まにまにころころ[150]ふんわり中国の古典(論語・その13)理想的なイメージとしての「父母」/川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito

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コロこと川合です。NHK大河ドラマ『西郷どん』終わっちゃいましたねえ。もう内容はさておいて、主演の鈴木亮平の良さは最後まで光ってましたね。それと、最終回でも大活躍してた人斬り半次郎もかっこよかった。

人斬り半次郎こと桐野利秋、誰だろうと思ったら、『三匹のおっさん』の祐希くんだったとは。大野拓朗さん。祐希くんの時はあまりパッとしないイメージだったのに、半次郎はよかった。時代劇に合うのかも。今調べたら『花燃ゆ』でも入江九一の弟、野村靖役で出てたんですね。

・花燃ゆインタビュー
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/993325

西郷従道役の錦戸亮も良かった。関ジャニ∞なんですね。大久保利通役の瑛太も、熊吉役のドランクドラゴン塚地も、俳優陣はだいたいみんな良かった。

人の名前と顔を覚えられないんで、配役に注目して見ることは、今後もたぶんなかなかないと思うけど、また何かの時代劇に出て欲しい面々でした。

さて、論語に進みましょう。年内は今回が最後です。





◎──巻第二「里仁第四」十五

・だいたいの意味

「参(曾子)よ、我が道はひとつのことに貫かれている」と、孔子先生が言われた時、曾子は「ええ」と答えた。

孔子先生が退出されて、門人が「どういうことでしょうか」と曾子に尋ねた。曾子は「先生の道は忠恕のみだよ」と答えた。


◎──巻第二「里仁第四」十五について

忠と恕でふたつじゃないか、と思ってしまいました。(笑)

「恕」は、思いやりの心といった感じのものです。ここでは「忠恕」でひとつの言葉で、思いやり深い心に対して忠実であること、といった感じの意味です。

「といった感じ」と連発しているのは、忠は忠、恕は恕、忠恕は忠恕として、そのまま捉えた方がたぶん、それぞれの言葉が味わい深くなると思ったので。

『論語』は、読みながら、仁ってなんだろう、忠ってなんだろう、義とは、恕とは、孝とは、悌とは、君子とはって考えながら、フィーリングで味わうのがいいんじゃないかなと思うのです。

孔子先生も、言葉の意味を定義づけるような解説はまったくしてくれないし。定義してしまうと薄っぺらくなっちゃいますしね。


◎──巻第二「里仁第四」十六

・書き下し文

子曰わく、君子は義にさとり、小人は利にさとる。

・だいたいの意味

君子は義を知り、小人は利を知る。


◎──巻第二「里仁第四」十六について

君子は義について洞察力にすぐれ、小人は損得について洞察力を発揮すると。その行いが義であるかどうかを第一に考えるのが君子、利益になるかどうかを第一に考えるのが小人、ということです。判断の軸がどこにあるか。


◎──巻第二「里仁第四」十七

・書き下し文

子曰わく、賢を見てはひとしからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり。

・だいたいの意味

賢人を見ては同じようであろうと思い、そうでない人を見ては自らの心の内を省みることだ。


◎──巻第二「里仁第四」十七について

立派な人を見たら、同じようであろうと思いなさい。立派でない人を見たら、自省して反面教師にしなさい、と。

うんうんそうですねと思うし、そうしているつもりでいるけれど、本当にそうできているかと改めて考えると黙り込んでしまいます……。


◎──巻第二「里仁第四」十八

・だいたいの意味

父母に仕えるにあたっては、(父母に過ちを感じた時は)それとなく婉曲的にお諫めし、それが受け入れられなさそうであっても敬意を持って逆らわずに、そのことで苦労があっても恨まないようにしなさい。


◎──巻第二「里仁第四」十八について

これが難しい。父母だって人間、たとえどんなに立派であっても時には過ちもするだろう。そんな時は、それとなく諫め、でも出過ぎないようにね、と。

うん、それは分かる。上手にできるかどうかはともかく、分かる。

問題は、父母が立派な人じゃない場合、どうするんだろうかと。それでもこのスタンスを貫くべきなんだろうかと。

父母への「孝」について、これまでもこの先も何度となく出てきますが、このあたりをどう考えるかが難しい。

孔子先生は「父母は立派な人だ」ということを大前提にしているか、あるいは、「父母には孝をつくすべきだ」ということを大前提にしているか。

どうなんでしょ。

後者なら、ろくでもない父母であっても孝をつくしてこそ本当の孝だ、なんて話にも発展したりするわけですよ。

同じことは主君への「忠」にも言えますが、主君と違って、父母は選ぶことも変えることもできないので、より悩ましい。

この先、そんなことも考えつつ読んでいきましょうか。

そんなこんなを考えると、親孝行しようって当たり前のように思えることって、それだけで幸せなんだなとしみじみ噛みしめちゃいますね。

逆に言えば、子が、まあ程度の差はあれ、当たり前のように親孝行してくれているなら、それだけでもその親はその子に幸せを与えてると言えるんじゃないかなあとも。

……親になることがあれば気をつけよっと。


◎──巻第二「里仁第四」十九

・だいたいの意味

父母が健在ならば、むやみに遠出をしない。遠出をするならば、行き先などを伝えておくように。


◎──巻第二「里仁第四」十九について

両親に心配をかけないようにね、という話。

親は子の心配をするものだ、ということが前提になっているので、さっきの話でいえば、孔子先生はやはり「父母は立派な人だ」というのを大前提にしているように思えますね。

世の中には多種多様な父母がいて、個々の事情は千差万別だと思うんですが、孔子先生が語る「父母」は、特定の人を指してのことではなくて、観念上の、あくまで(それなりに)理想的なイメージとしての「父母」なんじゃないかと思います。


