はぐれDEATH[59]祇園がテーマパーク化していてビックリした件
── 藤原ヨウコウ ──

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●あまりに表層的すぎるのでは?

しばらくのあいだ、用事があり祇園へ通っていた。祇園といっても実は結構広いのだが、ボクが通っていたのは建仁寺の近所。

ゴリゴリの景観整備で見た目は何となくそれっぽくなっているのだが(特に花見小路に面した建物)、よくよく見ると違和感ばかりが先行してしまう。感覚的には「外国人観光客版新京極通り」といったところだろうか?

観光客誘致という目的であれば、これでいいのだろう。実際、連日海外からの観光客の皆様をはじめとして、多くの方々が楽しそうにこの界隈を歩いている。レンタル着物で出歩く皆様が多いのも、ちょっとしたポイントなのだろう。

気軽に入れそうな(ボクには無理ですが)レンタル着物店も結構な数がある。今のところ作戦は成功なのだろう。





以前にも少し書いたのだが、京都は過去の遺産を最大限に活用して観光業に力を注がないと、外資が入ってくる可能性は極めて低い。肝心要の伝統産業自体が衰退・消滅しているので、選択肢は限られるし、そもそも狭い。

「洛中なんかは、伝統と文化のテーマパーク化してしまった方がイイのではないか」と以前書いたのだが、いざ実物を目にすると「ちょっと安直な発想だったかもしれん」と思い始めている。

当たり前の話だが、テーマパーク化するというのは、市井の人々の日常生活がその場所からなくなったり、見えにくくなったりすることでもある。

もっとも祇園の場合は、歴史的にどちらかといえば非日常の場ではあるのだが、それでもそこに暮らす人達の空気というのはあったし、今でも実際にあると思う。ただボクが知っている(過去に経験した)日常の空気でない。

空気が変化するのは当たり前の話なのだが、とにかく祇園に足を踏み入れたのは本当に久しぶりで、下手をすると最後に行ったのは学生の頃まで遡ってしまうかもしれない。

ちなみにボクが主に知っている祇園は、四条通を挟んで北側の方で、いま賑わっている南側はほとんど通過するだけか、出来るだけ近寄らないようにしていた所なので、過去の記憶と照らし合わすと余計に混乱する。南側を敬遠していたのは敷居が高かったからだ。

それでも、学生の頃の雰囲気とはがらっと変わっている。何に一番ビックリしたかというと、通りに面した店構えである。

以前はひっそりと扉が閉められていたのだが、今は思いっきり開放しているお店が圧倒的に多い。

「それが当たり前とちゃうん?」と思われる方も少なくないと思うのだが、昔の祇園はここまで開放的ではなかった。というか、扉を開けっ放しにするなどあり得なかったのだ。

この辺の事情は、京都本でも読めばそれなりに分かると思うのでさっさと飛ばす。キーワードは「舞妓・芸妓さん」である。

色々な説はあるが、基本、祇園というのはある種クローズドな環境でお客さんをもてなす場だったので(このシステムが完成したのがいつかは知らん。というか諸説ありすぎる)このシステムに入ること自体が、結構なハードルになっていたのだ。後は自分で調べましょう。

「祇園が思いっきり敷居を下げた」という話は小耳に挟んでいたのだが、正直まさかここまでとは想像もしていなかった。

昔からあるちょっとした小物屋さんでも、ショーウィンドーを除けばほとんど曇りガラスだし、扉だって閉めていた。前面大開放というのは、ある意味、革命的なことだったりする。

お客さんからすれば、確かにこちらの方が足を踏み入れやすいだろうし、お店の方も、お客さんが入りやすい状態の方がいいに決まっている。

ただこうしたお店は、上記した「舞妓・芸妓」さんというカテゴリーからは外れている。メチャメチャ譲歩して(私見です)「レンタル着物店」というお店の在り方を肯定は出来るが、それこそこの手のお店が雨後の筍の如く乱立したのはここ最近(15〜20年ぐらいか?)の話で、祇園という場から見れば明らかに新参なのである。繁盛しているのは間違いないと思う。

