[4773] はぐれの妄想《多様性を内包できそうな共産主義》なんちて

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《笑いながら読めます「ロシア革命史」》

■はぐれDEATH[74]
 はぐれの妄想《多様性を内包できそうな共産主義》なんちて
 藤原ヨウコウ




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■はぐれDEATH[74]
はぐれの妄想《多様性を内包できそうな共産主義》なんちて

藤原ヨウコウ
http://bn.dgcr.com/archives/20190412110100.html
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ボクの作文なので、まともな共産主義に関する論を期待するのはやめて下さい。そもそも、ボクの共産主義に関する知識は相当偏っているし。

それでも、日本の共産主義運動(戦前戦後を含む)が、原典からかけ離れたものであることは簡単に分かる。むしろ、思想の上っ面や過激なところだけを意図的に取り出して大騒ぎしているところは、最近のネトウヨと本質的には変わらないと思っている。

まぁ思想が何であれ、過激派と呼ばれる暴力的発言・行動をする人にとっては、思想の本質なんてどうでもよくて、要は騒ぐネタの足がかりにしているようにしかボクには見えない。

ちなみに、共産主義礼賛をするつもりもまったくない。ボクにとっては興味深い、多くの思想・哲学の一つにすぎないし、それ以上でも以下でもない。

もちろん、革命を期待したり標榜したりする気もない。フィクションとして(いや明らかな妄想だな)、頭の中でとんでもないウルトラC的なことを想像することはあっても、現実に適用しようなどという気もまったくない。というか、ボクの妄想の展開がアホすぎるので現実にそぐわない。

まず、まともに共産主義について知識を得たいと思うなら『マルクス・エンゲルス 共産党宣言』(岩波文庫)を読みましょう。というか、もうこの一冊に重要なエッセンスはすべて突っ込まれてるんですけどね。

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ちなみに、共産主義の対義語は民主主義ではありません。共産主義も民主主義の一種にすぎない。実は、ここでもう勘違いをしている人が日本には多すぎる。あくまでも対義語は、特殊な資本主義です。

さらに、「特殊な資本主義」という言葉は、上記の著作には一切出てきません。ボクが作った(笑)

「特殊な」というのは、資本家(ブルジョアジー階級)が余剰利益を独占して、労働者(プロレタリアート)を貧困に陥れる状態のこと。

「資本主義そのものやん」と思われるかもしれないが、80年代の日本ではほんの短い時期ではあったが、比較的富の再配分が広く平等に行われ「世界でもっとも理想的な社会主義国家(社会主義と共産主義の違いは後述する)に近づいた稀有な例」と言われたことがあったからだ。

このへんの事情は、親父が端的に指摘していて「企業を私物化するのはもってのほかで、あくまでも公的な責任と義務がある」と、当時中学生のボクに断言していた。

毎度のことで申し訳ないのだが、我が家は「親父の言うことは絶対」という鉄の法則があるし、じっさい親父はまともなことしか言わなかったので、ボクはそのまま信じた。

今から考えれば、これは「良心的な資本主義」に他ならない。もっと言えば、この「良心的な資本主義」がグローバル・スタンダードであれば、共産主義思想そのものも生まれなかった可能性すらある。夢物語だけど。

要は「富の再配分」において、著しく偏った状態が生まれないようにするために生まれた思想だと言ってもいい。

共産主義思想もまた、産業革命が生んだ思想である。近代の罪深いことよ。

大量生産工場が爆発的に広がることにより、まず手工業がダメージを受ける。繊維業がその先鞭であることは言うまでもあるまい。その後については、ほぼ中学の教科書にダイジェストで掲載されているので省く。

「そんなん知らん」という方は、自らの無知と義務教育時代の不勉強を嘆きなさい。うちのおねえちゃんですら、中学時代には知っていた。

農業はというと、ヨーロッパの場合(特にロシア)これまた大農場主が利益のほとんどを独占する状態がスタンダードであり、農家から都会の工場へと転職する人も多かった。ところが、労働環境は更に劣悪で住居・食糧事情に至っては、悲惨極まりない状態だったという。

更に不景気というヤツがついてまわる。ボクがよく言う「景気が良くなれば、今度は不景気がやってきて、それからまた良くなって」という無限ループが続くのだが、このへんはマルクス、エンゲルスが詳細且つ簡明に解説しているので、そちらを参照する方が混乱は少なくて済むだろう。

