[4739] 外界と私との連絡手段はビット列のやりとり以外に何もない

投稿:  著者:  読了時間:32分(本文:約15,800文字)



《世界を正しく知ることは不可能である》

■ Otaku ワールドへようこそ![298]
 外界と私との連絡手段はビット列のやりとり以外に何もない
 GrowHair




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■ Otaku ワールドへようこそ![298]
外界と私との連絡手段はビット列のやりとり以外に何もない

GrowHair
http://bn.dgcr.com/archives/20190222110100.html
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赤ワインがなみなみと注がれたワイングラスが目の前にあるように見えているとして ―― これを書いている時点で実際にその通りであるのだが ――

見たり触れたりすることによって、それがちゃんと実在していると感覚的に実感することができたとき、では、そのワイングラスは客観的にみても、物体として、100%確かに実在していると言い切れるだろうか。

図1:2019年2月19日(火)「ぢどり亭新井薬師店」にて撮影。
https://photos.app.goo.gl/Y9nmrQk6718Lk4hR8

「そりゃ、もちろん、そうでしょう」と答える立場を「素朴実在論 (naive realism)」という。哲学界隈では、素朴実在論はとっくの昔に否定されており、未だにこれを信じているようなことを言うと、ものすご~くバカにされる。

私自身は、この素朴実在論を却下する立場を100%支持している。素朴実在論をとりあえず否定して、さてそれからどうするかについては、立場がいろいろあるようだが、とにかく、ひとくくりにして、「相関主義(correlationism)」という。

もし、外界との相互作用を遮断して、瞑想などの内省的な手段によってのみ自分を知ろうとすると、結局何も分からずに終わるであろう。逆に、自分を抜きにして、外界のありのままの姿を客観的に捉えようとしても、結局は、自分の主観を通じてしか外界を知覚しえないと思い知らされて終わるであろう。

「私」が現にこのように存在しているという主観的感覚と、もしかすると外界に物体として存在しているかもしれない客観的実在との間の関係性しか知ることができず、どちらか一方だけを単独で、確実な存在として断定することは不可能である、とする立場が相関主義であるといえる。私自身も、一面において、相関主義者の一員であるといえる。

ところが、それを認めちゃうと、物理学が根底から成り立たなくなるのではなかろうかという心配に悩まされることになる。物理学は、外界が客観的にどうなっているのかを調べる学問であり、根本的に素朴実在論に依って立たないことには成り立たないのではあるまいか。

いくら客観的に論を進めようとして、計測器がこれこれの数値を示しました、と言っても、その計測器やそれを含む世界自体がそもそも存在しないかもしれない、と言い出すのを認めちゃうと、何も始まらないのではないかと。

つまり、外的世界についていくら客観的に観察しようとしても、結局、最後の最後のところでは、われわれの主観を通してしか世界を見ることができないという限界にぶち当たるのではなかろうかと。

ここのところが、自分の中で、折り合いのつかない葛藤として、居座りつづけている。この葛藤から抜け出すための光明となりそうな新たな立場が浮上してきている。カンタン・メイヤスー氏らが提唱する「思弁的実在論」である。これが、思想界で注目を浴びている。

思弁的実在論とはこれこれこういう思想です、と私から解説できるほどには、まだ咀嚼しきれていないのだが、概略を眺めてみるに、どうも自分自身の葛藤に救いをもたらすものではなさそうだという気がしてきていて、期待がしぼみつつある。

自力で解決を図る以外にないのか。

●まず、素朴実在論を根底からひっくり返しておこう

われわれの感覚が捉えたとおりに、世界が自己の外部に実在するか。この問いに対して肯定的に答える立場が「素朴実在論」である。

これを粉砕するのは、そんなに難しくない。ただ、部分的に小さく否定するのではなく、根こそぎひっくり返しておきたい。

時たま、目の錯覚で、外的世界の姿を正しく捉えそこなうことがあるので、その限りにおいて、世界は見た目どおりではない、といった、そんな小さな話ではないのである。

われわれの五感はセンサーとして感知できる範囲や精度に限界があるから、可視光以外の波長の光は目に見えないとか、ウィルスや原子・分子は小さすぎて肉眼で捉えられないというような話でもない。

じゃあ、どんな話か。

出かけてから、ウチの洗面所に自分の目玉を一個置き忘れてきたことに気がついた、とか、人手が足りないというから、作業場に自分の手だけ置いて帰ってきた、とかいう話はあまり聞かない。

