Otaku ワールドへようこそ![297]シンギュラリティ来ない派の言い分を聞いてみる[後編]/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:26分(本文:約12,900文字)



シンギュラリティは来るのか来ないのか。自分とは反対の立場である、〈来ない派〉の意見をあえて取り上げてみようという趣旨を掲げ、前編を配信したのが2018年11月2日(金)、中編が11月16日(金)。以来、間が空いていたが、今回やっと後編をお届けします。

http://bn.dgcr.com/archives/20181102110100.html
http://bn.dgcr.com/archives/20181116110100.html

シンギュラリティ来ない派の中には、来る派をハナっから馬鹿にした調子で、空想と現実の区別がついてないなどとこき下ろす人がいるが、そういうのは心の中で馬鹿にし返しつつも、放っておくしかない。

しかし、ちゃんと論拠を提示して真面目に論じている人たちの意見に限っては、いちおう真面目に耳を傾け、理解に努め、受け容れて考えを改めるなり、冷静かつ論理的に反論するなりするのが礼儀というものであろうと考えてのことである。





●AIが目指すのは生命知か絶対知か

「AI 研究者のなかには、深層学習によってコンピュータが絶対概念を把握できるようになったと臆面もなく主張する軽薄な連中も少なくない」と威勢よく毒づく本をまず取り上げよう。

  西垣 通
  『AI原論 神の支配と人間の自由』
  講談社(2018/4/10)
  https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062586754/dgcrcom-22/

この本ではそれなりの分量の言葉が費やされ、話があちこちに及んでいるが、枝葉の部分をばっさりとカットし、根幹の論理だけを抜き出すと、およそ次のようなことになる。

「知」というものは、2種類に大別できる。人間が生きるための実践的な「生命知」と、より高度な普遍的真理にいたる「絶対知」と。

前者は、心をもつ人間という生物が生きるための知的活動である。人間は、生物進化史からみて、特有の不完全さをもつ。知覚だけ取り上げれば、われわれより優れた動物はいくらでもいる。人間は、大脳新皮質がアンバランスに発達した一種の奇形にすぎないという見方もできる。

後者は、人間という制約条件から解き放たれて、客観的に世界の事物にアクセスし、宇宙のありさまを分析できるべきものである。

本書では、一貫して、この2種類の知の対比が述べられている。

人工知能(AI)研究者が追求しているAIの目指す目的とは、どちらの知にいたるほうに置かれているのだろうか、と問題提起している。

「AI とは何か」という問いかけに対して、AIの専門家からはさまざまな回答が返ってくる。
(1)心をもつ機械
(2)脳活動のシミュレータ
(3)人間のような知能をもつ機械
(4)人間のように振る舞う機械
(5)知的な振る舞いをする機械
(6)人間を超える知能をもつ機械
などはその典型だ。

(1)~(4)はあくまで「人間の知の模倣」であり、前者の「生命知」にあたる。(5)と(6)は「普遍的真理を求める知の実現」であり、後者の「絶対知」にあたる。

もしAIの目的が生命知にあるとすると、「人工知能」という言葉が、一見、語義矛盾をはらむようにみえてしまう。人工というからには、人為的、つまり、非自然的なことを指す。

人工物のひとつである機械は、生命体からとりあえずは峻別されるはずだ。身体をもたず、生きていない機械に生存目的の知が宿るはずはないし、コンピュータが生命知としての知能をもつはずはないことになる。

この矛盾を解消しようとするならば、生命活動と機械的作動が基本的には同質であることを論証しなくてはならないが、この論証は容易ではないだろう。

これは、デカルト以来議論されてきた「心脳問題」にほかならない。AIが現代科学技術の一翼をしめる以上、心を霊といった神秘的存在に結びつけることはご法度である。脳科学者だけでなく多くのAI研究者にとって納得できるのは、物質的な存在である脳だけが実体であり、脳内のニューロンの電気的活動が心を生み出しているという、唯物論(あるいは唯脳論、人間機械論)的な考え方ではないだろうか。

しかし、この問題はそんなに単純ではない。生命体と機械との決定的な相違については、「オートポイエーシス理論」が有益なヒントを与えてくれる。生物は、環境世界を観察し、その身体活動にともなって内部世界を構成していく自律的存在であるのに対して、機械は設計者によって作動ルールを定められる他律的存在である。

