[4749] Otaku ワールドへようこそ! 外的世界は実在するか[補遺編]

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《意識の二重クネクネ問題》

■ Otaku ワールドへようこそ![299]
 外的世界は実在するか[補遺編]
 GrowHair




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■ Otaku ワールドへようこそ![299]
外的世界は実在するか[補遺編]

GrowHair
https://bn.dgcr.com/archives/20190308110100.html

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社会人になってからというもの、ひとつの会社に勤め続けて早30年、このおじさんの今一番の悩みは、外的世界が実在するかどうか、である。

この問題は、主観世界と客観世界とをどう橋渡しするかを問うもので、意識のハードプロブレムと根っこは同じだと思う。しかし、セーラー服を着て街を闊歩することとは、あんまり関係ないかもしれない。

「世界は実在するか」問題について、前回、取り上げた。続きへ進む前に一歩下がって、ざっと振り返ってみよう。

目の前に赤ワインの注がれたグラスが置かれているように見えている。触れてみることもできる。このグラスは確かに存在しているように思えるけれども、それは私の主観にそう映っているにすぎない。私を離れて客観的な観点で考えるとき、このグラスは確かに実在していると言い切れるか。

自分が認識する通りに外的世界が実在すると考える立場を「素朴実在論」と呼ぶが、思想・哲学の世界では、とっくの昔に否定されたことになっている。私もそこに異論はない。しかし、そこを認めちゃうと、今度は物理学の根底がぐらぐらして来はしないか。

素朴実在論を否定する「相関主義」の顔を立てつつ、客観世界の実在に市民権を復活させる、うまい手立てはないものか。カンタン・メイヤスーは、まさにそこを狙って、「思弁的実在論」を打ち出してきた。

しかし、中身をちょこっと味見してみる限り、自分の悩みに解決をもたらすような方向の話ではないようにみえる。思弁的実在論を脇に置いて、別の道を模索しなくてはならないのか。ここまでが、前回問題提起したことである。

自分なりに考えてみた。外的世界の実在を100%間違いないこととして論証することが不可能なのだとしたら、そこは譲歩せざるを得ないとして、せめて、「ほぼ100%近く間違いない」ことを保証するような理論的裏付けを打ち立てられないだろうか。

そのために、ベイズ統計学のような考え方を借りてきてみてはどうだろう。これが現時点における私の考えの骨子なのだが、この一言だけで伝わるとはとても思えない。今回は、そこを詳しく説明したい。

と、思っているのだが、本題に入る手前に、どけておかなくてはならない瓦礫が山と積み上がっている。まず、ここから手をつけなくては。

第一に、前回述べた問題提起が、あまりよく理解されなかったかもしれない、という気配が残る。書いた本人としては、これ以上ないくらい平易に、しかも、二様に解釈する余地などまったく生じないくらい明確に書いたつもりである。これで伝わらなければ、同じことを繰返す以外にないのだが、それでは不毛だ。

何か躓きの石があってひっかかっているのであれば、それを見つけてどければよいのだが、いったいどこにそんな石が転がっているのか、分からない。自転車の乗り方を会得済みな人が、乗り方が分からないと言っている人のその分からない感じが分からないようなものか。石っぽいものを手当たり次第にどけてみるしかないのか。

第二に、今回の話は、前回のに比べて、難易度が格段に上がる。自分の考えを述べるためには、まず、ベイズ統計学がどういうものかを説明しておかなくてはならない。これが非常に難解で、私自身が理解するのに七転八倒した。修士課程まで数学を専攻した者がひーひー言わされてきた理論を、一般の人々に伝えられるだろうか。

ちゃんとステップを踏もうとするのであれば、集合とベン図あたりから入り、確率の初歩的な話へ行き、条件つき確率や和の法則と積の法則へ進み、ベイズの定理をやるとだいたい下地ができ、そこから脳がうんと汗をかくと、ベイズ統計学の「ココロ」が分かる。その先にまだまだあり、どんな魔界が広がっているのか、私もまだよく分かっていない。

ここへ踏み込んでいくと、書籍一冊分ぐらいの分量にはなりそうだし、そういう書籍はもうすでに出ていそうな気がする。かと言って、そこの説明を端折ったりしたら、ぜーったいに伝わらないだろうしなぁ。一年ぐらいかけてシリーズ化して解説したら、読んでいただけるだろうか。仮にそれを始めたとしても、あまりの理解されなさに、書くほうがめげてしまうかもしれない。

