Scenes Around Me[34]東京大学駒場寮の事(13)中山道の写真展を開催する(1)中山道に興味を持った経緯/関根正幸

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1998年4月に入ると、アリテンには3月末の更新騒動がなかったかのような日々が戻ってきました。

この頃になると、アルバイトの忙しさも一段落して、私は休日など昼過ぎまでアリテンで過ごすようになります。

アリテンには、内藤くん、コック、蟲くんなど、アリテンに半分住み着いているような人以外に、駒場寮生やゼロバーの客が出入りして賑やかだった記憶があります。

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一方で、私はいつの頃からか「アリテンは居心地は良いが、ここにいても何も出来ない」と思うようになりました。

そのことと関係あるかもしれませんが、この頃、私はそれまでに撮り集めてい
た中山道の写真を、駒場寮で展示する事を思いつきました。

写真展を行おうとしたのは、岡画郎やのざらし画廊で知り合った人の写真展を見るなど、何かのきっかけがあったのは確かですが、具体的なことは思い出せません。







ここで話が脇道にそれますが、私が中山道の写真を撮るようになった経緯を書くことにします。

このことについては、私のブログ「中山道日誌」に一通り書いてあります。

http://sekinema.jugem.jp/?cid=3



1992年5月、私は岐阜県中津川市内の研修施設で行われた、数学の勉強会に参加しました。

勉強会は半年前に参加を申し込む必要があり、会費も同時に支払うことになっていたのですが、当時金欠だった私は、食事は頼まず宿泊だけ申し込みました。

私は食事を外で取るつもりでいたのですが、研修施設は木曽川北岸の山中にあり、徒歩で食料を調達できるか分からなかったため、中津川に自転車を輪行で持って行きました。

それが災いしました。

研修施設の玄関には、中津川および周辺の25000分の1の地形図を張り合わせたパネルが展示されていました。

それを見た私は勉強会そっちのけで、気になった場所に自転車で行ってみるようになったのです。

例えば、研修施設の近くを通っていた北恵那鉄道の廃線跡を探索した後、下呂温泉まで行ってみたり、やはり研修施設の近くにある苗木城址の付近を探索したりしました。

特に旧中山道は、数回に分けて妻籠宿から中津川市の西の外れまで探索したことから、旧中山道を東京から京都まで、ツーリングしたいと思うようになりました。



ところが、当時、街道歩きのブームは下火でした。

中山道のガイドブックも妻籠宿、馬篭宿のような宿場町や、寝覚の床などの観光地を紹介するものばかりで、中山道がどこを通過していたかを示す本は、書店にありませんでした。

(後になって金井金吾「今昔中山道独案内」が出版されていたことを知るのですが、この時は絶版になっていたため、目にすることはありませんでした)

そこで、大学の図書館で25000分の1の地形図を参照しながら、中山道の道筋を想定し、1992年8月に埼玉県桶川市から長野県下諏訪町まで、ツーリングを行いました。

その結果、概ね中山道を走ることができたのですが、途中何カ所かで道を間違えたことに気付き、中山道の正確な道筋を知りたいと思うようになります。

実は、図書館で中山道の宿場名を調べるために百科事典を参照していたのですが、「五街道」の項目に、五街道分間延絵図の図版が載っているのが気になっていました。

そこで、五街道分間延絵図が所蔵されている、上野国立博物館の資料室に行くことにしました。



https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007507
(リンク先は中山道分間延絵図第3巻)

五街道分間延絵図(以下、延絵図と記す)は、正式には「五海道其外分間絵図並見取絵図」といって、幕府の道中奉行が寛政年間から文化年間に作成した街道絵図です。(完成は文化4〈1807〉年)。

延絵図は五街道とそれに準じた30近くの街道について、街道が通過する宿場名や村名(現在の大字にあたる)、境界、一里塚、道標、橋、高札、街道から分岐する脇道などを描いています。

また、宿場内の本陣、脇本陣、問屋などの施設や沿道の家々、寺社なども細かく描いています。



五街道を含むいくつかの主要な街道は、1里を絵図上では7尺2寸の長さで描いています。これは1分3間の縮尺(約1800分の1)に相当します。

その縮尺で方位を保ったまま街道を描くと、細長い紙の上下(高さ60cm程度)に収まらないので、必要に応じて道の屈曲を実際より小さく描いたり、逆に真っ直ぐな道をを歪めて描いている個所があります。

