[4703] 老眼になっても潔くないはぐれ◇メイキング・オブ・デジクリ原稿

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《楽しく書きたいだけなのだ》

■はぐれDEATH[66]
 老眼になっても潔くないはぐれ
 藤原ヨウコウ

■グラフィック薄氷大魔王[592]
 メイキング・オブ・デジクリ原稿
 吉井 宏




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■はぐれDEATH[66]
老眼になっても潔くないはぐれ

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20181219110200.html

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●ドローイングは1:1以外は認めない

老眼、まぁ加齢と共にやってくる当然のコトなのだが、エカキという特殊な商売をしていると、なかなかに厄介である。特に紙に実際に描かないとどうにも不安で仕方がないという、アホなワガママが加わるので手に負えない。

一年ほど前から自覚症状はあったのだが、ここ半年ほど、どうにも自分の線に違和感をおぼえていて、その原因がどうやら老眼にあるらしいということに、先日気がついて少々とまどっている。

線はボクにとって命綱である。だから現物でないと困る。しつこいようだが、データで描く線はまったく信用していない。

タブレットの筆圧感知レベルが、一昔前とは比べものにならないレベルになっているのは、もちろん知っている。液晶タブレット(と言っても、ボクが試したことがあるのはiPad Pro+Apple Pencilの組み合わせだけだが)もちょろっとくらいは触ったことがある。

便利そうではあるが、個人的には実に妙な拡大・縮小表示は、それこそ違和感以外のなにものでもない。ドローイングは1:1以外は認めないという、心が狭いにもほどがある価値観が邪魔をする。とことん面倒くさい人である。

基本的なセットは、高校生時代からほとんど変わっていない。筆記具が鉛筆からフォルダーに変わった程度で(それも大学の二回生の時からだからなぁ)、それ以外は不動である。

紙はマルマンのクロッキー帳しか使っていない。あくまでもフォルダーを使う時だけで、筆になると当然紙は変わるが、この辺のことは前にもふれた気があるのでサクッと飛ばす。

商売にするまではSS-01(218mm×255mm)というサイズを愛用していたのだが、これはすぐに狭すぎることに気がついて、SL-01(356mm×268mm)に変更して今に至る。で、このサイズですら老眼にきついようなのだ。

こうなると、もうほぼ最終手段である。B3サイズのクロッキー帳である。密林で見つけた。

そもそもSL-01ですら、ボクの持つA4スキャナーの読み取り範囲を、あっさり超えているのだが(仕方ないので二回に分けてスキャニングしてPhotoshopで合体させる)、B3となるともう三〜四回くらいに分けないと、まともにスキャニングできそうもない。

スキャニングできても、合体させるのがこれまた面倒になるのだが、なぜかこの手の面倒事には心が広かったりする。我ながらどうもよく分からない。

まぁ思い当たる点は「手で描いた」という満足感が、スキャニング後の合体作業の面倒臭さを上回っているのだろう。実際そうとしか思えない。

が、ここでものすごくアホな物理的な欠陥が露呈する。

机の上に載らない・・・_| ̄|○;

SL-01でギリなのだ。というか、もうはみ出てるし。

デジタルが物理的限界をアッサリ突破してしまうのは熟知しているし、どんな技術にしろ、それまで困難だったり不可能だったりした諸問題を解決するために、今も先に進んでいる。

くどいようだが、デジタルがなければ、ボクはエカキになっていなかった。このへんは前にどっかで書いたような気がするので、ドンドン飛ばす。

もっと言えば、ボクの作業工程はPhotoshop2.5の時代からほとんど変わっていないのだ。一応Painterも使っているが、このアプリでレイヤーを使うことは皆無である。相当おざなりなやり方しかしていないのだが、これはこれで便利に使ってる。

とにかくセッカチなので、絵の具が乾く間すら惜しい人なのだ。そのくせ、鉛筆以外のドライメディアはほとんど使わない。理由はいまだによく分からん。

線画の段階でそこそこキッチリ決め込んでいるので、その後の作業はかなり大雑把である。それでも大雑把なりの質は求めるので、このへんデジタルはいい感じなのだ。大雑把に手で塗ったりしたら、それこそ目も当てられたもんではない。とにかくそれくらい「塗る」は大嫌いなのである。

