[4743] 私をあたためて◇エセー物語/牛さんの話・堀の底の生き残り

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《ふとんの中が彼女の世界だ》

■ショート・ストーリーのKUNI[243]
 私をあたためて
 ヤマシタクニコ

■エセー物語(エッセイ+超短編ストーリー)[33]
 牛さんの話
 堀の底の生き残り 
 海音寺ジョー




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■ショート・ストーリーのKUNI[243]
私をあたためて

ヤマシタクニコ
https://bn.dgcr.com/archives/20190228110200.html

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さりなという女がいて、たいへん寒がりだった。
冬の夜は、特に足が冷えてよく眠れない。

頭は眠りたがっているのに足先は水のように冷たいのでいつまでたっても覚醒している。その冷たさが足下から肩先までのぼってくるように思う。両足を重ねたりあわせたり、少しでも温かい部分を探してはその熱をひろげられないかとさすってみるがあまり効果がなく、泣きたい気分で夜が明けたこともたびたびあった。

それで、人にすすめられるまま電気あんかや湯たんぽを使い、まあまあなんとかしのいできた。湯たんぽを夏の間にうっかり、何かと間違って捨ててしまった年の秋はパニックになった。電気あんかが夜中に突然壊れて、足先であれよあれよという間に冷たくなっていったときも激しく動揺した。もうこんなことはごめんだと思った。

ある年の秋、さりなは新しいふとんを買った。そのころは勤め先でいやなことがたくさんあった。彼女は電話受付の部署に長い間勤めていた。

「なんだよその口の聞き方は」
「上司を出せよ」そう言われて
「上司より私のほうがよくわかっています」と答えてみせたが、声が震えていた。

しんとした室内でまわりの人間が聞き耳を立てているのがわかった。あんなふうにきつい言い方するからだめなのよね、あの人は、と陰で言われているのも前から知っていた。

時々うわーっと叫びたい気持ちになった。叫ぶかわりにふとんを買った。ネットで注文すると翌々日には届いた。

特に高級品でもなんでもない。気分転換だから。古いふとんは捨てた。同時に買った派手な模様のカバーを新しい布団につけて広げると、部屋が急に華やかになった。さりなは微笑んだ。

その夜はまだ秋なのに真冬のように冷えたが、さりなは朝までぐっすり寝ることができた。仕事が詰まってて、昼間忙しく働いたからだろうかと思った。

翌日、夜になってさまざまな片付けも終わり、灯りを消した部屋でふとんにもぐり込むと、さりなは不思議な感覚を覚えた。

ふとんに包み込まれる。というより、ふとんがさりなを包み込んでくる。それはこの上なくやさしい感触で、さりなのからだをおおい、すきまを埋め、遠慮がちになでてきた。錯覚かと思ったがそうではなかった。それは肩先から胸元へ、そしてもっと下の方に移り、腿からひざへ、ひざからふくらはぎ、くるぶしへとさりなのからだをいとおしみながら移動する。さりなのからだはそれにつれてゆっくりと、でも確実にあたたまっていった。

なんだか体の芯からほぐれていく。気持ちいい。

次に気づいたときはもう朝だった。めったにないほどよく寝た、と思った。

翌日。また夜になり、さりなはふとんにもぐりこんだ。
それはすぐにやってきた。さりなを待っていたようにさりなの全身をすっぽり包みこみ、冷え切った足先もたちまち芯からぽかぽかとあたたまった。どんどんあたたまって。

暑いくらいだ。
さりなは着ていたものを次々脱ぎ捨てた。それがないと冬を越せないはずの厚手のパジャマから下着も、すべて。

はだかになってふとんの中にもぐりこむ。ふとんはいっそうさりなをやさしく、いとおしそうに包み込んだ。さりなはますます深くふとんの中にもぐりこむ。全身をふとんに預ける。白くてきゃしゃな耳殻から首筋へとふとんが、人間の指先よりはるかに器用でやさしく、這い回る。そして、胸からおなかへ、へそへ、腿から下って、ぴったりとじ合わせた足と足の間をまさぐり、さすり、足先まで何度も往復しながらなでる。さりなは自分の呼吸が荒くなっているのを感じる。夢の中にいるようで、もはや上下左右もなくなり、さっきと今の区別もなくなる。際限もなく上っていくような、下っていくような。かろうじて問いかける。

