[4676] ボクがいきなり方向転換する理由◇自己責任の話◇佐伯啓思「死と生」

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《もうほとんど一人賽の河原》

■はぐれDEATH[63]
 はぐれの周期 ホンマに地震と一緒やんか……
 藤原ヨウコウ

■晴耕雨読[48]
 ここで解散するので各自勝手に生きのびるように
 福間晴耕



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■はぐれDEATH[63]
はぐれの周期 ホンマに地震と一緒やんか……

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20181109110200.html

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●阪神淡路大震災の時のボク

6月に大阪市北部を震源とする地震があったことは、まだ記憶にあるだろうか?北海道の地震で、台風21号すら吹っ飛んだ感がある。

自然災害テンコ盛りの今年、近年の気候やらなんやらのデータがものの見事に崩壊している。東海地震、南海トラフ大地震もどんどん「可能性」で語れるような状態ではなくなってきている、と思うのはボクだけだろう? 素直に近い将来確実に起こる災害と認識と思うべきだろう。

ちなみに阪神淡路大震災の時、ボクは非常勤講師として専門学校に出勤準備をしていた。朝一の講義だったので、既に布団から抜け出していたのだ。

「やけに長い揺れだな」としか思わなかった。取り敢えずテレビをつけて速報を見たら、まだ交通機関の乱れは報道されていなかったので素直に家を出たのだが、四条に至ってから様子がおかしくなってきた。

以後は省く。大体、報道されいている通りだしそれなりの記録もあるだろう。まだ体験した人もたくさんいる。調べようと思えばいくらでも調べられるので、さっさと飛ばす。

6月の地震でにわかに(?)クローズアップされたのが、有馬・高槻断層帯。阪神淡路大震災は六甲・淡路島断層帯だそうな。この二つの断層帯を震源とした慶長伏見地震とやらが、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起き、伏見城(指月城のことと思われる)、東寺、天竜寺が倒壊したらしい。

要は断層帯の周期的活動により、地震が起こるというメカニズムらしいのだが、この辺もパス。ただこの周期も人間のスケールで考えられるような、甘いものではない。

日本の場合は、活断層に加えてユーラシア・プレート、太平洋・プレート、フィリピン・プレートがせめぎ合う上に、フォッサマグナまであるので、地震に関しては逃げ場がない。ということは周知のこととして、地震ネタはさっさと終わらせる(笑)

今年は台風の数も威力も、個人的には今までの経験がほとんど役に立たなかった。台風21号を「伊勢湾台風を思い出した」という年配の方は多くいるのだが、残念ながらボクは生まれていないのでさっぱり分からん。

伏見に限るが伏見稲荷の千本鳥居が尽く倒れた上に、登山道は大きな木に囲まれているので倒木で9月21日まで封鎖されていたし、いわゆる史跡・旧跡の被害は観光都市・京都に甚大な被害を与えた。もちろん、市井の人々だって例外ではない。

京都の宿命なのかもしれないが、史跡・旧跡の被害がクローズ・アップされても、一般市民の生活被害が報道されることは稀だし、そもそもネタにもならないのだろうが、日常生活に支障をきたしている人はきっちりいるのである。

地震・台風・豪雨に関する記録は史料にも多く出てきているが、今年に関していえば「ただの記録」から「かつてあり、今も起こりうる事実の記録」となっているように思う。

こうした記録をもとに、多くの人々が研究を重ね、経験的あるいは統計学的に大きな災害の周期や予測を立てているのは、いうまでもないしこれから先も続くことだろう。今年を例外ととらえるか、新たな周期と捉えるかは、今後の推移を見守るしかない。

自然災害や天候の周期の話はお終い。例によって無駄に長い前振りである。

●いきなり方向転換する理由

先日(っていつの話やねん)東京出張に行った折に、「フジワラさん、何回かブレイクの機会があったのになぁ」と複数の方から残念そうに言われて、少々困惑している。本人はまったくそんな意識や予見がないからなのだが。

ただよくよくお話をうかがっていると、「ブレイク直前でいきなり方向転換をする」という妙な癖があるらしい。

これに関してはボク自身、思い当たる節が腐るほどあるので、何となく分かる。特に30〜40代に関しては試行錯誤どころの話ではなく、とにかく闇雲に色んなことに手を出していたからなぁ。