一方、AIの目的は後者の絶対知に置かれるべきものだとする主張がある。「人間を超える知能をもつ機械」というAIの定義は、明らかに「絶対知の実現」を目指している。

こういう議論をするトランス・ヒューマニストの代表格に、発明家レイ・カーツワイルがいる。カーツワイルの「シンギュラリティ仮説」は多くの耳目を集めている。

シンギュラリティ(技術的特異点)とは、人間を超える優れた知性がコンピュータに宿るため、その時点を超えると世界がわれわれ人間にとって理解不能になるという、SF作家ヴァーナー・ヴィンジが1980〜90年代に言い出した概念である。

これはある意味で恐ろしい予測でもあるが、カーツワイルは著書『ポスト・ヒューマン誕生』において、これを極め付きの楽観主義で塗り替えてしまった。カーツワイルによれば、2045年にシンギュラリティが到来し、AIが人類の知能を超越するが、それは人類に幸福をもたらすという。

カーツワイルの言うAIとは、普遍的な絶対知の実現にほかならない。にもかかわらず、彼の議論の中には「人間の模倣」という側面も明瞭にみられる。

不完全さをもつ人間の模倣を方法としながらも、より高次の超知性体への進化、絶対的真理への到達を目指している。これは根本的な矛盾ではないだろうか。

トランス・ヒューマニズムにおける観察者の視点は「人間」を標榜しながらも、実はひそかに一神教の絶対神の視点に重ねられているのではないだろうか。シンギュラリティの発想を懐胎させた思想的源流には「グノーシス主義」が見え隠れする。

●ケバヤシの嘆息

いやぁ、ほんっと、どうもすみません。自分とは見解を異にするシンギュラリティ来ない派についても、論拠を示して大真面目に論じているのであれば、こちらとしても、正面から向き合うべきだという姿勢で、この本を紐解いたわけだが。

序文あたりでもう飽きてしまい、読み進める原動力がすっかり揮発してしまった。ただ、正面から向き合うという自分の言葉に殉じる義務感だけが残った。退屈で退屈でうんざりしながら、興味のないものにつきあい続ける苦痛を我慢しながら読んだ。

シンギュラリティについて述べてさえいれば、なんでもかんでもおもしろく読めるというものではないのはおもしろい。

まあ、「知能」に客観的な定義がまだないために、人工知能もシンギュラリティも概念として明確になっていない点は認めよう。しかし、この本を読んでいると、「分からない」の上に「分からない」、「分からない」が次々と積み重なっていき、それがいつか分かるようになっていくのではなく、もう、すべてがどうでもよくなっていくのである。

この本の中心テーマである「生命知」と「絶対知」の区別がそもそもよく分からない。どこかに定義が述べられていたっけか? すべての知についてどちらか一方に峻別するための手続きが述べられていたっけか?

前者については、聞いたことがないけど、出典があるのか、それとも著者の発案なのか。後者についてはヘーゲルが何か言ったらしいけど、ヘーゲルの絶対知と本書の絶対知とは同一の概念なのか。

それらは二律背反的な概念であって、両方に属する知やどちらにも属さない知が存在しないことは言えるのか? それをどこかで証明していたっけか? それをやっていないとすると、前者でなければ後者しか残っていない、というような論理は展開できないと思うぞ。

心が脳内のニューロンの電気的活動に由来するとする唯脳論は、実証するのがむずかしいとは言え、否定するのだって簡単ではない。当分の間は、この仮説の下で、意識の研究なりAIの開発なりを進めていって、いったい何が悪いというのか。

「身体をもたず、生きていない機械に生存目的の知が宿るはずがない」と言うが、それはたしかに、掃除機のような機械をただ作動させっぱなしにしておいたら、自己保存の動機から勝手に知性が芽生えていた、なんてことはまず起きないであろう。

しかし、われわれが知性を備えるのはどのようなメカニズムによるものかを解明した上で、その仕組みを機械に実装すべく、われわれ人間が機械を設計して製造することが不可能だと簡単に言い切れるだろうか。

「オートポイエーシス理論」によれば、機械は設計者の企図した作動ルールに忠実に従う他動的存在であるのに対して、生命は環境に適応すべく自己を柔軟に変容させることのできる自律的存在であるという点で決定的な差異があるため、機械が人間のように振舞うことは不可能であるとしている。