誰なの?
返事はなかった。あるはずがない。あっても聞こえたかどうかわからない。さりなの薄桃色にほてった耳には。

さりなは毎日、急いで帰宅するようになった。夕食を食べ、メールの返信などすませてしまうと、急いでふとんにもぐりこむ。ふとんの中が彼女の世界だ。

「え? なんかついてる? 私の顔」
さりなは目の前の女に聞いた。会社の湯沸かし室で、隣の課の女がさりなをまじまじと見たから。
「あ、ううん。何もついてないわよ」
さりながふうんと言うと女はあわてて付け足した。
「最近、なんだか感じが変わったように思って」

さりなはひとりになったときに鏡を見るがよくわからない。でも、毎日ぐっすり眠れるので化粧ののりはいいかもしれない。思い当たるのはそれくらいだ。自分は変わっていない。相変わらず気が強くて無愛想で、ずけずけものを言うと思われているに違いない女。

ある晩、ゆっくりゆっくりなでながらさりなをあたためていたふとんは、さりなの左腕のある個所で止まった。そして軽くたたいた。疑問符を送るように。それは一時期いっしょに暮らしていた男が投げた皿の破片が刺さったときの傷跡だった。たまたま食事をしていたときに口げんかになったのだ。男は腹を立て、うまく反論できないことにいらいらして、パスタの入った皿ごと床に投げつけるという行動に出た。皿は割れてパスタソースは飛び散り、そしてさりなの腕から血が流れ出て、ひどい夜になった。いまも小さなひきつれとなって残る傷跡を、ふとんは何度も何度もさすっていた。

傷跡はその後、少しずつ薄れ、やがてほとんどわからなくなった。

寒い日が続いた。夕暮れだった。かさかさに丸まった枯れ葉が道ばたに落ちて転がり、それに気を取られていたさりなは向こうからやってきた男と至近距離になるまで気づかなかった。また会ってしまうなんて。パスタを皿ごと投げつけた男に。

「なんか感じ変わったな」と男は言った。
「そう?」
男はうなずいた。
当然のように、さりなと並んで歩き出し、ぼそっと言う。
「ちょっとわけありで」
「わけあり?」
「今日、泊めてくれないかな」
「無理」
「そうか」

たちまち半歩引き下がる感じがある。かまわず歩き出そうとして、でも少し気になる。いつもこの人は口べただったなと思う。そのことをもっと思いやるべきだったかもしれないと、心の中でずっと思ってはいたのだ。すると自然、さりなの歩みは遅くなって、それに気づいた男が調子に乗る。

結局男を家に入れてしまう。どんなわけありなのか、知りたくもなかったので聞かなかった。一応ありあわせで食事をして、男は冷蔵庫にあった缶ビールを何本も飲み、酔っ払って先に寝てしまった。もちろん、別のふとんだ。さりなも遅れて寝る。

明け方、男がさりなのふとんにやってくる。そしてまだ眠っているさりなの体を乱暴にまさぐる。反射的に手ではねのける。
「いいじゃないか」
「よくない」

あっという間にいやな思い出が押し寄せてきた。ゆうべ一瞬でも「もっと思いやるべきだったかもしれない」なんて思った自分はなんとばかだったんだろう。皿が床にぶつかって割れて、ああもう何もかもいやだ! と思った日のことが映画のワンシーンみたいに、スローモーションで再現される。しつこく迫ってくる腕から逃れようと力をこめていると、不意にするりと抜けられ、ふとんの外に出る。

驚いて背後を見ると、全身をふとんにからめとられ、もがき苦しんでいる男の姿が窓から斜めに差してくる外灯の薄あかりの中に見えた。うめき声のような声がふとんの中からもれてくる。密着するふとんから抜け出ようと七転八倒する男。それはまるで、ふとんのおばけがひとりで踊り狂っているようだった。やがて動きが止まり、男はふとんごとどさりと倒れると静かになった。さりながあわててふとんをのけてみると、すでに男は呼吸をしていなかった。

あわてて救急車を呼び、到着するまでの間、さりなが隊員の指示に従ってマッサージをしたのがよかったのか、男は一命をとりとめた。でもふたたび意識を取り戻すことはなく、結局ひと月もしないうちに病院で死んでしまった。はっきりした死因はわからなかった。

