちろん何も見えなくなるのだが、だからと言って、V1がNCCに含まれていると結論づけるわけにはいかない。

目をふさいでしまえばものは見えなくなるけれど、目に意識が宿っているわけではないのと同じことだ、という理屈である。目からの入力がなくたって、夢をみている最中には、視覚クオリアが生じている。

あるいは、ラジオから電池を抜いてしまえば、ラジオは鳴らなくなるけれど、だからといって、電池がラジオの本質に関わるとは言えない。AC電源で代用することだってできる。

V1がNCCに含まれるかどうかを、ネズミを使った実験によって特定しようと考えたが、ネズミでは両眼視野闘争が起きていないらしいと分かるだけで3年を要し、絶望的な気分になったのだとか。

錯視の二大巨頭とされる、もう一方に、「ビジュアル・バックワード・マスキング」というのがある。

ある画像、たとえば、縦縞模様などをほんの一瞬だけ表示すると、意識の側は、数百ミリ秒遅れて、それを認識することができる。この画像をターゲット刺激と呼ぶ。

ところが、ターゲット刺激を表示してから、70〜80ミリ秒後に、別の画像、たとえば、チェック模様などをほんの一瞬だけ表示すると、最初の画像が表示されたことはまったく認識されなくなり、後のほうの画像だけが一瞬だけ表示されたと認識する。この画像をマスク刺激と呼ぶ。

ターゲット刺激からマスク刺激までの時間幅を長くしていくと、133ミリ秒くらいのところから、ぱぱっと両方が表示されたと認識できるようになる。

ターゲット刺激が脳のどこかでぐるぐる回って待機しており、一定時間内に別のものが来なければ意識にのぼるが、マスク刺激が来ると上書きされて消えてしまうのだと考えられる。

ターゲット刺激がV1を通り抜け終わったとみられるまでの短い時間を経たのちに、V1を強制的に機能しなくして、それでもやっぱり知覚に影響が及ばないことが分かれば、V1は単なる情報の通り道にすぎず、NCCに含まれないという結論になる。

脳に人工的に手を加えることによって、因果性があるのかどうかを見分けることを「操作実験」という。

脳の特定の部位だけに対して、精密なタイミングで強制的に発火を抑制する、画期的な手法が開発された。「オプトジェネティック抑制」という。遺伝子工学的手法を用いて脳の特定のニューロンに細工を施すことで、光を照射することにより強制発火させることができるようになる。

抑制性のニューロンにこの細工を施すことにより、ごく近接したニューロンだけを一斉に黙らせることができる。この瞬間、その脳領域は存在しないのと同じことになる。しばらくすると回復する。

ネズミによる実験の結果、V1はNCCから排除された。2011年。
http://www.riken.jp/%7E/media/riken/pr/press/2011/20111111/20111111.pdf


□意識のハード・プロブレム

さて、ここまでが序論である。いきなり本論の意識の話に入ると、オカルト方面のアヤシイおじさんだと思われかねないので、まず、学者としてのちゃんとした実績を示しておきたかったということのようで。

ところが、もう紙面が尽きてしまいました。続きは次回に送ります。

【余談】

意識を専門に研究されている天才に、ド素人が質問をぶつける貴重な機会が与えられるのはたいへんありがたいことだけど、まあ、たいていのことを聞いても、そんなのはとっくの昔に考え済みだとばかりに、まるで録音を再生するかのごとく、すらすらっと即答されてしまうものだ。

6月23日(土)に大手町で開催されたシンギュラリティサロンでは、即答されない質問ができたのは、自分としては上出来だった。脳神経細胞のネットワーク構造においてなされる計算と、同等の計算をコンピュータで実行することは理屈の上では可能で、もしそこにも意識が宿るのだとしたら、じゃあ、紙の上で手計算したらどうなのだろう、と疑問に思ったのである。