どこへ行っても身体はだいたい忠実についてくるものだ。自己の身体の表面を界面として、自己と外界とが分離していると捉えるのが一般的なようだ。

しかし、発想を少し転換し、自己と外界との界面をもっと縮めて捉えてみるとどうだろう。仮に、脳だけが自分自身であって、それ以外の身体はすべて外界に属するものだと思いなおしてみるのである。勝手に名づけて「自我存脳論」。

少しグロテスクな感じがするかもしれないが、次のような状況を想像してみるとどうだろう。

分厚いガラスでできた、内径が70cmほどの円筒形の容器があるとしよう。容器内は培養液で満たされている。容器には温度計やpH計などの測定器がごてごてとついている。また、酸素や栄養を供給したり、老廃物を除去したりするためのチューブが何本も出ている。ちょっとものものしい実験装置。これは生命維持装置である。容器内では、むき出しの脳がそれ単独で培養されている。脳は生きている。

現実離れした荒唐無稽な妄想のように聞こえるかもしれないが、そうでもない。実際、米イェール大学の研究者たちが、胴体を除去した豚の脳に対する血液循環を人工的に回復させ、最大36時間にわたって生存させていたと、2018年3月28日(水)に学会で発表している。
https://www.bbc.com/japanese/43932209

ここから先は、まだ「こんなことができるようになる日がいつか来るかもしれない」可能性の話にすぎないが、脳の延髄の下端からは、コードの束が接続され、その束の先はガラス容器の外に引き出され、うねうねしながら、背後に設置された巨大なコンピュータへと接続されている。

脳が手足を動かせと指令を出すと、その指令はコードを伝わってコンピュータに届く。現実世界における物理的な存在としての手足はどこにもないけれども、コンピュータ内部に三次元の形状モデリング・データという形でなら存在している。その所作は、計算によってシミュレーションできるようになっている。

目の前にワイングラスが置かれているという設定になっており、ワイングラスもやはりデータという形でのみ存在している。計算上、網膜に映っているはずのワイングラスの映像情報が、視覚信号として、コードを通じて脳へと送り返されている。

脳からの指令によって伸ばした架空の手が計算上、ワイングラスに触れたとき、その冷たく固い感触が、触覚信号として、コードを通じて脳へと送り返される。

このように、脳が発信した運動指令に応じて、コンピュータがシミュレーション計算を行うことによって、整合したフィードバック信号を生成し、五感信号として脳に送り返していれば、脳それ自身は、自分がふつうに生活しているものと錯覚するのではあるまいか。

「私」は、「あー、今日一日、やることがいっぱいあって、なんだかばたばたと過ぎていったなー。でも、なんとか一段落つけることができて、今、こうして赤ワインを目の前にして、やっと一息つけるなー」なんて、くつろいだ気分で一日を回想しているかもしれない。

ところが、現実に置かれた「私」の真の姿は、培養液に浸けられた脳かもしれないのだ。五感を通じて目の前にあると確信したワイングラスは、実は、どこにも実在しない。

これはあくまでも思考実験であり、実際にそんな実験を行うことが可能かどうかは知らない。しかし、このようなことが起きる可能性がゼロであることを、論証することはおそらくできないだろう。つまり、このようなことが起きる可能性を示したことによって、素朴実在論は否定されたと結論づけてよいのだと思う。

「私」が思い込んでいる外的世界のありようと、現実の姿との間には、こんな途方もないギャップがあるかもしれない、ってことだ。

この思考実験には名前がついており「水槽の脳仮説」という。1982年、哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された。Wikipediaには「水槽の脳」という見出しがある。

●次に、脳はコンピュータであるとしてみよう

さて、この培養脳モデルを、さらに抽象化・精密化することによって、脳がどんな機能を果たしているのかを数理的な観点から論じられるようにして、これをもって「私」をよく知るための足場固めとしたい。

非常に単純な機構をもって脳をモデル化できると仮定することにより、実は、脳がいかにすごいことをしているかが、かえって浮彫りになってくるという仕掛けが後ほど明らかになる。

脳はノイマン型のコンピュータである、という仮定を出発点として導入してみよう。もし、そうせずに、例えば、脳は中身の分からないブラックボックスであるという仮定から出発したとしても、同等の論が展開できそうなので、それでもいいのだが。しかし、ノイマン型コンピュータについては、すでにいろいろな知見が蓄積されているので、比喩が使いやすいという便利さがある。

