[4705] はぐれにとっての言語・言葉・文字◇「正しい」教育とは何か

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《人の世はホンマに面倒くさい》

■はぐれDEATH[67]
 はぐれにとっての言語・言葉・文字
 藤原ヨウコウ

■晴耕雨読[49]
 「正しい」教育とは何か
 福間晴耕




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■はぐれDEATH[67]
はぐれにとっての言語・言葉・文字

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20181221110200.html

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まず断っておくが、ボクの言語感覚は極めて歪である。さらにボクはエカキであって、言語学はおろか現代日本の言葉すら、イマイチ理解できない愚か者である。だから徹頭徹尾、この作文はボクの勘だけで書かれている。

前にも書いたが、ボクの思考はほぼ視覚的に行われている。数式ですら視覚化されるという、得体のしれない把握の仕方を考えれば、歪さもここにきわまれりと言うべきだろう。

言語ベースでの思考は、せいぜいこのような作文を書いている時ぐらいだ。しかも、ド下手ときている。だから、言語ベースのコミュニケーションは極めて苦手なのだ。

言葉といっても、ボクの場合「言葉」と「文字」は別モノになっている。ここでこうして書いているのはボク的「文語体」であり、この「文語体」を構成するのが「文字」である。

もっと話をややこしくしよう(すなっ!)

「文字」も結構ややこしい。ボクは日本で生まれ育ったので、漢字・片仮名・平仮名を主に使うわけだが、もちろん手で書く文字は基本縦書きである。だからそういう書きクセが目一杯ついているので、横書き(こっちを求められるケースが大半なのは言うまでもない)になるとおっそろしく歪な文字面になる。

これは小学4年生から6年生の間、ずっと同じだった担任の先生と、親父に徹底的に躾けられた。

先生はお寺の跡取りなので、当然のコトながらものすごく綺麗な字を書く。その気になれば、現代人ではほぼ判読不能な達筆の崩し字も書ける。基礎が徹底している上にマジメな方である。まずこの先生が、ボクの乱筆と性格に目を付けた。

何度も書いているが、ボクは徹底的な怠け者で面倒くさがりなので、文字をちゃんと書かないのだ。にもかかわらず、絵を描かせると、興に乗っている時だけはきちんと描く。要するに、気分が乗らなきゃ絵すらテキトーになる。

本気でマジメに「辛抱せい!」と言ってくれたのが、この先生である。

体技としての線を描く基礎は既に出来ていたので、これを文字に置き換えればいいだけの話、というのが先生の見立て(?)だったようだ。

目を付けられた日から、地獄の日記提出が始まる。最初はクラス全員参加だったのだが、一人抜け二人抜け、卒業する時にはボク一人になっていた。

クラスメートはある程度日記を提出できればそれでクリアなのだが、ボクの場合は徹底的に「丁寧に書く」を躾けられた。もっと言えば、三年掛けてもこのクセは直らなかったということだ。

今なら「なんとかハラスメント」で、そっこー大騒ぎになりそうだが、ボクが小学生の頃の価値観はまったく違う。おまけに両親が、この方針にほいほいのってしまった。

親父に至っては書道教室に通わせることを強要し、親父の言いつけには逆らってはいけない我が家の鉄の法則により、渋々一年ほど通うハメになった。

書道教室が一年で済んだのは、さっさと毛筆五段、硬筆六段を獲得したからであり、それなりにちゃんと文字を書けるようになったからだ。ただし、辛抱ができない。

これは今もそうで、マジメにゆっくり書けばお手本通りの立派な字になるのだが、まずマジメにならない。とにかく「読んで分かればいい」という、適当な理由で適当に書くから、後で自分でも読めないほど酷く、ミミズがのたくり回したような文字にしかならない。

思えば、当時の担任の先生は実に忍耐強かった。ボクが書道教室に通わされていることは母から知らされていたし、丁寧に書けばちゃんときれいな字になることも知っていたのに、このボクの性格が災いしてアタリは二十回に一回くらいの成果しか出なくても、辛抱強く付き合って下さった。