「私的所有を禁じ(一部を除く)公的に資本を保有し、人民に有益なよう富の再配分を行う」というのが、ボク的な共産主義の定義である。

ボク的とわざわざ書いたのは、ボクが日本人であり「共産党宣言」を鵜呑みにしていないことを暴露しているようなもんだが、時代も場所も文化も違いすぎるので、丸ごと輸入など出来るはずはないのだ。

上述した親父の「企業を私物化するのはもってのほかで、あくまでも公的な責任と義務がある」という発言の根源は、母方の一族の土地経営にあるとボクは睨んでいる。

母方の一族はいわゆる大地主なのだが、一方で「土地の顔役」という側面も持っている。威張り散らすこともできたはずなのだが、面白いぐらい「エエ格好をしなければいけない」という、ある意味珍しい傾向のある一族で、祖父に至っては無償で土地を貸していたようだ。

理由は「あんなに沢山、一人で耕せられんし、かと言って荒れ放題にしていてはみっともない」という身も蓋もない理由だが、「人を雇ってでも耕してお金を儲けよう」という発想が、まるっと抜けているところがミソである。

もちろん「エエ人に見られなければ」という、本当にある意味どうでもいい理由があるのは確かなのだが、祖父は「資産が減らなければそれでいい」という考えの持ち主だったし、そもそもマジメに農業に従事できるような働き者ではない。このへんの怠け者度は、ボクにみごと隔世遺伝した。

祖父が選んだ(というか、そうなっちゃった)のは教師という道で、土地のインテリとして存在することだった。インテリといっても、内幕は「ただの読書好き」なのだが、それでも祖父の知識は質も量も広範だった。

この知識を啓蒙的に有効活用するには、教師という立場が田舎では一番しっくりくるのだ。

祖父が近隣の人たちから「先生」と呼ばれていたのは、「教師」という立場と「顔役」という立場の二つからで、アホな政治家が「先生」と呼ばれる異常な状態とは、まったく異なることを付け加えておく。

「一族の生まれだから」というだけの理由で、「土地の顔役」をはれるほど甘くはない。「外づらが大事」(笑)という一点があるにせよ、それなりのことはしていたのだ。

だから、GHQが農地開放政策を施行した時に、「何をいまさら。うちは昔からちゃんとやってる。そんでもって、なんで土地を取られないといけない」と怒りまくったのだ。

このへんの母方一族の土地経営は、原始共産主義によく似ている。というか、大昔からずっと同じだった、と言ってもいいだろう。

ちなみに、一族の人間でもアホなことをすると、一族内で粛正(?)される。まぁ別に殺されるわけではないのだが、徹底的に黙殺され、終いには土地にいられなくなり自然消滅、というパターンが多かったようだ。

一応、今でも本家・分家はあるものの、今の本家が累代の本家かというとかなり怪しい。絶対にヘマをした人はいたはずだし、その度に本家株(?)が良心的に移譲された方が可能性としては高い。とにかく、「土地と住む人を守る」がベースなのだからそうなるのが自然だろう。

こうした考えは別に母方一族に限った話ではないし、もっと言えば、世界規模であった(現存するところもありそうだ)話である。原始共産主義をわざわざ持ち出したのは、こうしたことからだ。

特徴はコミュニティーの規模が小さい点であろう。色々な文献を読む限り、人のコミュニティーはまず種の保存に必要最低限で最適な規模からスタートし、徐々に規模を大きくしていっている。

古代ローマ帝国や中国の各王朝だって、巨大さで言えばすさまじいが、本当に領土全部を見渡すことができていたかというと、相当怪しい。それなりの無茶はしたと思うが、政治の中枢地域から離れれば離れるほど、原始共産主義的な営みは続いていたように思える。

このへんの事情を根底から覆したのが、「産業革命」だと言ってもいいだろう。

分散していた人々を、都市(工場)に集中させるという点一つをとっても、ある意味、歴史上の大革命である。まぁ、あくまでも労働力の集中ということなんですがね。

当然のことながら、さまざまな矛盾や問題が噴出するし、近代資本主義経営だって失敗の連続である。資本家には資本家の悩みがあったのだろうが、労働者側の不満はその比ではない。

「不景気になればクビ、景気が良くなると安い賃金で長時間労働」という、不利にもほどがある条件そのものが、既に不満の種なのだ。そこに劣悪な住居・食糧事情が加われば、暴動が起きても不思議ではない。というか、あたりまえである。