悩み本体だけでもそこそこ重くて悶絶している。正解に到達するのが超絶むずかしいにしても、その問いそのものについて明確に記述するだけなら、そこまでむずかしくはないのではないか。そう思ってやってみたら、自分ではできたつもりなのに、あんまり伝わっていない。これでまた悶絶。

一粒で二度まずいというか、この手の根源的な問いって、二重に煩悶させられるようにできているのだろうか。

●問いにクネクネ、伝わらなさにクネクネ

もう何回目になるか分からないが、議論の俎上に載せている問いとはこれである、というのを述べておきたい。

われわれの脳といえども、物質であることには違いない。物質であるからには物理法則に厳密にしたがうはずである。言うなれば、機械のようにしか動作しようがない。それなのに、その“機械”の上には、いったいどのようなメカニズムによって意識が宿るのか。これが「意識のハード・プロブレム」である。

脳という“機械”の上に現に意識が宿っているのだとしたら、人工物としての本当の機械の上にも宿りうるのではないか。これが派生問題。

どうです? 問いそのものを記述するのは、かくも簡単で、たったこれだけで済んじゃうんですけども。不思議じゃないですか? 意識の圧倒的な奇妙さに悶絶しちゃいませんか?

「意識があるってこと、それ自体が、なんかおかしいのだ」と前回書いた。これを受けて、武盾一郎氏はFacebookに次のように書いている。「これなのである。この不思議さに悶絶してクネクネしてしまうのだ。この謎にクネクネし続けて久しい」。そうそう、それそれ。これが第一のクネクネ。

問いに対して正解を返すのは超絶むずかしいにしても、さしあたっては、この
問いに特有のクネクネ感をみんなで共有しておきたい。そう思って問題提起してみたら、これが多くの人にとってぜんぜんピンと来ていないらしいという気配を感じて、「へっ?」となる。問いさえもが伝わらないのかと、もどかしさに、またクネクネ。これが第二のクネクネ。

武氏は「意識のクネクネ問題と、とりあえず呼んでおきます」と言っているが、呼ぶなら、「意識の二重クネクネ問題」かね?

武氏と私がシンクロしてクネクネし、DNAみたく二重らせん構造をなしているイメージだ(そうじゃない)。

意識の謎に気がついちゃうと、土台がちゃんとしていないところへ建てた家に住んでいるような落ち着かない気持ちになり、日常生活全般に関する世俗的な諸問題が霞んでしまう。結果、ふつうのことがどうもスムーズに運ばなくなるのだ。

武氏「コープの精算済み買い物カゴを持って帰ってきてしまった」「晩御飯用に焼き鳥をチンしたけど取り忘れてた。朝、入れようとした肉まんがつっかえて気がついた」。それそれ、そういうやつ。

この種の症状を呈する病は「無限後退思考障害」と呼ばれ、精神医学界では、まだ知られていない。

抽象思考に集中すべく、身体の動きをプログラミングしておいて自動運転に任せていると、たいていバグってる。

しかし、無限交代思考障害に陥っていない多くの「健常者」は、なぜ、意識の謎に気づけないのだろう。鍵でもかかっているのだろうか。なんかの拍子に開いちゃった人だけが気づけるのだろうか。

この問題について、2019年2月27日(水)11:45amごろ、新橋の「株式会社アラヤ」にて、代表取締役の金井良太氏に聞いてみた。「科学の基礎ができてない人には気づけないんじゃないですか」。げげ。そうかもなぁ。

自分の主観の側だけから世界を見ていて、客観的視点というものがまったく芽生えていないのだとしたら、たしかに、意識はあるのがあたりまえで、問いに気づきようがないかもなぁ。

●意識のハードプロブレムと実在問題は根っこが同じ

「意識のハードプロブレム」は、自分の外界に物質世界が実在するかどうかを問う「実在問題」と地続きなのだと思う。

例えば「目の前にワイングラスがある」という事実ひとつをとっても、そこには主観性と客観性とに分離しているという二重性が内在する。

目の前にワイングラスがあるように見えていて、手を伸ばして触れてみても、予想通りにガラスの感触がしたので、このことをもって、ワイングラスの実在を確信したとして、確信した主体は私なのであるから、これは私の主観の側の問題である。