その代わりに絵図をどの方角に描いているか、方位を記載しています。

また、祠が路上に祀られていたり、水路が道の中央を流れていることがあるため、それを表現するために街道は道幅を誇張して描いています。



延絵図と同時期に作成された地図として伊能図が知られていますが、伊能図が少数精鋭による測量成果が基になっているのに対し、延絵図は街道が通過する近隣の大勢の人間が測量に関わったと思われます。

そのため、場所によっては(測量した人たちが仕様を勘違いしたことなどによる)固有の間違いがあります。

例えば、真北を「子の正」として方位を測るべきところを「子の5分」として測っている個所があります。(これによって方位が15度反時計回りにずれる)

このような間違いが数キロに渡って見られる区間があり、その区間は同じ測量班が測量したと考えられるため、延絵図の成立過程を知る上で大きな手掛かりにはなります。

ただし、かつて中山道分間延絵図に記載された方位と距離を頼りに、中山道の全体を復元しようとしたことがあるのですが、これらの間違いが原因で実際の線形から大分ずれたものになりました。

そういう問題はあるにしても、200年前の街道の様子をここまで詳細に記した絵図が貴重であることには変わりありません。



五街道分間延絵図の説明をしようとして、話がさらに脇道にそれてしまいましたので、話を元に戻します。

上野国立博物館の資料室で延絵図を閲覧したいと申し込んだところ、原本は重要文化財なので閲覧できないが、東京美術が延絵図を復刻していて、それなら閲覧できると言われました。

それ以外に、延絵図を撮影したポジフィルムがあり、それからプリントすることも可能だと言われました。

私はとりあえず、復刻された中山道分間延絵図第一巻を閲覧しました。

それを見た最初の印象は、街道が帯のように描かれた上下に根岸村とか針ヶ谷村とか地名が書かれているが、それがどの場所を表しているかよくわからない、というものでした。(根岸も針ヶ谷も旧浦和市内の地名)

とりあえずコピーを申し込んだのですが、資料室では高さがA3を超える資料のコピーが出来ないと言われ、概略を手で書き写すことにしました。

最初は道の屈曲、方位及び中山道が通過する村名だけを書き写していたのですが、次第に延絵図に描かれた情報量の多さを認識するようになり、B5サイズのレポート用紙を用意して、絵図の見開きごとに用紙一枚を割り当てて書き写すようになりました。

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写真は、滋賀県の五個荘町(現在東近江市)付近の絵図の写し。絵図そのもを写すつもりはなかったので、家並は丸を書いて済ましています。

延絵図の見開きは約1kmの範囲をカバーしているので、このような写しは全部
で500枚を超えました。

後に、延絵図の復刻版は国会図書館や都立中央図書館にも所蔵されていて、そちらではコピーが可能だったと知りました。

ただ、延絵図の手書きの写しを持っていたことが、後にさらなる展開を導くことになります。

それについては機会があれば書くことにします。



今回は2003年5月17日〜18日に東神田で行われた、ハーフ・プラカー
(Half Placard)という音楽イベントで撮影した写真を紹介します。

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プラカー(フランス語でプラカードのこと)は2000年頃から数年間実施されたイベントで、連続72時間、様々なミュージシャンが入れ替わりネット上で音楽を配信し続けるというものでした。

このイベントは時間が半分(36時間)だったので、ハーフ・プラカーという名前だと聞いています。

ミュージシャンは配信会場で演奏するのですが、会場に行っても演奏している音を直接聞くことができず、天井からぶら下がったヘッドホンから音を聞くことになります。

当時、私の家に居候していた小川てつオ君が、このイベントに興味があるといって、兄の小川恭平君と三人でツキジマンソンというスペースに行きました。

ツキジマンソンは東神田交差点近くの、取り壊し間近(だと思われる)の建物の二階にあり、オフィスが立ち退いた部屋の内壁を壊して、板材をむき出しにしていました。

一枚目の写真は2003年5月18日の晩で、薄暗い中三脚を立ててタイマー撮影したつもりだったのですが、多重露光に設定してしまったため、手前にいる男性の体が透けているように見えます。

この写真を撮った時は三人ともヘッドホンを付けず、会場で聞こえる音を聞いていました。小川恭平君はミュージシャンが上げた叫び声に、合の手を入れていました。

二枚目の写真は翌日の朝で、実はこの日、小川てつオ君が私の部屋で居候関連のイベントを行うことになっていたのですが、ツキジマンソンの内装が面白かったので、イベント直前に抜け出して撮影に行きました。


【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://www.geocities.jp/sekinemajp/photos

1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