脳が0.5秒ぐらいの間になす計算を紙に書き出したら、紙が何万枚必要になるかは知らない。実際問題としては無理だろうけど、思考実験としては、可能な話だ。脳と同等の計算に意識が宿るのだとしたら、紙の上での手計算の場合、どこに意識が宿るのだろう。計算する行為そのものにか、計算結果にか。どこにも宿りようがないような気もするけど、どうなんだろう。

計算する主体としての人の側の脳内にクオリアが生じるのではないか、という考えもありうるけれど、しかし、その人に生じるのは、あくまでも計算しているというクオリアであって、網膜から伝達されてきた情報を手計算で処理したからといって、視覚のクオリアがありありと湧き起こってくるわけではないだろう。

聞いてる私の側も、質問の意味がよく分かっていなかったりするわけだけども、渡辺氏は、これに即答しちゃマズいと直感されたようだ。「さすがはセーラー服おじさんです。参りました!」という謎の回答。

終了後、お茶に誘っていただけた。東大の大学院生である三上氏と、もう一人の聴講者と私が参加した。松田氏は用事があるとのことで、帰っていかれた。

6:00pmぐらいまで、たっぷり2時間ほど、ディスカッションにおつきあいいただけた。偉い学者先生の貴重な時間をこんなに長く割いていただけるなんて、研究室のゼミ生か、研究仲間である学者か、取材記者でもない限り、ふつうはありえない話だ。

すでに百万回も聞かれたことをまた聞かれたりして、先生にとっては多少ご迷惑だったかもしれないけど、私の側としては、疑問をひとつひとつクリアにしていくことができて、理解が深まった。お世辞かもしれないけど、いちおう「鋭い!」と言っていただけた。紙の上での手計算についての質問に対する回答は、そこでも保留とされた。

写真はこちら:
https://photos.app.goo.gl/prXy9cJmx5PXywVe6


7月14日(土)のNHKカルチャー町田教室のは、聴講参加申し込みした後で「シンギュラリティサロン」のアナウンスがあり、そっちですっかり満足した私はもう行かなくてもいいようなものだった。けど、すでに4,050円払ってあるし、専門家のお話が聞ける貴重な機会なので、行くことにする。

せっかくなので、新しい質問ができるようにと、著書を読み返した。そしたら、聞きたいことが山ほど湧いてきて、とてもじゃないがその場でなんか質問しきれない分量になったので、前日の夜、メールで送りつけておいた。返信が来て、では、終了後に喫茶店かどこかでディスカッションしましょうか、と提案していただけた。

参加無料のシンギュラリティサロンでは、用意された100席が満席になったが、町田の有料講座に集まったのは15人ほどだった。しょせんNHKの文化講座なんて、聴講しに来るのは暇を持て余した素人ばかりだろうと高をくくっていたら、実はそうでもなく、半数ほどは、渡辺先生を目当てに来た、医大の院生など、学術畑のガチな面々だった。

枠は1:30pm〜3:00pmだったけど、終了後も会場に残った人たちからの質問攻めが止まらず、スタッフからの再三の催促の声がだいぶ強まってくるまで1時間ほど粘った。

先生から、じゃ、続きは喫茶店かどこかでやりましょうか、と提案され、7人ほどがぞろぞろとついて来た。ところが、そこらへんの喫茶店はどこも満杯で、この人数じゃとても入れそうにない。まだ明るいけど、飲みに行っちゃいましょうか、と。

「炉ばた情緒かっこ(「」)町田店」に入ったのが4:30pmごろで、2時間限定とのことなので、6:30pmごろまで居た。私に質問してきた人がいる。「脳をやられているんですか?」。あ、はい、頭をぶつけちゃいまして。って、そういうことじゃなかった。脳を専門に研究されているんですか、と聞いていたのだった。

飲み屋とは言え、真面目なディスカッションの場として来たのであるから、この時点では、割と抑えて飲んでいた。2時間ではとうていケリがつかず、次は「カラオケ館小田急町田駅前店」になだれ込んだ。飲み放題オプションをつけたもんで、ここではもう止まらなくなった。しかし、歌へ行くことはなく、延々と脳談義が続いた。

