ゆずみそ単語帳[23]あらためて、言葉って何だっけという話/TOMOZO

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今年の春、ワシントン大学で言語学入門のクラスをとった。400名くらい収容の大教室で行われた、新入生向けの基礎教養講座。週に2日、毎回とてもよく練られたとても面白い講義で、目からウロコなことがたくさんあった。

言語にかかわる業界で長年仕事をしているのに、これまで言語学の基本をちゃんと学んだことがなかったって、まったくうかつだったことよ、と思わされた。




元気なローラ教授に講座の最終日にお礼をいいに行ったついでに、おすすめの本をきいてみると、イチオシはスティーブン・ピンカーの『The Language Instinct』だという。この本はたまたま前回帰国したときに訳書(『言語を生み出す本能』NHKブックス、椋田直子訳)が書店でふと目について買い、半分読みさしのまま書棚に放置してあったので、さっそく再読することにした。

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140017406/dgcrcom-22/

読んでみるとなんと、ほとんどのトピックスが、講義で触れられていた内容と同じだった。(ちなみに講義で使った教科書はオハイオ大学出版局の『Language Files』第12版)。

言語学の中にもいろんな派があるのかもしれないが、ピンカーの書籍はメインストリームといっていいのだろう。この本は1994年刊行(翻訳書は1995年)で、もう20年以上前のものだが、いまでも現役として揺るぎない地位を築いているようだ(人工知能の言語についての記述は、当然ながらかなり時代遅れだけど)。

言語学に詳しい方にはまったくもって基礎的な情報だと思うけど、わたしにとって面白かったところを、ほんのすこしだけかいつまんでご紹介いたします。


●子どもは言葉をどのように獲得するかの問題

講義では、子どもが言語を獲得する方法について、学生たちは白紙の状態で質問された。

子どもは周囲の大人がしゃべる言葉を、真似しながら覚えるのか?

両親に言葉を教わって、間違いを修正されながら覚えるのか?

それとも子どもには、鳥がだれにも教わらなくても歌を覚えるように、生得の言語力が備わっているのか?

半数以上の学生が「真似する」または「親から教わる」と答えた。

20世紀なかばまでの言語学でも、これが常識だったそうだ。でもそこにノーム・チョムスキーが唱えたのが、ヒトの脳にはあらかじめ「言語器官」的なものが備わっているという、生得説。

どの言語もものすごく複雑な文法ルールやきまりごとを持っているが、子どもは生後一年から二年くらいの間のほんの短い期間で、その機微をするっと覚える。しかも、世界のどの言語で育てられた赤ちゃんも、同じようなパターンを踏んで言語を覚える。

ざっくりいうと、チョムスキーの理論は、子どもはあらゆる言語に共通な「スーパールール」を生まれつき脳内に持っているから、母国語を習得するときに文法の膨大で細かいルールをいちいち全部覚えなくて済むのだ、というもの。

もちろん、決まった時期に一定のインプットは必要だ。

言語獲得には臨界期があって、それを過ぎてしまうと完全な言語獲得はできなくなるというのが、現在広く受け入れられている説。言語から隔絶されて育った数例の不幸な子どもの、その後の言語状況もそれを裏付ける。

少しのインプットがあると、それに刺激されて脳はあらかじめハードウェアに組み込まれていた機能によって、めきめきと文法を覚え、あっという間に一人前にしゃべり出すようになる。

ピンカーはその理論を裏付ける証拠のひとつとして、ピッカートンという学者の1970年代の研究を引き、少ない単語をつなぎあわせて意思の疎通をはかる、文法的な規則がほとんどない混合語である「ピジン」が、次の世代で「クレオール」に変わる例をあげている。

言葉のつぎはぎであるピジンを母語として育った子どもたちは、特に親の母語のインプットがなく、子どもたちだけの集団でまとめておかれた場合、立派な文法を持つクレオール言語を自然に編み出すのだという。

同じような現象が、手話を母語とする子どもたちの間でも見られる。1970年代にニカラグアではじめて聾学校が設立されたときに、子どもたちの間に自然発生した手話の話が有名で、ピンカーの本にも引かれているし、講義でも紹介された。

学校でも家庭でも手話を教えられていなかった、ニカラグアの耳の聞こえない子どもたちは、聾学校に集められたときに自分たちの間で簡単な手話を編み出した。これは文法の備わっていない「ピジン」だった。

でも、4歳か5歳からこのピジン手話に触れて育った子どもたちの間では、それは短期間のうちに文法を備え、より形式的で洗練された「クレオール」というべき言語に育っていった。

言語学者たちはこの二つの手話を詳細に観察した結果、そのクレオール手話をピジン手話から派生した新しい言語として区別し、研究の対象にしているという(46:ピンカーの著書の訳書のほうのページ数、以下同)。

文法というのは単にあとづけの、人工的なしゃちこばった分類ルールだとおもっている人が多いのではないだろうか。わたしも長いこと、なんとなくぼんやりとそう思っていた。

でも文法というのは、どの言語のなかにも有機的にいきづいていて、その言語を内側から作り上げているものなのだった。

19世紀欧米のインテリ白人なら「下等な人種の下等な言葉」としてかえりみなかったに違いない労働者階級の言葉にも、南部黒人の方言にも、それぞれ独自のなめらかな文法ルールがある。

成り立ち方がきわめて異なっているようにみえる言語も、動詞や名詞からなるカタマリである「句構造」からなること、動詞と名詞があることなどをはじめ、基本的な構造を共有している。

「赤ん坊は言葉を獲得する以前にものの概念を持っている」とピンカーは言う。うん、それはそうだろう、なにかが頭の中で起きていなければ、突然言葉というシステムが動くこともないはずだ。言葉が意識・思考のオペレーションシステムだとしたら、その下で動くシステムもきっといくつかあるに違いない。