心から御礼申し上げると共に、未だに未熟なボクを恥じるばかりである。陳謝。これがボクの縦書きベースの文字癖になったのは、言うまでもなかろう。



ボクが読む本は、基本縦書きである。まぁ、あたりまえと言えばあたりまえなのだが、ちょっと怪しい記憶を探ってみると、どうも横書きの本はデザイン関連ぐらいしか読んでいないことに気がついた。そもそも、雑誌もロクに読まないので(特にファッション雑誌系)経験値が異常に低いのだ。

しかし、デジタルが普及し始めると、横書き表記が圧倒的に多くなった。

もちろん、お仕事の原稿がテキスト・データで送られてきた時は大体横書きだが、わざわざ縦書きにして、ボクが一番読みやすく組版にしてからしか読まないのである。

ちなみに、電子書籍は全然頭に入らん。縦書きなのに丸っきりダメ。夏目漱石の「三四郎」(!)を試しにKindleで読もうとしたのだが、最初の三行で投げ出した。既読なのに(もちろん普通の本で)電子版になると読めない。完全にデジタルの石器人状態である。

手書きの原稿をスキャンして、PDFで送ってくれる奇特な作家さんがいるのだが、字のクセが分かると、こっちの方が圧倒的に楽だし読みやすい。もちろん、普通のゲラでも大丈夫です。昔ながらの400字詰原稿用紙に書かれているのだが、修正やら書き足しやらが全部出ているので、これまた興味深く読める。

さて、ここで入力しているボクの環境は、テキストエディットでデータ・フォーマットは標準テキスト(いわゆる .txt)、フォントはOsaka、12pt。横幅は何となく機嫌がいい感じで(!)特に決まったフォーマットがあるわけではない。もちろん、文字数など数えているはずもなく、行数などはもう完全に成り行きにしかならない。考えてないからね。

文章という形式でコミュニケーションを取る方法は、文字の原始的な規格化から始まっているとボクは思っている。その源泉が絵にあるのはほぼ間違いないし、文字というよりは記号に近いのは、指摘するまでもないはずである。

いわゆる象形文字の原型であり、ラスコー洞窟の壁画などはいい例だと思う。ただ、絵を描くことを始めた人(正確にはネアンテルダール人という説が有力)は、何を思いなぜ描こうとしたのか? 個人的には、この革命的発想に興味を惹かれる。

ボクが絵を描き始めた時は、すでに絵画という概念も形式も環境もできあがっていた。だから、絵という概念がない時に絵を描くというのは、とんでもなくぶっ飛んだ発想だったと思う。

ラスコー洞窟の壁画を例に出したので、これを例に進めるが、まず絵としての破壊力が半端ない。素朴でありながら、ここまで描いた作者(と言っていいのか?)はすごいと思うのだが、これには絵を描く技術よりも、絵のモチーフに対するアプローチが、現代人とは比べられないようなベクトルにあったような気がして仕方がない。

私見に過ぎないが、モチーフの持つ情報が彼(彼女かもしれん)の中で、どう集約されてああなったのかは、さっぱり分からん。他人が何を感じたかなんてのは、今だって分からないのだから、この驚異的な革命を起こした特異な感情など、ボクには到底理解できないし、想像もつかない。

情報化時代(この言い方も正直げんなりするのだが)を生きる我々が、感知できない情報がモチーフにあり、それを感じて身体運動に変換したらああなった、というのがボクの限界である。

そもそもあの絵(本当に作者の立場から、絵と言っていいのかどうかこれまた謎だが)は、情報として描いたかどうかすら分からん。

ただ、絵がコミュニケーションツールとなる露骨な例は、象形文字にいくらでも見受けられる。我々日本人にとって一番分かりやすいのは、やはり漢字であろう。漢字の歴史もじゃんじゃん飛ばす。

秦の時代に漢字は規格化を積極的に行なわれているが、これは広い大陸の中に様々な意味や表現があった漢字を、ある程度整理し、共通の意味や活用の仕方を決める方が、コミュニケーションの齟齬の排除や、記録を残すという点で効率的だったのだろう。