こうした不満に対して、問題提議し、理論的な解決策を提示した一つの例が、「共産党宣言」である。あくまでも解決策の一つです。別にこうした問題提議について理論化したのは、マルクス・エンゲルスだけではない。それこそ百花繚乱の体をなしていたという方が、実態に近かったのではないだろうか。

「共産党宣言」そのものは、極めて薄い本である。もっともそれ以前の「資本論」は膨大すぎるけど。

この膨大な資料収集と分析から得た結果が、「共産党宣言」に繋がったという点が、他の論から突出しているように思われる。

ソヴィエト・ロシアの10月革命は、当時のありとあらゆる矛盾と問題が集中化した帝政ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現在のサンクトペテルブルク)を中心に勃発し、ロシア全土に広がった、と書きたいところなのだが、実際に勃発したのはあくまでも都市部が中心である。

主要都市で起きた革命が、あっさり全土に広がることはもちろんなく、ブレスト=リトフスク条約でさっさと第一次世界大戦から撤退した後、すぐに内戦に突入する。

このへんは「ロシア革命史」(トロツキー著/岩波文庫)に詳しい。もっとも、革命政権側からの叙述なので多少の贔屓目はあるだろうが、それを差っ引いても総覧するにはお奨めの本である。

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何しろ、笑いながら読めるという、個人的には稀有な本なのだ。娯楽小説として読んでも、十分にお釣りが来る。



やっと前置きが終わった。と書いたら驚く方も少なくないだろう。

これでも相当はしょったのだ。だが、その後の旧ソ連や現中国共産党政権が、本来の共産主義思想から遠くかけ離れた存在であり、日本に未だに残る共産主義禁忌の風潮がいかに間抜けな誤解に基づくものかを、ある程度解説するためには必要なのだ。

旧ソ連は革命直後(特にレーニンの晩年)から、既に革命思想が崩壊を始めている。

「ソヴィエト」という言葉は、直訳すると「議会・集会」である。議会はいわゆる、日本の国会のような選挙で選出された議員によって運営されていたわけではない。

そもそも、地区ソヴィエトという極小単位の集まりから始まり、その発言が次の上の地区ソヴィエトで議論され、賛同を多く集めた意見がさらに上のソヴィエトで議論され、という非効率にも程がある運営の仕方から始まっている。

これは革命以前からの話で、それぞれの地区ソヴィエトを代表するような人が、自然と浮かび上がるシステムになっていた。

単なるポピュリズムにならなかったのは、あくまでも有用性が最重視されたからであり、そういう意味では、現在我々が目にする日本の国会や有権者とは天と地ほど差がある。

このシステムの逆手を取って、既得権益化する不埒な連中が、革命直後にもう出てきている。代表例がスターリンである。

スターリンが、レーニン存命中から既にこの手の不埒者のまとめ役になり、新しい既得権益層を生み出していたエピソードはいくらでもある。

そのくせ、まともな政治発言や指導がまったくできていなかったのも、この時点で露呈しているのだが、既得権益層としてはスターリンにコケられては困るのだ。何しろ相手は稀代の革命家レーニンであり、恐らくそのDNAを受け継いで指導者に指名するはずだったトロツキーである。

トロツキーの実務レベルの功績は、10月革命以降凄まじいものがある。10月革命時姿を隠していたレーニンに代わって、表立って革命運動を叱咤激励したのもトロツキーなら、どう考えても不平等なブレスト=リトフスク条約に難を示していたレーニンを実質上説得し、国内政治に集中できるよう助言し、条約締結の現場に居合わせたのもトロツキーである。

ロシア内戦においては、各前線を軍事革命列車で移動しながら士気を鼓舞し、補給の実施をしていたのもトロツキーであり(段取りと準備はヤーコフ・スヴェルドルフがほとんどしていた)、本来なら敵で捕虜である旧ロシア帝国軍の士官達を「我々には優能で実用的な戦闘指揮官がほとんどいない」という理由で赤軍に編入させるという、ちょっと普通の頭(革命論に固執する)では考えられないようなアイデアを、これまたレーニンに提言し、赤軍指揮官の充実を実現する切っ掛けを作ったのもトロツキー。