ノイマン型コンピュータとは、まあ、そこらに転がっているたいていのパソコンがその実例にあたる、ふつうのアーキテクチャ(造り)をもつコンピュータである。

ノイマン型コンピュータは、中央処理装置(Central Processing Unit; CPU)と、番地(address)の割り振られた記憶装置(memory)と、それらをつなぐバス(bus)とを要素に構成されている。

メモリには、プログラムとデータが置かれている。どちらも0と1の羅列で表現されているので、置き場所を区分けする必要がない。

CPUは、メモリ上のプログラム部分から命令をひとつずつ読み出してそれを実行する制御部と、その命令にしたがって、メモリ上のデータに対して加減乗除などの計算をする演算部とからなる。

近ごろは、複数個のCPUを備えて、並列計算をするマルチCPUのアーキテクチャが割と一般化してきていて、これは厳密に言えば、ノイマン型ではないのかもしれない。しかし、CPUが10個あるのと、10倍速いCPUが1個あるのと、大差ないと言えそうである。並列処理ができたからといって、なにか新しいことができるようになるわけではないのだと思う。その意味で、並列処理機能を特別視する必要はないのだと思う。

ここに、ノイマン型コンピュータが一台置かれているとしよう。気持ちでは、もちろん、これは脳であると示唆しているのだが、それをあえて明言しない。

このコンピュータには、6本の太いデータ通信ケーブルが接続されている。1本は赤く、残る5本は青く塗られている。

それぞれのケーブルは、互いに絶縁された非常に細いワイヤー数千本が束ねられてできている。ワイヤー1本につき、1秒あたり100ビットの情報が一方向にのみ送れるようになっている。

赤いケーブルはアウトプット専用で、コンピュータからビット信号が送り出されている。青いケーブルはインプット専用で、コンピュータにビット信号が送り込まれてくる。データの動脈と静脈だ。

あえて明言したくない「気持ち」の部分のことを言えば、1本の赤いケーブルは、脳から各筋肉に対して「収縮せよ」という指令を送り出すための神経に相当する。5本の青いケーブルは五感の情報を送り込んでくるための神経に相当する。

脳がすなわち「私」だと仮定すると、私は外界からビット列しか受け取っておらず、また、私は外界へビット列しか送り出していないことになる。ビット列のやりとりが、外界と私との唯一の連絡手段になっている。勝手に「ビット列主義(Bit Sequencism)」と呼ぶことにしよう。

このコンピュータにとって、絶対に確実だと言える事実は、1本の赤いケーブルを構成するそれぞれのワイヤーにビット列の形式で信号を送り出していることと、5本の青いケーブルを構成するそれぞれのワイヤーからビット列の形式で信号が入ってくることだけだ。

ワイヤーの先に目鼻耳舌や手足がつながっているかどうかを、直接的に知る手段はない。先ほどの培養脳の例でみたように、大きなコンピュータが計算によって生成した信号が送り込まれてくるだけなのかもしれない。ましてや、身体を構成する各器官のさらに向こうに、実世界が存在しているかどうかなんて、ますます分からない。

なお、現実の脳の場合、いわゆる「本能」と呼ばれる、生まれつき親から受け継いだ何らかの情報が備わっている可能性がある。ノイマン型コンピュータの脳モデルにおいて、先天的に備わった知識をどこまで許容してよいものか、迷うところだが、さしあたっては全面的に排除しておこうと思う。必要が生じたら解除するかもしれない。

また、現実の脳においては、記憶容量を好きなだけ増やしていけるというものではない。が、この制約のことはいちいち考えなくてもよいことにしておこう。これをひとまず、抽象化した脳のモデルとしておく。

●この脳モデルの下で発せられる3つの問い

脳の果たす機能はノイマン型コンピュータと同等であるとする、このモデルの下で発せられる、3つの問いについて考えよう。

(1)外付け機器のデータ入出力仕様書なしに、実際に送受信されるデータの大量の実例に基づいて、それらの関係性を手掛かりに、デバイス・ドライバー・ソフトウェアを開発することが可能か

(2)外付け機器のさらに外部にある世界がどうなっているのか、知ることが可能か

(3)このコンピュータに視覚や聴覚などのクオリアが生じうるか。言い換えると、意識が宿りうるか

いったい何を言っているのか、即座には飲み込みづらいと思うので、ひとつひとつ解説していきたい。

●第1の問い:デバイス・ドライバを自力開発できるか

第1の問いについて。デバイス・ドライバについては、2018年9月7日(金)配信分に書いているが、ここでも繰り返しておきたい。
http://bn.dgcr.com/archives/20180907110100.html