私の主観が、ワイングラスの存在をいかに強い自信をもって確信したからといって、その実体は、私自身の内部にワイングラスのイメージが実在感をともなって浮かび上がっているという精神現象が起きているにすぎない。この主観的実在感をもって、客観的にみても間違いなく、私の外部にワイングラスが実在していると証明したことにはならない。

私が存在していようといまいと、認識していようといまいと、空間を占める物体としてワイングラスがそこにあるか、というのが客観側の問題である。

私の内部にワイングラスのイメージが主観的に存在することと、私の外にワイングラスの実体が客観的に存在することとは、区別されなくてはならない。ところが、たいていの人は、そこが直結しちゃってるんだなぁ。

渡辺正峰氏(東京大学准教授)は著書『脳の意識 機械の意識』の中で、意識の科学にも“自然則”が必要だと述べている。

渡辺正峰
『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』
中央公論新社(2017/11/18)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121024605/dgcrcom-22/


自然則とは、物理学で言えば、「万有引力の法則」や「光速不変の原理」のように、他の法則から導くことのできない科学の根幹をなす法則をさす。なぜそうなっているかと聞かれても、「そうなっている」としか答えようがない。

意識の科学は話が客観領域の中では収まらないので、既存の科学からは逸脱するという。しかし、意識にも自然則は必要で、必然的に、主観世界と客観世界とを橋渡しする形で記述されていなくてはならない。意識の自然則が具体的に何であるかは、まだ発見されていない。

「意識のハードプロブレム」も「実在問題」も、主観世界と客観世界とを橋渡しする自然則は何かを問うている、という点において、根っこは同じなのだと私は思う。

目の前のワイングラスのような事象ひとつをとってみても、主観性と客観性という二面性を有するのだということを実感を伴って体験するには、新宿の「VR ZONE」あたりに行って、仮想現実(Virtual Reality; VR)ゲームで遊んでみるというのも一計かもしれない。
https://vrzone-pic.com/shinjuku/


●世界が実在しないと言っているのではない

ここが躓きの石のひとつになっているかどうかは分からないけれども、素朴実在論を否定することについて、注釈を述べておきたい。

「実在問題」に対して、素朴実在論がどういう立場をとるかというと、五感を通じて入ってきた信号に基づいて脳内で形成された外的世界のイメージが100%信頼できるものだと考え、外的世界がイメージ通りに実在することをぜったいに間違いようのない確かなことだと考える立場である。日常生活において、ふつうの人がふつうに感じているふつうのことではある。

それの否定は「外的世界は実在しない」ではない。実在するかもしれないし、しないかもしれないし、どっちもありうることではあるけれども、ぜったいに実在するのだと100%の確証をもって論証することは不可能である、ということである。

素朴実在論を否定するのは簡単、と前回書いた通り、ここは私の中では完全に済んでいる。

素朴実在論は、思考実験をひとつ提示すれば、一発で崩壊する。その思考実験において、客観世界における外的実在と主観世界における内的イメージとの関係性が、こういうメカニズムで成り立っているというモデルが提示されている必要がある。

このモデルは、主観と客観との関係性のメカニズムについて、正解を言い当てている必要はない。ただし、このモデルが正解を言い当てている可能性は論理的に否定できないものである必要がある。そして、このモデルにおいて、客観的実在のありようと、主観的イメージのありようとの間に大きな齟齬がある必要がある。

そのようなモデルのひとつとして「水槽の脳」がある。私の脳は、それ単独で、水槽の中で培養されている、というモデル。このとき、客観的に実在するのは培養液に浸けられている脳であり、主観的に認識する外界はふつうに生活している日常の姿である。

このモデルが「ありえないこと」として論理的に否定できない限りは、「主観においてイメージした通りに間違いなく外的世界は存在する」とする「素朴実在論」は論理的に否定できたことになっていると思う。

自分の脳が実はむきだしで培養液に浸けられている、というのが本当の現実の姿であって、自分がふつうに日常生活を送っているという認識はすべて、コンピュータによるシミュレーションの結果として脳に送り込まれてきたビット列信号に基づいて脳内で形成された架空のイメージにすぎず、完全にだまされて錯覚させられているのだ、という状況は現実的なこととして想像するのはちょっとむずかしいかもしれない。しかし、それは想像力の欠如に由来するもので
あって、論理的には否定できない。