渡辺先生がこの日の講座でもらったギャラを、みんなで寄ってたかって酒に変えて、あらかた飲み尽くしてしまった。暴挙だ。小田急線町田駅から急行新宿行に乗ったのは、23:19だった。

写真:
https://photos.app.goo.gl/caXBXBkbXWjamcNS6


渡辺先生、怒ってるんじゃなかろうかと、7月21日(土)の大阪のシンギュラリティサロンでは、内心少しびくびくしていたのだが、そんな気配はまったくなく、ほっとした。

終了後、同じフロアー内に隣接するカフェスペースでお茶会が催され、松田先生ほか、十数名が参加した。活発な議論の延長戦が2時間ほど続いた。

渡辺先生と三上氏は、翌日、名古屋で用事があるとのこと。名古屋に移動してから一杯どうかとお誘いいだたき、翌日、特に予定が入ってなかった私はお供することに。

18:23大阪発の東海道本線快速長浜行で新大阪へ、18:40新大阪発ののぞみ48号東京行で名古屋へ。新幹線の中で、3人並んで座っている写真を渡辺先生が自撮りして、シンギュラリティサロンのFacebookページにアップしていた。
この写真:
https://photos.app.goo.gl/cQaNXTj1neSeFhAp9


19:31名古屋着。名古屋市営地下鉄東山線で栄へ。居酒屋「我楽多文庫昭和ビル店」。そうとうな量の酒を飲みつつも、真剣に意識の問題を論じ合った。特に、計算を端折ってルックアップテーブル(look-up table; LUT)参照に置き換えていったら、どこまで意識はもつのかが、非常に面白い議論だった。このあたり、ゲーデルの不完全性定理のニオイがぷんぷんしてくる。

11:30pmごろまでそこで飲んでいた。あ、宿、決めてないぞ。店を出ると、すぐ隣りに「R&Bホテル名古屋栄東」があり、入ってみると一部屋だけ空いているというので、そこに決める。チェックインだけすると、部屋には行かず、3人で「ビッグエコー広小路店」へ。

さすがにここまで来ると、脳と意識はもうたくさんで、歌になった。なんと、3人ともそれなりに歌えるクチで、というか、三上氏はすごーく上手く、意外に盛り上がった。2:00am近く、「新世紀エヴァンゲリオン」のオープニングテーマ「残酷な天使のテーゼ」(高橋洋子バージョン)を3人で大熱唱して締め、お開きとなった。

その旨、シンギュラリティサロンの Facebookページに書き込んでおいたら、翌朝、松田先生からコメント。「よう、やるわ」。

8月7日(火)、原宿の「VACANT」にて、渡辺正峰氏と茂木健一郎氏との対談イベントが開催された。題して「身体と意識(Body & Conscious)─ 脳の未来を科学する─』。ボディコンですかぃ。
https://bodyandconcious.peatix.com/


茂木氏が一般の聴衆を相手に講演することはめったにないらしい。頭がよすぎて聴衆がついて行けず、言いたいことがちっとも伝わらないことからくるフラストレーションが耐えがたい、ってことだろうか。今回は、対談相手が渡辺氏だからということで、講演依頼を受けてくれたらしい。

100席ほどが用意されていたが、満席になった上に、後ろのほうにごちゃっと20人ほど立ち見で聴講していた。大盛況。

渡辺氏の論点は、意識の第一人称性という限界の突破の可能性にある。脳の片側の半球を機械に置き換え、脳梁に相当するマイクロワイヤーで生体半球と接続することにより、機械半球側に意識が宿っていることを、生体半球側が味わうことで確認可能であろう、としている。

また、意識はアルゴリズムに宿るという仮説に基づいて、計算機に意識を宿らせることができれば、意識のアップロードも現実味を帯びてくる、と。

ばーん! と、ちゃぶ台返しにかかる茂木氏。マインド・アップローディング? ないないないない、100%ありえない!「テクノロジーの皮をかぶった、来世幻想の現代版だ!」とまで。

意識を研究している科学者の多くは、次のように考えている。脳は、機能としては計算しかしていない。それと同等の計算をコンピュータ上で実行すれば、そこにおのずから意識が宿る、と。んなわきゃあるかい!