コンピュータに外付け機器を接続する場合、ケーブルでつなげば即座に使えるようになるというものではなく、コンピュータ側にデバイス・ドライバと呼ばれるソフトウェアをインストールし、それを走らせることによって、初めて、データの送受信が可能になる。

このソフトウェアがないと、コンピュータにとって、接続された外付け機器から入ってくる信号は、0と1の無意味な羅列にすぎず、それが文章なのか、画像なのか、音声なのか、何かの計測データなのか、判別のしようがなく、これを取り込むことができない。

ひとつひとつの周辺機器ごとに、データ入出力のプロトコル(文法)を記述した仕様書が付随している。人間がその仕様書を参照しながら、デバイス・ドライバ・ソフトウェアを開発する。

最近のパソコンは、周辺機器を接続しただけで、自動的にデバイス・ドライバがインストールされるようになっているので、その存在に気づかないユーザが多いかもしれないけど。しかし、コンピュータ側が自力で開発しているわけではなく、人が作ったソフトウェアを陰でこそこそ持ってきているのである。

この点において、脳は現行のコンピュータと大いに異なる。脳はおそろしく賢い芸当をみせてくれる。周辺機器の仕様書を必要とせず、実際に送られてくる信号だけを頼りにこれを分析して、解釈する方法を自力で見つけ出してしまうのである。

つまり、デバイスドライバを自分で勝手に開発してしまうということだ。これは、非常に高度な数学の問題を解いていることに相当するのだと思う。

生後5か月ぐらいの赤ん坊が自分の足先をしゃぶってみたり、他人のヒゲを引っ張ってみたりするのは、きっと、身体のデバイス・ドライバをせっせと開発しているのだ。足先からは触覚情報が返ってくるが、他人のヒゲからは返ってこない。そういう実験なのだ。

意識領域においては、大人になってからも数学がからっきし苦手って人はザラにいるけれど、そういう人であっても、無意識領域においては、赤ん坊のときから数学の超難問をすいすい解いちゃうんだからすごい。というか、不思議だ。

脳は、健全に発達すれば、どの部位がどの役割を担うというのが、個体によらず、だいたい決まっている。ところが、それは絶対的に決まっているものではなく、状況によっては、本来の受け持ち以外の機能を果たし始めることができるという柔軟性がある。これを脳の可塑性という。

生まれたばかりのフェレットの視覚野と聴覚野とをつなぎ替えたら、聴覚野が視覚情報を処理するようになったという実験結果があり、2000年にNATURE誌に発表されている。

  Laurie von Melchner, Sarah L. Pallas, and Mriganka Sur
  "Visual behaviour mediated by retinal projections directed to
  the auditory pathway"
  NATURE, Vol.404, 20 April 2000

目から来た情報が聴覚野に入ってくる。聴覚野は、自分に解釈できない情報が入ってきたので、視覚野に向かって「これ、お前んところのじゃね?」と言ってたらい回しするのではなく、自身で視覚情報を解釈しはじめたのである。たとえて言えば、ラジオに対して、テレビの電波を与えたら、ラジオが映像を映しはじめたようなものでる。

脳は、入ってくる0と1の羅列が、視覚情報か聴覚情報か、あらかじめ本能的に知っている必要はなく、それを自力で発見できるのである。

ダニエル・キッシュ氏は先天的な目の病気(網膜芽細胞腫)があったため、生後13カ月までに両眼を失っていた。ほどなく彼は「舌打ち音(クリック音)」を立てながら動き回るようになった。コウモリのように、エコーロケーション(反響定位)によって周囲の状況を把握できるようになったのである。弱いフラッシュを焚いたみたいに、一瞬だけ周囲が「見える」のだそうである。自転車にも乗れるようになっている。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130620/355092/

  2013年6月20日
  NATIONAL GEOGRAPHIC
  音で世界を「見る」ダニエル・キッシュ
  文=マイケル・フィンケル

米Wicab社は、目のかわりに舌を使って世界を「見る」ことができるデバイス BrainPortを開発した。この装置は、カメラから得た映像データを電気パルスに変換する。平べったいパネルを舌に乗せると、炭酸飲料のようなパチパチした刺激が来る。

はたしてそんなもので本当に「見える」のか。実際に使ってみれば、15分以内には情報が理解できるようになるのだという。実験では、出入口やエレベータのボタンを見つけたり、手紙を読んだり、テーブルにあるコップやフォークを拾いあげたりといったことが可能になっている。
http://japanese.engadget.com/2009/08/19/brainport/

  2009年8月19日 04:15pm
  engadget 日本版
  視覚障害者のための舌で「見る」装置 BrainPort
  Haruka Ueda

この装置は、2015年に米当局が販売を認可し、実用化されている。
http://kenko100.jp/articles/150629003517/

  2015年06月29日 06:00 公開
  あなたの健康百科
  視覚障害者に“舌で見る”機器 ― 米当局が承認
  文字の判読も可能に
  あなたの健康百科編集部

周辺機器からの信号が神経に伝わるように[適当に]つないでおけば、デバイスドライバは脳内で勝手に生成される、というわけだ。脳の可塑性、すげぇ!

