日々の泡[01]心に残るタイトルだった【心は孤独な狩人/カーソン・マッカラーズ】
── 十河 進 ──

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昨年末、六巻目となる「映画がなければ生きていけない2016-2018」を出版し、「映画と夜と音楽と---」と題して足かけ20年書き続けてきたコラムに一区切りを付けることにしました。

1999年から、毎週、デジクリに連載し、四年ほど前からは自身のブログで掲載してきました。区切りをつける理由は、最近の映画もそれなりに見ているのですが、週一回の更新ではネタ切れになりそうだということです。

「この映画について書きたい」と思わせる映画には簡単に出会えませんし、昔の映画については書き尽くした気もします。別のテーマにして、新年からブログを再開するつもりでした。

そんなとき、新刊を柴田さんに献本したところ、「デジクリ連載を再開しないか」とメールをいただき、新しく年明けからブログをリニューアル・スタートすることもあり、ブログ掲載の中からデジクリ用にアレンジして月二回の予定で連載をさせてもらうことにしました。

通しタイトルは、どんな内容でも書けそうな「日々の泡」(ボリス・ヴィアンの小説のタイトルで岡崎京子「うたかたの日々」の原作)です。当面は、「読書遍歴」を時系列に沿ってではなく、アト・ランダムに綴ることにしようかと考えています。

本のタイトルから入るつもりですが、結局は本と映画と音楽(JAZZ)の話が中心になるでしょうね。第一回目は、カーソン・マッカラーズの代表作です。

心に残るタイトルだった
【心は孤独な狩人/カーソン・マッカラーズ】




カーソン・マッカラーズの小説が映画化されたと知ったのは、映画雑誌でエリザベス・テイラーの新作が「金色の眼に映るもの」だと読んだときだった。それは映画雑誌の編集者が原題から訳したものらしく、その小説は「黄金の眼に映るもの」というタイトルで翻訳されているのを僕は後に知った。その記事が高校一年生だった僕の記憶に残ったのは、一体どんな物語だろうと思わせるタイトルだったからだろう。

カーソン・マッカラーズは、アメリカ南部を舞台にした小説を書いた女性作家だ。詩人でもあった。「黄金の眼に映るもの」は一九四一年、彼女が二十四歳のときに出版された長編小説である。その前年、二十三歳のカーソン・マッカラーズは初めての小説「心は孤独な狩人」を出して高く評価されたのだった。カーソン・マッカラーズは一九一七年に生まれ一九六七年に没するから五十年間の人生だったのだが、代表作と言われる二作を二十三歳と二十四歳で出してしまったのである。

「金色の眼に映るもの」として紹介された映画は、その後、配給会社が「禁じられた情事の森」(1967年)というタイトルに変更して公開した。巨匠ジョン・ヒューストンの監督作であり、当時、最もギャラの高いハリウッド・スターのふたりだったエリザベス・テイラーとマーロン・ブランドが共演し、ハリウッド・コードが緩んだために正面から同性愛を描けるようになった結果、ゲイ・ムービーのハシリになった作品なのだが、まるで安っぽいポルノ・ムービーのようなタイトルになってしまった。

しかし、なぜ発表後三十六年も経って、初めてカーソン・マッカラーズの「黄金の眼に映るもの」は映画化されたのだろうか。ハリウッドのコードがうるさくて、それまで同性愛をテーマにしてきちんと描けなかったこともあっただろう。ゲイであったテネシー・ウィリアムズ原作の「熱いトタン屋根の猫」(1958年)や、シャーリー・マクレーンとオードリー・ヘップバーンが共演したリリアン・ヘルマン原作の「噂の二人」(1961年)などは、同性愛を正面切って描けなかったためにテーマがボヤケてしまった作品である。