私の中では、数学における「角の三等分問題」と同様、否定的に解決済みの問題になっている。

角の三等分問題とは何かというと、与えられた任意の角度を三等分する角度を、鉛筆とコンパスと定規だけを使って作図によって求めることができるか、という問題である。ただし、付帯条件がいろいろついている。定規に長さを記録しておく印を打ってはならない、とか。操作は有限回で終わるべし、とか。

この問題は「できない」ことを示す証明が済んでいて、すでに片付いている。コンパスと定規でできるのは二次方程式を解くことまでだが、角を三等分するには三次方程式を解かないとならないから、というのが証明の大筋である。

昔、どなただったか数学者が「できました、と言って答えを送りつけてくるやつが後を絶たなくて困る」ってなことを書いていた。数学者も有名になると、なかなかたいへんですねぇ。で、送ってきたのを読んでみると、だいたい予想通りで、「条件をよく読めよ」で済んでしまう。

私が前回書いたことを受けて、とある掲示板に「素朴実在論者です」と書き込んできた人がいて、「角の三等分、できました」と書いて寄越す人を思い浮かべてしまった。

●信仰の話をしているのではないのだ

素朴実在論を否定する論理に欠陥があることを指摘してくる内容であれば、私もていねいに読み込んで、真面目に再検討したに違いない。

しかし、そうではなかった。科学が絶対的に正しいことを信じたいようで、土台がぐらぐらしては困るので、素朴実在論もついてに信じておきたい、というような内容であった。

私は信仰の話をしているのではない。個人的にこれこれのことを信仰していますという表明だったら、ご自由にどうぞ、としか返しようがない。

角の三等分問題が否定的に証明された後でも、「やってみなけりゃ分からないじゃんか」と言って取り組む人がいたって、止めはしない。キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ、無神論であれ、個人的な信仰については、「それはよくないから考えを改めなさい」みたいなことは言わない。

月にウサギがいるでも、雷は神の怒りであるでも、宇宙の思し召しに素直に波長を合わせるだけで幸せになれますでも、引き寄せの法則でも、もう好きにしてください。

しかしながら、例の素朴実在論者氏も、言っていることが論理を無視したまったくの出鱈目ばかりであるとは言い切れず、いちおう耳を傾けてみるべきことも言っている。

「もし素朴実在論を否定すると、素朴に観測した各種の物理計測値が、非常に高い精度でお互いに物理の理論モデルに合致していることの説明がつきづらい。また、そうして得られた物理学を適用して開発した、車、飛行機、宇宙船、携帯電話、パソコン、インターネットが全てきちんと動作できていることも説明が極めて困難」。

その考え方自体は、きわめてまともだと思う。実は、実在論をめぐる種々の論争について、よく整理してまとめているサイトがあることをつい最近になって知った。数時間前のことである。「心の哲学まとめ Wiki」の中の「実在論論争」の項目。
https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/144.html


それによると、その立場は、素朴実在論ではなく、科学的実在論であり、その論法は「奇跡論法」と呼ばれるようである。もし電子や光子といったものが実際に理論で記述されるような形で存在しないとすれば、科学の成功は「奇跡」となってしまうので不合理だ、とする考え方だそうだ。

私が「ベイズ統計学」を持ち出して言いたかったことも、だいたいその線のことである。ただし、少し立場が違うとしたら、素朴実在論の否定も支持しているので、外界の実在を100%証明することは不可能だけれど、これまでの観察結果を鑑みると、実在する可能性がそうとう高いとみてよいだろう、という譲歩をしている点にあるのかもしれない。

あと、もし誤解しているといけないので注釈しておくと、私自身は、哲学の味方か、科学の味方か、と言ったら、断然、後者である。

フッサール以降、現象主義の側にすっかり偏ってしまい、壮大な時間と労力と言葉の無駄遣いをだらだらやってきた哲学。主観の側から主観を論じたのでは、酔っ払いが「オレは酔ってないぞ」と言っているのと同じで、何の正しさも保証できないのに、「オレからはこうみえている」という与太話をただただ何でもかんでも言いっぱなしにしてきた哲学。ソーカル事件以降も懲りずに出鱈目を垂れ流し続けている哲学。関わっている人たちの大多数が、数学の素養が足りないばっかりにそもそも論理の何たるかが分かっておらず、まともな議論が始まりもしない哲学。

