[4644] 「没後50年 藤田嗣治展」を見た◇中山道の写真展を開催する

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《最後にフッと妻目線で》

■装飾山イバラ道[230]
 「没後50年 藤田嗣治展」を見た
 武田瑛夢

■Scenes Around Me[35]
 東京大学駒場寮の事(14)
 中山道の写真展を開催する(2)
 写真展を開催しようとした動機
 関根正幸




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■装飾山イバラ道[230]
「没後50年 藤田嗣治展」を見た

武田瑛夢
https://bn.dgcr.com/archives/20180925110200.html

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今週は敬老の日があったり、シルバーデーの曜日を外したりで、展覧会に行くには金曜日が最適ではないかということになった。雨の予報ではあるけれど、かえって空いているかもしれないし。

・没後50年 藤田嗣治展
http://foujita2018.jp


藤田嗣治は高校の頃から気になる画家の一人だった。美大受験の頃に、私は講師から「もっと藤田を見るべき人」だと言われた。この言われ方というのが、何を意味しているのかを説明するのはとても難しい。

美大受験という世界に入ったことのある人にはわかるかもしれないけれど、こうすればいいというアドバイスには、すぐには自分ではわからないものも多いのだ。

絵がなかなかうまくいかなくて壁にぶつかっている時に、他の人には答えに直結する作家がバッチリとわかるようなのだ。その人がうまく行くためのヒントを山ほど持っている画家なんだから、もっと見てヒントにすればいいのにということらしい。

ピカソも使えるというのでピカソの画集はよく見たけれど、当時は藤田の絵からはなかなか具体的なヒントを得られなかった。「色抑え目の中での表現」ということかなと思うのがやっとという感じだ。「絵を見る」といったって、絵の何を見て何を掴むかは、そう簡単ではない。

不思議なことに大学を出てデジタルアートに進み、こんなに歳を取った私が日常で画集をそばに置いている作家が、藤田なのである。使える考え方やヒントを、山ほどいただいている気がする。それは自分が素直になったからなのか、見えるものが変わったからなのかはわからない。

藤田嗣治のこの大規模な展覧会は、没後50年ということで開催された。1968年に亡くなっているのだけれど、どこかで見た数字。それは私が生まれた年だからだ。私にとっても、50年はリアルな数字になってしまったのだ。

展覧会は若い頃パリに行って花開く藤田の、画風の変遷がよく分かるものだった。模様のある布や花や猫というテーマは、私の好きなものと恐ろしく一致していて嫌になるくらいだ。

人物の顔や雰囲気は自由な解釈で表現しているように見えるのに、布の模様は克明に描写していて面白い。テキスタイルの作り手が見たとしても、感謝するだろうと思うほど、忠実に描いている。

それは布を作った職人への愛でもあるけれど、忠実に描く力があるからこそ、面白がって挑んだ結果でもあるように思う。

確かに昔の西洋画でも、布地の柄を怠っている有名な絵などないし、布の折重なりで変化する模様を描きながら追うのは楽しい。描きたいパーツなのだ。

藤田は作品のテーマを匂わせるような模様の布を選び、絵の中に自然に織り混ぜる。気に入っているものが出している雰囲気を、そのまま絵の中に永遠に定着させる。

かなり変化する作風の中で、私は女性や猫の時代の絵が明るくて好きだ。絵の中に好きなものがいっぱいなのを見ると、安心するからかもしれない。

そして巨大な戦争画の暗さや、激しさには圧倒された。暗い時代には、それを絵に残すことに使命を感じていたのだと思う。絵と向かいあって生きた人だからこそ、心の色が暗ければ正直に暗い中にいられるのだ。

藤田は国を渡り歩いて、出会う人も、関わる女性も変えながら、人間たちの生活から目に映るものを描いてきた人だ。外から見て感じたのか、中から見て感じたのかは絵によって様々だ。

どこにいても日本人として感じたものを出すことで、負けない部分を作っていたのかもしれない。

最後の展示室に、十字架型でキリストの絵が描かれた美しい木製の箱があった。これを奥さんの君代さんが、亡くなるまでずっと寝室に置いていたというエピソードを読んでグッときてしまった。

関わった女性はたくさんいたけれど、最後の奥さんが藤田が亡くなった後も、しっかりと彼を思い続けて暮らしたことは素敵だ。

絵を描く人の目線で展覧会を見ていたのに、最後にフッと妻目線で妻の気持ちに同調したというのは初めてだ。長く生きると今までとは違う見方が広がるのは面白い。感じることの多い展覧会となった。


【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/


東京都美術館での藤田の展覧会では、グッズが多く企画されていたので、展覧会図録と共にたくさん購入した。図録ってカラー印刷でこれだけの厚さのしっかりしたものと考えたらすごく安いものだと思う。黒い服の女性のポスター(カフェ)が表紙のものもあったけれど、会場限定版にした。