それくらい下絵(?)に労力も神経も使っているのだ。描く時の状態にこだわるのは、こうした理由もある。機嫌よく描くに越したことはないのだ。だから、敢えて手で描くことにしがみつく。

●Macは計算だけしておけばよろしい

「エカキにとっての目」については、それなりに覚悟をしていたつもりだった。かの伊藤彦造先生は、目の衰えを理由にビックリするくらい潔く、この世界から身を引いたことを知っていたからだ。

正常な視力をもってしても、恐らくまったく手の届かないような人ですらこれである。ボクなどは比較にさえならないし、比較することすらおこがましい。

それでも老眼は実際に訪れたし、伊藤彦造先生が身を引かざるを得なくなったのも、今になってやっと身にしみて分かっている。それが今のボクである。

先生との大きな違いは、ボクがまったく潔くないというアホな理由に他ならない。どれだけ卑怯な手を使ってでも、どうにかするべくジタバタするのが、はぐれの真骨頂であろう。往生際の悪さしか、他に自慢できることはない……。

イヤだイヤだと言いながらも、液タブの恩恵を受けることになるかもしれない。いや、実際イヤなんだけど、いよいよになったらそんなワガママも言えなくなるのは目に見えている。

そもそも板タブだって、相当抵抗したのだ。デビューして7〜8年は、ほとんどマウスだけで作業をしてたし。

板タブをそれなりにマジメに用い始めたのは、Painterを本格的に使うようになってからだ。

この業界に長くいる人なら知っていると思うが、ボクはKai's Power Toolsのヘビーユーザーだった。

しかし、ver.3で思いっきりがっかりして、おまけにPhotoshopのバージョンアップでKai's Power Toolsの旧バージョンが使えなくなったので、Painterに手を出した、という苦い経験が板タブを使い始めたきっかけである。

この時ばかりは、Kai先生を恨みにうらみましたよ、ええ、ええ。

とにかくMacには計算だけさせておけばいい、という考えが根底にあったことは素直に認める。もっと言えば、それ以上のことをボクはまったく期待していない。

だから長い間、エカキにもかかわらずマウスしか使わなかったし、それで済むような作業工程しか必要としなかった。

「アホか!」と思われる方も多いと思うが、「自分の動きを機械がなぞる」ということが気持ち悪くて仕方ないのだ。実際、今でも気持ち悪い。

板タブはあくまでもマウスの延長線上にしかなく、鉛筆とか筆とはまったくの別物、というのが正直なボクの気分である。タブローを描き始めてその気分が更に強くなったのは言うまでもあるまい。

筆圧感知だって、ほとんど信用していない。1028が4096になろうが、信用できないものはどう思われようが信用できないのだ。

ここまで来ると「写真を撮られると魂が抜ける」に等しい妄言である。が、ボクのタチが悪いところは、妄言であることを百も承知で、なお改めないところだ。上述したように、いよいよになったら分からないが、やはりある種の居心地の悪さは残り続けるだろう。

先端技術を否定する気は毛頭ないし、日進月歩で変化していく技術を見るのは楽しい。が、それが我が身に降りかかるとなると話は別だ。

無責任だからどんな技術だって面白おかしくながめられるのであって、あくまでもボクにとっての先端技術は、単なる好奇心のネタに過ぎない。

技術の変遷くらい面白いネタもまぁなかなかない。それがリアルタイムで起きているのだから、面白がらない方がどうかしている。

デジタルだって、元はと言えば会社員時代に業務上の理由から携わらざるを得なかっただけだ。もっとも、印刷とはまったく別方向で、びっくりして狂喜乱舞したのだが。

最初に使ったのはIllustrator88(!)である。前にも書いたような気がするので詳細は飛ばすが、数式で表される点・線という理論的一次元・二次元の世界を目の当たりにして驚いたのだ。ベジェ曲線はその際たるものだった。

ここで「Macは計算だけしておけばよろしい」というアホな概念が、そっこーで定着し、未だにこの呪縛から逃れられないのが実情である。面も同様で、「3点以上の点を線で結ぶと面ができる」を目の当たりにしたのもこの時だ。

もっとびっくりしたのは、二次元の面には「裏」という概念がないということをLihgtwave(!)で発見した時だ。いわゆる「裏面ポリゴン」というヤツ。二次元だから平面は片面しかないのが、理論的には当たり前なのだ。