理由は簡単で、同じことを繰り返していると飽きるからだ。

ボクはこれでもいいのだが、どうもまわりが付いて来れないらしい。ある評価が定着しかけた時に、いきなり明後日の方向へ行っているのでは評価のしようもないわなぁ。

とくに方向転換時に発揮される(らしい)エネルギーは無駄に大きいらしく、それこそ地震の如きもののようだ。

ある様式(?)を継続している時に、フラストレーションが蓄積されたエネルギーが噴出した結果のようなのだが、そもそもボクは一つの様式なり形式に落ち着くことが出来ない性格なのだ。

飽きっぽい、というのもあるのだが「まだ違うことが出来るんちゃうか?」という、アホな思い込みがあるのが最大の原因だろう。

別にこうした性癖はボク特有のものではない。古今東西のエカキさんの変遷を辿れば、それなりの変化は必ずある。違いがあるとすれば、それまでの様式なり形式の延長線上で変化をしていくケースが割と多いことだろうか?

ボクの場合は、それまでの成果を一度保留することが目的だったりするので、始末に負えない。もちろん徹頭徹尾、破壊しつくそうという意識はないのだ。

本人はあくまでも延長線上での一時的な保留のつもりなのだが、どうも他の皆様には完全な自己否定と、成果の破壊にしか見えないらしい。

まぁ、ある程度の自己否定はしますけど、完全には無理。それまで蓄積したものがあるし、いくら破壊したつもりになっても、蓄積したものは早々簡単に壊れることはない。

ただ、上記したように蓄積したものが妙な歪みになって限界を超えると、「いきなり方向転換」現象が起きるようだ。ホンマに地震と一緒やんか……。

こうした指摘をしてくださった皆さんが、口を揃えて「そういうところがフジワラらしい」そうなのだが、絵で口に糊しようとしている人間にとって、このようなアホな行動パターンは不利にしかならない。

ボクのように文章を読んで絵を描くタイプの稼業をしていると、その時々に異なる集中力と瞬発力がどうしても必要になる。ジャンルも多ければ、作家さんの数は更に多いし、そもそもお話そのものが多種多様なのだ。

ボクはイチイチ初期状態に可能な限り戻すので(連載は別です)、集中力と瞬発力はその度にまた異なるものになってしまう。やってることはさして変わらないのだが、それぞれのお話に寄り添おうとするから、それなりにスイッチをイチイチ切り替えてしまうのだ。

このスイッチの切り替えだけを切り取ってしまえば、飽き性のボクには最適な環境になるはずなのだが、そうそううまくいかないところが、ボクの不器用さである。

「この作品なら」という、至極真っ当な理由で依頼して下さる案件が重なり出すと、スイッチの切り替えが非常に微妙になってしまう。当たり前の話だ。

ある雑誌(あるいは本のカバー)で描いた絵を見て依頼されるのだから、先方が求めるのはあくまでも成果品の延長線上にあるのは明白だし、それが普通だと思う。しかし元になる物語はそれぞれ異なるので、同じように描いていても、ボク自身の意識の根底ではまったく異なる状態が生じる。

もう少し詳しくいえば、「異なった物語で絵をいかに似たようなフィニッシュに向けていくか」という、ややこしい事この上ない現象が起きてしまうのだ。

ボクの堪え性の無さが発揮されるのは、正にこの時なのだ。

ここで少し我慢をして、じんわりと変化をしていけばよさそうなものの、「そっちかいっ!」とツッコミを入れられるようなことを、いけしゃあしゃあとしでかす。これで信頼はパーになる。

で、またイチから(厳密には違いますが)コツコツやって、評価が上がりかけたところでまたやらかす……。_| ̄|○;

もうほとんど一人賽の河原みたいなもんである。

しつこいようだが、過去の経験なり様式なり形式は、今もちゃんと持っているのだ。もちろん、成果だって否定はしない。ただ、周りからすると猫の目のようにクルクル回っているのだろう。

もっとも猫だって、目はクルクル回っていても個体として何かが変化しているわけでもなんでもないので、この辺ボクの方が不利なのかもしれない。ぼーずよりカワイイしな……。

「ちゃんと持っている」と言っても、当然変化はしているはずだ。何しろ歳とってるからなぁ。ああ肉体年齢だけかもしれません。精神年齢は物心ついた頃からさして変わっていない気もする。

