中山道分間延絵図を手で書き写す作業は半年程かかりましたが、その作業と並行して、私は中山道の写真を撮影し始めました。
それは、中山道の比較的短い区間をツーリングしながら、道筋以外に、沿道にある寺社、堂宇や小祠、道標、石仏などの事物を探して撮影するというものでした。
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これらのものを撮ろうとした理由はいくつかあります。
まず、最初に桶川市内から下諏訪町までツーリングを行った際、沿道に古い事物が残っているのを目にしていました。
しかし、長距離のツーリングだったので、気にはなっても立ち寄る時間が取れないことに苛立ちを感じていました。
そのため、逆に短い区間のツーリングを行い、気になる場所の一つ一つに立ち寄って写真に収めようと考えました。
また、前回書いたように、多くのガイドブックでは、妻籠宿、馬篭宿のような宿場町や、寝覚の床などの観光地の紹介がほとんどでした。
私はそこで取り上げられなかったものたちに、スポットライトを当てたいと考えました。
東京美術による中山道分間延絵図の復刻版は、絵図編と解説編に分かれていますが、解説編には延絵図に描かれた事物の現況を写真付きで紹介していました。
また、後になって、中山道が通過する都県(東京都、埼玉県、群馬県、長野県、岐阜県、滋賀県)が中山道および周辺の史跡等を調査して、報告書(歴史の道調査報告書)にまとめていることを知りました。
そこで、少なくともそれらの資料に取り上げられた場所には行っておきたいと思いました。
さらに私は、中山道が一旦忘れ去られた道であるとみなそうとしていました。
もちろん、多くの地域で中山道は地元の生活道路として残っていました。
しかし、前回書いたように、私は中山道を探索する直前に北恵那鉄道の廃線跡を探査していました。
そして、中山道の探索もその延長線上にあったことは間違いありませんでした。
そのため、中山道を廃墟・廃線のようなものとみなし、道筋の写真は極力人や車を排するように撮影しました。
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撮影した写真はE版(L版より一回り小さい当時のサービスサイズ)で同時プリントしてもらい、市町村ごとに東京から京都に向かう順番でアルバムに整理しました。
高円寺岡画郎に出入りするようになってから、自分がやっていることを紹介するつもりで、アルバムを定例会で見せたことがあるのですが、好評価は得られませんでした。
むしろ、概ね不評でした。
今思うと、それは当たり前のことだったと思います。
私は、街道の写真として期待されるような名所や四季の移り変わりを撮影した写真ではなく、あえて間逆の地味な写真を撮っていました。
それは、連載の2回目で書いたように、私が元々写真に対する反感を持っていたことと関係があるかも知れません。
また、当時は人に見せるための写真を撮るより、古い事物を探すという行為がメインになっていました。
写真は事物を見つけたという証拠を残すためのもので、おざなりに撮ったものが多かったように思います。
それについて、友人から「切った爪を見せるようなものだ」と言われたことさえありました。
さらに、アルバムの写真には撮影場所などの、キャプションを付けていませんでした。
それは、新たな事物を発見した際、撮った写真をアルバムの後ろに追加するの
でなく、順番になるように写真を並べ替えていたからでした。
それに、説明板や標柱があれば、その写真も撮影していたので、何を撮ったか分かるようになってはいました。
しかしその結果、知らない人にとって興味を覚える可能性の少ない、無名の場所の写真が大量に集められたアルバムになってしまった訳です。
また、人や車の写っていない道筋の写真は、見る人によっては怖いという印象を与えることもありました。
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私は、中山道の写真に対するあまりの不評さに、撮影を止めてしまおうと考えた時期がありました。
ところが、岡画郎界隈で私は中山道の写真を撮っている、と紹介されるようになりました。
また、小川てつオ君が居候中に「中山道レーベル」というCD-Rのレーベルを立ち上げたこともあります。(それは半分嫌がらせだと思っていましたが)
そういったこともあり、私は中山道の写真を撮り続けることにしました。
その意味では、自分のやっていることを他人に伝えたことは、良かったと思います。
しかし、私は自分の撮った写真に価値があるかどうか、分からないままでいました。
そんな中、写真に価値があるかどうか悩むくらいなら、実際に写真を展示してみればよいという考えが、天啓のように閃きました。
それは、アリテンの隣の部屋がギャラリーとして無料で借りられると聞いたことも、一つの要因になっています。
その部屋で1997年12月に、のざらし画廊のミッシェルがラムネ展を行っていたので、彼女からその話を聞いたのかも知れません。
こうして私は、1998年5月に、中山道の写真展を駒場寮で開催することにしました。
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余談になりますが、同じ年の9月頃、東京都写真美術館でユジューヌ・アジェの写真展を見る機会がありました。
アジェのことはマン・レイとの関わりで名前を知ってはいましたが、アジェの仕事については詳しく知りませんでした。
ですが、展覧会でパリの写真を見た時、アジェがやりたかったことが手に取るように分かった気がしました。
アジェは新しいものには目もくれず、パリおよび郊外の開発によって消えていく(はずの)古い路地・建物・事物等を撮り集めることで、古いパリが現れてくるのを意図したと思いました。
私は、当時の自分がやろうとしていたことに、偉大な先達がいたことに大きく励まされました。
その上で、アジェにあって自分にないものを考えた時、いくつか思い当たることがありました。
アジェがモノクロ写真を撮っていたことは、彼の写真の大きな特徴ではあるのですが、モノクロ写真はアジェが撮影からプリントまで自分の手でコントロール出来る仕様だと思ったので、特に問題にしませんでした。
それよりも、アジェは大型のカメラを三脚に据える際、三脚の雲台の水平を取っていたはずで、カメラのアオリを使ったことと合わせて、写真では建物の水平鉛直は保たれていました。
また、一枚の写真を撮るのに、大型のカメラを持って移動したり、三脚に据えて撮影する手間と時間がかかったはずだと思いました。
そこで私も、カメラに水準器を付けて、一種の儀式のように中山道の写真を撮るようになりました。
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今回は京都大学吉田寮で撮影した写真を紹介します。
私が京都大学吉田寮に行ったのは、1990年に京都で開催された国際数学者会議に参加した際、安く泊まれる場所だと紹介されたのが最初でした。
以来、私は京都に行くたびに吉田寮を利用しています。
吉田寮も駒場寮と同様、長い間、廃寮問題に直面してきました。
現在も、京都大学が吉田寮生に対し、9月末までに吉田寮から退去するよう勧告を行っています。
今回の勧告は、昨今の立て看板の撤去のこともあり、今までにない危機だと捉えられているようです。
そのことに関連して9月7日から9月9日にかけて、吉田寮食堂で村おこしというイベントが開催され、私も9月8日と9月9日に見に行きました。
そのイベント自体、大変楽しいお祭りで、廃寮問題の周知には繋がったと思いますが、イベント参加者と寮生の間に温度差があったようにも感じました。
さて、今回の写真ですが、2000年3月に吉田寮に宿泊した際、寮に隣接して新築された校舎の鉄筋がむき出しになっているという話を聞きました。
それは、寮をつぶして校舎を増築してやるという嫌がらせだということでした。
とにかく、翌朝その状況を撮影することにしました。
引きが取れなかったため、カメラを据えた場所は校舎と寮を結ぶ廊下の壁ギリギリでした。
ファインダーを覗くことが出来ず、21mmのレンズを付けて勘を頼りに何枚か撮影した記憶があります。
【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://www.geocities.jp/sekinemajp/photos
1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