とにかく、ローカルルールだけで通用する地域はあまりに狭い。管理・記録・情報伝達という点で、広大な地域をまとめるには、規格化が手っ取り早いし効率的であろう。

だが、文字によるコミュニケーションはあくまでも会話の遠い遠い延長線上にしかないし、残念ながら文字に置き換えた段階で、情報が劣化するのは目に見えている。

対談をそのまま文字にしても、恐らくその場の空気や言葉のニュアンスはかなり減るだろう。第三者に読ませるなら、それなりの演出が必要になる。それでも劣化の感は否めない。

漢文になると、ここに韻が入ってくるから(もっとも表現とか創作上の理由からのようだが)もっとややこしくなってくる。ちなみに古文や短歌にも、この傾向はふんだんにあるし、別にアジアに限った話でもなんでもない。世界中どこにでもある例だ。

もっとも、この場合は書かれた文字を音に変換する、という機能を持っているのは言うまでもなかろう。方言だって一種の音声表現と断じてもいいくらいだと思う。これが更に発達すると、話芸の世界に突入する。



表意文字である漢字は、表音文字と比べると内包している情報量は圧倒的に多い。一文字でもある程度情報伝達できることを考えると、それなりに機能はしている。

だが、表音文字より覚えるのが大変、という短所はあるし、ここに日本語で使われる漢字・片仮名・平仮名の三種盛り合わせ表記となると、外国人どころか日本人ですら怪しげになってくるから恐ろしい。

ここに新たに、イマイチ定義のはっきりしないカタカナ語(こんな言い方があるのかどうかは知らん)が加わると、ボクですら頭を抱えるケースが少なくなかったりする。

さらに一般に言われる、文語体と口語体(混合体もある)まで話を広げることも可能だが、これは明治時代に面白いネタが山ほどあるので別に譲る。

このへんの学術的な論考は、もっと詳しくてちゃんとした人にやって頂くことにして、ボクはドンドンいかがわしい方へ話を進める。

会話がコミュニケーションの最もマシな方法かというと、そうでもない。会話による齟齬は、現代でも腐るほどあるし(国会に限らず)、そもそも会話という方法そのものがどこまで有効なのかすら、ボクにはイマイチよく分からない。

偏った実例だが、ボクの場合、口で説明するよりも絵にしてしまう方が、圧倒的にこちらの伝えたいことが通じるケースが多いのだ。まぁ、ボクだけかもしれないけど。

アフリカのとある部族間のコミュニケーションの一つに、打楽器だけによるものがあるという話を聞いたことがある。言葉ではなく、音のリズムや強弱だけで、キチンと情報伝達ができるというのだ。

おそらく、この方法で行われる現場にボクが居合わせたとしても、ほとんど理解できないだろう。そもそも、精緻なリズムや強弱の変化を、ボクが感知できるかどうか怪しいからだ。

それでも、応用例は近代以降、明確な形で現れる。モールス信号なんてのはいい例だろう。

広い意味での言語は、文明の指標になるだろうが、絶対的な価値を持つとボクは思っていない。

人間社会においてはそれなりの価値はあるのだろうが、人以外の種でもコミュニケーションを行う生物は腐るほどいる。彼らには独自の方法があるらしいが、少なくとも人よりはスマートに思えて仕方がない。何故なら種の保存が前提であり、それ以外の要素はなさそうな気がするからだ。

例えば、ももちを例にしてみよう。 編集部注:飼っていた猫の名前

ももちの鳴き声の大半は、「お腹が減った」と「縄張りに侵入するな」の戦線布告である。他は鳴き声など出さず勝手に行動する。甘え声に騙されてはいけない。あくまでも、ももちの都合である。

コミュニケーションに関して、ももちとボクの共通点は音を出せる、という極めて素朴なところだけである。まぁ身振りそぶりとかもありますが、そっちはもっぱらももちの専門領域。人や猫に限らず、音でコミュニケーションを取る種はかなりの数にのぼるだろう。