だから「一人賽の河原」ももちろん幼少期からあるわけで、恐らく死ぬまで存在し続けるであろう、困ったもんなのである。今更どうこうしようとは思わないが、外部への影響だけでも多少やわらげたいもんである。

人に限らず生命体は、それぞれ独自の生態的な周期を持っているのは言うまでもあるまい。それが自然であり、種の保存のために必要で、最適化された状態なのだろう。その周期がどれだけ短かろうが長かろうが、基本原理は同じだと思う。

とりあえず、この稿では宇宙レベルの話は割愛する。個人的にはこっちに風呂敷を広げるのが面白いのだが、宇宙というスケールからボク個人という矮小な存在にスケールダウンして話を進められるほど、ボクは器用ではないし、頭も悪い。

地球上の生物すらあまりに多様すぎるし、日本人どころか、現在活動している日本のエカキという括りですら怪しい。そもそも他のエカキさんに目を向けている余裕すらないのでお話にならない。

ただ色々な面で、「相当狂っている」という主観的な認識だけはある。もちろん、他の人の周期など分かるはずもない。何しろ自分の得体のしれない周期ですら、本人は分かっていないし気にとめたこともないからだ。

ボクのある種の周期のメカニズム(そんな大層なことでもないけど)は、上述したようなもんだが、根源が「飽きる」とか「フラストレーションがたまる」という馬鹿丸出しな理由なのでどうしようもない。

で、実はこの周期がどうも最近、来ているようなのだ……。

今回のヤツの直接的な理由は大体分かっている。関東時代にetudeをやりすぎて、手詰まりになっているのだ。大抵のことはやったからなぁ。

おまけにタブローの制作も加わっているので、相当厄介である。かてて加えて、イマイチお仕事の広がりがない。これで「フラストレーションをためるな」とボクに言うのは、ももち(注:かつての飼猫)に「いたずらしちゃダメ」というに等しい。

まぁとにかく面倒くさい人である。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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■晴耕雨読[48]
ここで解散するので各自勝手に生きのびるように

福間晴耕
https://bn.dgcr.com/archives/20181109110100.html

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最近ネットやメディアを賑わしている自己責任の話を見てると、日本は困っている他人を助けるゆとりを、金銭的にも精神的にもなくしていると痛感する。そしてもっとゆとりをなくしていた戦時中の事が、事例として気になるのだ。

はたして当時はどうだったのだろう。ナチスドイツでは障害者など社会的に無用だとされた人々は、ユダヤ人などと一緒に強制収容所へと送られたのはよく知られているが、日本ではどうだったのだろうか。

実は日本ではこうした露骨な弾圧は行われたなかったものの、緩慢な抹殺政策が取られていた。障害者施設に対する配給は最も後回しにされ、終戦時には多くの施設で大量の餓死者を出すことになった。またいざ本土決戦になれば、これを使って障害児を処分するようにと、毒薬が支給されていたという。
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n296/n296008.html


また、ふくやまけいこさんが漫画を担当していた週刊マンガ日本史「ひめゆり学徒隊」を読み、ひめゆり学徒隊が最前線で突然解散命令を受けて放り出され、多くの死者を出した事を知る。

その後、念のため別の資料を当たったが、どうやら間違いないようだ。そう言えば八甲田雪中行軍遭難事件でも、遭難してすっかり道が判らなくなると「ここで部隊を解散する。各自勝手に青森へ帰るように。」と解散命令が出て、部隊は散り散りになってさらに死傷者が増した事を思い出した。

どうやらこの国では、にっちもさっちもいかなくなると、突然無責任に放り出し、各自の自己責任で生きる事を要求するのは伝統芸のようだ。

このように手助けが必要な人々、たとえば子供や高齢者・病人などに対して、必要な世話や配慮およびその義務を怠り、結果的に死に至らしめる政策は、実は今でも根強く残っている気がしてならない。

特に人々が関心を持たない分野、例えば退去強制手続の対象となった外国人を収容する入国者収容所では、過去何度も死亡事故や劣悪な環境が指摘されているにもかかわらず、一向に改善されないどころかその問題を指摘するニュースさえほとんど報道されないのが実情だ。

また全国で推計50万人いると言われている40歳以上のひきこもりは、「就労に繋げにくい」という理由で公的支援の対象からは外され続けているという。
http://news.livedoor.com/article/detail/15509478/