実際、多くの観光客の皆様が着物を着ている姿はよく見るし、最近では着物を着ている方を見ると、観光客の方か普段から着こなしておられる方かまで見分けられるようになってしまった(笑)。それほど大層なことではありません。歩き方を見ればすぐに分かる。

先にも書いたが、変化するのは悪いことではない。停滞する方が不思議なのである。「問題は変化の仕方なのだろうか?」と今の祇園を見てふと思った。

観光地として賑わうのはいいことだし、しつこいようだが、洛中では観光以外でこれといった強力な経済活動があるわけではない。

気になったのは「あまりに表層的すぎるのでは?」という点だ。

分かりやすいのは建物だろう。新築にしろ古い町家を再生しているにしろ、見た目は確かに「らしく」なっている。

特に古い町家を再生した例では、太い梁や磨き上げられた古い柱が、その存在感を大いに発揮している。新築だって強力な景観保存条例がある上、に祇園という場所柄、見た目はそれなりに押さえて作られているのが一般的である。

ただ、あくまでも建物の見た目の話である。

ボクは実際にこの手のお店に足を踏み入れたことがないので、あくまでも外から眺めているレベルでしかないのだが、中身に関しては東京でも見られるような、小洒落た雰囲気で止まっているようにしか見えない。酷い言い方をすれば、周囲の景観を無視すれば、どこにでもあるお店でしかないのだ。

「見た目は歴史的景観に配慮しつつ、現代の観光需要にあわせたらこうなった」というのが、一番素直な解釈なのかもしれない。

上述したように、祇園界隈は歴史的に非日常の場であり、そこにはそれぞれの時代の需要に応えてきた供給の方法があったに過ぎず、こうした変化そのものを「伝統」の一言で硬直化させることそのものが、この街には通用しないのかもしれない。

見た目が最優先されるのは、別に今に始まった話ではないし(だから舞妓さん・芸妓さんの服装そのものも違うのだ)視覚情報というのはやはりインパクトがあるのだろう。むしろ自然な変化と捉える方がいいのかもしれない。

ボク自身が恐ろしく保守的であり、時代の変化についていけていないと考える方が辻褄は合いやすいような気すらする。

それでもある種の違和感を、排除しきれないボクがいる。元凶はバブルの頃に姿をがらりと変えた御池通の風景だ。「アホか」と思う方も少なくないと思うが、今の御池通と違い、烏丸御池辺りからも比叡山は丸見えだったのだ。

今は賀茂川まで出ないと、比叡山の姿は見えない。もっとも四条はとっくの昔に、比叡山の景観も東山の景観も失っていたのだが。少なくともボクが大学に入学した頃には、既に比叡山は見えなくなっていた。

比叡山がボクにとって象徴的なのは、単にボクが過ごした場所からは、どこで暮らそうが東にその特徴的なシルエットを見ることができた、というだけの話
である。

もし右京区に住んでいたら、比叡山ではなく愛宕山だったかもしれないし、伏見なら(今のボクがそうだが)桃山だったのかもしれない。

些細なことだとは思うのだが、ボクの日常は比叡山が常に目に入るようになっていたのだ。だから京都市役所の東隣に高い建物が建てたられ、比叡山の姿が見えなくなると途端に不安になったのだ。

あっさり姿を隠してしまった比叡山に罪があるわけでもなんでもなく、それを許可した行政が不思議なのだが、何よりもこのような建物を建てる資本がどこから来たのか、という点が不安に拍車を掛ける。

当然、京都の外から資本は流入したのであり(京都の自己資産などは高がしれてる)、その結果比叡山は見えなくなったという、あまりに分かりやすすぎる構図である。

これまた歴史的に、京都は元々資本を持っていたわけでも何でもなく、地方から集まる資本の集積地の一つとして存在していたのだから、バブル期がことさら異常だったというのも正直憚られる。