しかし、それは現時点の機械を眺める限りそうであると言っているにすぎず、機械が本質的に未来永劫、自律性や汎用性を備えることが不可能であることを論証してはいない。有効期限つきの理論であり、原理的な議論に踏み込めていない。いかにも俗っぽい民間信仰みたいなもんで、なるほど、正統な科学からは見向きもされないわけだ。

「カーツワイルの言うAIとは、普遍的な絶対知の実現にほかならない」って、そんなこと言ってたっけ? 「人間を超える知能をもつ機械」って、カメがウサギを追い越すのと同様、相対的な比較の話であって、カメを追い越したウサギが何か絶対的なものを目指しているに違いないなんて決めつける根拠はどこにあるのだろうか。ああ、分からない、分からない。

AIが絶対的真理への到達を目指しているなんて、誰も言っちゃあいないのだから、根本的な矛盾なんてものも現れようがない。起きてもいない根本的矛盾を指摘して言い負かしたつもりになったか、すっかり調子づいちゃって、シンギュラリティ来る派の宗教的狂信の源流がどこに由来するか、なんてほうへ論が行っちゃって、グノーシス派なんか持ち出してきたのは、もう笑止以外の何物でもない。

しょうもない論の上塗り上塗りを重ねてもいっそうしょうもないだけなので、元へ立ち返ろう。生命知と絶対知って、いったい何なんだ?

知というと、例として次のようなものが挙げられよう。
・生卵かゆで卵かは、殻を割ってみなくても、回してみれば区別できる
・1185年、源頼朝は鎌倉幕府を開いた
・通常国会の会期は150日間である
・関東地方では、今日午後から雨が降る確率が40%である
・われ思う、ゆえにわれ在り
・天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
・反対色を隣接させると、調和の悪い、異常な感じを呈する
・波長の比が簡単な整数比になる二音階は和音として調和よく聞こえる
・権力は腐敗しやすい
・太っているよりは痩せているほうが異性にモテる
・月にはウサギがいる
・社会主義よりも民主主義のほうが優れている
・1999年7月に人類は滅亡する
・オタマジャクシは成長するとカエルになる
・幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある
・強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない
・1個の水分子は1個の酸素原子と2個の水素原子から構成されている
・梅毒にはペニシリンが効く
・太陽は東から昇り、西に沈む
・富士山の標高は3,776mである
・質量mの物体にfの力を加えるとaの加速度を得る。それらの量的関係はf = m aである。
・雷は空気の絶縁破壊によって起きる
・1 + 1 = 2 である
・円において円周の長さと直径の長さとの比率は、大きさによらず一定である
・ AIが人間に勝った将棋の対局の棋譜
・将棋の最終定跡(先手後手双方のすべての指し手が最善手のみからなる初手から終局までの棋譜)
・一万円札に折り目をつけて斜めから見ると、福沢諭吉が笑った顔や困った顔
 になる

これらひとつひとつについて、生命知か絶対知のどちらに属するのか、分類してくれたら、少しは理解が進むかもしれない。ほんっと、最後の一万円札のやつなんて、いったいどっちなんだろう?

●分からないには三つある

自分の頭が悪いせいで難しい話が理解できないのを棚に上げて、その責を著書に押し付けるとは、どういう了見だ、という反論が聞こえてきそうだ。著書の中にも次のようなことが書かれている。

表象(記号)を形式的に操作することで客観世界を理解し、問題を解決しようとするAIの方法論を、ウィノグラードという人が徹底的に批判した。論拠として、ガダマーの解釈学やハイデガーの実存哲学を引いている。その議論はきわめて説得力に満ち、的を射たものであったが、AI研究者から等閑視されたのは、哲学的難解さのせいで理解されなかったというのが実情であろう。

こんな波がこっちにも押し寄せてこないよう、防波堤を打っておきたい。

他人の主張する概念が私に理解できないとき、その原因は3通り考えられる。
(1)主張内容がそもそも正しくない、あるいは、無意味である
(2)主張内容の説明のしかたが上手くない、あるいは定義の欠如や論理の飛躍などの欠陥がある
(3)自分の側に理解しようとする努力が足りない、あるいは、頭の出来が悪すぎて理解が及ばない

話は大幅に脱線するが、5次以上の代数方程式が、四則と冪根で表現される一般解をもたないことを示す「ガロア理論」というのをご存知だろうか。体(たい、field)に要素を付加して得られる拡大体がどうのこうの、というアレである。