さりなは相変わらず電話で毎日たくさんの苦情処理に追われ、疲れている。ふとんは相変わらずやさしく、毎晩、はだかの彼女をすみずみまでゆっくり、時間をかけてあたため、満足させてくれる。

「やっぱりあなた、最近変わったわよ」
またそんなふうに言われたが、なぜだろうと思う。今も昔も、やりきれないこと、耐えられないことがいっぱいあり、自分は自分がきらいなのに。

自分を受け止めてくれるのはあのふとんだけだ。話しかけても何も答えてはくれず、ただ極上の快楽をもたらしてくれるだけの、あのふとん。


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外国の式典などで見られる、膝を曲げずに行進するあれを「ガチョウ足行進」ということは知らなかった。呼称はともかく、なんであんなことをするのかと昔から不思議だったが、Wikipediaでも「プロイセン陸軍が発祥と考えられるが、明確な発生の事情は不明」となっている。なんだ。そこが知りたいのに。それに、ガチョウもあんな歩き方しないと思うぞ。

ガチョウ足行進がどうしたんだと思われそうだが、別にどうもしない。単に、なんであの人は二日間もかけて鉄道で行ったんだろうかと気になってあちこちぐぐった流れである。謎が多い国だ。まあ私の住んでる国のひとも、理解に苦しむことだらけだけど。


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■エセー物語(エッセイ+超短編ストーリー)[33]
牛さんの話
堀の底の生き残り

海音寺ジョー
https://bn.dgcr.com/archives/20190228110100.html

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◎牛さんの話

今回は牛さんの話をします。牛、と書くとまず牛魔王みたいな、三叉矛を振り回す武芸者のイメージが湧くかと思いますが、いや、ぼくはそんなイメージがあるんですが、ぼく自身の近年高まってきた、短歌熱の話から始めさせてください。

短歌に興味を抱いた2017年頃、大阪短歌チョップ2という催しに行った。短歌と写真をコラボしたパネル展示。初心者向けのワークショップ。朗読ライブ。トークショー。短歌を使ったカードゲーム。百人一首の実演など、盛り沢山の総合短歌ビッグイベントだった。その主催者の一人が牛さんだった。

その催事で知った、歌人の虫武一俊さんの歌集の批評会にも、批評会って何じゃろ? と興味を抱いて聴きに行ったのだが、会の主催が牛さんだった。

短歌を知るきっかけになり、今もよく行く詩歌専門書店の葉ね文庫には、葉ねのかべという、店の一角を使った短歌とイラスト、俳句とオブジェなどのコラボ展示があるのだが、それを管轄してるのが牛さんだった。

語彙消失歌会というユニークな歌会に昨年参加したのだが、この歌会の選のない形式は牛さん主催で2012年から続けられている、借り家歌会の形式に倣ったものと後で伺った。

自分の作歌修行のため、伊丹公論という伊丹市図書館が出版してる新聞の歌壇に応募し、5回紙面に載せてもらい大喜びしていたのだが、最近これも牛さんのプロデュースだと知った。

もう、牛魔王というより釈迦じゃん! 自分の行く先々に牛さんがおる~! ぼくはお釈迦さまの掌の上を飛び回ってるモンキーのような敬虔な心境になり、牛さんとは何者なのであろう? と畏れに近い気持ちを抱いた。

そして月日が流れる。2019年1月。

夜勤で爛れた心を鎮めようと、葉ね文庫で詩歌の本を立ち読みしてたら、ふらっと牛さんが現れた。ぼくは疑問に思ってることを尋ねてみた。

「牛さんは現代短歌界のフィクサーなんですか?」
「違います!」と言下に否定された。

しかし上記の行きさつから、納得できず牛さん自身から牛さんの正体を聞かせてもらおうと、時間を取ってもらい大阪屈指のベッドタウン・高槻シティーでインタビューを決行したのだった。

葉ね文庫の店主さんによると、店でお客さんが短歌の話を始めると、最後に必ず牛さんが出てくると云う。かように、関西短歌界では知らぬ人がいないほど有名な牛さんは、「縁の下の力持ち」と形容されることが多い。

実際そうなのだろうが、牛さんの拠って立つ所とは、縁の下なのだろうか? そんな疑問が以前からあった。

2月。雨の月曜日。夜勤明けで2時間しか寝てない海音寺、やはり仕事疲れで表情の昏い牛さんは、駅前の喫茶店にフラフラと吸い寄せられるようにしけ込んだ。ブシューッ! バズゴーン! と間欠的にエスプレッソマシンが咆哮する店内は、けっこう混み合っていた。