こうなってくると、一般に流布する「伝統と文化」のアイデンティティーすら怪しくなってきそうだ。

●目に見えない伝統や文化

単純に時間的な蓄積(というか垂直方向の重層構造)の最表面を我々は見ているに過ぎず、その姿の最たるものが祇園だとすれば、当然のことながら重なって見えなくはなっているが、伝統や文化はしっかりと埋没して、この街を支えているのかもしれない。正直、楽観的すぎるきらいはあるが。

代表的なのは、やはり舞妓さんだろう。ちなみに、地の京都人で舞妓さんになるのはかなり稀なケースだ。舞妓さんに憧れて地方から京都に来た子達が、厳しい修行(もうレッスンと言った方がいいのかもしれない)に耐え、晴れて舞妓さんになるのだが、当然のことながら脱落者も少なからずいると思われる。

まず、花街の言葉遣いから徹底的に矯正される。あくまでも京都の花街です。京都弁でも何でもありません。

京都の方言については、前にちょろっと書いたので省くが、突出した異様さを持つのが花街の(舞妓さん)言葉遣いである。

先にも書いたが、祇園は非日常の場なので、言葉も当然それなりに非日常な言葉になる。現在の花街の言葉遣いがどこまで遡れるのか、正直見当もつかないのだが、頑張っても江戸期と見るのが穏便な線だと思う。

ここに所作・作法が加わると、ちょっとしたカルチャー・ショックだろうし、歌舞音曲が加わると、更にハードルはアップする。

ちなみに、舞妓さん時代の髪型は地毛である。だからちょっとした身だしなみも半端なくなるし、実際寝る時は時代劇に出てくる箱枕じゃないと無理らしい。大変や。

さらに知性も重視される。もう銀座の高級クラブ並みといってもよかろう。芸能から接待までをハイレベルでこなすとなると、これはもう高度で特殊な技能であり、ちょっと無茶苦茶な例えかもしれないが、宝塚歌劇のトップスターと銀座の高級クラブのトップを足したようなもんである。

宝塚だけでも十分すごいんですよ。もちろん銀座のトップだけでも、十分過ぎるぐらいすごいんですが。

これを単純に伝統の一言で片付けるのは、無理がありすぎる気がする。重要なのは「教育」なのだ。そしてこの「教育」の中に、伝統が脈々と続いていると言った方が正確だろう。

祇園なり、宝塚なり、それぞれに共通するのは、独自で高度な教育カリキュラムの存在であり、このカリキュラムを突破するのは生半可なことでは済まないだろう。

何しろ途中で放り出される危険と隣り合わせだし、才能だけではなく容姿すら加わるとなると、国家公務員1種試験なんか屁みたいなもんにしか思えなくなるし、政治家に至っては能なし呼ばわりされても仕方ないくらい、レベルが低くなってしまう。

世間様でも折に触れ「教育」を声高に叫んでいるが、ここまで徹底した教育に現代の一般人はほとんどついていけないだろうし(実際、希少価値が高いからブランドとして成立しているのだが)、そもそもこのような教育を受けることそのものに尻込みするのが普通だと思う。それでも彼女たちはやってきて学び、行動し、伝えていくのだ。

ぼくが表面的な変化よりも目に見えない伝統や文化を楽観視するのには、こうした理由がある。こうした教育に時間と手間を惜しまず掛けるから、どうにでもなるのだ。

こうなると、こうした伝統から切り離されている祇園のお店の将来が、どうなるかが気になってくる。

圧倒的な違いは、時間の蓄積の浅さだが、これは経営者や従業員次第でどうにでもなるだろう。鍵はやはり教育である。目の前の売り上げに一喜一憂しているところで止まれば、未来はないだろう。祇園という特殊な場で、経営を続けるということそのものが、本来はハードルが高いからだ。

京都のしたたかさを、ボクももう少し信用した方がいいのかもしれない。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com