ユーレカの日々[70]記憶は映画のように/まつむらまきお

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先日、夜中に帰宅する途中、コンビニに寄ろうとした時のことだ。自転車でひとけがない駐車場に侵入した途端、ふっとんだ。駐車場の車止めに気が付かず、突っ込んでしまったのだ。

コンビニの灯りが宙を舞い、気がつくと目の前はアスファルトの地面。何が起きたのか、すぐには理解できない。身体が動かない。地面の上ではキラキラとガラスが散乱している。メガネを割ってしまったか。どうやら自転車で転倒したらしい。

やばい、予備のメガネはどこに置いたっけ……と、ぼんやり考える。遠くにはコンビニの灯り。まるで映画かゲームの一場面のようだ。あれ? アスファルトの上のガラスも、コンビニも、ピントがあってる。





ようやく動くようになった手でメガネを確認すると、レンズは割れていない。ガラスは元からあったようだ。ガラスで怪我をしなくてよかった。

自転車のフレームから脚を引き抜き、仰向けにひっくり返ると、上空にはコンビニの看板。なんとかゆっくり立ち上がり、自転車を起こして、コンビニ前のベンチに向かう。全身、痛いが、大きな怪我はなさそうだ。自転車も大丈夫。痛みが治まるのを待って、自転車を押して帰った。

帰宅して服を脱いでみると、冬の厚着が幸いして、ヒザに軽く擦傷ができたくらい。ただ、右手をネンザしたらしく、日常生活には支障はないが、今もタイピングすると小指あたりが痛い。

それにしても。アスファルトの上のガラスに、向こうにコンビニの灯り。なんとも映画的な光景だった。おそらく実際は「ぽてっ」とこけただけなんだろうが、頭の中では、自分がアクション映画よろしく、数メートル宙を舞ったような映像になっている。

そんな映像を思い描きながら、ふと考えた。映画やテレビが一般化する前、人々はこういった体験をどのように記憶していたのだろうか? どう伝えていたのだろうか? 普段から映像に慣れ親しんでいるから、記憶が映像として思い浮かぶのか、それとも、映画の登場以前から、そうだったのか。

●映画の歴史、編集という文法

映画は1891年、アメリカのエジソンが発明した「キネトスコープ」、それをリュミエール兄弟が改良した「シネマトグラフ」が起源だが、当初それらは、踊り子や、駅に入ってくる汽車を固定カメラで撮影した、単なる映像にすぎなかった。当時は色も音もないが、単純な主観映像なので、かえって「疑似体験」感は強かったと思う。

その後、映画はストーリーを語りだす。最初は舞台をそのまま撮影することからはじまり、やがて無駄な部分を削除し、シーンを繋ぐという概念が生まれる。そしてひとつのシーンを複数のショットで構成するカット割りという技法が成立。当初は説明的だったものが、徐々にこなれてくる。

有名なのは、「つなぎ目がめだたない編集」。たとえば、ある人物が振り返る場面。まず全身ショットで振り返る途中までを見せ、同じ角度から撮影したバストショットで、動作の後半を繋ぐ。

前半で状況を見せ、後半で表情を見せるための工夫なのだが、実際に肉眼で見ている世界ではありえない、不自然な画角の変化だ。それにもかかわらず、観客は画角が変わったことに気がつかないばかりか、役者の演技、映画の描き出す情感をより強く感じる。

さらに、「モンタージュ」という編集技法が登場する。人物のクローズアップに、食べ物のショットを繋げると、その人物がひもじいと感じている、棺のショットを繋げると悲しいと観客は解釈する。一見無関係なふたつのショットで、意味を表現できるというこの技法は、現在の映画表現の最重要なテクニックだ。

こういった映画のリテラシーは、いきなり生まれたわけではなく、世界中の様々な映画人の試行錯誤の末、徐々に定着してきたものだ。

現代人だって、赤ん坊が大人向けの映画を見て、いきなり内容を理解できるわけではない。子ども向けの映画映像では、カット割りは少なめだし、表情やセリフも説明的だ。それらシンプルな映像表現を見ながら、徐々に映画のリテラシーを身につけていくわけだ。

映画好きであっても、これらの映像リテラシーは、必ずしも意識している、知っているわけではない。ぼく自身、そういったことは長年意識していなかった。

本で読んだ知識はあったが、10年ほど前、NHKで放映された「カッティング・エッジ」というドキュメンタリーを見て、ようやく、理解できたのだ。

この番組は単独ではソフト化されていないが、マックイーンの映画『ブリット』に特典映像として収められていて、現在も入手可能。とても面白くてオススメ。
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●だれの視点?