先に述べたように「周辺機器の入出力仕様書なしに、入出力信号の大量の実例に基づいて、デバイス・ドライバ・ソフトウェアを開発せよ」という問題は、数学の超難問である。

AIが人間並みに(あるいは、動物並み程度にでも)賢くなるためには、この難問が解かれなくてはならないのではあるまいか。

現行のコンピュータは「意味」が理解できていないと言われる。「空は青い」という文をうまく解釈できたようにみえたとしても、表層的に記号を操作しているにすぎず、空が何であるか、青いということがどういうことであるか、本当には分かっていない。

これを分からせるにはどうしたらよいかという問題を「記号接地(Symbol Grounding)問題」という。

デバイス・ドライバ自力開発問題と記号接地問題とは、何らかの関係があるのではないかという予感が個人的にしている。

さて、第1の問題が解決すると、これはコンピュータが身体を獲得したことに相当するのだと思う。これができたら、獲得した身体を駆使して、世界を解釈しに行こう、という第2の問題に進むことになる。

●第2の問い:さらに外部世界を知ることが可能か

脳のみが「私」であるとする「自我存脳論」の立場に立てば、私と外界との間で相互作用するための手段は、ビット列のやりとりに限定される。しかし、ひとたび身体を獲得し、その身体も含めて「私」なのだ、と認識しなおすと、私と外界との間で相互作用する手段は、劇的に豊かになり、複雑多岐にわたるようになる。

外付け機器をあたかも「私」の一部であるかのように駆使することで、それらのさらに外部にある世界がどうなっているのか、正しく知ることが可能か。これが第2の問いである。

目の前にワイングラスがあるように私が主観的に認識しているけれども、客観的にみても、本当に実在すると言えるのか。

頼りになる手掛かりは、モーダルの異なる情報の整合性にあるのかもしれない。見て、聞いて、触ってみると、だいたい分かる、みたいな感じ。

目の前にワイングラスが存在しているように、見えている。視覚情報を獲得する目という器官が、5本の青いケーブルのうち1本を通じて、そこにワイングラスがあるぞ、と伝えてきている。

視覚だけを頼りにしている限り、目の錯覚か何かで、実際には存在していないかもしれないという疑いが残る。手を伸ばして触れてみたとき、見た目から予想した通りの触覚が返ってきたらどうだろう。

触覚だって、それ単独では錯覚かもしれないという疑いが残るけれども、モーダルがまったく異なる視覚と触覚がともに錯覚をしていて、しかも、互いに矛盾しない、整合性のある情報を返してくるという確率が、いったいどれほど小さいものだろうか。

と考えると、相異なる2つのモーダルをもって確認することができた外的世界のありようは、ある程度の信頼性が確保されていると考えて妥当なのではあるまいか。これもまた数学的に高度な問題なのだと思う。しかし、やってできない話ではなさそうだ。

MicroSoft社のARゴーグルであるHoloLensを装着し、きょろきょろ見まわしつつ歩きまわると、見たものすべてを片っ端からポリゴン化していく。自分の周辺の物体の立体構造をデータとして内部に蓄積していってくれるのだ。機械の分際で、世界のありようがどうなっているのかをどんどん把握していっているようにみえる。

自動運転車もそんな感じ。車の周囲にいろんな種類のセンサーがごてごてと装着されており、自分の置かれた状況がどういうふうになっているかを総合的に把握してくれる。

子供の脳は2歳までに大人の脳の2倍ものシナプスをもち、2倍のエネルギーを費するようになっていく。8歳ぐらいまではそれが維持され、8歳~12歳には、シナプス結合が急激に減少する。それ以降は、減少が止まる。

これって、身体の外側の世界をある程度理解することに成功したぞ、と思えたときに、途中の計算で使用していたワーキング・メモリを他の用途に使い回せるよう、解放していることに相当するのではあるまいか。