プログラミングしているのは人間であって、また、計算結果を解釈しているのも人間で、意識が宿っているのは、そのときの人間側である。コンピュータが計算する過程においては、ビット列を演算操作しているにすぎない。そんなところに意識なんか宿りっこない。断言できる。意識を研究している科学者の99%(※)はそこを根本的に間違えている。

※意識を研究する科学者って100人もいたっけ? 要するにオレ以外は全員間違っとる! とおっしゃりたいんですな。

テニスや卓球の試合にたとえれば、茂木氏がばんばんばんばんスマッシュを打ち込んでくるのを、渡辺氏はひょいひょいひょいひょい返して、得点では負けてないぞ、みたいな議論になり、たいへん見応えのあるラリーであった。

ところで、当日の11:20am、渡辺氏はご自身のFacebookのタイムラインに次のように書き込んでいた。「茂木さんと相談して、対談後に皆で一緒に飲みに行こうという話になったので、なんとなく、うろうろしていてください!」。おおお!

原宿「居酒屋大炊宴」へ。茂木氏とお話ができる千載一遇のチャンスだっちゅうに、氏の提唱する「オーバーフロー(overflow)理論」を予習しておかずに臨んだのは、まったくの不覚だった。

質問しても、「どうせお前になんか分かりっこないから、理解しようとしなくていいよ」ぐらいの調子で、まともに取り合ってもらえない。

逆に、茂木氏から質問してきたのは、パンツの色とかだった。勝負パンツをご覧に入れる。頭脳じゃ勝負にならんからって、いったいどこで勝負しとんのじゃ、オレ。おそらく印象にはよく残ったことであろう。

写真:
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セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
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いつもの例だと、夏休み明けの初回は、『ぼくの夏休み』と称して、絵日記の宿題よろしく、夏をどう過ごしたのかを軽〜い調子でレポートするのだが、今年はほとんどどこへも行かなかった。コミケの最終日に 1時間ほど滞在して、森川嘉一郎氏(明治大学准教授)のブースに行ったぐらいだ。

なーんか、勉強しなきゃならんことが指数関数的に増えてきていて、アップアップしている。Pythonというプログラミング言語に入門した。なんというずぼらな言語だ。

変数を使う際、あらかじめ型宣言しておく必要がなく、代入するものに応じて型が変幻自在だとか。関数やfor文やif文のブロック範囲を、括弧の代わりにインデントで表現するので、すんごいぶっきらぼうにブツッと終わるとか。

こんな緩い言語仕様だったら、ちょっと間違えただけで、バグの所在が特定できなくなって、永久に悩むんじゃなかろうか。ところが、インタープリタ言語なもんで、実行時のエラーメッセージがきめ細かくて、案外、デバッグしやすいぞ。

お作法にうるさいC++の様式美みたいなやつに、いい加減、うんざりしてたとこなので、これは楽チンでいい。

今まで、UNIX上のC言語でプログラミングして、C-shellスクリプトで起動する原始的なやり方を主流にしてきた。これだと、ソースをWindowsに移植してきたときなど、面倒な目にあう。

MS-DOS時代からのバッチ処理言語は、もう仕様がアホか、っちゅうぐらいひどいし。Windows PowerShellみたいな、特定のOS依存のものをいまさら新たに覚えるのはイヤだし。

人工知能界隈では、PythonとMatlabが大はやりと聞くので、この際、覚えるか、と。1,000行ぐらいのプログラムを書き、いい感じに動作している。プログラム本体とシェルスクリプトが一体で書けちゃうのが、たいへんよい。

ふだんの平日よりも密度濃く過ごせた感じがするけど、夏休みがあったような気がせんわ。


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編集後記(08/24)

