Scenes Around Me[37]東京大学駒場寮の事(16)しんげんち祭りに参加する。《1》20代までの音楽遍歴
── 関根正幸 ──

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駒場寮で写真展を行った後、私は1998年6月に神戸のしんげんち祭りに参加しました。

当時、武盾一郎さんと鷹野依登久くんたちは、阪神淡路大震災の被災者によってできたムラ(しんげんち)に住み込んで、壁画等の製作を行っていました。

しんげんちは神戸市須磨区の下中島公園にありましたが、新宿夏まつりのように、毎年、様々なゲストを呼んでお祭りを行なっていました。

そのしんげんち祭りに、私はBOBというバンドの演奏で、ノイズとして参加してほしいと依頼がありました。





当時、私は武さんや鷹野くんたちのライブペインティングのバックにノイズを出していたので、その関係で声がかかったのだと思います。

BOBはシンヤ(田中伸也)くんがやっていたバンドで、シンヤくんはコウキくんとともにオブスキュアギャラリーの運営をしていました。

その関係で、オブスキュア界隈の人たちも大挙して、しんげんち祭りを観に行くことになりました。

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この時カメラを修理に出していたので、現地で購入した白黒フィルムの「写ルンです」で撮影しました。



ここで、また話が脇に逸れますが、私がノイズを始めた経緯を説明するため、20代までの音楽遍歴について書くことにします。

物心ついたとき、私は道東の街、根室に住んでいました。正確には、住んでいたのは根室市の西外れにある厚床という街で、根室の中心部から30km、釧路からは100km離れていました。

そのため、文化的なものがなかなか身近に入ってくることはありませんでした。

子供の頃聴いていたのは、それまで父親が買い集めていたクラシックのLPで、それも、ベートーベンの「運命」や「第九」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」といった名曲と呼ばれるものしかありませんでした。



状況が変わるのが、中学に入ってからです。その頃一家は四国(愛媛県大洲市)に引っ越していました。

1978年の冬休み、音楽の宿題で「第九」を聴くように言われた私は、大晦日にテレビを見ようとしましたが、紅白が見たかった両親にNHK FMを聴くように言われます。

実はその時まで、NHK FMがクラシックの番組をやっていることを知りませんでした。

これ以降、私はNHK FMを聴くようになりましたが、この頃からグスタフ・マーラーの交響曲が放送されるようになり、中二のサガとしてマーラーにハマることになります。

とはいえ、マーラーのLPを売っているような都会ではなかったので、FM放送をカセットテープに録音して聴き込む日々を送りました。

マーラーの交響曲の多くは演奏時間が長いため、90分テープの両面を使わなければ、全曲を録音することが出来ませんでした。

しかも前半より後半の方が長く、A面の頭から録音を始めて楽章の変わり目でカセットをひっくり返すとB面に収まりきらないため、番組表を見て前半と後半の時間差分だけ、テープを先送りして録音したことを覚えています。



こうして、中学高校時代かけてマーラーの交響曲を一通り聴き終えると、さらに新しい時代の音楽に興味を持つようになります。

とはいえ、当時の私は12音音楽を始める前のアーノルド・シェーンベルクですら取っ付き難いと感じていたので、自分が受け入れられる作曲家を探すようになります。

1983年に上京してからは、主にドミトリー・ショスタコーヴィッチの交響曲のLPを聴いていました。

ところが、この頃「ショスタコーヴィッチの証言」が出版されたことで、ショスタコーヴィッチが体制に迎合した作曲家ではなく、皮肉に満ちた反体制的な作曲家であると考えられるようになりました。

そこで、1985年頃、NHK FMでショスタコーヴィッチの特集が放送され、私はその番組を聞いて、交響曲以外のジャンルの音源も聴くようになりました

また、ペレストロイカ以降、ソ連にもアルフレート・シュニトケ、エディソン・デニソフ、ソフィア・グバイドゥーリナのような、前衛的な作曲家がいるという事実が西側に知られるようになりました。

私は三人の中でもシュニトケを好んで聴くようになります。この頃のシュニトケは、多様式主義の作曲家であり、不協和音の中に聞き覚えのあるような音楽が聞こえてくるという作風でした。

また、ショスタコーヴィッチは、自作や他の作曲家の曲の引用を多く行なっていました。

ショスタコーヴィッチ、シュニトケ以外に、以前の回で言及したことのあるベルント・アロイス・ツィンマーマンも一つの曲中に過去、現在、未来を混在させるため、過去や同時代の作曲家の曲を引用する手法を取っていました。

こうして、私は引用の手法に興味を持つようになります。

ちなみに、私がツィンマーマンを知ったのは、音楽雑誌に「シュトックハウゼンに嫉妬して自殺した作曲家」と紹介されていたのが気になったからでした(実は「嫉妬した」というより「苦々しく思っていた」という方が正確だった、と後になって知りました)。

ある時、FM放送でジェルジ・リゲティの「ライヒとライリーと一緒の自画像(そこにショパンもいる)」という曲を聴く機会がありました。

その後、中古レコード屋でその演奏が収録されたLPを入手したのですが、カップリングがツィンマーマンでした。「Monologue」という曲で、引用されたバッハとメシアンの音楽が突然流れて、大きな衝撃を受けたことを今でも覚えています。

1989年に作曲家の細川俊夫さんと評論家の長木誠司さんが、ツィンマーマン生誕70年を記念してレクチャーシリーズを企画したのですが、私もそこに参加したのは、以前書いた通りです。



私の音楽体験で次に重要だったのが、ジョン・ゾーンを知ったことです。

一般には、ジョン・ゾーンはジャズサックス奏者、作曲家として知られていますが、個人的にはアコーディオンのための「ロードランナー」という曲を通じて知りました。

この曲自体、過去の様々な曲のカットアップ、コラージュで出来ていたこともあり、興味深いと思っていました。

そのジョン・ゾーンが1988年に「Naked City」を結成し、1990年にアルバム「Torture Garden」を発表したことで、私の身近にいたロックやハードコアパンクのファンの人たちと話が通じるようになります。

それまで仲間内でも音楽に関しては孤立していたので、そのような話ができるようになったのは、思いがけず嬉しい出来事でした。

さらに、1992年からテレビで放送された「ウゴウゴルーガ」の影響もあり、ロッテルダムテクノなどのダンス音楽を聴くようにもなります。

実はダンス音楽への関心は、それ以前からありました。

かつて、汐留にあった東京パーンに度々通っていた私は、ジェネシス・P・オリッジのライブを見て、音楽で踊る体験を初めて得ました(それまで、クラシック音楽中心だったので、音楽で踊った経験がありませんでした)。

ともかく、1990年代には仲間と一緒に、808ステートやThe Orbなど、テクノやハウスのアーティストの来日公演を観に行くようになりました。(続く)


【せきね・まさゆき】
sekinema@hotmail.com
http://www.geocities.jp/sekinemajp/photos(2019年3月まで)


1965年生まれ。非常勤で数学を教えるかたわら、中山道、庚申塔のような自転車で移動中に気になったものや、ライブ、美術展、パフォーマンスなどの写真を雑多に撮影しています。記録魔