音によるコミュニケーションが発達したのは、恐らく空気と水があるという環境面が大きいのではないか。空気も水も振動を伝えやすいので(というか、なければ振動しないんだけど)こうなっただけの話だろう。

中には光の波長だけを利用したコミュニケーションをとる種もいるが、浅学なのでこの辺のややこしそうなところはじゃんじゃん飛ばす。

光によるコミュニケーションと言えば、視覚によるコミュニケーションもそのひとつである。音の場合は、音を出す器官と受け止めるための器官の両方がないとどうにもならないのだが、光はその辺シンプルだ。

光というと小難しく聞こえるかもしれないが、要は視覚である。クジャクのオスが羽を広げて求愛する、というようなやつ。人ならボディーランゲージという手が使える。

この方法はボクが外国に行った時に多用するのだが(変に言葉を覚えて行くより、お礼をするとき頭を下げた方が相手にも分かりやすいケースが多い、というようなテキトーな理由だ)これで大ゴケしたことはほとんどない。

別に大げさなことをしなくても、手首から先だけで大体どうにかなる。そもそもボク自身が極度な恥ずかしがりなので、大げさなジェスチャーはできない。

そう言えば、手話という手もあるか……。

虫の音も聴覚に訴えるが、あれは翅をこすり合わせて出している音なので、別モノと考えるのが妥当だろう。



人の可視領域外の光で(例えば赤外線とか)、周囲の情報を得る種は結構いる。特に夜行動物や、日光が当たらない場所に生息する種はけっこう含まれそうな気がする。もちろん、光以外で判断する種もたくさんいるだろう。

光ネタはどんどんややこしくなりそうなので、さっさと音ネタに戻ることにしよう。

音を出す器官・受け取る器官の発生と、これらの器官の応用が、どこでどう言語化したのか、ボクにはさっぱり分からない。脳の変化(しつこいようだが断じて「進化」ではないと釘を刺しておく)によるところも大きいと思うが、動物園の猿山で見たり聞こえたりするお猿の諸行動で、彼らには充分なコミュニケーションが成り立っている気すらする。

なんで言語化したんだろう? むしろそれでコミュニケーションはややこしくなっていないか? なぜなら多くの言語が存在し、そこにはローカルルールが必ずと言っていいほどついてまわり、このローカルルールを習得できてやっと「○○語が話せるようになった」になるのである。

ボクがボディーランゲージを多用するのは、上記したような考えがベースあったわけではない。ものすごく分かりやすく言えば、面倒くさかったので学ぶのをさっさと放棄しただけであり、それ以上でも以下でもない。

多言語を易々とあやつるノルウェーの友人に言わせれば、「日本語が一番難しい」そうなのだが、彼女にとっと最難関であった日本語も、日本に生まれ育てばほっといても身につく。

会話はまだ楽な方らしく、「読む」となるとハードルは極端に上がるらしい。これは帰国子女の友人も言ってた。とにかく漢字が読めないらしい。



生まれ育った地域の言語が身につくのは当たり前として、地域差が生む言語のローカルルールは、ボクに言わせれば相当厄介である。生の関西弁を生まれて初めて聞いて、ビビった人なのだ。苦手にするのは当然であろう。それでも長年住んでいれば、インチキくさいローカルルールは身につくが。

こうなってくると、本当に言語を用いたコミュニケーションが「進化」と言っていいのかどうかすら怪しくなってくる。先にも述べたが、面倒が増えてるだけのように思えるのだ。

ほとんど妄想に等しいのだが、単細胞生物にすらなんらかのコミュニケーション手段があるように思えて仕方がない。劣悪な環境から集団で移動するには、それなりのコミュニケーションがあるとしか思えない。

もちろん人間には理解不能な方法なのだが、ちゃんと種の保存が出来ているケースを見るにつけ、何がしかのコミュニケーションがあると考える方が妥当だろう。もちろん遺伝子記憶だって含まれる。

