[4734] はぐれは世間の「正しい」が分からない◇日航123便 墜落の新事実

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《ボクに言わせれば……》

■はぐれDEATH[70]
 はぐれは世間の「正しい」が分からない
 藤原ヨウコウ




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■はぐれDEATH[70]
はぐれは世間の「正しい」が分からない

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20190215110100.html

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■世間の皆様はそんなに規格化されることを望んでいるのか?

まぁうすうす想像はできると思うのですが、世間様でいう「正しい」が、ボクにはさっぱり分からないのだ。

そもそも「正しい」の定義がよく分からん。算数の四則演算くらいなら何となく分かる。何となくですよ。四則演算だって、前提の10進法が変われば同じ数字で表記された式の答えも、変わらないとおかしい。というか、変わってあたりまえ。

もうさっさと結論をいうが、この前提(条件ともいう)を「常識」というカテゴリーで十把一絡げにする傾向が、ボクには気にくわないようなのだ。「いわなくても分かるだろう?」という、無言の圧力を感じているらしい。

この段階で既におかしい。「いわなくても分かる」という条件設定がおかしすぎる。そもそも「いわなくても分かる」のであれば、宗教やら思想やらなんやらは不要になるはずだし、言語によるコミュニケーションすら不要になるではないか。

「宗教や思想は別だ」という方がいらっしゃるなら、それは早計に過ぎるとしかいいようがない。ちなみにそれほど特別なものでもない。

理論化できるかどうかはとりあえず置く。家族ですら考え方や価値観が完全に共有されていたり、納得していたりすることすら珍しいのではないか? ちなみに我が家は、基本みんな好き勝手である。そもそもボクがワガママだし。

確かに共有されている価値観はあるのだろうが、あくまでも一部だけであり、ここにももち〈編集部注:飼い猫〉が加わると(加えるか?)さらに共有できる価値観は少なくなるだろう。

「人と猫を一緒にするな」と思う方が少なくないと思うが、ももちは我が家で彼女の役割(というか居場所)をしっかり持っているし、ももちの存在は我が家の日常生活に大きな影響を与えているのは事実である。

ここで我が家は「家にももち(他の猫はダメ)がいる」という、極めて特殊な条件があることを再確認いただきたい。さらに「個」としての奧さんやおねえちゃん〈編集部注:娘さん〉だって、丸っきり同じ人は他にいないのだ。

それでなくても、みんな基本好き勝手しているのである。このような環境で、共通の「正しい」が共有できるかすら疑問である。

うちがおかしいだけなのかもしれないが(多分それはない)3人+ももちでこの体たらくである。不特定多数などという、もっとも得体のしれない条件下で「正しい」を共有できるはずがないと思うのだ。

戦時中ですら、ボクは、いわゆる「思想統制」が完全に機能していたとは思えない。あるとすれば雰囲気であって、価値観のレベルにまで至っていないのが現実ではないか?

雰囲気ほどうつろいやすく、あやふやなものはないと思うのだが、これをもって「正しい」といわれるともうお手上げなのだ。別の見方をすると、雰囲気ほど手っ取り早く飛びつけるものもない。考えなくてもいいのだ。乗ってしまえばそれでおっけー。

「雑すぎる」といわれそうだが、無意識のレベルだと乗る人は多数派だろう。こういう傾向は社会学や経済学、心理学で散々言及されているので、いつも通りジャンジャン飛ばす。

「雰囲気に乗る」というのは「模倣」に過ぎないというのが、流行論でよく出てくる一つの考えである。

ボクは「模倣」を思考停止の一種と思っている。ボクの「流行が苦手」というのはもちろん、「みんな同じモノで盛り上がるのが気持ち悪い」という、身も蓋もない理由も大いにあるのだが、「これはほんまにエエんか?」と警戒してしまうところに、高くて分厚い壁を自分で作ってしまう、ワケの分からない思考様式があるからだろう。

ボクがビビりであるのは散々書いているので、ある程度は察してくださるかたも多少はいるかもしれないが、とにかくストレートに何かを受け入れることは、ボクの場合ほとんどない。

単に警戒心が強いだけなのだ。極端な排他主義者といわれても、別に不満・異論を述べる気もない。自分が良ければそれでいいのだ。だから「価値観の共有」によって得られる、ある種の社会的な安心感(?)もボクには不要である。