私は早稲田大学理工学部数学科の学部生だったとき、寺田文行先生から授業で教わった。が、残念ながら、理論を追う道筋から脱落してしまい、理解の山頂からすっきりした気分で眺望を満喫する快楽には至らなかった。

しかし、この登頂失敗をガロア理論の不備のせいだとか、寺田先生の教え方に問題があったせいだとか言う気はさらさらなく、100%自分のせいだと言い切ることができる。あらためてじっくり腰を据えて勉強しなおしてみれば理解できるかもしれないし、それでもやっぱり自分の理解力の限界を超えていると思い知らされるだけに終わるかもしれない。それを潔く認めるだけの謙虚さぐらいは、いちおう持ち合わせている。

しかし、西垣氏の生命知と絶対知の話になると、私は自分の側に責がある可能性は半々ぐらいだろうと思っている。では、その違いはどこにあるのか。

●心を空っぽにして定義を待つ

この著書に苦情を申し述べたい点は多々あるけれど、一番重大なのは、生命知や絶対知といった独自の概念を導入したいのであれば、その定義だけはしっかり記述してほしいという点だ。

話はさらに脱線するが、「連続(continuous)」とは何かをご存知だろうか。まあ、途切れなく続いているってことなんですが。

でも、数学ではそれに近い概念を「連結(connected)」という用語で表現しています。

数学で言うところの連続は、x から y への関数に関わる概念です。関数とは何かと言えば、x の値が決まれば必然的に y の値が決まるようになっている対応関係のことです。ここでは x と y はともに実数値をとるものと限定しておきましょう。

たとえば、x から y への対応関係が
  y = x + 2
という数式で記述されていたとすると、x の値が 0 のときは y の値が 2、1 のときは 3、2 のときは 4、... という具合に、x から y が必然的に決まるようになっています。

y が x の関数であることを
  y = f(x)
と表記します。

関数は、グラフで可視化することができます。横軸が x の値を表し、縦軸が y の値を表すような平面を考えて、そこへ (x, y) という座標値の点の集合をプロットしていくことで、線が描き出されます。

先ほどの
  y = x + 2
の例では、点 (0, 2) を通り、傾きが 1 であるような右上がりの直線が引けます。

さて、x から y への関数 y = f(x) が連続であるとは、直感的に言えば、その関数のグラフで描き出される曲線がどこでも途切れていないことを言います。先ほどの例は、連続であると言えます。

別の関数の例として、
y = sign(x)
を取り上げてみましょう。sign(x) は、符号関数と呼び、x の値が負であるときは -1 という値をとり、0 であるときは 0 という値をとり、正であるときは 1 という値をとります。この例では、x = 0 において、連続ではありません。これのグラフは Wikipedia の「符号関数」の項を参照してみてください。

学生時代、数学科に五百井先生という方がいたが、みんな名前が読めなくて、ウモモイとかゴヒャクドンとか、テキトーに呼んでいた。

にこにこ笑いながら「おまえらがいかにバカか教えてやる」と言う。「連続の定義を言ってみろ!」。

あー、あったなぁ。イプシロンがどうとかで、デルタがこうとかいうやつ。どうなってたんだったっけな?

「そらみろ! 答えを教えてやる。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、ってことだ。『方丈記』に書いてあるだろ。わかったか!」。

ははぁ、恐れ入りました。

ゴヒャクドンの頓智は脇に置いて、連続とは何かを数学でちゃんと表現してみましょう。

x から y への関数 y = f(x) が区間 I において連続であるとは、
  (∀a∈I)(∀ε>0)(∃δ>0)(∀x∈I)[|x-a|<δ⇒|f(x)-f(a)|<ε]
であることを言います。この論理式を平文で読み下すと、「区間 I に属する任意の実数 a について、任意の正の実数 ε について、(それぞれのa と ε に応じて) 正の実数 δ が存在し、区間 I に属する任意の実数 x について、a と x との差の絶対値が δ よりも小さいならば、f(a) と f(x) との差の絶対値が ε よりも小さくなるようにすることができる」となります。

さきほどの「ゆく河の流れ」で表現したのと、どっちが分かりやすいでしょうか。って、言うまでもないというか、この論理式はいったい何を言っているのか、もうさっぱり訳が分かりませんね。