編集は映画を映画たらしめる、重要な技法だが、それとは真逆の、ワンシーン・ワンカットでつくられる映画もある。宇宙空間を漂流する『ゼロ・グラビティ』や、昨年大ヒットした『カメラを止めるな!』などがそうだ。

さらに、3Dゲームの影響を受けた『ハードコア』のような、POV(主観映像)による映画もある。これらは映画的な編集を排除することで、ドキュメンタリー映像的な効果を狙ったものだ(モキュメンタリーというらしい)。

ワンシーン・ワンカットの映画はたしかに、ドキュメンタリーっぽさ、リアル感は感じられるのだが、逆にカメラマンの存在が感じられる(『カメラを止めるな!』ではそこがとても効果的に使われていた)。

そうなのだ。不思議なことに、作為的に複数カットで編集された映画の方が、カメラマンの存在感が希薄だ。これは一体、どういうわけなんだろう?

映画でもマンガでも、昔から不思議だったのが「だれの視点で撮っているかを意識すること」と説明されることだった。たしかに主人公の視点で物語を描いていくし、主人公が見ている光景を映像にする。

しかし、それ以上の多くの場面で、主人公が画面に写っているではないか。ではそのショットは、だれの視点なのだ? 他の登場人物? しかし、他に登場人物がいなければ、それはだれの視点なのだ?

ドラマの『孤独のグルメ』を考えてみよう。あのドラマが、主人公が映らないPOVだけで作られていたらどうだろう。食事を眺めて口に運ぶ、自分の手元の映像が延々と続く。これを臨場感があるといえるだろうか? 美味そうに感じられるとは思えない。

実際のドラマでは、主人公の井之頭五郎が常に映し出され、美味そうに食事をする。この映像はだれの視点だろう? 彼はいつも一人で食事をするので、連れはいない。店の人の視点でもない。

そうか、わかった。あれは、主人公の脳内で作られている、客観映像なのだ。

●脳内の客観映像

たとえば現実に、自分がどこかの店に行って食事をするとしよう。店の外観を見て、店内に入る。店の中の様子をざっと把握して席に着く。メニューを見て注文する。

実際にはPOV、自分の視点で見ているので、自分自身は映像には入ってこないのだが、脳内ではそれまでの状況を統合し、自分が店のどの位置にどんな格好で座っているのかを理解している。客観的な視点の映像を脳内でイメージしている。

道を曲がる、椅子の上に乗る、風呂に浸かる。日常的な、なにげない行動も、もし人間がPOVでしか認識してなかったとしたらどうなるだろうか? おそらく何かにぶつかる、椅子から落ちる、風呂で溺れることになる。

自分がどのような場所に、どのような姿勢でいるのか、脳内で客観的に描けているから、事故にならずに済んでいるのだ。椅子に乗れば棚に手が届きそうだとか、角を曲がったときにクルマがいるかもしれないと思うから、人間は的確に行動できる。

よく、男性はクルマを駐車場にバックで入れるのが得意、女性は苦手と言われる。クルマが駐車場内で、どういう位置にあるかを脳内で想像する能力が問われるのだが、おおむね男性の方がその能力が長けており、女性は苦手ということらしい。

たしかに脳内で客観的な状況を思い描けるかどうかは、個人差がありそうだが、苦手だからといって日常生活に支障をきたすほどではないだろう。だれもが、ある程度は客観的な映像を思い描いているはずだ。

『孤独のグルメ』の映像は、その人間の能力を映像化しているのだ。主人公の脳内で構築されている、客観的なイメージだと思うと、納得がいく。うーん、これはすごいことだ。なるほど、だ。

POVよりも、VRよりも、映画の文法で作られた『孤独のグルメ』のほうが、主観の内面を描いているわけだ。だから単なる主観映像しかない場合よりも、ずっと臨場感があるのだ。

『孤独のグルメ』だけではない。どんな映画でも、実際に主人公が見ている映像に加えて、主人公が知っている状況から脳内で描いている自己イメージを映像にする。

だから主人公の気持ちや考えが伝わってくるわけだし、観客も普段から、自分自身の行動を客観的な映像イメージとして脳内に描いているので、こういった映画の文法を不自然と感じない。

