Scenes Around Me[36]東京大学駒場寮の事(15)中山道の写真展を開催する(3)中山道ストーカー展
── 関根正幸 ──

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前回書いたように、1998年4月、私は駒場寮のアリテンの隣のギャラリーで中山道の写真展を行うことを思いつきました。

ギャラリーの名称は、確か、北寮22Sギャラリーだったと思います。

そこで以下、ギャラリーを単に、北寮22Sと記すことにします。






写真展をすることを思いついた次の日には、私は中寮2階の寮委員会室に北寮22Sを借りられるかどうか問い合わせに行きました。

私の応対に当たった寮生は、同じ部屋にいたギャラリーの担当者に声をかけました。

担当者は寮内にある複数のギャラリーの、貸し出し状況を記した帳面を私に見せ、北寮22Sは5月の中旬に2週間空きがあると教えてくれました。

そこで、私はその期間に借りることにしました。

その際、申請書に展示のタイトル、展示の内容および展示を行う理由(今で言うところのステートメント)を記入して欲しいと言われ、その場で文章を書きました。

展示のタイトルは「中山道ストーカー展」としました。

それは、当時の私が中山道の道筋についての情報を執拗に探り出していたことから、みずから「中山道ストーカー」を名乗っていたことによります。

また、ステートメントの文章について正確には思い出せませんが、前回書いた事情を要約したと思います。

すなわち、

私はこの数年間、中山道の道筋を調査、撮影してきたが、現在、自分の行為に価値を見出せなくなっている。そこで、今回撮影した写真をまとめて展示してみることにした。

というような事を書いて、最後の一文を「まだ旅の途中だから。」と締めくくりました。

実際、この時はまだ、岐阜県の濃尾平野を中心とする範囲は撮影していませんでした。



こうして私は北寮22Sで写真展を行うことになったのですが、それまで人の展示の設営は手伝ったことはあっても、自分で展示を行うのは初めてでした。

また、展示経験者にアドバイスをもらうこともしなかったため、トンチンカンな事態に見舞われ続けました。

まず、展示の告知について。

DMはとりあえず作ろうとしたのですが、業者に発注するつもりはもとよりなく、官製はがきに手書きで5枚ほどしか作成しませんでした。

当時、私はのざらし画廊の名簿を管理していたのでDMを送る先はあったのですが、思いつきの展示に来てもらうのもどうかと思ったのと、ハガキ代をケチったのが理由でした。

DMには写真やイラストなどのビジュアルはなく、申請書に書いたステートメントと展示場所、展示期間だけ記しました。

そして、結局一枚も投函せず、すべて手渡ししました。

作ったDMのうち一枚は高円寺岡画郎に置かせてもらい、定例会で告知しました。

結果、それがいちばん効果がありました。



次に展示のプランですが、写真だけでなく、東京から京都までの地図を展示することに決めていました。

そこで、展示の準備として、30〜40冊あるアルバムから道筋を写した写真だけを抜いて、アルバム別にビニールの袋に詰めました。

これは、写真を東京から京都に向かう順に展示したかったからです。

また、それまでに収集していた東京〜京都間の25000分の1の地形図から、中山道とその周辺地域をA3サイズの紙に拡大コピーしました。

こうして、中山道ストーカー展の初日を迎え、私は会場の設営を開始しました。

まず、地図のコピーを北寮22Sの壁の上段に貼ることにしました。

地図は方位を保って貼ると、部屋に収まらないことは十分承知していたので、中山道分間延絵図を真似て、道の部分でつながるように方位は無視して貼りました。

それでも、中山道の全体は北寮22Sの壁4面を一周させただけでは収まらず、余った部分を尻尾のように、床面に向けて垂らしました。

続いて写真の展示に取り掛かったのですが、用意したEサイズの写真数百枚を一枚一枚壁に貼り付ける作業が途方もなく時間がかかることに、この時になって初めて気が付きました。