DNAレベルの情報伝達を除けば、恐らく触覚(実際に触れることも、水棲生物のように波の波動を全身で感じることも含む)がベースになるだろう。特に水棲生物の場合は、水という波動を利用しやすいと思うのだが、意図して何らかの波動を出している水棲生物がどの程度いるのか、ボクには正直分からない。

水棲哺乳類はどうも意図的に音を出しているようだが、魚類となるとさっぱり分からん。単細胞水棲生物に至っては、想像の圏外であることは言うまでもなかろう。

こうなってくると、人間のコミュニケーションを引き合いに出すのは、馬鹿らしいにも程がある。まったく異質なのだ。だからと言って、下等生物だからとばっさり切り捨てるのは、あまりに傲慢過ぎるのではないだろうか。

別の見方をすれば、人のコミュニケーションの方が、よほど間抜けだったりするだろう。デマやフェイクニュース、勝手な価値観、誹謗中傷などは種の保存において関係ない。

個人的あるいは社会的には問題なのだろうが、それはあくまでも人の話であり(もっとも他の種に悪影響が及ぶケースは多々あるが)人以外の種にとっては、本当にどうでもいいことなのではないだろうか。

「便利になるとアホになる」というボク個人の法則によれば、地球上の生物で一番アホな種は人にしかならない。

ラスコー洞窟の壁画に話を戻す。この段階では記録よりも描いた人の衝動の方が強い気がする。記録は後付けであり(というか、残っちゃったというのが自然なのかもしれない)とにかく描きたかったのではないか。

この衝動が他の種との決定的な違いであり、その後の文字によるコミュニケーションへと「劣化」(!)していったように思える。

と書いていたら、インドネシア・カリマンタン島東部の洞窟でも、4万年以上前に描かれたとされる壁画が見つかったようだ。同じような時期に描かれた他の例として、スペインのアルタミラ洞窟壁画がある。ちなみに、ラスコー洞窟壁画の推定製作年は2万年以上前。

「なにかを思いついたら、同じことを思いついた人間がその瞬間に地球上に七人いると思え」という法則(もっともこれはボクの大学の先輩の作った法則であり、科学的な法則でもなんでもない)によれば、どれだけ離れていても、やはり似たような時期に、何か同じことを始める傾向はありそうだ。

衝動というのはあくまでも感情の発露であり、感性の豊かさの証左でもあるだろう。この段階では、恐らく他の種と同等か、やや異なった感性があったのではないか。

ここで言う感性とは、あくまでも自らを取り巻く自然に対してであり、現代人がとうてい感知しえない自然の変化を、理性ではなく感覚としてとらえられる能力があったと考えるのが自然だと思う。この感性をもってして「進化」と位置づけるのは焦燥である。あくまでも「異質」なのだ。

もっと突っ込めば、種の絶滅に関わるような事態が起こらない限り、コミュニケーションすら不要ではないのだろうか? DNAレベルの情報伝達だけで十分成立しそうだ。暴論であることは重々承知しているが、個人的にはここまで行かないと気が済まない。実際、単細胞生物は今も多く存在する。

どこかで書いた気もするが、進化論について、個人的にこう考えている。

進化論というのは、単なる生物の複雑化と多様化の軌跡を追っているだけで、生物の構造が複雑になればなるほど、どこかに支障が出た時の対処法がこれまた山のようにあるだけで、実はものすごく脆弱な構造をさも「進化」と唱え、人を頂点とする傲慢極まりないピラミッド構造を「科学」という言い方で概念化しただけの話だとしか、ボクには思えないのだ。

こんな発想の持ち主は、結局、自然界における言語の不要性すら言い出しかねない。さすがに断言はしませんがね。ももちにも使ってるし。

つまるところ、何が言いたいのかというと、人の世はホンマに面倒くさい、という身も蓋もない結論でしかないのだ、呵々♪


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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■晴耕雨読[49]
「正しい」教育とは何か

福間晴耕
https://bn.dgcr.com/archives/20181221110100.html

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少し前の話題だが、トランプ政権になって、進化論だけでなく神が世界を作ったという創生論も、並行して学校で教えるべきだという意見が、米国で出てきて問題になっているというニュースがあった。