これに対して、スターリンはまったく姿を見せないどころか、無視しておけばいいコザークを無駄に刺激し、白軍であるデニーキン軍と共闘させペテルブルグを危機に陥れたり、カザンでこれまた間抜けなことをして、またまた大惨事を起こす。

挙げ句の果て、手を出さなければ良かったはずの「ポーランド・ソヴィエト戦争」で無理に中枢地域まで進軍させ、大敗北を喫している。ちなみに、この終戦処理を提言したのはトロツキーだ。わざわざ最前線まで視察にいって「これどないもならんどころか、革命体制そのものがつぶれる」と判断したようだ。

ここまでの無能ぶりを発揮しながらも、歪な欲にかられた集団に担ぎ上げられ、レーニンの死後に、スターリンはさらなる大ボケをぶっかまし続けることになる。当然、当初の革命思想などはなかったも同然だし、挙げ句の果てには「一国社会主義」などという、共産主義思想から逸脱にも程がある屁理屈まで発言し始める。

共産主義運動というのは本来、国際連帯運動である。「万国の労働者、団結せよ」というのは象徴的な一言であり、ここにこそ共産主義運動の最も重要な要素がある。「資本家相手に国家も国境もへったくれもない」ということが重要なのだ。

当然のことながら「一国社会主義」などという妄言は、本来なら話題にすらならないのだが、そこは歴史的なアホの代表であるスターリンである。

既に強力な官僚組織と秘密警察を掌握していたスターリンは、独裁体制を背景に「反革命」(ここで既におかしいし)の大乱造で大規模粛正を行い、10月革命時の指導者で生存していた大半の人間を抹殺している。トロツキーも例外ではない。

粛正はレーニン時代からあったのも事実で、そもそも革命後の反体制大量虐殺というのは、フランス革命以来の伝統(!)である。それでもスターリンの無茶ぶりは群を抜いている。

極東の狭い島国に住む我々の目から見ると、ちょっと信じがたいのだが、戦争時の「民族丸ごと抹殺」はナチスのお家芸でもなんでもない。大陸ではむしろこちらの方が当たり前といってもいい。

理由は単純で「生かしておくと禍根を残すから抹殺するに越したことはない」という、見ようによっては合理的な考えなのだが、ボクにしてみればちょっと信じがたいものがあるのが本音だ。

それでも数々の文献(古今東西を問わず)に、この手の記述は腐るほど出てくるのである。

こんな人物が「指導」する革命運動が、10月革命時のコンセプトはおろか、共産主義思想そのものからも遥かに遠いどころか、まったく異なったものになっているのはいうまでもなく、後の中国共産党や北朝鮮の体制に色濃くその変質ぶりを見て取ることができるし、これは戦前の日本共産党の活動も同様である。

とにかく、自己の正当性を知らしめるためには、手段を選ばないのがスターリンの特長の一つだろう。

歴史の改変、焚書、政敵の排除等々、まともな神経ではとうていできそうもない(というか、思いつくことすらおぞましい)ことを平気な顔でやらかしている上に、朝令暮改は日常茶飯事であった。

特に思想統制については、戦前日本ですら足下にもおよばない徹底ぶり。この日本との大きな違いは、スターリンがほとんど一人で実施を命令したところだろう。ことこの一点に限って言えば、日本の方が相当甘い。ナチス・ドイツですら、ゲッペルスやヒムラーの功績(?)の方がヒトラーよりも遥かに高い。

最終的には中国共産党も北朝鮮もソ連とは縁を切るのだが、それでも負の遺産だけはなぜかきっちり受け継いでいる。

さて、共産主義運動が国際運動であることは上述したとおりだが、一気に共産主義を国際化するという愚は、最初の段階で排除している。いわゆる「段階的共産化」であり、社会主義はその段階の一つにすぎない。

この段階をいちいち解説し出すと、一冊本が書ける量になってしまうのでさっさと省くが、最終的な段階は「階級対立は解消され、国家権力は政治的性格を失うとし、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会を形成する条件が生まれた」状態である。

極端な話、政府すら不要ということになる。無政府共産主義という派閥もあるらしい。



ここからはボクの共産主義批判になる。

国際運動と言えば聞こえはいいし、何となく安心感を感じる人も多いだろうが、ボクに言わせれば、コミュニティーの巨大化こそがそもそもの大間違いである。

経済活動を行う上では、確かに大規模国際化は有利なのかもしれない。だが、多様な文化や価値観を、丸呑みできるような度量が人類にあるだろうか? 少なくともこれまでの歴史を振り返る限り、必ずと言っていいほどあからさまな差別や排除の動きは腐るほどある。