それにひきかえ、100%正しいことばかりを言うとは限らないし、根源的なところで解決できていな謎が山と残っているけど、根本的な誤謬をやらかす確率は哲学に比べたら格段に低い科学。ゴミとダイヤモンドぐらいの違いがある。

●数学は、気づきさえすれば誰でも理解できるのか

話がどんどん脱線していくような気がしないでもないが、数学の理解やコンピュータのプログラミングの習得は、訓練やふとした気づきによって、誰にでも可能なことなのか、それとも、先天的にどうしても駄目な人がいるのか、という議論が気になった。

『プログラミングできる人とできない人との間の深い溝』。
https://masatoi.hateblo.jp/entry/20090707/1246965336


「プログラミングというものには向き不向きが強く出るということはわりと知られていると思う」と、冒頭から絶望的なことを言う。不向きな人は、努力してもどうにもならんぜよ、と宣告しているようなものだ。ペンギンが一生懸命羽ばたいたところで空を飛べるようになるわけでなしってことか。

あー、でも私自身もそう思うときはあるなー。まず、頭の悪い人は、しょうがない。小学校レベルの算数も理解していないとしたら、プログラミングはそれよりもむずかしいと思う。

次に、やる気のない人や関心のない人も除外。こっちが何を言っても、そんなことには関心がないとばかりに、ろくに聞いてない人には、教えようがない。

悲劇的なのは、プログラミングができるようになりたいという動機があって、怠けずにがんばっていて、しかも頭の悪い人ではないことは明らかなのに、プログラミングに限っては絶望的に飲み込みの悪い人というのがいるってことだ。

教える側にとっても、これ以上易しく噛み砕けないところまで八方手を尽くしたのにどうにもならなければ、同じことを繰り返し言う以外になくなっていき、フラストレーションがたまる。教わる側も、なんだか暗~い心持ちになってしまうことだろう。

追い打ちをかけるように、こんなことも言っている。「結局、プログラミングや数学に求められるのは、抽象的なものを抽象的なままで扱う能力ということになるのだろう。抽象的な概念やルールに必要以上に意味を求めたり、具体的な身の回りのパターンに無理矢理当てはめようとするとモデルとしての一貫性が崩れ、抽象化した意味がなくなってしまう」。

そう言や、笑い話があったな。講演を聴講していた数学者が挙手して、講演者に注文をつける「あのー、言っていることがぜんぜん理解できないんで、もっと抽象的に話してくれませんか」。

しかし、希望がもてるようなことも言っている。「個人的にはここで言われているようなことは先天的な能力というよりは、単なる思考習慣の一つに過ぎないと思っているので、訓練あるいはふとした気づきによっていくらでも乗り越えられる溝だと思っている」。

そう言えば、いるなぁ、絶望的に数学の素質のない人。たまたまこれを読んじゃったりしないことを祈るけど。例えば、
  1 + 3 + 6 = 10
のように記述すべき計算を、
  1 + 3 = 4 + 6 = 10
って書いちゃった人が知り合いにいる。ええと、1 + 3 は 4 ですよね? 4 + 6 は 10 ですよね? 4 と 10 が等しいんですか? 等号のなんたるかは、小学校でも割と低い学年で教わりませんでしたか?

数式の文法を独自に改変しちゃったら、他人に伝わらなくなりますよね?それって、国語の文法でも同じことですよね?