第1の問いと第2の問いとをつなぎ合わせると、結局、「ケーブルを通じてやりとりするビット列の形の信号の大量の実例に基づいて、ケーブルの先がどうなっているのかを正しく知ることができますか」という問いに帰着する。

ルネ・デカルトは、われわれの感覚がいかにだまされやすいかをよく自覚し、世界を正しく知ろうという動機に答える手段として、感覚に頼ってはいけないと考えた。感覚に限らず、誤る可能性のあることは徹底的に疑ってかかり、あぶなっかしい知見を徹底的に排除しようと努めた。それでも最後の最後に、絶対的に正しい命題が何かひとつぐらいは残らないか。この態度は「方法的懐疑」と呼ばれる。

その結果「我思う、ゆえに我在り」に思い至った。「思う」という動詞で記述されるような活動が起きているのが確かだとしたら、その活動をなす主体が絶対に存在しなくてはいけないはずだ、という論理に基づく。それを「我」という呼び名で呼ぶことにしよう。

「我」の実体が、主観的な我なのか、物質存在としての我なのかは分からない。けど、「在る」ことだけは確かだ。ここをあらゆる哲学の土台としよう。

デカルトはそういうふうなアプローチをとったが、いま、われわれは、脳のみが「私」であるとする「自我存脳論」の立場に立ってみている。その上で、外界と相互作用するための唯一の手段はビット列のやりとりであるとする「ビット列主義」の立場に立っている。

この観点から、デカルト風にものを述べるとどういうことになるか。「主観に映る外的世界は、ビット列信号を解読した結果として、在る」。縮めると「我ビット列を読み解く、ゆえに外界在り」。

外界がこんなふうに存在していると主観が捉えて、ある程度確信したとしても、客観的な観点から、絶対的に正しいかとなると、話は別だ。

「ビット列のやりとりだけで世界を正しく知ることができるか」というこの問題は、明らかに「不良設定(ill-posed)問題」である。「解けない」のが正解であるような問題をこう呼ぶ。解けないには2種類ある。解が存在しない場合と、解が多すぎてひとつに絞り込めない場合とである。この問題は後者だ。

ビット列しか入って来ないのに、その源がどうなっているか分かりようがない。われわれが認識するとおりに世界が在るとする「素朴実在論」も解のひとつである。世界は水槽内で培養された脳がみるバーチャル・リアリティであり、実体は存在しないとする「水槽の脳」仮説もまた解のひとつである。どちらも解であることに違いはなく、一意に絞り込む手段が存在しないのだ。

これら2つの解を提示したことをもって、元の問いが不良設定問題であることが証明されたことになる。要は、解けないのだ。世界を正しく知ることは不可能である。

じゃあ、どうしたらいいのか。

不良設定問題に対してよくなされる対処法として、「正則化(regularization)」というのがある。解が多すぎて一意に決まらないのであれば、問題に対して「拘束条件(constraint condition)」を付加してやれば、一意に決定できるようになるかもしれない、という考え方である。

われわれの問いについて言えば、この拘束条件は「先験(a priori)知識」にあたるのではないかと思う。うまい拘束条件を設定することができて、水槽の脳みたいなやつを解から排除することができれば、素朴実在論を肯定することができるようになるかもしれないのだ。これは物理学の基盤固めにもつながる話だ。数学における公理みたいなものを、物理学にも導入すべきなのだと思う。

●第3の問い:意識は宿るのか

意識の不思議については、今までもさんざん述べてきたことだが、今回の文脈において特に際立つ意識の不思議さとは、ひょっとして、それ、要らないんじゃねーの、って点にある。

だって、数学の問題を解いた結果として、世界のありようの把握があるのだとしたら、その答えはメモリのどっかに書いておけば済む話ではないか。

視覚のクオリアや聴覚のクオリアや触覚のクオリアみたいに、いちいちありありと浮かんでこなくたって、ビット列としてどこかに記述しておきさえすればいいはずなのだ。それで不便が生じるとは思えない。

意識があるってこと、それ自体が、なんかおかしいのだ。

意識の話に踏み込むと長くなりそうなので、今回はこのくらいにしておきたい。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/


《たぬきに化かされた》

三連休最終日の2月11日(月)2:54pmから新宿の漫画喫茶に籠り、PowerPointで資料作成に励んでいた。仕事である。なんだかんだで8時間43分もいてしまい、店を出たのは11:38pmだった。

気を晴らしたい。飲みに行きたい。けど、今からだと終電を逃すのが確定的だ。タクシー帰りは懐が痛む。ええいっ!