まず、フィクサーなのか否か疑惑から聞いてみた。

「いや、確かに、ぼくや田中ましろが現在興隆してる、インターネット短歌の中心人物である、という言われ方をされたこともあるんですが、それは違うんです。想像してほしいんですが、インターネットに中心なんてないんです」

田中ましろさんとは、短歌と写真を組み合わせた人気のフリーペーパー「うたらば」を制作してる歌人さんだ。確かにインターネットは構造上、相互通信前提の通信網だから、中枢という概念はないだろう。

牛さんが言うには、現代短歌が通信技術の発展に伴い普及してきたということがまずあって、自分やましろさんがいなくても、自然発生的にちゃんと隆盛したはず、と。

車。マイホーム。出世。昔は欲しいものが均一価値だったが、時代が進むにつれ個人的な価値観が大切になった。自分の、自分だけの価値を人々が求めて行った結果、たまたま俳句、たまたま川柳、そしてたまたま短歌に辿りついた、という流れがあったのだと思う、と。

「ぼくが短歌を広げていったんじゃなくて、短歌が、勝手に広がっていったんです」

しかし、結果論になるかもしれないが、現に今、短歌の発展に寄与する活動を牛さんはめっちゃしている。

例えば借り家歌会という、予約も参加資格もなく誰でも気軽に入って行ける歌会の運営、はじめて短歌に触れる方のためのワークショップ、NHK短歌のテキストにも歌人を紹介する連載を続けてて、プロデューサー牛さんは大忙しであり、そんな中で集客数350人超、読売テレビが取材に来るほどの大イベント、大阪短歌チョップを運営してるんである。

「ぼくの行動原理は『需要に対する供給』です。「こうゆうのが欲しいな」という空気感があって、それを提供する。場作りをしてるという意識はあるんだけど、短歌を広めてる存在かと言えば違うと思う」

大阪短歌チョップは、色々な所から短歌活動の芽が出て、各所で花開いてたんだけど、それらがその位置で膠着、硬直しようとしてる気がして一旦シャッフルしよう、良い意味での交流を持たせようと開催を考えたとのこと。冒頭で主催の一人と書いたが、「やろう」と最初に持ちかけたのが牛さんだった。

牛さんの行動原理はめっちゃシンプルで、かつ執着がない。功利心にまみれきったぼくからは眩しすぎる。

このような短歌の発展に寄与する活躍が短歌をする、特にネットで短歌を始めた方々から絶賛されるために、牛さんが歌人であることが全然目立たない。牛さんは短歌を詠む。でも、プロデューサー牛さんの影に、歌人牛さんが隠れがちで、このことを歯がゆく思う。

「なんで、ツイッターのプロフィール欄に『結社・同人誌所属なし。歌集刊行なし。受賞歴なし。』って書いてるんですか」とぶしつけに聞いてみた。

ぼくは牛さんのこの、自己紹介欄もずっと引っかかっていた。いつも周りの方の短歌の応援ばかりしている牛さんの、牛さんの無意識下に燃えさかる自意識の裏返しなんじゃないのか? と疑っていた。しかし返ってきた答えは、自分の想定をあっさりくつがえした。

「歌集、ですね。歌集を出したいと思ったことはあったんですが、その時の動機は名刺代わりに便利というだけだな、と思い直して。今んとこ別になくてもいいかな、と」

「でも、発表した歌を雑誌に取り上げられたり、褒められたり、いやそこまでのことがなくても感想をもらえるだけでも嬉しいものだと、ぼくは思うのですが、そういった自己顕示欲は牛さんにはないんですか?」

「確かに、自分の歌、褒められたり感想をもらえたら嬉しいです。でもそこはもう通り越してしまって」

「ほんとですかー? 自分の詠んだ最高に良い歌、自分を宇宙一認めてほしいとか高評価してほしいっちゅう、執着はないんですかーっ!?」

「ちょっと顔が近い、ちょっと引っ込んで。静まって。……自分がいいと思った自分の歌はね、海音寺さん。自分がいいと思った自分の歌は、自分が知らない所で絶対読まれてて、むちゃくちゃ感動を与えているはず、という絶対的な自信があるんです」