というか、そもそも大規模にする利点よりも、不利な点の方が多いような気がする。

最近またまた現政権が、外国人労働者に関する間抜けな法案を無理矢理通したが、ボクに言わせれば絵に描いた餅にすらなっていない。外国人労働者はもちろん、日本人だって身体的な損害を負いかねない。社会的な影響についてはネット上で大騒ぎしているようなので省く。

「少子高齢化」が招く労働者不足を理由にしているようだが、ボクに言わせれば、この段階で既に間違っている。

「少子高齢化」は今現在の話であって、将来的には人口が減るだけの話で、少ない人口、少ない資源、常に天災にさらされている国土の将来を見据えているとは到底思えない。当然、国力は低下する。ちなみに、現在進行しているのは国力の劣化である。

低下と劣化じゃ、もう内容がまったく異なるのだが、この事実をまともに理解しているとは到底思えないほど、現在の日本は狂っている。

はぐれなボクに「狂っている」といわれるのは、とうてい受け入れがたいだろうが、少なくともボクの頭の中では、どこをどう通っても「狂っている」という結論にしか辿り着けないのだ。

日本の話はもうこれでエエわ。

国外に目を向ければ、相変わらず宗教絡みの戦争やら、民族紛争がいたるところで起きており、ここに共産主義思想に出てくる「階級闘争」をはめ込むのは相当無理がある。

共産主義思想における「階級闘争」は、ブルジョアジーと庶民が主である。もちろん、宗教闘争にも切り込んではいるのだが、とてもではないが国際的に宗教を包括しているとは到底思えない。むしろ宗教は極力排除している。

特に「唯物論」をベースにしたマルクス=レーニン主義は、明確に「無神論」を掲げているが、ボクの「無神論」とはかなりの隔たりがある。これまた、風土の違いなのだろう。

そもそも人を規格化することはできないのだ。規模が大きくなれば、規格化は確かに有用ではあるが、肝心要の人間は極端な話、ネアンデルタール人とさして変わっていないとボクは思っている。

地球上の生物の多様性を見れば一目瞭然で、こうした多様性が保たれているのは規格化されたからではなく、単なる自然淘汰の結果にすぎないことは言うまでもあるまい。

「人と他の生物は違うし、人は自然を凌駕する可能性を持っている」という説を頭から否定するボクに言わせれば、自然淘汰を無視しようとすること自体が既に間違っているし、こうした種は滅ぶべき運命にあるとすら思っている。

共産主義は低下と劣化とも言われるが、この科学にだって限界があることを忘れてはいけない。可能性はいくらでもありますよ。それでも、人間ごときちっぽけな存在が、宇宙や自然を完全に把握することなどあり得ない。

だってその中にいるだもん。外から眺めるなんてのは無理に決まっているし、そもそも我々のいる宇宙の中だってすべてなのか怪しい。

別に不確定理論の並行世界を持ち出すまでもないのだ。前にも書いたと思うが、人間が観測できるものがすべてではなく、それどころか針の先で突いたようなちっぽけな範囲ですらないかもしれないとボクは考えている。

それでも十分過ぎるほど人には広いのだ。だからその範囲に限って言えば、可能性は大いにある。だからと言って、すべてを分かった気分になられては、正直げんなりする。

まぁ、だからと言って、「自然に帰れ」などという気もボクにはない。話が逸れた……。

共産主義思想があからさまに登場するのが産業革命後、という点に注目していただきたい。要するに近代である。

近代の諸問題の解決策の一つとして提言されたのはいいが、いくら「政治の科学」でも「唯物論」に即していようと、モノを作る技術とは次元が違うのである。相手はあくまでも人でありモノではない。

産業革命後の戦争(とりあえず第二次世界大戦までを区切りにしよう)と、未だに戦争が絶えない現代の間に、人はどこまで進歩した? というか、戦争そのものは先史時代にまで遡れる。もっとも、先史時代の戦争は意味合いが相当違うような気もするが。

人一倍「競争」をいやがるボクが、自然界の営みを認めざるを得ないのは、「生き延びるために競争になっちゃった」という、ある種の見方も黙認しているからだ。

そもそも「弱肉強食」という言葉だって、ボクは大嫌いなのだ。だが、自然の一面を言い当てていることまで否定は出来ない。あくまでも一面ですよ。これがすべてだとボクは思っていない。