三次元になってやっと、両方の面が観測できるようになる。裏面も確認しようとすれば、それなりの設定をしないと面を回転していって、裏の方に行くと見えなくなるという経験がどれだけボクを驚かせたか。

まぁとにかく、どこまでいってもボクにとって、Macは計算機に過ぎないのだ。モニターは単に視覚化された計算結果を見るだけのツールであり、それ以上でもそれ以下でもない。

ここまで時代錯誤な価値観の持ち主が、「液タブで絵を描く」という行為を忌諱するのは、ある意味当然だったりする。そもそもモニターの色だって、ほとんど信用していないし。

あくまでも印刷されることを前提に、経験値だけで推測しているに過ぎない。印刷されて初めて、ボクの絵は成立する。印刷されて、やっと実物が確認できるだけの話だ。

計算という点では、上記したKai's Power Toolsなんてのは、その代表みたいなもんで、だからこそボクはこのフィルターのヘビーユーザーだったのだ。

もうちょっと頭が良ければ(いや数百倍は必要やな)、自分でプログラムを書いていたかもしれない。そっちの方が面白いに決まってる。が、ここでも「我が身に降りかかりそうになるとソッコーで逃げる法則」は見事に発動するのだ、呵々♪

●結局は液タブ一択か

老眼から大分話が逸れた。

「絵を描くというのは体運動の一種」という概念と、デジタルという「計算」の世界が、ボクの中ではほとんど接点がない。だから、板タブでも気色悪いと感じるのであり、これが液タブとなると、今のように拒否感しか生まれない。

実際に描く絵を大きくしていくという手はもちろんアリだが、これをデジタル化するとなると、それなりの設備投資は必要だろう。デジカメで複写するという手は相当昔から使っているが、これはこれでけっこう手間暇が掛かる。それなりに光りの回り方も考えないといけないし。

こうなると、実際に描く絵の大きさにだって、当然頭打ちが生まれる。まぁ、お金があればいくらでもどうにかなるのだが、万年金欠状態の現状が好転することを期待するほど、ボクは楽観的ではない。そうなると、結局は液タブ一択にしかならないではないか。

それでも伊藤彦造先生の時代からすれば、ある意味垂涎ものの環境だとは思う。だましだましでも線を描くことができるのだから。

修士論文の末尾で「デジタル時代の線」に少しふれたのだが、当時頭にあったのは、やはりベジェ曲線のような計算で生まれる線でしかなかった。

鉛筆や筆の代用品としての周辺機器など想像もしていなかったし、いま現実にあるものを見たり触れたりしても、やはりボクには代用品にはならない。が、いずれは受け入れることになるのだろう。老いから逃げることはできないのだから。

それでも絵を描き続けようとすれば、それなりの代償を伴うのはむしろ当然であり、液タブというツールがある時代に生きていることを感謝するべきなのだろうとも思う。納得できないだろうけど、ショーバイじゃ仕方ない。

幸い、液タブそのものが普及してきたおかげで、価格も落ちてきた。後は広さかな? できるだけ1:1の関係は保持したいので、最低でもSL-01(356mm×268mm)くらいの広さは欲しい。実際、今使ってる板タブはその広さがあるし。

やっぱり面倒くさい人だとつくづく思う。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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■グラフィック薄氷大魔王[592]
メイキング・オブ・デジクリ原稿

吉井 宏
https://bn.dgcr.com/archives/20181219110100.html

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一度くらいはなぜ書いてるのか? どうやって書いてるか? など、デジクリ原稿のメイキングを説明してみたい。

●書くのは好き

昔、筒井康隆や伊丹十三などのエッセイが好きで、その時の出来事や考えやうんちくを書くのにあこがれた。雑誌や新聞に連載コラムを持っている人がうらやましかった。オールナイトニッポンで、フリートークのコーナーを持つタレントも同様。

いろんな面白ネタを無尽蔵に出し続けられる人になりたい! と思ってた。そういう人は作家やライターや放送作家を目指したりするんだろうけど、僕はそちらに興味はなく、単に書きたいだけ。

90年代半ばに、デジタルクリエイション系の雑誌に連載記事をいくつも持つようになって、やりたかったのは、やはり「本文の他にカコミでコラムを書くこと」だった。作家でもないのに商業誌にコラムを書けるのはめちゃくちゃ楽しかったなあw (連載マンガのコマ外の、作者の近況などのラクガキが大好きだった)