「……」

「そう思えるから十分なんです」

牛さんのスタンスは今のインターネット短歌の、百花繚乱の情勢との兼ね合いもある。牛さんや他の短歌の間口を広げる活動をされてる方の努力で、結社とか関係なく、誰もが、やりたいと思った人が、気軽に短歌活動に参加できるようになった。

毎週のように短歌ネットプリントが発行され、フリーペーパーが印刷され、ネットでの公募企画があり、全国各地で開催される同人誌即売会・文学フリーマーケットがある。友だちの発表する短歌を、全て読み切ることが困難な時代が出来している。

このような発展の末、短歌を詠む(作る)人の方が、短歌を読む人より多くなったらどうなるのだろう? そのことも牛さんに、おそるおそる尋ねてみた。

「そこは難しい問題なんですが、歌集の自費出版、ということになるのかな。この自費出版文化が成り立つのは、謹呈文化があるからです。このことも色んな問題を含むと思うのですが、この文化がなかったら自由主義になる。つまり売れる本(歌集)以外出せなくなる。それは、短歌の死だと思います」

「……はい」

「売れる本以外は、じゃあどうなのか? ぼくはもうちょっと読者のことを信じてる、というか、もうちょっと幅は広がるんじゃないか。読む人を信じてる。期待してる。希望がある。読む人より作る人の方が多くなる時代がもし来たとしても、読むのが楽しいということは、もっと信じていいんじゃないか?」

ぼくがずっと考えていた牛さんの正体、牛さんの拠って立つ所とは、信頼心なのかもしれない。周りの仲間を信じて、世界を肯定し、そのことによって自分の歌を信じられる。牛さんは、今は出さないと言ったけど、今は出さないだけで、「需要」が来たと直観したなら、牛歌集が誕生するだろう。

その時は、辣腕プロデューサーの牛さんが歌人・牛さんを後押しするだろう。その時は牛さんがこれまで支えていた人々が、牛さんの支えに回るだろう。どんな化学反応が勃発し、新しい伝説が生まれるのか?

喫茶店を出ると、雨は上がっていた。牛さんと阪急の駅で別れ、どっぷりと暮れた高槻を後にした。

牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌おほいに起る  伊藤左千夫


◎堀の底の生き残り

空堀の商店街の一角に小さなカレー屋があって、たまたまアルバイトを募集していたので魚人が応募した。

カレー屋のマスターは履歴書を見て、住所が堀とだけ書かれてたので詳細を訊いてみた。

「堀っす」と魚人は答えた。

マスターは冷や汗をこめかみに垂らしながら「そ、そうか」と受け、これ以上きくまいと思った。

ほかにだれも応募しなかったので採用した。魚人はマスターの心配をよそに良く働いた。忙しいときは厨房で、レードルを使わずに水掻きのついた手でカレーを掬い入れたので、効率がよかった。洗い物も早いし、目と目が離れてるから視界が広く、お客さんからの追加注文、出入りにもよく気づいた。

マスターは文士くずれで、いまだに芥川賞作家への夢をあきらめてなかった。魚人に店を任せて、未完の大作「通天閣オデュッセイア」を天井裏の秘密書斎で書き上げたかった。

「ごめんっす、マスター」
魚人が眉間に縦じわを寄せながら、マスターの提案を辞退した。
「なんでだよ、わしの代理で、店を任せるっていう破格の、メッチャおいしい申し出じゃないか」
「ぼくも長くここで働きたかったけど、江戸城のお堀から、ぼくの仲間が助けを求めて来たんす。行かなければ」

それは、テレビでやってた江戸城の堀で外来魚が違法で放流されてたニュース、のことか。

「あいつ、ぼくの親友なんす」

おまえ、なんちゅうか、情にあついんだなあ、とマスターは感心した。そして、この空堀という堀にやっぱり、こいつ棲んでたんだなあと、妙に得心した。

魚人は江戸城へと旅立っていった。マスターは求人張り紙をまた、出しておかねばと、レジの下の引き出しをゴソゴソとした。おわり

(第一回からほり米俵文学賞佳作『からほり超短編小説』より)


【海音寺ジョー】
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編集後記(02/28)

●偏屈映画案内:「秘密と嘘」

カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞、だという。大変な名作らしい。映画好きが褒めそやす映画は、たいていわたしには向いていない。なかでも地味な文芸っぽいのは苦手だ。この映画も、正直それほど優れているとは思わない。でも評価が異常に高い。どこが? と思って、いくつかのレビューを読んだ。