しかし、ここが大事なところですが、ゆく河の流れじゃダメで、この論理式しかないのです。われわれは「連続」という言葉を知っていて、一本のリボンが途切れなくつながっているようなイメージをもっているかもしれません。連続とはどんな概念か、すでに知っているぞと思い込んでいるかもしれません。けど、それは余計なのです。

数学で、今から「連続」を定義します、と言ったとき、この言葉に引っ張られて頭の中に湧き起ってくるイメージをいったん捨てる必要があります。心を白紙に戻して、新たな「連続」の概念を受け入れる体勢を整えておく必要があります。

「連続」という言葉を充てているのは、われわれが日常的になじんでいる概念の中で比較的近いのがそれだからという親切心から来ているのですが、実は同一概念ではなく、まったく新しい概念を導入しているのです。

たとえば、次のような関数を考えてみましょう。
  y = 0 (x = 0 のとき)
  y = sin(1/x) (それ以外のとき)
この sin は正弦関数であって、先ほどの符号関数とは別物です。これのグラフを見てみたい場合、文字列 y = sin(1/x) を Google の検索窓に放り込みます。便利になりましたね。

真ん中らへんが、べったりと塗りつぶされて、線ではなく、面をなしているように見えますね。このべったりの中で、可算無限回、上下に振動しています。面がべたっと埋まっているようにみえる以上、このグラフは途切れなくつながっていると思われるかもしれませんが。実は、上記の論理式による定義に照らしたとき、x = 0 において連続ではありません。

いま定義した連続は「各点連続」とも呼びます。というのは、それとは別に「一様連続」という概念があり、区別をはっきりさせたいからです。

x から y への関数 y = f(x) が区間 I において一様連続であるとは、(∀ε>0)(∃δ>0)(∀a∈I)(∀x∈I)[|x-a|<δ⇒|f(x)-f(a)|<ε]であることを言います。

順番が入れ替わっただけですね。先ほどは、a の値を見た後で、それに応じて δ の値を選んできてよかったのですが、今度は、a の値を見る前に、ユニバーサルな δ の値を選ばなくてはならないので、先ほどよりも厳しい条件になっています。

つまり、一様連続ならば各点連続であることは、必ず言えるのですが、逆は必ずしも言えません。そのような例として、
  y = 1/x
  I = {a; 0 < a < 1}
が挙げられます。解説はちょいと省きます。

各点連続と一様連続との違いについて、身近な何かにたとえて説明してください、と言われても、それはできない相談です。定義そのものに立ち返る以外にないのです。ゆく河の流れの比喩ではどうにもならないのです。そんなので分かったような気になったとしても、正しく伝わったかどうかを確認する手段がありません。

言いたいことは、何らかの概念を導入したいのであれば、その定義をちゃんと述べてください、ということに尽きます。

「生命知」や「絶対知」のように用語っぽいものが出てきたとき、私は、言葉に引っ張られて沸いてくる先入観を意図的に排除し、その概念についてまったく知らない状態にわが身を置くよう習慣づけられています。ヘーゲルがすでにこの言葉を使っているかどうかは関係ありません。同じ言葉を使ったって、概念として異なる可能性があるからです。

心を空虚にして、さあ、定義してください、と待っています。ところが、本書のような説明では、連続の概念を「ゆく河の流れ」で説明づけようとする姿勢に等しく、定義になっていません。

それで概念が正確に伝達できるはずだと期待しちゃう感覚は異常です。それは説明の欠陥です。「分からない」のが正しいのであって、頭が悪くて理解できないというのとは、まったく違います。

赤ん坊だったら、お腹がすいたのか、おむつが濡れているのか、どこかが痛いのか、泣き声から母親が察してくれるのかもしれません。いい大人が、自分の言ってもいないことを、相手の側がきっと正しく察してくれるだろうと期待するのは、幼児の甘えに等しい。

この書物のダメなところはいっぱいあるけれど、一番ひどいところはそこです。出発点からしてダメなので、後に続く議論はまったく意味をなしていません。

まあ、しかし、スピノザの『エチカ ― 倫理学』みたいに論理式を使って定義してくださいとまでは言っていませんけど。

●ガナシアの本もだいたい同じ

「シンギュラリティの到来に肯定的な人々は、科学とテクノロジーの世界で、今何が起きているかわかっていないのではないか。知る術がないのかもしれないし、ただ単に知りたくないのかもしれないが」と、これまた鼻息の荒い本がある。