 
案外、日本という国の解散宣言が出る日も近いのかも知れない。


【福間晴耕/デザイナー】

フリーランスのCG及びテクニカルライター/フォトグラファー/Webデザイナー
http://fukuma.way-nifty.com/


HOBBY:Computerによるアニメーションと絵描き、写真(主にモノクローム)を撮ることと見ること(あと暗室作業も好きです)。おいしい酒(主に日本酒)を飲みおいしい食事をすること。もう仕事ではなくなったので、インテリアを見たりするのも好きかもしれない。


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編集後記(11/09)

●佐伯啓思「死と生」を読んだ。筆者は京大名誉教授、京大こころの未来研究センター特任教授。この本は「死の意識」という舞台に乗せて、「死」と「生」を論じたものである。その論の特徴は、「死」の方に力点をおいて、そちらから「生」を見ている。こういうスタイルの考えに出会ったのは初めてである。

いま我々は、高度な情報・産業社会にあって、殆ど生と死の問題に関心を持てなくなっている。思考の上に乗せる糸口を失っている。もはや、共通了解としての「死生観」などなくなってしまった。そんな時代には、我々はみな、自分の死生観を自己流に探し出すしかない。本書は筆者なりの死生観の試みである。

日本はいま世界に冠たる老人社会、超高齢化社会になろうとしている。今日65歳以上の高齢者人口は既に3000万人を超えているが、2025年には約3700万人になり、うち約350万人が認知症になり、高齢者の一人暮らし世帯は680万人(約37%)になると推計されている。これが「2025年問題」といわれるものだ。

介護に携わる人は40万人不足、それに応じて「生きた粗大ゴミ」となった老人が介護を受けられず、文字通り「放置」される。これが超高齢化社会の現実で、我々はこの問題に間もなく直面する。老人を支えていた家族も地域も崩壊状況にある。もはや福祉や介護といった、社会制度で解決できる問題ではない。イノベーションの加速、ロボットやAIの導入などでなんとかな……らないだろう。

となると、我々は剥き出しの老いや死に直面せざるを得ない。我々が気にしているのは死そのものではない。死のほんの少し前、死にゆく最後の生のあり方である。「死」ではなく「死に方」である。「死」は経験できないが、「死に方」は否応なく経験させられてしまう。逃れることができない恐怖である。

我々は死の瞬間までずっと生の中にあり、それは老いにせよ病にせよ、確実に生を蝕み、徐々に崩壊させていくものである。恐ろしいのは「死」ではなく、「死にきれないこと」にある。もはや「生」とは呼べない状態を、生きざるを得ないのだ。しかも、多くの場合、老と病をはさんだ緩慢な「生」が続くのだ。

「死」とは個人的現象であるにもかかわらず、個人が自己決定できないものである。「死」は「個」であり、徹底的に「孤独」であるにもかかわらず、他者に委ねなければならない。自分だけではなし得ない。そこには「自己責任」も「自己決定」もない。末期癌患者を自宅で看取った人の話では、死にゆく過程で一番恐ろしかったのは、容態の急変と排泄だったという。嗚呼……。

人は一人では死ねないのだ。決して「自然な死」なんてものはない。死は怖いとか怖くないとかいうのは無意味だ。本当に怖いのは死に至るプロセスなのだ。ってことを、改めて認識すると本当に怖い。著者の考えに同意するところが多い。歳とったなあと思う人は、味わいながら読むべし読むべし。 (柴田)

佐伯啓思「死と生」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106107740/dgcrcom-22/



●Ingress Primeしたいけど、起動させるのが怖い、な続き。強者夫婦はうちから徒歩5分のところに住んでいるらしい。昼や夕方も活動することがある。

味方から聞いた話では、複垢(複アカウント)を疑われるような有名な人たちで、うちの周辺一帯はいつもその夫婦にやられているから、反撃を諦め、ゲーム自体をやめる人がいるぐらいだということであった。

私は逆に頑張ろうと思えたが、仕事が忙しいと外出できず、敵色に占拠されるのに何もできないのでもどかしい。次に外出できる時はどうするかと妄想、いや構想が膨らむ。

Ingressは戦いなのでしんどいのだ。どうやって敵の裏をかくか、いかに大きな三角形、さらに多重にするかを考えるのは頭がいるし面倒くさいのだ。続く。 (hammer.mule)

操作性やビジュアルなどを改善!ファン待望の「INGRESS PRIME」配信開始
https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1152012.html