そして、2003年から始めたブログ。TDWを一日一枚載せるのと並行して、あれやこれや長文を書きまくった。

2005年3月からこの連載は始まった。デジクリは以前から購読してて、いろんな人がいろんなことを書いてるのを常々うらやましいと思ってた。たまたまイベントで柴田編集長に会う機会があり、「書きたいです!」と言っちゃったのでした。

1日数10アクセス程度のブログより、1万人を超える読者に向けて毎週書くほうが刺激的に決まってる! 「書く場所の決定版」を手に入れた気分だった。

●ネタ集め、ネタ育て

Macの前に座って「さあ書こう」っても、何も思いつかないし、まったく書けない。なのに、「いい方法を思いついた」「すごい新製品を買った」などは、変換ももどかしいくらいすごい勢いで書いたりする。特にノリノリで書けるのが「失敗談」だったりw

イラストやキャラクターやグラフィックを仕事にしている僕の、興味あること全部ネタにする。「グラフィック」とタイトルに付けてるので、そこから離れすぎないようにはしてる。

面白がってたり失敗したりしたことをみんなに知らせたい。何かネタになるものはないかと目ざとくなる。

「玉ヒモ」というものがある。トリのキモで、タマゴになりかけの丸いのが繋がったやつ。ネタが育っていくのはあんなイメージ。思いつきの小さいネタが、だんだん大きくなって連載用にまとまっていく感じ。で、最終原稿としてポコッと出るw

繰り返し書くネタとしては、「ペンタブ」「スケッチ」「Apple製品」「便利なアプリ」「立体制作」「僕的ライフハック」「音楽・映画」など。

以前書いたネタとかぶってないか、全原稿が入ってるEvernoteでいちおう検索する。チェックをサボった結果が、#4569と#4604。「SketchBook無料化」で同じテキストを載せてしまったが、誰にも気づかれてなかったようだw

2009年からは、Twitterに書き散らかしたツイートをまとめたものが多くなる。2011年頃からFacebookに移行して、同じく小ネタをたくさん書いて選んで編集する感じに。

●ボツと先送り

使えるネタだけでなく、状況や考えが変わるなどして古くなったり、旬を過ぎて載せられなくなったネタ、怒りにまかせたネタ、書いたもののちっとも面白くないネタ、などいっぱいある。Evernoteで616個のノート、ネタ数だとたぶん1000個以上ある。

ときたま、そういったネタをサルベージして使おうと試みる。しかし、古くならない普遍的なネタでも、考えが微妙に変わってたり現在とノリが違ったりするため、あまり使い物にならない。

また、次週分が完成していても、急な事件や新製品ニュースなどでどうしても今入れたいネタが出てくる場合、文字数に応じて「いつ載せてもかまわないネタ」は先送りする。

何度か先送りするうちに古くなってしまい、結局載せる機会を失ってしまうことも。

●書けなくなったネタ

何かに対して一方的に怒りを表現するようなものは、最近はぜんぜん書けなくなった。いろんなところで繋がってたりしてて、関係者がいそうなものは特にw 批判に対して予防線を引きまくらなきゃいけないようなネタは、ほぼ避けてる。

議論を呼びそうなもの、特にネットで大激論になってるような、後でめんどくさくなりそうなものは避ける。楽しく書きたいだけなのだ。それで、ネタの幅が狭くなってるのは自覚してるけど。

●作業とストック

ぼーっとした考えがひとかたまりのテキストにまとまって、オチというかサゲというか、締めがきまってくれるとすごいうれしい。

集めたネタは「勢い・鮮度」があるものはすぐ書ける。調子に乗って大量に書いてしまうこともある。しかし、鮮度が落ちてしまってボツにすることも。

夏休みと冬休みの数週間に、5〜6回分の原稿を仕上げておいたりする。新しいネタを適宜追加しつつ、次の休みまで逃げ切ろうとがんばるのだが、たいていの場合追いつかれてしまってちょっと焦る。