進学塾で国語の先生をしていたことがあるとかで、頭が悪くはないのである。おもしろいことに、この人には妹がいて、数学が抜群にできる反面、言葉を言語道断に知らない。姉からは心配だ心配だと馬鹿にされている。

私に言わせれば、どっちもどっちで、世界を半分ずつしか見ていない。姉の頭の中には右脳と右脳が入っていて、妹には左脳と左脳が入っているのではなかろうか。

こっちからお金を払って、この人に数学かプログラミングを教える実験をしてみたい。

●言葉で考える派と論理で考える派

極論すると、世の中には、言葉で考える派と論理で考える派の2種類いて、相互に理解し合えないのではなかろうか。

ひとつひとつの国について、その国のGDPをその国の就業者数で割った値として定義される指標がある。定義通りに読むのであれば、就業者一人あたりのGDPである。

日本は、この値が低い。米国、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本からなる主要先進7か国で比較すると、日本が最下位である。しかも1980年からずっと一貫して最下位をキープしている。
https://www.jpc-net.jp/intl_comparison/intl_comparison_2017_press.pdf


原因は何だろう。可能性だけで言っていいのであれば、例えば、日本の製品は高く売れないから、っていうのもひとつあるかもしれない。高く売れないのは付加価値が低いから。工業製品だったら、高度な技術を駆使して製造する最先端品だったら高く売れる。けど、技術的に陳腐化した製品だったら、値下げ競争になって、あんまり利益が出ない。

高く売れる製品を作れるようになるためには、科学技術において、世界の国々に先んじていないとならない。追いつかれたときには、もっと前に進んでいないとならない。対策としては、大学も公的研究機関も企業も政府も、産官学で協力しあって、日本の基礎研究のレベルの底上げを図るべきなのではないだろうか。

そのためには、小学校からの教育のあり方として、どの辺に重点を移すべきか、考えたほうがいいだろう。これが正解かどうかは分からない。しかし、可能性のひとつとしてはあるだろう。

ところが、この指標に「労働生産性」なんていう名前をつけちゃった。名前なんで、どうつけようと自由は自由なんだけど。一度こう呼んじゃうと、すべての思考がこの言葉のイメージに引っ張られっぱなしになってしまう人が多くいるのではなかろうか。

「労働生産性が低い」という言葉からくるイメージは、無駄な仕事をだらだらやっている人が多いために、生産の効率が上がらない、って感じではないだろうか。対策としては、「働き方の変革」だ。無駄な仕事を省き、効率化することで、中身の濃い労働をするようになれば、生産性は上がるはずだ。

それもひとつの可能性には違いないが、どうも的を外しているような気がしてならない。政府は分かっていて、本当の原因から人々の目を逸らすために、わざと誤魔化しをやっているのではなかろうか、と勘ぐりたくなる。まあ、英語でも "labor productivity" だから、日本政府だけがネーミングで世論を誘導しているとは言えないだろうけど。

言葉で考える人よりも論理で考える人のほうが優れているとほのめかしたいのだけど、猛反対する人もいそうだね。ドイツナチスの優生学みたいなもんにたとえるのは勘弁してください。

●ベイズ統計学に触れてみる

前回の続きをやると言っていながら、話が逸れまくり、ちっとも前に進んでいかない今回であるが、最後にちょこっとだけベイズ統計学に触れておきましょうか。

ダンナが浮気しているんじゃなかろうかとうすうす感じている。まだ、e-mailもケータイも世の中に登場していないころの話である。たまたま用事があってダンナの勤め先に電話したら、同僚が出て、彼は今朝連絡してきて、今日休んでいるという。いや、朝、いつものように家を出たけど?

「分からない」から出発して、入ってきた情報に基づいて推論し、「やっぱり分からない」という結論に至る。しかし、前後でその「分からなさ」が変化している。それを定量的に扱えるようにしたのがベイズ統計学なんだと思う。

ほーら、比喩で説明したんじゃ、何も言ったことにならないのだ。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/


《 シンギュラリティサロンでしゃべります 》

前回も告知してたけど、大阪でしゃべります。

シンギュラリティサロン #33「意識をめぐる大冒険」
https://singularitysalon-33.peatix.com/

日時:2019年3月10日(日)1:30pm~4:00pm
会場:グランフロント大阪・ナレッジサロン・プレゼンラウンジ
登壇者:
渡辺正峰(東京大学准教授)
大泉匡史(株式会社アラヤ マネージャ)
小林秀章(セーラー服おじさん)
モデレータ:
松田卓也(神戸大学名誉教授、シンギュラリティサロン主宰)
定員:100名(先着順・入場料無料)

《本の表紙に載りました》

『コンテンツマーケティング最前線』というムックの第2号のテーマは『コンテンツ制作の極意』。2019年2月22日(金)紙媒体と電子書籍で発売中。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4991076501/dgcrcom-22/