自然が(あるいはそれぞれの種が)意図的に世界規模のコミュニティーを作っているとは、どう考えても思えない。同じ種でもそれぞれの上限があるし、種が変わればなおさらコミュニティーの規模は変化するだろう。

これはあくまでも自然環境に則して形成された規模であって、例え一時的にコミュニティー自体が巨大化したり縮小したりしても、それはその時の環境に最適の大きさであって、決して確定された規模ではないだろう、と推測する。こうした多様なコミュニティーの存在が、結果として現在に至ったにすぎないとすら思える。

もし(ここまで書いて、ボク自身はまだ他の可能性がありそうな気がしているのも事実だ)、こうした柔軟なコミュニティーの形成が地球に適しているとしたら、人は明らかにここから弾かれている。

「進化」したと言えば聞こえはいいが、自然に拒否られているといっても過言ではないのだ。実際、上記したように進化どころか、進歩すらしていないではないか。

技術の進歩は確かに目覚ましいが、「使う人が先史時代とさして変わらない」というボクの見方からすれば、滑稽以外のなにものでもない。いや、ボクがその一員であることは百も承知してますよ。だから余計に腹が立つ。

こういう見方をすると、「共産党宣言」はこうした前提をいきなりぶっ飛ばして発表されたことにしかならないのだが、それでも人の営みの中だけに限って言えば、最近のグローバリズムだの新自由主義だのよりも、ボクの評価は遥かに高いし、産業革命後に生まれた様々な思想の中でもトップレベルにあると思う。別にたきつける気は毛頭ないが、この思想をきちんと学び、現代の日本に応用することは十分可能だと思う。

先日、世界レベルで地域ごとの遺伝子の多様性に関する論文が発表されたが、日本は世界的に見るとほとんど単一の遺伝子のレベルらしい。遺伝子の多様性が少ない地域は共同体意識が強く、独自性に乏しいらしいのだが、この論をまともに受け止めれば、日本ぐらい共産主義に向いている国も珍しいのかもしれない。上述したように、かつて「世界でもっとも理想的な社会主義国家に近づいた」実績もある。

10月革命前後に見事に機能した地区ソヴィエト方式は、意外とこの国に馴染みそうな気すらする。

ちなみに、この地区ソヴィエト方式は、現行の小選挙区制とは性質がまったく違うので勘違いはしないように。人を選挙するのではなく意見を選挙するのだ。しかも、限りなく小規模な単位から。

ただそれでも日本全国となると、正直キツイとしか思えない。このクソ狭い日本ですら、地域の習慣や生活様式は異なるのだ。もし「たいして変わらん」と思うなら、それはあまりに愚かである。隣の家の習慣ですら違うのが当たり前なのだ。逆に、丸っきり同じ習慣な方がよほど不自然だし不気味だと思う。

「多様性」を本気で受け入れようとしたら、本来このレベルからスタートしないとどないもならんのですよ。ここに相互理解があって、そこから徐々に広がるのがよっぽど自然だと思う。それでも日本全体ですら不可能だろう。

個人的な意見だが、こうした「多様性」を共産主義思想は内包できそうな気がする。強欲な資本主義よりも、ボクにとってはこちらの方が望ましい。

強いて言うなら、小さな規模の「原始無政府共産主義」コミュニティーが滅茶苦茶たくさんあって、なおかつ近隣のコミュニティー同士が友好であり続ける状態で行政はAI任せ、これはもう完全に妄想の世界の話なので、現実的な案としては却下せざるを得ない。別にもったいないとも思わないけど。そこまで人に期待してないし。

そもそも共産主義者でもなんでもないんですからね。強いて言うなら「エカキ」でしかないし、死ぬまでこのまんまだ。

予定ならもっと「ブルジョア」「プロレタリアート」「ルンペン・プロレタリアート」「ボリシェビキ」「恐慌」「プチ・ブルジョア」「インターナショナル」「コミンテルン」「ゲバ棒」「セクト」みたいな用語がたくさん出てくるはずだったのだが、ほとんど出てこなかったなぁ……。

まぁボクの共産主義論なんてのはこの程度のもんだ、呵々♪


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com

・はぐれが共産主義について書いているらしいので、構えて読み始めたが、お馴染みの用語が多用されるわけでもなく、ほとんど起承転結をまじめに考えながら書いているとは思えない展開に面くらい、適当なところで中見出しを入れるとかいった編集者としての役割も果たせずグヤシイ。(編集子なんちて)