しかし、これは僕の単なる推測だが「黄金の眼に映るもの」が映画化された年に、原作者のカーソン・マッカラーズが死んでいるのが何かを物語っている気がする。それまで一度も彼女の小説は映画化されていなかったのに、翌年の一九六八年には立て続けに「心は孤独な狩人」が映画化されているのだ。その後、カーソン・マッカラーズの小説の映画化は、二十三年後に短編をベースにした「悲しき酒場のバラード」(1991年)があるだけである。「心は孤独な狩人」は「愛すれど心さびしく」(1968年)という邦題で、一九六九年のゴールデンウィークに日本公開された。

一九六九年は、東大闘争と共に明けた。一月十九日、東大安田講堂に立てこもった学生たちは、大学の要請で構内に入った機動隊によって放水と催涙弾を浴び、ひとり、またひとりと講堂(安田砦と呼ばれた)から引き立てられた。その様子はテレビ中継によって全国に流れ、多くの若者たちをいても立ってもいられない気持ちにさせた。十七歳だった僕も同じだった。その年の五月の体育祭、友人で生徒会長代行だったIはいわゆる造反演説を行って停学になり、その後、退学に追い込まれた。

そんな頃に、僕は「愛すれど心さびしく」を見たことになる。よく映画なんか見にいく気になったものだと思うけれど、あの激動と混乱の時期、ふっとひとりになりたくなったのかもしれない。「愛すれど心さびしく」のことは、テレビ番組の映画紹介で知っていた。評判はよかった。主演のアラン・アーキンは、前年に見たオードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」(1967年)での冷酷な殺人者の印象が強かったから、心優しい聾唖の青年役に僕は戸惑ったものだ。

口が利けない青年は心優しいが故に、人々の様々な感情のはけ口にされ、心の中に澱のようなものをため続ける。人々は彼に話すことで何かを解放しているのだが、彼自身の屈託や鬱積には出口がない。そんな中で、ただひとり、彼と気持ちを通わせるのは、下宿している家の少女ミックだけである。ミックだけが青年の救いになる。昔、僕は初めて村上春樹さんの「1973年のピンボール」を読んだとき、冒頭の文章から「愛すれど心さびしく」を連想した。こんな文章だ。

----彼らはまるで枯れた井戸に石でも放り込むように僕に向って実に様々な話を語り、そして語り終えると一様に満足して帰っていった。

村上さんはエッセイなどで「愛すれど心さびしく」を好きな映画だと書いているし、カーソン・マッカラーズの短編を翻訳もしている。もしかしたら、十代で「愛すれど心さびしく」を見た後、僕と同じように「心は孤独な狩人」を読んだのかもしれない。だから、「1973年のピンボール」の冒頭で僕が連想したことは、あながち的外れではない可能性もある。「愛すれど心さびしく」を見た後、僕も「カーソン・マッカラーズを読まねば」と妙な悲壮感を抱いて決意した。まだ十七歳の幼い少年だったのだ。

聾唖の青年の救いであった少女ミックを演じたのは、この作品でデビューしたソンドラ・ロックだった。すでに二十歳を過ぎていたが、少女のような儚さと脆さと、意識しない残酷さを持っていた(それが悲劇的なラストを呼び寄せる)。しかし、じっとさみしそう見つめる彼女の視線が印象に残った。そんなソンドラ・ロックはデビュー作で、いきなりアカデミー助演女優賞にノミネートされる。しかし、後にクリント・イーストウッド作品でヒロインとして活躍し、私生活ではイーストウッドのパートナーとして一緒に暮らし、やがて破局を迎え裁判で争うことになるとは予想もしなかった。

昨年末、十二月十五日の新聞の訃報欄にソンドラ・ロックの小さな写真が載っていた。ソンドラ・ロックは十一月三日に死亡していたが、一ヶ月以上経って判明しAP通信が発信したのだという。一九四四年生まれの七十四歳だった。死亡記事を読んだ僕の頭に「コラムを書くとしたら『儚い女----ソンドラ・ロック』というタイトルだな」という思いが浮かんだ。僕はイーストウッドとのいきさつを思い浮かべて彼女の人生を偲び、そんなフレーズを連想したのだけれど、やがて「愛すれど心さびしく」の消えてしまいそうな儚い少女の姿が鮮明に浮かび上がってきた。

【そごう・すすむ】

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