へえ、そういう話だったの? と驚いてみせたいが、分かりやすい映画である。じつに居心地が悪い前半。主人公の中年女・シンシアは未婚で、貧しいながらも娘・ロクサーヌを育て上げ、って私生児か。年頃の娘はなにかと反抗的で、いつも不機嫌にふてくされて、恋人の家に入り浸り。ああ、いやだいやだ。

シンシアが育て上げた弟・モーリスは(最も善良な常識人にみえる)、肖像写真家として成功しているが、子供がいない夫婦仲は、見ていてつらい。モーリスはいつも遠慮がちで、なんて可愛げのない妻・モニカ。って、もういい歳だが。アシスタントの若い女はいつも冷笑的だ。登場人物が少ないから、いつも途中で誰が誰だか分らなくわたしとしては助かる。ここにもう一人が加わる。

ある日、シンシアは、わたしはあなたの子だという女性からの電話にショックを受ける。もう一人、私生児がいたのか。映画を見ているわたしは、その相手ホーテンスが若くてきれいな黒人だということを知っている。なぜ、白人の子が黒人なのか。シンシアは待ち合わせた相手が黒人であることに驚くが、よく考えるとここは不自然で、身に覚えがあるからには黒人である方が自然だ。

ホーテンスは同じ私生児である娘でも、ロクサーヌより聡明だ。養父母を亡くし、検眼士として生計を立て、こぎれいな部屋に住んでいる。役所から出生記録などを得て、母の名前と住所を知る。そして、すべてを納得している。一切の恨み言をいわない。シンシアはそういうホーテンスを受け入れ、親子仲良く食事やショッピングを楽しむようになる。みじめな中年女がきれいになる。

シンシアはモーリスの家で開かれた、新築披露とロクサーヌの誕生日会に、ホーテンスを友人と偽って招待する。ロクサーヌは恋人を連れて来る。アシスタントも参加する。少人数でありきたりの会話。わかりやすくて退屈だが。パーティの佳境でシンシアは、ホーテンスが自分の娘であることを告白する。

「タイミングを考えろよ」と困惑するモーリス。ロクサーヌは狂乱し、母親を罵る。シンシアとモニカも罵り合い。全体に淡々と話が進行していたが、ここで二つの家族が持っていた「秘密と嘘」がオープンとなり、収拾がつかない。モニカが子供を産めない体であることを告白し、モーリスが「今日から家族だ」と宣言。ようやく修羅場は終わる。なんともはや、いたたまれない約12分間。

シンシアの家の庭で、姉妹とその母親がなごやかに会話している。「真実を話すのが一番。だれも傷つかない」「人生っていいわね」。なんだかなあのエンディング。ほとんど脚本を使わずに、即興で演技をさせて撮影した、というふれこみは本当なのか。それがこの映画の「秘密と嘘」じゃないのか。(柴田)

「秘密と嘘」1996 イギリス マイク・リー 脚本/監督作品
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00JQ8DSPQ/dgcrcom-22/



●YouTubeで動画を見ていたら、なぜか東日本大震災発生の瞬間の時の動画がお勧めされた。ニコニコ動画のもので、NHKの国会中継を実況していたようだ。

ポツポツと出てくるボヤキから、緊急地震速報が出て非日常に対する多少ワクワクを含んだたくさんのコメント、そして怖いという流れに。時間差で地震にあい、ふざけた空気が減っていく。アナウンサーもだんだんと熱を帯びてくる。

皆のコメントは全部は読めないけれど、いろんな地域の人が発言していて、いかに大きなことだったかわかる。津波と聞いてもピンと来ない人もいれば、その恐ろしさを予想する人もいる。

その後どうなったかを知っているため、きつすぎて見続けられなかった。体が震える。きついけど、こういう動画を残してくれてありがとうとは思った。

体験していない子供達は、津波の映像を見ても、実感がなく映画みたいな感覚で見てしまうかもしれない。個々人が好き勝手にコメントしている、日常から非日常に変わっていくこの動画の方が、恐ろしさを感じることになるかもしれない。(hammer.mule)

【実況板】東日本大震災発生の瞬間 ロングver. 2011/3/11 番組ch(NHK)