以前、武盾一郎氏たちとも行ったことのある店は、前日にも行ったばかりだ。その近くの日本酒の品揃えのいいお店にしようと思って行ってみたら、すでに閉まっていた。新規開拓してみるか。前から気になってた店あるし。

あまり広くない店内は満席近く埋まっていたが、奥のテーブルと、カウンターの手前のほうだけが空いている。奥を希望したけど、手前に案内された。まあ、ふつうのことだ。グループ客が後から入ってくる可能性に備えて、空けておきたいのだろう。

しかし、入り口脇のカウンター席は、ドアが開くたびに冷たい風がびゅうと吹き込んできて寒いぞ。

タッチパネルで赤ワインをグラスで注文したら、白ワインが来た。言ったら赤に替えてもらえた。二杯目を注文したが、待てど暮らせど来ない。店員の若いにーちゃんは奥の空いた席に座って、隣りのテーブルの女の子たちとダベっている。入力したんですけど、と言うと、すぐ持ってきた。

それまでの累計金額が表示されていて、だいたい3,000円くらいだったと思う。1:05amにクレジットカードで会計した。暗証番号を入力する際、金額をよく見なかった。

帰ってから領収書と控えを見ると、5,743円も支払わされているではないか!「人数:2」とある。生ビール、ハイボール、中々ソーダ割り、ハイボールメガジョッキ、餃子、なつかしのタコウィンナ、お茶漬け。ひとつも頼んでねえぞ。他人のじゃん。

しかし、控えのカード番号は私のもので、間違いなく、その金額を支払っている。やられた。

多分、意図的ではなく、単純にミスったのであろう。しかし、人数からして合ってないし、あんな安酒場で一人でそんな金額かかるわけなかろう。まったくもう、頭がお留守なのか。

差額を取り返さねばならぬ。相手がどう出るか、ありとあらゆる場合を想定して、策を練る。強硬に返還拒否されたら、警察を呼んで、刑事事件として立件しよう。念のため、控えとレシートのコピーを取っておこう。

翌日、5:13pmに立ち寄ったら、まだ開店してなかった。6:00pmに開店するはずなので、そろそろ店員が来ててもいいころなのに、人の気配がしない。7:00pmから中野で茂田カツノリ氏たちと飲むことになっているため、待つのは断念。

その翌日、秋葉原で会社の人たちと飲んだ帰り、11:26pmに立ち寄った。店は暗い。入口のガラスドアに内側から貼り紙がしてある。「2月11日をもちまして閉店することになりました」とある。げげげ。あの日がラストだったんかい!

落語で、亀は万年生きるというので買って帰ったら翌日死んじゃったってのがあったなぁ。苦情を言いに言ったら「今日が万年目でした」。

貼り紙には、いちおう電話番号が記載されてる。けど、もういい。そうしょっちゅうは使えそうもない手口をオレ一人のために使ってくれたのか。あっぱれだ。化かしっぷりに脱帽したぜ「たぬき酒場」。

≪次回のシンギュラリティサロン、テーマは意識≫

シンギュラリティサロンの聴講レポートを今までに何回か書いてきた。私が聴講してないのも含め、歴代の講演者にはAIや脳科学の研究者としてスターとも言うべきすごい面々がいる。

・石黒 浩氏(大阪大学教授)
・浅田 稔氏(大阪大学教授)
・渡辺 正峰氏(東京大学准教授)
・光吉 俊二氏(東京大学特任准教授)
・井上 智洋氏(駒澤大学経済学部准教授)
・津田 一郎氏(中部大学教授)
・前野 隆司氏(慶應義塾大学教授)
・一杉 裕志氏(産業技術総合研究所 主任研究員)
・高橋 恒一氏(理化学研究所 チームリーダー)
・齊藤 元章氏(スーパーコンピュータ開発者)
・三宅 陽一郎氏(株式会社スクウェア・エニックス リードAIリサーチャー)
・山川 宏氏(ドワンゴ人工知能研究所 所長)
・栗原 聡氏(ドワンゴ人工知能研究所 客員研究員)
・金井 良太氏(株式会社アラヤ 代表取締役)
・大泉 匡史氏(株式会社アラヤ マネージャー)

さて、2019年3月10日(日)に大阪で開催される予定の「シンギュラリティサロン #33」はテーマとして『意識をめぐる大冒険』を掲げている。なんと、私の興味のストライク・ゾーン、ド真ん中だ。非常に楽しみにしている。

