わが逃走[232]一見無意味と思われる作業から食い扶持のヒントを得て、無意味な作業を正当化したいの巻/齋藤 浩

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デザインがツマラン。
なぜツマランことになったのか。
オモシロくするにはどうすべきか。

と常日頃から考えているのだが、まったく答えが出ない。出ないなあ、などと思いながらプラモデルを作っている。

プラモデルは遊びであり、学業と無関係なので罪悪である、との教育を親から受けている。

しかし、ああ早く宿題しなくちゃ、などと後ろめたさを感じながら作り続けて今年で45年になる。




国産プラモデルが世に出て60年、初めてプラモを作ったのが4歳のときだから、私はその歴史の3/4を共有していることになる。我ながらたいしたものだ。

プラモデルは芸術ではないし、美術品でもない。組み立てることを前提とした「工業製品を縮小した工業製品」である。完成すると「置物」になる。

置物とは、テレビの上のでっかい将棋の駒や、下駄箱の上の鮭を狩る熊を見るまでもなく、あってもなくてもどうでもいいものと言えよう。

しかし、「ただ組み立てただけ」の状態に留めず、自分なりの思い入れを込めて接着面の隙間をパテで埋め、色を調合し、省略されたディテールを追加するなどして納得のいくものに仕上げると、ただの「置物」ではない“なにか”に化けるのだ。そこが面白い。

芸術はムズカシイし、わからない。
わからないものをわかったふうに装うのは疲れる。

それに対し、模型は車にしろ飛行機にしろ、誰もが知っている実物(実物が存在しないものもあるが)があるので、それをいかにそれらしく表現するか、という目標をすべての作り手が認識できる。

動かないけど動きそうに見せる。あたかも実物と同素材に見せる。

「組み立てる者に委ねられる部分」を最大限に活かし、本物以上に本物“っぽく”見せる。そこに共感をおぼえるのだ。

ただ組んだだけでは、あたりさわりのないものしかできない。そこから、自分なりの解釈をくわえてより「らしく」仕上げることこそ本来の楽しみ方と言えよう。

作り手に残された余地をいかに引き出し、いかに自分のイメージに近づけるかが楽しい。

プラモデルにはある程度の「正解」があり、その正解の幅の中で改造したり情景を作ったりしながら、より伝わる「超正解」まで持ってくるかの勝負なのである。こう書くと、模型製作はデザインの仕事に似ているな。

最近のプラモデルは、最初から色分けされていたり、接着が不要だったりと、誰にでもそれなりの完成度のものに仕上がるようになった。

また、昔では考えられなかった「完成品」が販売されていたりと、世の中もずいぶん変わってきた。

こういった状況は過保護と思えなくもないが、新たな作り手に対し敷居が低くなることは歓迎したい。作りたい者が作りたいように作ればいいのだ。

作っているうちに、さらにディテールを追加して自分のイメージに近づけたい! ここをこういう色にした方が伝わる! と思ったときが、沼への入り口かもしれないし、創造力の目覚めなのかもしれない。

最近のツマランデザインは、色分けされたキットを組み上げただけの状態に例えられると思う。

つまり、誰もがそれなりの水準で、同じ形の完成品を手にすることができ、またそれ以上のものを作らなくても事足りる状態なのだ。

そもそも、まっとうに組み上げた高密度な完成品を見たことがないから、現状で満足したような気になってるのではないか。

それを解決するために、我々にできることとは何か。何を作るべきか。どう作るべきか。

そのヒントを得るべく、今日もタミヤの1/35キングタイガーを作るとしよう。いつまでもプラモデルなんか作ってないで、宿題やりなさい! と脳内で母さんの声が聞こえる。


【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
http://tongpoographics.jp/

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。