さらに、もう一つ重大な事に気付きました。

DMには展示の期間として、北寮22Sを借りた期間そのまま書いていました。

これは、当初、一〜二日で会場の設営が出来ると思っていたためです。

ですが、地図の貼り付けだけで数日かかっていて、下手をすると設営作業が会期中に終わらないおそれもありました。

そこで、これはあくまでも実験的な展示だから設営風景を見てもらう、と頭を切り替えました。

そんなわけで、岡画郎で知り合った、秋永悠さんとサイトウさんには客として来たにもかかわらず、設営を手伝ってもらいました。

秋永悠さんは現在画家として活動しています。また、サイトウさんは当時武蔵美の学生で、小川てつオ君の居候先の一人でした。

二人には、写真の裏面に糊状の両面テープを塗ってもらい、それを私が壁に貼り付けました。

こうして作業は大分はかどったと思われたのですが、次の日になって信じられない光景を目の当たりにします。

壁に貼り付けた写真の大半が、落ち葉の様に床にはがれ落ちていたのです。

元々、壁には白いペンキが塗られていましたが、ペンキはひび割れたように浮いていました。

それが貼り付けた写真の重みに耐えられずにペンキごとはがれ、壁はクリーム色の下地が露出していました。

のちに展示を行うことになる、新宿BERGや板橋地下室(Art Studio Dungeon)では、壁の風合いを重視して、壁に粘着力の高いテープを使うことは禁じていました。

もし、古びた壁を気に入って、このギャラリーで展示を行おうとした作家がいたら、これを見て激怒したに違いありません。

私は、この手のギャラリーでやってはいけないことをやってしまった訳です。



とにかく、落下した写真は両面テープにペンキが貼りついて、貼り直すことが出来ませんでした。

この状況に、写真をボードに付けて展示をしたらどうか、とアドバイスをくれた人がいました。

その人が、前々回の写真を紹介したくげちゃん(鵠沼笙)です。

彼のアドバイスに従って、私は東急ハンズでスチレンボードを購入しました。

そして、写真は両面テープではなくピン留めにしました。

ボードは写真で埋まるたびに買い足しましたが、全部で10枚以上になったでしょうか。

こうして会期の終わり頃には何とか形になったので、記念として、何枚か写真を撮っています。

https://farm1.staticflickr.com/857/41843677240_c0b4a8ecfa_c

椅子は元々ギャラリーに置いてあったもの。

https://farm1.staticflickr.com/848/42934524454_5a52680a6e_c

南側の壁は天井と窓の間隔が狭いため、窓の下を通すように地図を貼っている。

ちなみに、購入したスチレンボードは、展示終了後に駒場寮の廊下に置きっ放しにしましたが、ピン留めにしたピンは缶に入れた状態で、いまだに保管しています。



来客者のこと。

当時、駒場寮は寮生以外にも外部から人の出入りは多かったのですが、展示期間中は扉を閉めて作業をしていたため、中に入る人は多くはありませんでした。

それでも、駒場寮ウォッチャーと言うべき人がいて、私の展示も撮影していました。

それ以外で展示を見てもらったのは、岡画郎とアリテンの関係者がほとんどでした。

オブスキュアギャラリーのコーキ君も見に来ましたが、大量の風景を一度に見るのが苦手だと言って、長居はしませんでした。

やや変わった来客として、ミュージシャン兼ライターのYさんがいました。

Yさんは一度岡画郎で見かけたことがありますが、この日は子連れでやってきて、展示を見る様子も、設営を手伝うこともなく、長い間、北寮22Sに居続けました。

実は恐妻家のYさんは当時、私の知人との浮気現場を見られたと思い込んで、口止めしに来たのでした。

私自身、二人が歩いているのを確かに見かけたのですが、特に気にしていなかったので、口外しない事を約束しました。

けれど、結局、浮気は他からバレて最終的に裁判沙汰になりました。

その事について、これ以上触れるつもりはありません。


【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://www.geocities.jp/sekinemajp/photos(2019年3月まで)


1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔の様な自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