こういうことを白状するというのは、エカキという怪しい事この上ない稼業で口に糊する身としては、もうほとんど自爆行為に等しいらしいのだが(あくまでも現状のお仕事の状況と自己を比較検討した結果論に過ぎない)、ここまではぐれているところを見れば、相当な規模で自爆をしているのは、ほぼ間違いないだろう。

ようするに、雰囲気でどうこうできる人ではないのだ。絵として雰囲気を作ることはいくらでもできますよ。エカキだし。ジャンルだって、特に何かがダメということはほとんどないし(エロは無理)、むしろ「フジワラにこれは無理やろう」というネタの時の方が、盛り上がるぐらいである。

お話というのは雰囲気だけでできるものではないので(だから作家さんたちは一生懸命書いているのだ)当然のことながら、それぞれの骨子はきちんとある。

エカキとしては骨子を把握するかしないかの話であり、ボクは把握しないと絶対に想像もしなければ、手を動かすこともない。まぁ読めば黙っていても骨子ぐらいは把握出来る。だって分かるように書いてくれているんだもん。ボクはただ読めばよろしい。

もちろん、ボクが描いたものが唯一無二の正解ではない。そもそもボクの中でいくつも骨子に沿ったシーン・モチーフや「絵にしたらいいだろうなぁ」という空気は一つの話でも腐るほどあるのだ。

どこをどう切り出すかをある程度委託されてはいるが、最終的には編集担当さんや、作家ご本人次第というのが、ボクの主なスタンスである。

「主な」と断りを入れたのは、ボクの成果品を見て、新たなお仕事の依頼がくるケースもあるからであり、この場合、ボクの成果品をベースにお話しに寄り添うことが必要になる。このへんのことは散々書いたような気がするので、これまた飛ばす。

断りついでに書いておくが、ボクが「正しく」考えているかどうかについては、正直ボク自身疑問に思っている。

そもそも「正しい」が分からない人に、「正しく考える」を求めるのは無理がある。だからボクはどうしても考えないといけなくなる。

編集担当さんがアイデアを出してくれることもあるが(大抵、電話で打ち合わせをしている時だ)ボクは瞬時にそのアイデアの良し悪しを判断しなければいけないし、もちろんさらに深く一歩踏み込むことも躊躇してはいけない。ボクが思いつかなかったアイデアの場合は、さらにこの傾向は強くなる。

このへんは、一緒にお仕事をしたことがある編集担当さんしか分からないと思うのだが(他の人が分かったら逆に怖い)、どれほど飛躍しているアイデアでも、お話の骨子に基づいたものしかボクは提案しない。

いわゆる「店頭効果」は後付けであり(!)もっと言えば、店頭での見え方のシミュレーションなど最近はほとんどしていない。

昔はよく店頭シミュレーションもどきをしていたのだが、書店によって変わる置き方に、いちいち対応できるカバーなどあり得ないからだ。

極端な話、本当に中身のない(お話の内容を反映していない)カバーでも、店頭での置き方次第でどうにでもなるのだ。それこそ雰囲気で誤魔化す(失礼)置き方というのはある。問題は、雰囲気が目指す先をどこまで考えられるかである。

本業なので、例が書籍になってしまうのだが、このへんはご容赦願いたい。一般的なのはレジ近辺に平積み(表紙が見えるように)する雰囲気作りだろう。

これはもう手垢がつくほど使われている方法なのだが、ビックリするぐらい、これで引っ掛かる読者さんは多い。ポップを置いたり「書店員のお薦め」風な雰囲気を加える手は、もうテッパンである。

書店によっては独自の企画で、本の置き方を定期的に変えたりすることもあるようだ。新刊だけでなく、旧刊にも誘導しようという方法の一つだろう。これまた雰囲気の作り方である。

一方では、平積みはほとんどせず、どこにどのようなジャンルの本があるのかを何十年も崩さない、という雰囲気の作り方もある。もっともこっちは効果が出るのに時間が掛かりすぎるので効率的とは言えないが、正直個人的にはこちらの方が好ましい。