逆に、ノリノリで書いた数回分のストックがあるときはとても幸せw

●TDWとの関係

13年以上続いてるデジクリ連載と同じく、まもなく20年になるTDW/The Daily Work。一日一枚何か作ってブログにアップするもの。3DCGで作るようになってから3日に1個のペースになってる。

http://yoshii-blog.blogspot.com/


こちらもある程度作り置きしておかないとすぐ底をつくので、時間があるときに必死で作り貯める。10個作れば一か月は気持ちがラクになるw 作れば作るほど他のことができるようになるから。

デジクリ連載とTDWは、僕の中では「仕事じゃないけど、やっておくといろいろお得な、ちょっとしんどいノルマの両輪」と言える。

どちらも冷静に考えれば「しなくても誰にも責められない、しんどいノルマに四苦八苦するのはアホらしい」と思う一方で、「ごくときたまでも、無理に続けてなかったら出てこなかったものが出た喜び!」があるから、やめるわけにいかない。

●どのくらい読まれてないか?w

以前、説明動画をYouTubeにアップしてリンクを記載した。デジクリ配信後、しばらくしてチェックしたところ、増えた再生回数は「5回」だったw ほとんど誰も読んでないじゃないかww いや、読ませる努力をしてないし、僕だって他の人の連載はあんまり読んでないし。

たいして読まれてないのを自覚してからは、自分の楽しみや記録のためと半分割り切ってる。

●所要時間

ノリノリで書けるときは2〜3時間で一回分だが、滅多にない。手こずる場合は、調べものしたり、検索して裏を取ったりなど含めて、4〜5日くらいかかることもある。

たいていは数週間にわたって少しずついじり続けるから、合計すると一回分に丸一日かかるくらいだと思う。それでも、今回分だけでなく次回以降の分のネタ集めなど同時にやってるので、週に1.5〜2日くらいはデジクリ原稿のために使ってることになりそう。

●文字数について

長すぎると読まれないのは承知してる。連載を始めるとき、柴田編集長に「内容はまったくご自由 文章量もご自由 でもコラムは1,500字くらいがいいと『超』文章術の先生もいってます」と言われてた。

読みやすいのは1300〜1500字前後だろう。初期はそう心がけてたのに、一年過ぎた頃からすっかり忘れて3000字を超えるようになった。

今までで最も文字数が多い回は『第442回「スマホネックのひどいやつ」「追悼・長岡秀星」他、小ネタ集』
7013字。

さらに例外として『第398回「インターネットタイム」他、賞味期限切れ/半端ネタ大放出』9844字、という悪ノリ気味の在庫一掃もあるw 

普通にまとめると2000字程度なのに、何度も手を入れるうちにすぐ3000字超えになる。調整する個所も多くなり、どれだけいじっても脱稿できなくなってしまう。

特に、「これを書いたのなら、前提となる説明も必要」とか「ツッコまれないようにあちこち補強」してると際限なく長くなっていく。それで疲れてしまったり、手を離れる前に飽きてしまう弊害も。

ああ〜、もう3900字を超えてる。前後編に分ければ二回分にできるわけだが、年内最終のキリがいいところなので、まあいいや。

来年は1500字を目指す!


【吉井 宏/イラストレーター】
http://www.yoshii.com

http://yoshii-blog.blogspot.com/


連載原稿のフォルダが現在5,975,033バイト。2バイト文字換算で300万文字=原稿用紙7500枚。単行本15冊分w

「一度くらいはどうやって書いてるか説明したい」とか書いたけど、念のため検索したら、9年前の「連載200回記念、今までとこれから」で似たようなこと書いたことあった。
https://bn.dgcr.com/archives/20091118140100.html


・スワロフスキー「HOOT HAPPY HOLIDAYS 2018年度限定生産品」
https://bit.ly/2QbNMmg

・スワロフスキー「SCS ペンギンの妹 PATTY」
https://bit.ly/2OZa3n9



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編集後記(12/19)

●異様な本を図書館で発見した。真っ黒な新書判。忠田友之「下水道映画を探検する」っての。そんなジャンルがあったのか。この本は「月刊下水道」2009年10月号から連載された「スクリーンに映った下水道」を再構成、加筆修正したものだという。申し訳ないが、そういう専門誌があるのを初めて知った。

筆者は下水道に携わる映画好きの技師である。俗に言う職業病で、旅行などで各地に行く度に、土地土地のマンホール蓋が気になる。映画を見ると、スクリーンにときどき映る下水道が気になる。そういう作品だけはパンフレットを買い続け、月日を重ねるとそれが積み重なる。もっと探してみようと、VHSやβの時代からDVD、ブルーレイの今日まで、下水道が出てくる映画を見まくった。