●「IT」を見た。「THAT」を見た。2017年の「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」はホラー映画史上、最大のヒットを記録しているという。最低の副題だと思うが。「THAT その“招待状”が届いたら、“あれ”が来る」はお馴染みアルバトロスの、タイトル便乗商法。原題は「BEDEVILED」で2016年の制作である。もちろん「IT」ワールドとは全然関係がない。微笑ましいw

「IT」はオープニングが素晴らしい。黄色いレインコートを着た幼いジョージが、雨水の流れに乗った紙の船を追って排水溝に至ると、暗い穴の中に“それ”(ペニーワイズ)が潜んでいる。大人でもビビってしまう不自然で不気味なシーンだ。ジョージは腕を噛みちぎられ、下水道の奥に引きずり込まれる。

あー、昔の「IT」より怖そうだなと身構えて見ていたが、エンディングに至るまで昔のを超える怖いところはない、お化け屋敷バラエティ映画だった。日本のお化け屋敷映画の方がずっと怖い。7人の子供たちの親の方がずっと怖い。娘を性的虐待する父親とか、子供に無関心とか過干渉とか、屑のような大人。

そしてお約束で出てくる不良グループ。低能で粗暴で粘着質で“それ”よりも面倒くさい連中だ。それぞれがなにかしらの悩みを抱える7人の子供たちが、健気に結束する。80年代のいい子たちだ。間違いなく、次回の「IT」で、27年後の彼らは中年になっていて、また再結成されて“それ”と戦うんだろう。

ユリイカの特集で、前半は「スタンド・バイ・ミー」、後半は「グーニーズ」みたいなもんだと風間賢二が言ってたが、そだねー。藤田新策がキングはどういう人かと、会ったことのある人に聞いたら「野坂昭如をでかくして、熊に似せた人だ」と言われたという。広江礼威はキングにおける「恐怖」をこう書く。

「キングが書こうとしている恐怖の根底にあるものは『自分は絶対にそんな目に遭いたくない』ということで、それを突きつけるのがキングの神髄だと思う」。シンプルで納得できる説明である。今後利用させてもらおう。7人と戦って負けた“それ”は「fear」と言い残して、さらに井戸の奥深くへと消えていく。血も凍る恐怖を期待していたが、これは子供でもOKの怖さだ。

1990年の「IT」は面白かった。素晴らしいホラーだった。VHSソフトを買って何度も見た。ペニーワイズが白黒写真の中からぎくしゃくと現れ迫るシーンは、本当に怖かった。ただ、邪悪なものが光りながら排水管の中を移動したり、ペニーワイズの頭部をパチンコの銀弾で貫くと光が噴き出すという、光は善なる希望というお約束(?)から逸脱し、大いなる違和感を覚えたものだった。

さて、「THAT」の“あれ”だが、原因不明の突然死をした親友から、謎のアプリへの招待状がスマホに届く。正体不明の「ビー・デビル」をインストールしたバカな若者たちは、個人的に最も怖ろしい事態に陥り死ぬ。これは削除不可能な悪魔のアプリなのだ。スマホを物理的に破壊しても復元する。“あれ”なんて誰も言ってない。宣伝ビジュアルだけ「IT」風な詐欺的な……。(柴田)

IT
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THAT
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IT 1990版
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●大阪・富田林の留置所脱走。ちらほら目撃情報はあるものの、いまだに捕まらず。

外出しても、人の顔なんて見てないんだよなぁ。他人を見てない。待ち合わせなど、見ないといけない時だけ、意識した時だけ。けど逃走犯がいるかもってキョロキョロしないなぁ。正常性バイアスかかってる。

電車の中なら、多少は見るかなぁ。同行者らは、離れていた方がいい人、芸能人など結構チェックしていて、知らせてくれるから助かる。補ってくれる。

という流れから、プリズンブレイクと変質者の話のどちらに持っていこうか迷った末、このままにするっ。 (hammer.mule)