近いジャンルの本が新旧せめぎ合っている書棚、というのはなかなか捨てがたい。古書店に多いパターンだが、普通の(?)本屋さんでも昔はこういう並べ方は一般的だった。

むしろ今、これをやるには書店員さんに相当な経験値と、見識が必要になるのはいうまでもないだろう。取捨選択次第で、その本屋さんの知的レベルまで露呈してしまうのでリスキーでもある。

そうなるとどうでもいい雰囲気で誤魔化す方が、圧倒的にリスクは少ないし、雰囲気で手に取ってしまう購買層が少なくないことを考えれば、効率的ですらある。

ここに出版社と書店の間で、「正しい」の違いを見いだすのはたやすいだろう。ここまで解説したんだから、あとは自分で考えましょう。

簡単じゃないのはいうまでもないが(だから社会学だのなんだのといった、アカデミックな論考があるのだ)別に理論化する必要はない。少し気をつけて見たり聞いたりするだけで、ある種の亀裂を見つけることはできる(と思う)。

「正しい」が分からない、に話を戻す。

我が家のような小さなコミュニティーですら、明確な「正しい」はほとんどないのだ。コミュニティーの規模やマーケットが大きくなればなるほど、「正しい」が分かりづらくなるのは当然だと思う。

ところが、あたかも「世界はこういう『正しい』で回っている」という妄言があまりに多すぎるし、それを真に受ける人も、ボクに言わせれば多すぎる。

そのくせ、多様性となると、悲しいぐらい鋼の意思で排除するケースが少なくない。「世間の皆様はそんなに規格化されることを望んでいるのか?」と疑いたくもなる。

極端な話、人殺しが「正しい」ケースすらあるのだ。国家間規模の武装衝突などはイイ例だ。近年(?)、退役軍人のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が社会問題として取り上げられるようになったが、そもそも同じ種を大層な理由もなく殺すこと自体が、すでにおかしいのである。

自然界には「間引き」という一見残酷な現象があるが、これはあくまでも「種の保存」のための一時的措置に過ぎない。

同種同士で「種の保存」以外の、本能とは別の闘争ができるのはホモサピエンスに限ってもいいだろう。それぐらい不自然なことであり、精神が病んでも不思議ではないのだ。

「殺す」ということがどれほど異常なことかを、ボクは十分に説明することはできないが、殺すことが「正しい」となる条件なり環境なりがあることは推測できるし、それが日常になるケースすらあるのだ。そこには、崇高な哲学や思想など必要ない。あったとしても、ボクに言わせればだいたい屁理屈だ。

ただ、そういう日常にいる人達から、ボクが生活する環境を見れば当然「おかしい」と思われるだろう。もしかしたら恐怖を感じるかもしれない。こうなると、どっちがおかしいのかすら分からなくなる。

一概に一方を「おかしい」とボクには到底言えないし、そういう風にばっさり切り捨てる神経は持ち合わせていない。前提条件がまるっきり違うのだ。同じ土台で「正しい」を語ること自体無理がありすぎるし、もっといえば、条件を一定に揃えるという発想だって狂気の沙汰である。

本来、多様性というのは前提条件の多さにあるとボクは考えている。「個」のレベルまで細分化したり、宇宙レベルまで思考の幅を広げれば、どう考えても価値観は増える一方だし、逆に収束する気配は一向に見えない。

個人的に相手にすることそのものが、アホらしい価値観も腐るほどあるのは事実だが、ボクがいくら無視しても実際に存在するし、それで国家がおかしな方に動いたりすることだってレアケースではない。

肉体的な個人差があるように、価値観にだって個人差があるのは、むしろ自然だろう。ある程度の近似性があることは、もちろん認めるが、あくまでも「ある程度」である。

■小笠原流はスタンダードではない

この稿を書く直接的なキッカケになったのは「正しいお辞儀ができない大人が多い」という記事を読んだからだ。

この記事の情けなさは、「正しいお辞儀」は小笠原流にあると断じてしまっている点である。

あのね、小笠原流というのは読んで字の如く、ただの一流派にすぎないのですよ。そもそも小笠原流の中にだって、分派はいくつもあるのだ。いつ誰がどれをスタンダードとして認定したのさ。

一般的には礼儀作法の流派として、なんとなく思われているような雰囲気がぷんぷんするが、元を辿れば武家社会の様々な所作に辿り着く。弓術だって馬術だって、しっかり含まれている。ちなみに、この二つが組み合わされると流鏑馬になるわけだ。