・図録 会場限定版 2400円
http://eimu.com/dgcol/fouji

グッズは逆で、企画をモノにするとこれだけ上乗せされます(笑)、という見本のように高めだ。しかし、商品の可愛さや素晴らしさに賛同する想いを伝えるには「買う」のが一番で、それ以外にはないのだ。

レジのところで横の人が購入していた絵皿にも未練があったりして、長居するとキリがなくなりそうだった。

・クリアファイル、トート、クッキー缶
http://eimu.com/dgcol/focoki

「没後50年 藤田嗣治展」は東京都美術館での展覧会が10月8日までで、終わると京都国立近代美術館に場所を代えて、10月19日から始まる。本当に見応えたっぷりの展覧会だったので、これから行く人は時間を多めに考えておくことをオススメしたい。


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■Scenes Around Me[35]
東京大学駒場寮の事(14)
中山道の写真展を開催する(2)
写真展を開催しようとした動機

関根正幸
https://bn.dgcr.com/archives/20180925110100.html

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中山道分間延絵図を手で書き写す作業は半年程かかりましたが、その作業と並行して、私は中山道の写真を撮影し始めました。

それは、中山道の比較的短い区間をツーリングしながら、道筋以外に、沿道にある寺社、堂宇や小祠、道標、石仏などの事物を探して撮影するというものでした。



これらのものを撮ろうとした理由はいくつかあります。

まず、最初に桶川市内から下諏訪町までツーリングを行った際、沿道に古い事物が残っているのを目にしていました。

しかし、長距離のツーリングだったので、気にはなっても立ち寄る時間が取れないことに苛立ちを感じていました。

そのため、逆に短い区間のツーリングを行い、気になる場所の一つ一つに立ち寄って写真に収めようと考えました。

また、前回書いたように、多くのガイドブックでは、妻籠宿、馬篭宿のような宿場町や、寝覚の床などの観光地の紹介がほとんどでした。

私はそこで取り上げられなかったものたちに、スポットライトを当てたいと考えました。

東京美術による中山道分間延絵図の復刻版は、絵図編と解説編に分かれていますが、解説編には延絵図に描かれた事物の現況を写真付きで紹介していました。

また、後になって、中山道が通過する都県(東京都、埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県、滋賀県)が中山道および周辺の史跡等を調査して、報告書(歴史の道調査報告書)にまとめていることを知りました。

そこで、少なくともそれらの資料に取り上げられた場所には行っておきたいと思いました。

さらに私は、中山道が一旦忘れ去られた道であるとみなそうとしていました。

もちろん、多くの地域で中山道は地元の生活道路として残っていました。

しかし、前回書いたように、私は中山道を探索する直前に北恵那鉄道の廃線跡を探査していました。

そして、中山道の探索もその延長線上にあったことは間違いありませんでした。

そのため、中山道を廃墟・廃線のようなものとみなし、道筋の写真は極力人や車を排するように撮影しました。



撮影した写真はE版(L版より一回り小さい当時のサービスサイズ)で同時プリントしてもらい、市町村ごとに東京から京都に向かう順番でアルバムに整理しました。

高円寺岡画郎に出入りするようになってから、自分がやっていることを紹介するつもりで、アルバムを定例会で見せたことがあるのですが、好評価は得られませんでした。

むしろ、概ね不評でした。

今思うと、それは当たり前のことだったと思います。

私は、街道の写真として期待されるような名所や四季の移り変わりを撮影した写真ではなく、あえて間逆の地味な写真を撮っていました。

それは、連載の2回目で書いたように、私が元々写真に対する反感を持っていたことと関係があるかも知れません。

また、当時は人に見せるための写真を撮るより、古い事物を探すという行為がメインになっていました。

写真は事物を見つけたという証拠を残すためのもので、おざなりに撮ったものが多かったように思います。

それについて、友人から「切った爪を見せるようなものだ」と言われたことさえありました。

さらに、アルバムの写真には撮影場所などの、キャプションを付けていませんでした。

それは、新たな事物を発見した際、撮った写真をアルバムの後ろに追加するの
でなく、順番になるように写真を並べ替えていたからでした。

それに、説明板や標柱があれば、その写真も撮影していたので、何を撮ったか分かるようになってはいました。

しかしその結果、知らない人にとって興味を覚える可能性の少ない、無名の場所の写真が大量に集められたアルバムになってしまった訳です。

また、人や車の写っていない道筋の写真は、見る人によっては怖いという印象を与えることもありました。



私は、中山道の写真に対するあまりの不評さに、撮影を止めてしまおうと考えた時期がありました。

ところが、岡画郎界隈で私は中山道の写真を撮っている、と紹介されるようになりました。

また、小川てつオ君が居候中に「中山道レーベル」というCD-Rのレーベルを立ち上げたこともあります。(それは半分嫌がらせだと思っていましたが)