また最近では、経団連が執拗に会社で役に立つ実務的な教育すべきだという主張を繰り返しているのを、聞いた人も多いのではないだろうか。

こうした主張で頻繁に使われるのが、「我々は教育に反対しているのではなく『正しい』あるいは『もっと役に立つ』教育が必要だと言っているのだ」というフレーズである。

こうした「正しい」教育を求めるというフレーズは、あらゆる勢力、それこそ政府や国でさえよく使う。

だが、「正しい」教育とは何だろうか。確かに数学や科学などでは、何が正しくて何が間違っているのか解りやすい。しかし、その科学でさえ最先端の分野のみならず、少し前には定説とされていた説でさえ、後に覆されたことも少なくない。

ましてや歴史や社会分野では、少し前には正しいとされていたことが、後に断罪されることすらあるのだ。

では、「正しい」教育の内容のコンセンサスを、どう取っていけばいいのだろう。多くの学問の分野では、学術的に正しい内容を検証する仕組みがあるので、それを使えば良いように思えるが、それが機能しないものもある。

特に道徳や社会のあり方については、一見共通の見解があるようで、実は各自のイデオロギーなどで多くの相違が存在する。

また、内容は問題ない分野についても、今度は何を教えるかという優先順位の問題も発生する。どんな分野でもそうだが、すべてを教えることは不可能だからだ。

とはいえ、それらをすべて個人に任せて、各自が好きなように教え、好きなことを選択できることが良いかと言えば、そうはいかないことぐらいは誰だってわかるだろう。

たとえ望まなくても、最低限の共通知識と常識を各自が持ってくれないと、社会がバラバラになってしまう。

また、経済効率や有益性で教育内容を選択するというのも、けっこう危険な考えだ。少し前に300人以上の死者を出した韓国のフェリー転覆事故では、様々な悪因が重なったこともあるが、その一つに韓国では水泳教育がなかったこともあげられている。

つまり、受験や就職に役立つカリキュラム以外の体育や美術などの、優先順位が低くなった結果、水泳などが教えられてなかったらしいのだ。

これは極端な例だが、いわゆる「役に立つ教育」を追求していくと、多くの場合、より上のクラスとされている学校や会社に入ることが目標になりやすい。しかし、すべての人が良い学校や会社に入れるわけではないし、仮に入っても幸せになれるとは限らない。

これも先程の話と同じように、好きなことを自由に選択できればよいかというと、それもまた難しい問題だ。学ぶ内容を自由に選択したところで、結局は脱落者は出てしまう以上、彼らに対して「自己責任」を問うのはけっこう残酷な話だからだ。

長々書いて結論らしい話にならなかったが、結局は生涯勉強し、行き詰まったら再びコース変更して、学び直し続けるという、地道で困難な方法しかないのかもしれない。


【福間晴耕/デザイナー】

フリーランスのCG及びテクニカルライター/フォトグラファー/Webデザイナー
http://fukuma.way-nifty.com/


HOBBY:Computerによるアニメーションと絵描き、写真(主にモノクローム)を撮ることと見ること(あと暗室作業も好きです)。おいしい酒(主に日本酒)を飲みおいしい食事をすること。もう仕事ではなくなったので、インテリアを見たりするのも好きかもしれない。


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編集後記(12/21)

◎デジクリは明日から長い冬休みに入ります。2019年は1月7日(月)にスタート予定です。みなさん、よいお年をお迎えください。

12月31日(月)に「デジクリゆく年くる年」特別号を発行します。


●岡田斗司夫「ユーチューバーが消滅する未来 2028年の世界を見抜く」を読んだ。50万部売った「いつまでもデブと思うなよ」の人が、「ニコニコ生放送」で話した内容をベースにしている。どっちも関心がなかったが、「20年、30年のスパンで考えたら人間にはどんな仕事も残らない」と断言するのだから、これはただごとではない。わたしは生きてないだろうが、子や孫のことが心配だ。