たとえば映画の、狭い部屋の中のシーンであれば、実際にそんな密室だと被写体に近すぎて、全体像が撮れない。そこで、一方の壁がないセットを作り、セットの外にカメラを置くことになる。

これを「リアルではない」として、避ける製作者も多いが、セットで撮られた映画でも、観客はそれほど「嘘くさい」と感じるわけではないし、普通は意識もしないだろう。それは、こういったショットが「だれかが見ている」映像ではなく、「そこにいる人達の脳内で合成された客観映像」と認識しているからではないか。

●記憶は映画のように

心理的な映像も踏まえて、映画の文法ができたのか、逆に映画の文法に慣れ親しむことで、心理的な印象を映像として思い起こすことができるようになったのか。

それはわからないが、進化した映画文法に慣れ親しんだ現代人であるぼくには、自分がコケた時の記憶は主観映像と、客観映像を組み合わせた、複数のカットで映画のように構成されているわけだ。

あの映画のあのシーンのように感動した。あのシーンのように怖かった。あのバラエティ番組のように笑えた。そんな風に思うのは、だれでも日常的ではないだろうか。映画という表現の文法が、人間の思考にも影響を与えているのだ。

●ゲームのリテラシー

映像と並んで、もうひとつ、自分の思考を大きく左右したのが、ゲームリテラシーだ。20代の頃、はじめてドラゴンクエストをプレイした時、HP(体力)、MP(魔法力)、すばやさ、かしこさなどのパラメーターという概念に出会い、驚いた。

それ以降、自分の生活の中で、「HPがやばい」とか、「かしこさのパラメーターが増えた」とゲーム言語で考える場合が出てきた。単に「つかれた」よりも、「HPがヒトケタ」と言った方が、より具体的。リテラシーが思考を拡張しているのだ。

たとえば、だれかと言い争いをしているとき、相手のどこが赤く光っている(弱点)んだろうか、と思うことがある。実際にそんなことはないのだが、相手の弱点を見極めよ、という感覚は、スポーツをしないぼくにとっては、ゲームからもたらされたものだ。

●たくさんの映画

映像的な記憶が言葉と異なるのは、自分が思い描いている映像をだれもが自分で作り出せるわけではないという点だ。

言葉であれば、その言葉を覚えれば自分でも同じように発することができる。小説や、広告で知ったしゃれた言い回しを自分で使うことが簡単にできる(正しい使い方かどうかはさておき)。

しかし、自分が思い描いた映像を、自分で作って人に見せることは、だれにでもできるわけではない。映画でもYouTubeでも、有名な映画の撮り方を引用する場合があるが、それにはテクニックが必要だ。普通は、だれもが知っている映画の一場面を引用して、自分の感覚を伝えようとすることで、映像感覚を共有する。

デジクリで長年連載されていた、十河進さんの「映画がなければ生きていけない」の第六巻が年末に出た。これで最終巻ということで、巻末にある6冊で扱った映画リストには圧倒される。

これだけたくさんの映画を見て、語ってきた人は、いったいどんな風に世界を見て、考えているのだろうか。それだけ言葉を知っているということだが、それでも、ぼくが好きなSF映画、たとえば『アンドリューNDR114』『不思議惑星キン・ザザ』『ダーククリスタル』『エターナルサンシャイン』など、十河さんは取り上げていない映画もたくさんある。おそらくぼくの方が多少、世界がSFじみて記憶されているに違いない。

言葉をたくさん知っている方が、記憶や思考、表現が深まるのであれば、映画もたくさん見ていた方が、世界は色鮮やかに記憶されることになる。

ああそうなのだ。だから、映画をたくさん見ることは、人生を美しくすることなのだ。日常的な行動が、ふとハリウッド映画のように感じる。思い出の一場面が、より印象的に思い出される。美しく、恐ろしく、楽しく。

そして人は、人生を終える時、自分の人生を一本の映画として思い描くのだ。自転車でコケた傷と痛みは徐々に消えているが、記憶は映画の一部として、記憶のアーカイブに残るのだ。


【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学教授】
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卒業制作の季節である。今年度は17名のゼミ生を見てきた。マンガ新人賞受賞&デビューを果たした3名を筆頭に、それぞれがずいぶん成長したと思う。失敗こそ財産。わからない、できない、こそ原動力。結果はどうあれ、その過程こそが、一本の美しい映画なのだ。