過去に別々に登壇している渡辺正峰氏(東京大学准教授)と大泉匡史氏(株式会社アラヤ マネージャー)が再び登壇して、それぞれ講演した後、もうお一方が加わって、3人でパネルディスカッションする。

その「もうお一方」は、私。セーラー服を着て街を出歩くただの変態のおっさんが、こんなところへ出ていっていいものかと、軽くビビる。
https://singularitysalon-33.peatix.com/


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編集後記(02/22)

●偏屈BOOK案内:川口マーン惠美「老後の誤算 日本とドイツ」草思社

ドイツ生活今年36年の筆者が語る「ドイツと日本、老後はどっちが快適か?」というテーマの日独比較論だろうと思ったが、「日本の高齢化と少子化は究極の相乗効果を発揮しつつ、どんどん国富を蝕んでいる。一番その割を食うのが若年層である。それは正視するのが恐ろしい」と、次世代の負担を強いる日本の状態を憂える内容に重点を移していく。半分ドイツ人(?)の指摘は鋭い。

「現役世代何人で高齢者一人を支えるか」という数値がある。15〜64歳を現役世代として、その人数を65歳以上の高齢者の人数で割ったものだ。2015年では現役2.3人で一人の老人を支えてきた。それが2030年に1.9人、2050年は1.4人になると考えられる。ドイツのその数値は、3.1、2.2、1.8である。ともに将来設計が危うい。「日独、どっちが快適か?」なんて言ってる場合ではない。

では、どうしたらいいのか。もしかしたら、日独比較は役に立つかもしれない。両国の試行錯誤の経過を観察すれば、それぞれの長所も見えてくるし、特有の問題も浮上するだろう。ということで、ドイツと日本の老後の実際をいろいろ比べているが、ずいぶん違いがあり、優劣をつけることはあまり意味がない。

日本の「2025年問題」はすぐそこに迫っている。2025年には団塊の世代が後期高齢者になる。医療費が爆発的に増える。健保連の推計では2025年の日本の医療費は57.8兆円と、2015年から4割近く増加する。その増加分の殆どは後期高齢者の医療費で、高齢者の医療費に限ってみれば、7割近くの増加となる。

当然、医療保険料を値上げしなければやっていけないが、その一方でそれを払い込む現役世代の人口は減少するのだ。日本の医療保険が持続可能な形になっているかは、大いに疑問である。日本の医療関係者は少ない上に負担が大き過ぎる。こんな先進国は日本以外にない。日本のシステムは持続可能かというと、2025年問題の解決策を真剣に考えない限り、おそらく難しいと断言できる。

これ以上、医療関係者にしわ寄せを押し付けることはできない。医療保険の構造改革も必要だが、人々が(とくに高齢者が)考え方を変えることが何より重要なことである。若い人たちの、自らの責任ではない負担が、刻一刻と増え続けている様子を見ながら、高齢者たちだけが「逃げ切ればいい」わけがない。

年金制度の改革を行おうとしたとき、「長年、働いてきた人を斬り捨てるのか」と煽って批判する人たちがいる。制度の改革は、変化した状況に適応させるために行うもので、敬老の精神とは切り離して考えるべきだ。いずれにせよ、日本では、年金にしろ、医療費にしろ、支援が高齢者のところに集中している。

それに比べて、これから働き、子供を作り、しかも、高齢者を支えていかなければならない若い世代が、貧しい。支援すべきは、まずは若者だ。医療保険がこげついている今、医療は治療の効果の出る人を優先すべきだし、また、高齢者は実費の何割といわず、支払い能力に応じて、若い人の分まで負担すべきだ。

そして、同時に、高齢者の不要な医者通いも厳重に制限する。そのためには、無駄な診療や投薬では、医者に儲けが出ないシステムを作ることが必須だろう。「意識もなく寝たきりの人々のおかげで、日本の平均寿命が世界一に押し上げられているのなら、1位は返上しても差し支えないのではないかと私は思っている」。読者である私もそう思っている。ピンピンコロリといきたい。(柴田)

川口マーン惠美「老後の誤算 日本とドイツ」
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使う側としては、失敗しないか、迷惑をかけないかとドキドキする。が、今だとお店側も慣れていないから、失敗しても嫌がられない、はず。これが誰もが使う頃だと、不慣れなせいで失敗したら人の目が怖いと思う。行列なのに、金額を告げられてからお財布を取り出す人みたいに。失敗するなら今だ!(hammer.mule)