そういったこともあり、私は中山道の写真を撮り続けることにしました。

その意味では、自分のやっていることを他人に伝えたことは、良かったと思います。

しかし、私は自分の撮った写真に価値があるかどうか、分からないままでいました。

そんな中、写真に価値があるかどうか悩むくらいなら、実際に写真を展示してみればよいという考えが、天啓のように閃きました。

それは、アリテンの隣の部屋がギャラリーとして無料で借りられると聞いたことも、一つの要因になっています。

その部屋で1997年12月に、のざらし画廊のミッシェルがラムネ展を行っていたので、彼女からその話を聞いたのかも知れません。

こうして私は、1998年5月に、中山道の写真展を駒場寮で開催することにしました。



余談になりますが、同じ年の9月頃、東京都写真美術館でユジューヌ・アジェの写真展を見る機会がありました。

アジェのことはマン・レイとの関わりで名前を知ってはいましたが、アジェの仕事については詳しく知りませんでした。

ですが、展覧会でパリの写真を見た時、アジェがやりたかったことが手に取るように分かった気がしました。

アジェは新しいものには目もくれず、パリおよび郊外の開発によって消えていく(はずの)古い路地・建物・事物等を撮り集めることで、古いパリが現れてくるのを意図したと思いました。

私は、当時の自分がやろうとしていたことに、偉大な先達がいたことに大きく励まされました。

その上で、アジェにあって自分にないものを考えた時、いくつか思い当たることがありました。

アジェがモノクロ写真を撮っていたことは、彼の写真の大きな特徴ではあるのですが、モノクロ写真はアジェが撮影からプリントまで自分の手でコントロール出来る仕様だと思ったので、特に問題にしませんでした。

それよりも、アジェは大型のカメラを三脚に据える際、三脚の雲台の水平を取っていたはずで、カメラのアオリを使ったことと合わせて、写真では建物の水平鉛直は保たれていました。

また、一枚の写真を撮るのに、大型のカメラを持って移動したり、三脚に据えて撮影する手間と時間がかかったはずだと思いました。

そこで私も、カメラに水準器を付けて、一種の儀式のように中山道の写真を撮るようになりました。



今回は京都大学吉田寮で撮影した写真を紹介します。

私が京都大学吉田寮に行ったのは、1990年に京都で開催された国際数学者会議に参加した際、安く泊まれる場所だと紹介されたのが最初でした。

以来、私は京都に行くたびに吉田寮を利用しています。

吉田寮も駒場寮と同様、長い間、廃寮問題に直面してきました。

現在も、京都大学が吉田寮生に対し、9月末までに吉田寮から退去するよう勧告を行っています。

今回の勧告は、昨今の立て看板の撤去のこともあり、今までにない危機だと捉えられているようです。

そのことに関連して9月7日から9月9日にかけて、吉田寮食堂で村おこしというイベントが開催され、私も9月8日と9月9日に見に行きました。

そのイベント自体、大変楽しいお祭りで、廃寮問題の周知には繋がったと思いますが、イベント参加者と寮生の間に温度差があったようにも感じました。

さて、今回の写真ですが、2000年3月に吉田寮に宿泊した際、寮に隣接して新築された校舎の鉄筋がむき出しになっているという話を聞きました。

それは、寮をつぶして校舎を増築してやるという嫌がらせだということでした。

とにかく、翌朝その状況を撮影することにしました。

http://farm3.static.flickr.com/2167/2404656958_fbb598ac33_b

引きが取れなかったため、カメラを据えた場所は校舎と寮を結ぶ廊下の壁ギリギリでした。

ファインダーを覗くことが出来ず、21mmのレンズを付けて勘を頼りに何枚か撮影した記憶があります。


【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://www.geocities.jp/sekinemajp/photos


1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔


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編集後記(09/25)

●原田マハの「ゴッホのあしあと 日本に憧れ続けた画家の生涯」を読んだ。ゴッホと言えば“狂気と情熱の画家”というお約束のフレーズがある。筆者はルソーについては25年がかりで2012年に「楽園のゲルニカ」を、ピカソも30年がかりで2016年に「暗幕のゲルニカ」を書いた。そして2017年にゴッホに“侍ジャパン”林忠正らが絡む「たゆたえども沈まず」を書いた。何年がかり?