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07P4D3VSC/dgcrcom-22/


表紙の写真は、去年の12月にキューバに行ったときに岩切等氏に撮ってもらったもの。コンテンツマーケティングのジャンルに携わる6人にインタビューしている。その中の一人は私。本人がコンテンツそのものだ、ってわけで。

2015年8月10日(月)、以前に見かけて気になっていたお墓を見つけ出そうと青山墓地をさんざん歩き回ったが、見つからず、あきらめて帰ろうと地下鉄の駅に向かっているところを、呼びとめてきた人がいる。

田中森士氏。青山一丁目のスターバックスでマンゴーフラペチーノをおごってくれた。そのご縁で、今回の話につながったというわけだ。お墓は縁起がいい。

【告知】3月14日(木)、赤阪でしゃべります。

コンテンツ制作の極意 ~『コンテンツマーケティング最前線 02』出版記念トークイベント ~
https://cmfrontline0314.peatix.com/

日時:2019年3月14日(木)7:00pm~8:50pm
会場:Innovation Hub(株式会社Faber Company内)東京都港区赤坂2丁目14-4 森崎ビル1階
定員:30人
参加費:チケット1,000円 チケット(書籍付き)1,500円
スピーカー:
山田明裕[第4章](株式会社 Baber Company 取締役)
三友直樹[第6章](コンテンツマーケティングラボ編集長)
小林秀章[第3章](セーラー服おじさん)
モデレーター:田中森士(株式会社クマベイス 代表取締役 CEO)

【告知】3月26日(火)、渋谷でしゃべります。

コンテンツ制作とどう向き合うべきか? ~『コンテンツマーケティング最前線 02』出版記念トークイベント~
https://content-marketing-booklabtokyo.peatix.com/

日時:2019年3月26日(火)7:00pm~9:00pm
会場:BOOK LAB TOKYO(東京都渋谷区道玄坂2-10-7 新大宗ビル1号館2F)
定員:80人
参加費:チケット1,000円 チケット(書籍付き)1,800円
スピーカー:
岡 武樹[第1章](SUUMO タウン編集デスク)
ヌケメ [第5章](アーティスト)
小林秀章[第3章](セーラー服おじさん)
モデレーター:田中森士(株式会社クマベイス 代表取締役 CEO)

《キッチンオトボケ》

3月5日(火)、健康診断を受けた。体重が75kgから78kgに増えているではないか! 納得いかない! けっこう歩いているのに。

ひょっとして「羊効果」か。羊は毛を刈られると、24時間で皮下脂肪の厚みが2倍に増えるのだという。寒い格好で表を歩いていたら、脂肪がどんどんついてたってわけか。失敗だ。

あと、食う量が増えたな、という自覚はある。30年くらい前、早稲田に「キッチンオトボケ」という定食屋があった。メニューにはいろいろな品目が掲げてあるのだが、何を頼んでも、言いくるめられて、ナス焼き定食になっちゃう。「ナス、好きじゃないんですけどー」「でも、ナス焼きでいいよね」。他のは最初っから用意してないんだろ。

そのオトボケが今もある。健康診断を受けた日の帰りがけに、久々に入ってみた。従業員が4人もいて、繁盛してるじゃないか。

メニューの先頭に載っている「肉茄子炒め定食」をあえて避け、「ミックスフライ定食」にする。しかし、強引な変更攻撃は来ない。追加料金なしでご飯を大盛りにできるらしいけど、そんなの頼んでない。

気を利かせてくれたのか。もんのすごい山盛りご飯が出てきた。側面がほぼ絶壁になっていて、頂上が平らだ。漫画みたいだ。よくこんなふうに盛れたなぁ。おかずもやたらと量が多い。ラグビー部仕様かよ。少し苦労したけど、平らげた。うん、食いすぎだ。


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編集後記(03/08)

●偏屈BOOK案内:向田邦子全集 別巻1 向田邦子全対談 文藝春秋

向田邦子全集〈新版〉全11巻・別巻2巻が出版されたのは2010年だった。一番近い図書館に行ったら、きれいな全巻が並んでいた。いままで気がつかなかった。向田邦子の文庫本はわたしの“秘密の書棚”に何冊もあるが、「全対談」はない。武器になり得る堅牢な造本で1800円。買えません。借りました。