といっても、あくまでも流派の伝承であり、歴史的な裏付けがあるとは限らないようだ。

武家というのは、容赦なく言ってしまえば、軍事の専門家集団である。もっと言えば、究極的には敵を殺傷することを生業とする特殊な集団である。求められる所作だって、根っこの部分は「いかにさっさと殺すか(殺されないようにするか)」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

分かりやすい例として、刀の置き方がある。座っている状態で刀を左側に(柄を前に)置くのは、無礼とされることがある。これはすぐに抜刀ができる位置に置いているからである。

もっとも、ボクのような両利きになると、左だろうが右だろうが関係なく抜刀はできるので、側面に刀を置くことそのものが物騒な状態になる。

帯刀している場合は、正面に置くのが武装解除の印ということになるらしい。そもそも要人に近づくまでの間に、刀は没収されるはずなんですがね。

お辞儀だって、本来は目を相手から離してはいけないのだ。見えない体勢になるというのは無防備そのものであり、いつ殺されても文句は言えない。

転じて、恭順の意を示すことになるらしいのだが、ここまで相手を信用するほどボクはお人好しではない。

更に手のひらを前に組んでのお辞儀も、上記した記事によると間違いらしい。身体の側面に沿って手を置くのが正しいそうなのだが、ボクに言わせれば、これほど物騒な姿勢はない。両手が自由な状態なのですよ。

何かを持っていようがいまいが、手を自由に動かせる状態にすること自体、危険極まりないのだ。それなら手のひらを組ませる方がよほど安全である。一所作必ず入るし、両手の動きはある程度拘束できる。まぁそれでも裏技はいくらでもあるのですがね。

そもそも武家社会というのは、その性格上、縦方向のベクトルが強く働くコミュニティーであり、意思決定は上から下へというのが通例である。この状態はあくまでも日本の武家社会(よその国でも大して変わらないんだけど)の話であり、その中から生まれた小笠原流が現代日本で通用している方が、ボクに言わせれば異常なのだ。

少なくとも現行の日本国憲法には、このような権力の上下関係はあり得ない。ちゃんと「主権在民」とあるし。実際には、いかがわしいことこの上ない権力がある。本来は煙に巻いて、できるだけ国民に見えないように努力すべきなのだが、最近はこの程度のことすら出来ない。

挙げ句の果てに、小笠原流など持ち出されたら、「またインチキくさい伝統の押しつけ」とボクに断じられても、文句は言えないはずである。

別に小笠原流そのものを否定する気はない。この流派の中にいる人や、リスペクトできる人は、気が済むまで小笠原流に従えばよろしい。だからといって、外にいる人間を排斥したり、侮蔑していいわけではない。むしろ控えるのが礼儀だと思うのだが、ボクは小笠原流なるものを知らないので、このへんはよく分からん。

明らかに間抜けなのは、「正しいお辞儀」を小笠原流に求めた軽率な記者であり、この記事を読んでよく考えもせず、「なるほど」となんとなくのってしまう読者も相当どうかと思う。ボクなら願い下げだ。

ちなみに、この作文で書いたことが、世間様的に正しいなどとは微塵も思っていない。もちろん、共感されなくても、批判されてもボクはなんとも思わないだろう。そもそも、論破する目的などないのだから。

本当に、ただただ分からないことを並べ立ててるだけだし。あくまでも私見であり、ネタに過ぎない。こういう態度そのものが、もうふざけてると言われも不思議ではない。

まぁ、「正しい」をネタに持ってくる時点で、すでにふざけてるわな。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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編集後記(02/15)

●偏屈BOOK案内:
青山透子「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」

1985年8月12日(月)。日航ジャンボ機123便(ボーイング747)が、羽田空港を離陸して伊丹空港に向かう途中、突発的非常事態に陥り、後に「御巣鷹の尾根」と命名された高天原山系無名の地に墜落し、乗員乗客524名のうち、520名が死亡する「日航機墜落事故」が起きた。この日のことはまだ記憶にある。