筆者がゴッホを敬遠し続けたのは、ここ数十年間のゴシップ的な煽られ方の中で、画家ゴッホが翻弄されているように見えていたからだ。なぜ日本人はゴッホ(&同時期の画家)が好きなのか、なぜモダンアートの黎明期の彼の作品に心惹かれるのか。それが大きな疑問であり、小説を書く原点であったという。

浮世絵を含む日本美術が印象派や後期印象派の画家たちに大きく影響を与え、やがて現代アート誕生の源になったことはよく知られている。そのことは、日本美術のDNAを西洋の画家たちが受け継ぎ、作品へと昇華したということである。さらに言えば、「同じものが体内を流れているのですから、好きにならずにいられないわけです」。日本とゴッホは相思相愛である。そうだったのか〜。

ゴッホ関係の論文や原稿を書く人は、誰もが背後にゴッホがいて、乗り移られそうになるとか。筆者も常にゴッホと対話しながら作品を見て、ゴッホの辿った足跡を資料で追い現地を歩いて旅をしてきた。「そうすると、作品一点一点が納得できるようになる。とりわけパリ時代以降の作品は、どれを見ても「あ、これは、こういう気持ちだったんじゃないかな」と推測できるようになった。

ゴッホの絵がガラッと変わるのは、1886年、32歳の時である。画商をしていた弟のテオを頼って、パリに来たのがきっかけである。ゴッホ兄弟は浮世絵という日本美術に夢中になる。ゴッホの作風に大きな変化訪れる。ジャポニスムの作風が前面に出てくる。「本当に『何があったんですか?』と聞きたくなるくらいの変貌ぶりです」。ジャポニスムはどういう形でパリにもたらされたのか。

その直接的なきっかけは、19世紀後半のパリ万博である。日本の美術を、西洋のマーケットに紹介した人物は林忠正であった。孤軍奮闘して日本美術の正当な価値を西洋社会に認めさせた人物として、研究者のあいだでは「ジャポニスムの陰の立て役者」ともいわれている。ところが、林は日本の貴重な美術品を海外流失させた国賊だと罵る人々に責め続けられ、失意のうちに亡くなる。

筆者は西洋のモダンアートに影響を与えた、林忠正の生涯を掘り起こした。パリで画商をしていたゴッホの弟・テオとぴったり同時期に、林がパリで林商会を経営していたことをつきとめた。ゴッホ兄弟と林が交流したという文献はまだ一つもない。もちろん小説だから、林はゴッホに啓示を与える場面がある。

アルルに都落ちしたゴッホは、呼びかけにただ一人応じてくれたポール・ゴーギャンと一緒に生活するが、わずか二か月で破綻する。その後、サン-レミの修道院で暮らし、有名な「星月夜」を描く。「たゆたえども沈まず」の表紙に何をもってくるか、編集者と話し合ったとき、二人ともこの作品を選んだ。その時二人とも「この空がセーヌ川に見える」と思ったという。出来すぎた話。

フィクションを交えているとはいえ、林忠正の功績を知らずにいるのはもったいない。この小説の成果は「林忠正の復権」である。果たして、入り口が林忠正、出口がゴッホという本に仕上がった。最後のほうは自動書記状態であったという。ようするにこの新書は、「たゆたえども沈まず」のPR本です。でも、なかなか読ませる。わたしはゴッホの「カラスのいる麦畑」が好き。(柴田)

原田マハ「ゴッホのあしあと 日本に憧れ続けた画家の生涯」幻冬舎新書 2018
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344985036/dgcrcom-22/



●知人が2016年の「なりきりフジタ」の中にいる……。/フェルメール展。東京は9点、大阪は6点。3点どこに行ったの〜?

/Pixel3、たぶん買わないと思うのに、情報メールの登録はしてしまった。興味はあるのよ〜。

/発売日にiPhone XSが届いた。が、開封できたのは翌日。保護フィルムやUQのSIMは事前に届いて準備万端だったのだが。5sからXSという5年のワープは感動的だったよ〜。

またまた超ニッチ情報。最新iTunesにXSが認識されなかったら、iTunesを削除した上で再インストール、繋いだまま再起動をかけると、XSアイコンの何やらInstall〜ダイアログが出てくる。英語。その後立ち上がるiTunesには認識されているよ。

流れ。今回、家人と私とでXSを二台購入。古い5sからの変更も同じ。変更するには、5sのバックアップを取り、XSにそのバックアップを復元するのが一般的。復元によって、旧とほぼ同じ環境で使い始めることができるのだ。

バックアップはiCloud(Macが用意しているサービス)か、MacやWindowsにインストールするiTunesで取る。普段から同期もiTunesでしているので、もちろんiTunesで。続く。 (hammer.mule)

なりきりフジタ(兵庫県立美術館)
https://www.artm.pref.hyogo.jp/diary/t1607/


フェルメール展 上野の森美術館(10/5〜2/3)
https://www.vermeer.jp/


大阪市立美術館(2/16〜5/12)
https://vermeer.osaka.jp/


Google Pixel
https://pixeljp.withgoogle.com/


iCloud。5GBまで無料
https://www.apple.com/jp/icloud/