そして生まれたのが、このニッチな下水道映画評論である。下水道が登場する映画の紹介と、その映画で舞台となった下水道に関する蘊蓄の注入で、世にも珍しい読み物になっている。テーマは、ネズミ、災害、モンスター、逃走路、強奪、隠れ家、脱獄、歴史に分類されている。全59本、わたしは10本見ている。

本文も黒枠に囲まれている。写真(映画のワンカット)はそれぞれ1〜2点。超簡単な、わかりやすいSTORY紹介もある。古代や中世を描く作品は取り上げられていない。理由は簡単で、その時代に下水道がなかったからだ。最初に下水道が作られたのは14世紀のパリ、次に下水道建設が進むのは19世紀のパリやロンドンである。下水道が未整備だった中世は、汚物が街中の路上に捨てられた。

筆者は映画に出てくる下水道を分析し、形状や名称(専門用語)を示すが、実物であるかセットであるかまでは断定していない。また、使われ方に着目した分類、映画の内容・ジャンルによる分類、という二つの分類が混在しているが、あまりこだわると逆に混乱するので、適当に使い分けているが、それに文句はない。映画の中の下水道という、誰も気づかなかった分野の発見で満点とする。

もちろん、下水道専門家のツッコミもある。どうみてもあれはおかしいというのが、下水管と換気孔がつながっているとか、汚水の排水管が側溝につながれているとか。「公共用水域の水質を守るために働く下水道に対しても、正しい認識をもって描いてほしかった」というのがNHKアニメ「川の光」で、下水道への認識不足がひどすぎた。それでも地球環境映像祭で賞もとっている。

下水道施設満載の一本が1980年の「アリゲーター」で、モンスターと下水管は相性がいい。ワニの赤ちゃんが下水道に捨てられた12年後、巨大化して人間を襲う。下水管が映りっぱなし。最後の決戦も下水管が舞台。CGのない頃の映画だが、模型と本物のアリゲーターの実写をうまく使い、「らしさ」満点である。

「ショーシャンクの空に」も下水管からの脱出だった。しかし、下水道の登場する映画はさほど多くない。いろいろ手を尽くして探さないと見つけられない。公開年の古い映画はレンタル店にはない。古本屋や中古ビデオ販売店に立ち寄るたびにチェックしているという。下水道愛に満ちた本。いいね。 (柴田)

「下水道映画を探検する」星海社/講談社 2016
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061385852/dgcrcom-22/



●昨日の続き。早朝ネットもくもく会ってあるのかな。もくもく会だから「おはようございます」「いまから○○本のP24からやります」「私も同じ本やったよ〜。いいよ、その本〜」「これ終わったら何かおすすめあります?」とかの軽いチャットして、もくもく勉強をする。

時々「あー、ねむい〜」とか「むずかしい〜」などの独り言書き込んで、「子供起きてきたので落ちます」とか「明日もやれるように早起きします」「○○ママ、またね〜」とかで終わる。

ジョギングなら「いまから大阪城一周してきます〜」「今日は寒かった〜」とかの独り言だけ書き込むだけでも。そういう人たちのコミュニティにいたら、明日もとか、今日はさぼりたいけど、さぼったと思われたくないからとか思って頑張れたり?

ネットの良さって、時間や空間、利益などを越えて繋がれることだよね。匿名だから勉強なんかだと、周りに同調せずに(抜け駆けと思われずに)頑張れるし。と、Twitterの「@勉強垢」を見ながら思ったりする。勉強のタイムラプス動画好き。Webサイト制作のタイムラプスはつまんないだろうなぁ。(hammer.mule)

@勉強垢
https://twitter.com/search?q=%EF%BC%A0%E5%8B%89%E5%BC%B7%E5%9E%A2


勉強のタイムラプス動画


卒論作成のタイムラプス動画。サイト制作もこんな感じだろうな〜


電子辞書とiPadを使うのね。


勉強に集中できない? そんな君にはタイムラプス勉強法がオススメ!
http://do-ra.org/2016/08/10/56172/


「ココアのみたい」学生時代に百均があればなぁ……