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編集後記(04/12)

●偏屈映画案内:「最後の戦い」

「レオン」「ニキータ」「LUCY/ルーシー」など、なかなか素敵なハードボイルド・アクションを見たことがある。そのリュック・ベッソン監督のデビュー作だとのこと。ウィキペディアによると、女優と結婚・離婚が3度、4度目に映画プロデューサーと結婚して3人の子持ちという、タフな60歳であるらしい。

図書館で発掘したDVD「最後の戦い」。〈近未来。最終戦争と異常気象のため空気は汚染され、文明は破壊された。わずかに生き残った人々も声帯が傷つき、言葉を失っていた。男たちは限られた水と食糧、そして女を求めて、最後の戦いを繰り広げる!〉。長編初監督作品、音楽と効果音のみ、セリフを一切排除したスタイリッシュな映像。ベッソン・ワールドの原点がここにある、とか。

そんな情報だけで見始めたモノクロ映像。効果音などはあるが、人の声は全然ない。ラブドール相手のセックスというナントモな始まりだから、この主人公らしき男には、ひとまず感情移入しない。最後までできなかったけど。どうやら高層の建物に一人で住んでいるらしい。床にはたぶん砂が積もっている。

めんどうくさい映画である。セリフがあれば登場するわずかな数の人間の考えていることや、やっていることの意味が分かるが(わたしの場合、普通の映画でもすぐ迷子になる)、ないんだから想像するしかない。頭を使うしかない。なんとかなるだろうと思って見ていた。まあ、なんとかなったのだが。

彼は外に出て砂丘を越えると廃車が何台か、人が数人いるのを確認する。トランクに閉じ込められていた小男が、土管の中を伝って地下に下り溜まった水を汲んでくる。ここの連中は何を食って生きているんだ。中にはネクタイしている奴もいる。この荒地で何の意味があるんだ。ここの男達は主人公の敵らしい。

彼の部屋が襲われる。彼は窓の柱なども一気に取っ払って(不可能だろ、普通)自作のエンジン付きグライダーで脱出し、砂丘、荒地の上を飛んで廃墟となったパリへ。かつて住んでいたアパートの、生き残っていた老医師の部屋に行く。説明的で丁寧な描写ではない上、言語もないんだから勝手にこういうことなんだろうなと思うしかない。それは楽なようで楽でない。苦痛だ。面倒くさい。

医師の部屋には備蓄された食料や酒があるらしい。老医師とパントマイムな共同生活を送る。彼は一方的に養われている。目隠しされて連れていかれたのは、女性が一人で住む部屋。老医師は定期的に食料を届けていたのだ。そして、外国人俳優をよく知らないわたしでさえ分かるジャン・レノが登場、もちろん敵、極めて凶暴。こんな荒廃した世界で生き残るのは、こういう化け物しかいない。

もちろん、主人公が勝ち残るのがお約束である。見終わってからネットで確かめたら、解説している人が何人かいて、へえ、そういうお話だったのかと一応は納得したが、キミはどこでそんな情報を仕入れたのだ。想像じゃないのか。後から気づいたが、あったはずの音楽をまったく聞いていなかった。(柴田)

「最後の戦い」 フランス 1983
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000228TV8/dgcrcom-22/


●大阪ダブル選挙続き。子供がいなくて補助金やらが受けられない自分としても、子供が増えていくのは嬉しい。明るさや活気がある。新しい文化やビジネスだって生まれてくるだろう。ぶっちゃけた話、祖父母がお金を落としてくれるし、将来納税者になってくれる。

子育て世代が大阪に住むなら何が欲しい? 何があれば出ていかない? 天王寺公園が若い人たちや親子連れが遊びやすい開かれた場になった。もちろん老人も。芝生を敷いただけで、人が集まり過ごすようになった。まわりには飲食店や施設つき。

大阪城公園も同じく、遊ばせてるスペースに飲食店を入れた。今後は小さな公園もきれいになっていくという。(hammer.mule)

「てんしば」天王寺公園エントランスエリア
https://www.tennoji-park.jp/

「JO-TERRACE OSAKA ジョー・テラス・オオサカ」大阪城飲食エリア
https://www.jo-terrace.jp/