そうそうたる17人との対談が掲載されている。この対談集は、あの不慮の死から半年ほど後、吉行淳之介が家庭画報の編集者に偶然会ったとき、「向田邦子さんの対談集がでないようだけど、だしたら」と提案。本の構成を考えたのが吉行であり、その経緯を巻末に書いているが「監修者」名義は断ったと記す。

巻頭は山口瞳の「対談せざるの弁」である。書かせたのは吉行である。リストを見て「わたしなど『お呼びでなかった』のである」という山口だが、気分を損ねているわけではない。向田を天真爛漫で小気味がいいと書く。「不実な女、もしくは誠実な娼婦という一面があった。誰にでも好かれ信頼されてしまう。

その場かぎりで、相手に精一杯つくしてしまう。その感じは、この対談にもあらわれていると思う。(略)それでいいのだ。彼女は良い仕事をしたかった。そにためには、相手に惚れこんでもらいたい。それでいいのだ」「この対談集には、一瞬の女のイノチが輝いている。それを読みとってくれたなら(略)」。17人との対談にはイマイチなのもあり、山口瞳の弁があって本当によかった。

江國滋が向田との対談の前日、「向田さんに何か色っぽい話はないか」と人の悪口がメシより好きな句会仲間に訊く。神吉拓郎は天を仰いで「あの人はないねえ」、大西信行は「うーん」と唸ってあとが続かない。小沢昭一は無念やるかたないみたいに「ないんだよなあ」。向田本人は「私はないですねえ」

向田の仕事はギネスブック級で、テレビの台本が1000本近く、ラジオは1万本超、一番忙しいときは番組を11本、「森繁の重役読本」だけで8年間、2800回続いた。本人が挙げる代表作は「だいこんの花」「寺内貫太郎一家」で、「あの二つは、アガリは別として、気持ちが好きですね。『阿修羅のごとく』なんかよりは好きです」という。名作「父の詫び状」は初のエッセイであった。

マメな江國滋は初対面の向田の「語録」を作ってきた。「睡眠時間四時間で四日間は働けます」「テレビっていうのは“反面教師”でもあるけれども、しかしテレビにまさる教師はいない」「ドラマを書いているときは、主役の俳優が死んでくれないか、テレビ局に爆弾が仕掛けられないか、そればっかり考えています」「タレントさん、あの人たちは話をしても上の空なんですね」

向田がいう女優の絶対必要条件は、「あまり幸福だとつまんない、全部揃ってると面白くない、ちょっと不幸で、ちょっとばか、がいい。ひとつどこかでつけ込むすきがあるほうが……」である。向田の頭の良さは、相手が何を言っても、うまく受け、自然に自分の言いたい方向に話題をもっていくところにある。それでも面白くならない相手もいる。吉行淳之介など、どうでもいい話ばかり。

「(向田の文章は)楽しい記憶に満ちているけれども、あれほどの記憶力だから嫌なことも怖ろしいことも、どれほど沢山覚えていらしただろうか。それを読みたい想いは誰もが同じことで、向田さんもすこしずつ書き出されていたのだが、神はそれをお許しにならなかった」と鴨下信一が書く。同感。(柴田)

向田邦子全集 別巻1 向田邦子全対談 文藝春秋 2010
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●MacBook Pro続き。2018に3.5mmヘッドフォンジャックありました。お詫びして訂正します。

/ハブ。ディスプレイ用ポートにしても、2台同時表示できないとか、できてもミラーのみとか、2台表示だと4Kは使えないとか、商品説明だけではよくわからないものがあって、アマゾンのレビューを読み込むことになった。ほんと助かる。

ということで、ポートはディスプレイに1つ使って、残りは2つ。

外付HDDは2台使っていて、1台はTime Machine用。もう1台は本体に入れられない素材やテンプレートなどのデータ類用。iPhoneやiPadのバックアップ・同期用ポートが欲しいし、BDドライブ用のも必要。

Time Machineとの兼用はいざという時のために避けていたが、素材類はDVDやサイトに元があるし、Dropboxで同期もしている。そうしょっちゅう使うものではない。ということで兼用にした。3つに切っていたパーテーションのうちの1つを使っていなかったのでそれをTime Machine用に。(hammer.mule)