  ジャン=ガブリエル ガナシア(著)、伊藤直子(翻訳)、小林重裕(翻訳)
  『そろそろ、人工知能の真実を話そう』
  早川書房(2017/5/26)

西垣氏の本が哲学・思想寄りなのに対して、ガナシア氏のは技術寄りなので、私にとってはなじみがあって読みやすかった。しかし、論理の筋道について組みだけを抜き出してみれば、だいたい似たり寄ったりなのである。

本稿の[前編]において、次のような仮想対話を提示している。Aさんが次のように言ったとしましょう。「明日は雨が降るような気がする。さっきまで晴れていたのに、あっという間に空が雲で覆われてしまった」。

これに対して、Bさんが次のように言ったとしましょう。「Aは明日は間違いなく雨が降ると言っているが、それはおかしい。彼の論証には欠陥がある。空が雲で覆われたからといって、かならずしも雨が降るとは限らない。ゆえに、明日は雨が降らない」。

Bさんの論には二重の論理誤りがある。詳しくは[前編]を参照してください。
http://bn.dgcr.com/archives/20181102110100.html

私がこれを出してきたのは、ガナシア氏の著書においても実は同様の論理ミスを犯してしていることを指摘するためであった。

「シンギュラリティの主張は、はっきりした科学的証明がなされていないという点で、認識論的に間違っている」。

明日雨が降ることを科学的に証明できていないのだから、それは間違っているとする論理と、構造が一緒ですね。

で、その後は、やっぱりグノーシス派へと論が移っちゃっているあたり、西垣氏の著書と大差ない。

「シンギュラリティ推進派の多くは、SF発祥の夢物語と科学やテクノロジーの研究成果に基づくプロジェクトの実現とを混同しているようだ。この事実は、グノーシス派に見られる神話の領域と論理的思考の領域の混同を思い起こさせる」。

OCRソフトやフラットベッドスキャナーや音響のシンセサイザーや文章朗読機の開発に携わり、その後、Googleの研究部門で職を得ているレイ・カーツワイル氏が、SF由来の夢物語と科学技術のプロジェクトとを混同しているというのだろうか。失礼もたいがいにしなさい。

●ジャンル丸ごとポイッ

振り返れば、結局、これらの本は読んでも読まなくてもよかった。時間を無駄にしたのは損失だったが、収穫と言えば、今後は、ひょっとしたら説得力のあることを言っているのではなかろうかという心配なく、この種の本に手出しせず放置できることか。

シンギュラリティを話題にしていながら、自分の関心とまるで接点がなかった。というか、論理運びの甘さに苛立つばかりであった。

元はと言えば、自分とは反対の意見であっても、まずは真正面から向き合って理解に努め、その上で、論理的に反駁しようというつもりで紐解いたのであった。ところが、読んでみたら、そこに論理の緻密さが不在だった。これでは反論のしようがない。以前に、理解できない。

喫茶店で隣りのテーブルから聞こえてくるおばちゃんたちの雑談に対して、論理的に反駁することができないのと同じことだ。それは、難解すぎて理解できなかったのとは違うし、論に屈して主張内容を受け容れたのとも違う。どうにもかみ合わない徒労感をもって、匙を投げた感じ。

こんなずさんな論であっても、まるでまっとうなことを言っているかのごとく賞賛を受けるような、コミュニティというか、学術部門みたいなものがきっとあるんだろうな。私は今までなじみがなく、これからもなじみたくないけど。

自分に理解できないフェティシズムをもった人たちの変態性欲を満たすための秘密クラブみたいな商業施設が営業していたとして、私は、それを社会の害悪だから潰すべきだと主張したりはしない。

自分に価値がまったく理解できなくても、一定数の人たちにとってはありがたがられているのであるから、きっといくばくかの存在意義はあるのであろう。ただ、自分が行かなければいいだけのことだ。

自分にとって価値がないと確信が得られたことに安心して、迷いなく切り離せる、というのが、自分の中でのひとつの結論だ。そこにスパイスとして、侮蔑と嘲笑が一振りしてあるくらいは見逃してほしい。向こうからこっちにもやってることだからね。

シンギュラリティについて、一言、補足しておこう。これは、ノストラダムスの大予言ではない。来る来る詐欺みたいに言うのは筋違いだ。2045年になってシンギュラリティが到来していなかったからといって、カーツワイルの論は間違いであった、以上終わり、と結論づけるべきものではない。