言語学では言語獲得の現場を、乳幼児をつかって実験する。とはいっても、脳みその一部を切り取ったりはできないので、そういう実験はきわめてアナログでまわりくどく、子どもの反応を、びっくりした表情やおしゃぶりを吸う回数といった観察可能な要素で判断する。

たとえば、赤ちゃんに言語以前の「ものの概念」があるかどうか、ということを実証するためには、赤ちゃんが見ているものが物理法則にさからったでたらめな動き方をすると、びっくりするかどうか、ということを実験で確かめたという。

単語の範疇(それが動詞か、不加算名詞か、可算名詞かなど)が「どのように概念やものの種類と結びつくかを、幼児が実に緻密な手順で理解していくことが明らかになってきた」とピンカーは書いている(214)。

いや実に、緻密でまだるっこしい手段で、科学はちまちまと一歩一歩、世界の理解をかためていくことである。


●言語を動かす脳のしくみ

左脳のある部分を損傷すると言語能力が著しく落ち、失語症になることから、脳の特定の部分が言語をつかさどることはわかっている。

たとえば、左脳の「ブローカ野」を損傷すると、多くの場合文法にのっとった文をしゃべる能力が失われることが多い。単語とその意味は理解できても、統語ルールにのっとって論理を運用できない例が多いらしい。

同じ左脳のもうすこし後ろの「ウォルニッケ野」を損傷すると、まったく別のタイプの失語症になる例が多い。このタイプの失語症患者は文法に則った話し方で流暢にぺらぺら喋るものの、内容がまったく意味をなさないんだそうだ。

失「語」というより「意味」が失われるといっていい。世界の意味と意識の間のコネクションが切れてしまうという症状。これは怖い。

とはいえ、ウォルニッケ野付近を損傷した患者の約10%がブローカ様の失語症になり、ブローカ野を損傷した患者の約10%がウォルニッケ様の失語症になることもある。

かと思えば、動物の名前といったような特定の名称だけが失われる、ピンポイントな失語症もある(126)。

ものの名前や文法が脳のなかのどこにどんなふうに格納されているのかは、メカニズムもその位置も、結局まだ全然わかってはいないのだ。

空間認識や動きの認識に対応することが、かなり精細にわかっている視覚野とおなじように、名詞や文法に対応する野があるかもしれないが、それはあちこちに水玉模様や縞模様のように散らばったり、人それぞれに違う入り乱れた形になっているのかもしれない、とピンカーは書いている。

脳の中で言語をつかさどる箇所が常に一定の場所にないことは、脳に電極をさして発語機能がどのように阻害されるかを確かめるという実験で、かなり実証されているという(128)。

脳はかなり可塑的でファジーなものであることは間違いない。そのハードウェアの上で動くソフトウェアである言語や意識も同様。

科学の手法というのは黒か白か、1か0かでひとつひとつ事実を詰めていくものだけど、そのための計測目盛りがまだまだ粗すぎて話にならないということなのだろうと思う。

たぶん、ピンセットでやるべき作業を、道路工事のドリルでやろうとしているのと同じくらいのレベルで、粗いんじゃないのだろうか。とはいえ、脳科学や認知科学も日進月歩なので、人工知能研究とあわせてブレイクスルーが思いがけずやってくるかもしれない。


●普遍的な心的言語

チョムスキーからピンカーたちに受け継がれた理論によれば、人間はすべて普遍的な心的言語を持っている。

「文法は、耳と口と脳というまったく異なる三つの装置を相互に結びつける仲介者なのだ」とピンカーは言う(171)。人の脳の中には独自の抽象的な論理によるデータ構造があるというこの考え方は、「衝撃的で革命的なものだった」そうだ。

人は自分の頭の中で考えているときには、言語ではなくて擬似言語とでもいうべき心的言語で考えている、というのがピンカーたちの主張。

「ある言語を知っているというのは、心的言語を単語の列に、単語の列を心的言語に翻訳するすべを知っている、という意味になる。言語を持たない人間も心的言語は持っている。赤ん坊や人間以外のさまざまな動物も、単純な形ではあれ心的言語を持っていると考えられる」とピンカーは書いている(110)。

ということは、赤ちゃんや猫が持っているだろうというこの心的言語には「単純なもの」から「複雑なもの」までがあるということになる。これってすなわち「意識の流れ」と普通呼ばれているものとほぼ同じなんじゃないのか。

そして言語は顕在化した「思考」そのものである、と考えたくなるが、ピンカーは言語が思考を決定するという説は誤りである、と真っ向から否定する。

「思考が言語に依存するとしたら、新語が誕生するはずはないし、子どもが言葉を覚えることも、言語間の翻訳も不可能になる」とピンカーは言うのだが(77)。なんでそれほど極端な結論になるのか、ここは私には理解できない。

翻訳に携わる者としてごくごく素朴にいわせていただくと、英語で考えるときと日本語で考えるときでは、あきらかに思考の方法や感覚や技術がすこし違うことがある。大きく違うのではなくて、すこしだけ違うのだ。

思考は言語に規定される部分があるにきまっている、と思う。でもそれは心的言語や抽象的思考力といった深いレベルではなく、もっと表層的でテクニカルな、ざわざわ揺れ動くレベルの話だ。

ものには何でもレベルがある。科学者の話はときどきこのレベルを無視していることがあると思う。

「言語が思考を決定する」というのは、いろいろなレベルで今でも人気のある説だ。有名なのは「サピア=ウォーフの仮説」。ほんとはこれについて書こうと思っていたのだけど、長くなってしまったのでまたこの次に!


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。
マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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