この本は、今から10年後、2028年くらいの日本、そして世界がどうなっているのかを岡田斗司夫流に予測したものだ。これから起こるのは、「頭の悪いAI」と「頭のいい人間」の競争だ。頭の悪いAIは、技術の進歩でどんどん賢くなるが、人間はそうそう進歩しない。むしろどんどんレベルが下がっている。

「AIが進歩すればするほど、僕らはどんどん無能になっていく。愚かな人間から順番に、賢い機械に仕事を奪われていく」。自動化されない非定型的な仕事、クリエイティブな仕事、人間相手のコミュニケーションが必要な仕事などは、人工知能時代にも生き残るし、新しい仕事は続々と生まれるから心配ない、という人もいる。わたしもそう思ってきたのだが、どうやら危ういらしい。

筆者は、30年後には9割の人は仕事がなくなる、今から10年後にはその流れが、誰の目にもはっきり見えてくるというんだから、えらいこっちゃ。彼はアニメや特撮(うおー、懐かしい言葉!)に携わっていたから、この変化を実感している。全くお金にならない、必要とされなかった仕事が価値を持つようになる。

現在進行している価値観の変化は、1)第一印象至上主義 2)考えるより探す 3)中間はいらない である。これさえ押さえておくと、現在の出来事を理解し、未来を予測しやすくなるという。3)は一番重要で、超メジャーな人は生き残り、それまでそこそこ食えていた中間のプロはいらなくなる。優れたバーチャルの方が中途半端なリアルよりいい、ということになるらしい。

面白いのが、これからの政治に必要なのは「政治人工知能」と「お飾り担当の人間の政治家」のペアだという話。筆者が妄想する「AI政党」候補者は、「僕たちは政治の素人です。だからギャラは最小限で充分です。判断はすべて人工知能の言うとおりにします」とアピールする。人間の政治家はキャラ立ちすればいい。というより、キャラがすべて。いまの無能野党どもより絶対イイ。

今後、少子化が進んだ自治体では、議会や役所をコスト的に維持できなくなる。議員や役人を減らしAIに任せればいい。さらに、AIを導入した方がコストを下げて利益を上げられるとなれば、どの省庁もそれに倣うしかない。日本はサブカルで世界に存在感を示せているのだから、それをブランドイメージ向上に使わない手はないだろう。全体のシンボルは「初音ミク」とすればいい。

「合衆国日本の初代大統領は初音ミクです」ということにしてしまえば、カワイイので政治人工知能への反発も抑えられるし、国連でも大ウケである。ライブもあちこちでやってくれて、しかも安上がりである。という、オタクな筆者のアイデアは、キャラクターで政治家を選ぶ時代にピッタリである。(柴田)

岡田斗司夫「ユーチューバーが消滅する未来 2028年の世界を見抜く」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569841880/dgcrcom-22/



●Apple Watchが落ちる現象の続き。コンビニのレジで落ちていることに気づいて慌ててしまう。現金での支払いなら、残金を確認し、小銭の量をある程度頭の中に用意してから並ぶので、お財布を取り出すことから始めることはないのだ。

ペアリングを解除したり、Apple WatchやiPhoneの再起動をしたが、現象は変わらず。途方に暮れ、電話でのサポートを依頼した。2017年6月半ばに購入し、AppleCare+を同時につけていた。最初に不具合が出たのは2018年1月。この時は機種リセットで直った。今回のは11月初旬で初期不良期間は過ぎている。

サポートの方の指示でいろいろ試し、最終的に初期化で直るはずが、その途中でまた落ちてしまい、エクスプレス交換(配送修理)となった。Care+だと宅配業者が新品と交換してくれるのだ。

何が原因なのか知りたかったが、現物がリペアセンターに届いた時点で修理完了となるため、不明なまま。ガラスが割れた時のために入っていたCare+だったが、傷らしい傷がまったくつかなくて、不要だったと思い始めていた。今回、自宅で無償交換してもらえて、その利便性を感じたわ。 (hammer.mule)

AppleCare+ for Apple Watch
https://www.apple.com/jp/support/products/watch.html