原理的にはきっと可能であろうと思われることが、実際にはいつごろ実現するだろうかを占う、未来予測の話である。現時点では、フレーム問題だの、記号接地問題だの、未解決の課題があって、1~2年やそこらでシンギュラリティが実現しそうな気配は片鱗もみえない。

難題を解決する大発見・大発明がいつ誰によってなされるか、あるいは永遠になされないかなんて、正確に予見することは不可能だ。ただ、今までの技術の進歩の速度や研究予算の投入具合から推して考えれば、だいたいいついつぐらいにこれこれのことになっていてもおかしくはないかもしれないね、という外挿的観測をしてみるくらいがせいぜいだ。

知能や意識の謎に科学の側から迫ろうとするチャレンジは、2045年に成否の決着がつくような話ではないのだ。来るか来ないかの1ビットの情報をただ待っているだけというのはあまりおもしろくない。脳科学や人工知能や、あるいは数学や理論物理学などの知見を総動員した研究によって、今後、徐々にどんなことが解き明かされていくのか、その内容にこそ注目していたい。


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インフルエンザが猛威をふるっているが、これの原因はウィルスであって、寒さのせいではないはずだ、という仮説。電車やバスに乗ることを極力避ければ、感染確率が下げられるのではないかという仮説。ついでに、ウィルスが体内に入り込むのを100%ブロックするのは不可能にしても、軽く汗ばむ程度の運動をすれば、上昇した体温によって体内のウィルスを殺せるのではないかという仮説。

二重の意味で冷や冷やしつつ、身をもって仮説を検証しようとしている。この冬、セーターとかジャンパーとかコートとか、まだ一度も着用していない。片道6.4kmの通勤を往復とも極力歩くようにしている。今週は月から水まで3往復全部達成している。雨でも歩く。

AbemaTVの『Abema 的ニュースショー』という番組に出演させてもらったことは前回書いた。12月16日(日)と1月13日(日)の放送回では、スタジオに呼んでもらえ、2時間生放送出ずっぱりであった。

その後、1月27日(日)と2月3日(日)にもフル出演させてもらえた。1月27日(日)の放送回では、私のふだんの姿を紹介したいので、あらかじめVTRを収録しておきたいと言ってきた。

私は皮肉を込めて「テレビ様」と言っているが、テレビ番組の制作現場は、人の都合など委細構わず、お互いのやる気を試し合うような無茶振りの応酬である。制作サイドからの無茶振りに屈するばかりではなく、こっちからも無茶振りしちゃえばいいのだと、だんだんコツが分かってきた。

前日26日(土)に収録する予定になっていたが、土曜は基本A面なのに、収録のためにB面で過ごすのはつまらない。それに、喫茶店で本を読んで過ごすなど、映像的にはあんまりおもしろくないかもしれない。

25日(金)の朝、「本日収録ではどうですか?」と提案してみた。それがちゃんと通った。「じゃあ、仕事を上がって会社を出てから居酒屋で飲むところまでを収録しましょう」と軽く言ってきた。ニヤリ。「言いましたね?」。

撮影スタッフは、途中でタクシーに乗るなどのズルをせず、6.4kmの歩程にぜんぶつきあってくれた。よくがんばった。「もう足がパンパンです」。

1月27日(日)の放送回では、2時間出ずっぱりのコメンテーター6人の顔ぶれの中に、『なんとなく、クリスタル』の著者で、元長野県知事の田中康夫氏がいた。そこに私もいるのだから、キャスティングの振り幅がすごくないか?

そんな場で私なんぞがニュースにコメントしたりしたら、どれほど見劣りするか、ってことを本人はぜんぜん気にしていないクソ度胸も、もしかしたらすごいのか?

2月3日(日)放送回では例の統計不正問題が取り上げられ、なんと、元厚生労働大臣であらせられる舛添要一氏が呼ばれてフル出演していた。舛添氏の解説はものすごく分かりやすい。さっすがぁ、頭いいわぁ!

来週末も暇ですと言い残して来たけれど、残念ながら、2月10日(日)放送回にはお呼びがかかっていない。って、レギュラーの座を狙っているわけでは決してない。

期限つきで「後から視聴」できるようになっていて、過去4回分ぐらい見られます。
https://abema.tv/video/title/89-76