わたしは39歳、出版社の編集者で、かなり自分勝手なポジションにいて、その前日、伊丹から日航機で帰ってきた(京都と大阪で遊んでいた)。家族は小諸市の別荘(当時はそんなものがあったのだ)にいた。夜7時のニュースの終了直前に最初の報道があった。少し経って、小諸からの電話に出た。当時11歳の息子が「いたよー、帰っているよー」と叫んでいた。……あれから33年経った。

当時の報道では、事故原因はボーイング社の圧力隔壁修理ミスだとされたようだったが、真相は“藪の中”だと思った。25年後、生存者の落合由美さんの同僚だった青山透子さんが、客室乗務員の仕事のことや、事故原因への疑問をまとめた「天空の星たちへ-日航機123便 あの日の記憶」を出版した。

翌2011年7月、運輸省安全委員会は、数々の疑問に答えるとして「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説」を発表した。その内容はといえば、「圧力隔壁説」の補強論だった。反論に対する記述や目撃情報、聞き取り調査も、生存者の証言もない、必死な言い訳に過ぎなかった。

このままでは、123便墜落そのものも永遠に葬りされてしまう。当時を知る客席乗務員として、日本航空の関係者として不明な点を明らかにしなければならないと責任感にかられた筆者は、丹念に目撃情報を集め、再度資料を読み返してまとめたのが本書である。日航退社後、企業等の接遇教育に携わり、専門学校・大学講師を務め、東京大学大学院博士課程修了、博士号を取得している。

前著の出版後、新事実や目撃情報が読者らから多数提供された。公式発表の事故の情報や状況に、いまだ疑問を持ち続けている人たちが数多くいる。2015年には東伊豆町沖合の海底から、123便の部品が発見された。事故当時でも発見は容易な場所だった。元事故調査官は、分析すれば事故の詳細が明らかになるとコメントしたが、運輸安全委員会は既に事故調査終了していると言うだけ。

このままでは、一方的な情報だけで123便墜落そのものも、永遠に葬り去られると危機感をもった筆者は、最初の出版後も丹念に調査を重ねていくにつれ、調査委の発表に大きな疑念を抱く。具体的な目撃情報が続々と寄せられた。迷走する日航機を、2機のファントムが追尾していたのを目撃していた人が多い。墜落現場に近い帰省先で、確かにその2機を見たという一等陸曹の手記もある。

まだ明るい墜落前に、自衛隊は日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかり見ていたという事実、もはや墜落場所が一晩中特定できなかったという言い訳は通用しない。ファントム2機の存在は今も隠し続けられている。そうしなければならない理由があったとしか考えられない。

やはり、事故ではなく事件なのだ。目撃者はじつに多い。特に注目すべきは子供達の目である。墜落現場に近い上野村の小学校、中学校の生徒達の体験記文集からは、墜落前に大きい飛行機と、2機のジェット機を見たという記述がいくつもある。また一晩中、墜落現場では救助ではない行動がとられていた。

32年間、筆者は墜落に関する新聞記事など膨大な資料を、現在から墜落時まで時系列に遡って読み込み、「これは未解決事件である」と断じている。そして、武器を持つ自衛隊や米軍が関与していると思わざるを得ないと結論づける。三十三回忌に出版されたこの本、わたしが読んだのは第9刷。もっともっと多くの人に読んでもらいたいと思う、前日、逆コースに乗ったわたしである。(柴田)

青山透子「日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」
河出書房新社 2017
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309025943/dgcrcom-22/


青山透子の3冊目「日航123便墜落 遺物は真相を語る」
河出書房新社 2018
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309027113/dgcrcom-22/



●指紋・DNA採取続き。テレビドラマって、刑事モノ、弁護士モノ、医療モノ、推理モノがとても多い。恋愛モノを好んで見ていないせいかもしれない。証拠固めのために容疑者からこっそりDNAを採取したり、見つけた指紋が前科者リストにないということで振り出しに戻ったり。

そんな時、指紋とDNAがデータベース化されていれば、刑事さんたちの苦労は減るのに、と。もちろんデータベースが間違っていることもあるだろうから、容疑者となった人は再度指紋とDNAを採取する必要はある。

物的証拠だけで犯人扱いされても〜、もし犯人がわざと他人のDNAを〜、という事例は出てくるだろうが、それは別の話であって。DNAが残っているのに犯人がわからない未解決事件は減るのになぁと。ドラマネタは減っちゃうけど。(hammer.mule)