◎──巻第二「里仁第四」二十

・だいたいの意味

父が亡くなって三年の間はそのやり方を踏襲するのは、孝行と言える。


◎──巻第二「里仁第四」二十について

これ、前にも出てきましたよね。学而の十一の後半で。


◎──巻第二「里仁第四」二十一

・だいたいの意味

父母の年は知っておきなさい。ひとつは喜ぶために、ひとつは心配するために。


◎──巻第二「里仁第四」二十一について

長寿を喜ぶとともに、老いを心配する。

ちょうど一昨日の土曜、母の誕生日だったんですよ。ええ、もちろん年齢は、覚えて……いや計算しましたけど、セーフですよね? ね? 自分の年齢さえよく忘れて計算してるくらいだし、父母の年齢を計算で出すのはセーフ!

ちなみに、iPhoneの「連絡先」に生年月日を登録しておくと、誕生日には年齢とともにカレンダーや通知で教えてくれます。iPhoneユーザーはぜひ。


◎──巻第二「里仁第四」二十二

・だいたいの意味

いにしえの人が(軽々しく)言葉を発しなかったのは、その身が、その言葉に及ばないのを恥だと考えたからだ。


◎──巻第二「里仁第四」二十二について

昔の人全般、でなく、いにしえの君子でしょうね。で、昔の人は、って言い方をしていますけど、たぶん、目の前だか近くにだかにいる口ばっかり達者な人に対して言ってるんでしょうね。あるいは、そうなるなよと諭してか。


◎──巻第二「里仁第四」二十三

・だいたいの意味

慎み深く気をつけていて失敗する人はほとんどいない。


◎──巻第二「里仁第四」二十三について

そのままです。だから慎み深く、慎重にな、と。


◎──巻第二「里仁第四」二十四

・だいたいの意味

君子は、口は重く、行動はすばやく、そうありたいと欲している。


◎──巻第二「里仁第四」二十四について

これもそのままですね。不言実行というか。そういうものを良しとするのが、君子だと。言葉よりまず行動。


◎──巻第二「里仁第四」二十五

・書き下し文

子曰わく、徳は孤ならず、必ず隣有り。

・だいたいの意味

徳というものは孤立しないものだ。必ず(同志が)隣にある。


◎──巻第二「里仁第四」二十五について

徳を持つ人には同志が寄り添ってくるものだよ、ということですかね。


◎──巻第二「里仁第四」二十六

・だいたいの意味

子游が言った。主君に仕えてうるさく諫めれば、辱められることになる。友にうるさく忠告を繰り返せば、疎んじられることになる。


◎──巻第二「里仁第四」二十六について

そのまま受け取ると、なんというか身も蓋もない話ですが、おそらく子游は、口酸っぱく諫めたり忠告したりするのは下策で、過失を改めさせたい時には、もっと違う方法をとる必要があるよって言いたいんでしょう。

父母を諫める時と一緒で、婉曲に、遠回しに諫めて、本人に悟らせるような。これ、主君や友に限らず、家臣でも部下でもなんでもそうでしょうね。

忠告ってのは難しいものです。


◎──今回はここまで。

これで『里仁』も終了です。全二十章のうち第四章まで終わりました。

『里仁』はわりと全般的に面白かったんじゃないでしょうか。ためになる話が多かったというか。

今回、ちょっと父母への孝について長々とあれこれ書きましたが、観念上の父母、みたいな話って現代の書籍でもよくあると思うんですよ。

前々からよくその辺で引っかかることがありまして。

例えば、分かりやすい簡単なもので言えば、リーダーシップ論だとか、上司や部下との接し方の本だとか、伝え方の本とか、その手のやつ。

問いかけに対する反応とか、だいたい観念上の理想的な相手を想定して書かれてますよね。ものすごく物わかりも頭の回転も速い、一を聞いて十を知るような部下にコーチング、とか。そもそも、そんな奴が相手なら苦労しない、っていう。

そこで「あくまで理想的なケースの場合」として受け取るか「現実がどうあれ書かれていることが絶対」として受け取るか。

現代の書籍なら、だいたい前者として考えて適当にツッコミ入れながら読む人が多いと思うんですが、古典だったり、なんか箔とか権威とかがくっつくと、その辺が難しくなってくるように思います。

この話を続けると長くなるし、危ない話にも発展して行きかねないので、今回はここまでにしておこうと思いますが、理想と現実、どう折り合いつけていくといいのかって、孔子先生でも分からないんじゃないでしょうかね。

ただ孔子先生は、自身の行動は一貫して理想を追い求められたんだと思います。現実がどうあれ、それが正しい道だと。

だからこそ『論語』は読み継がれてきたのかな、なんてことを思いつつ、今年はここで終わりにしましょうかね。

それではみなさん、良いお年を。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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