まにまにころころ[158]ふんわり中国の古典(論語・その21)素材が装飾を上回れば野卑である/川合和史@コロ。 KAWAI Kazuhito

投稿:  著者:  読了時間:9分(本文:約4,300文字)



コロこと川合です。大型連休やらなんやらで少し間が空きましたが、令和最初のまにころです。令和、まだ馴染みませんが、響きはそこそこ気に入ってます。

これまで口頭で自分の名前の漢字を説明する時、昭和のワに歴史のシですって伝えていたんですが、令和も使えますね。きっと使わないけど。(笑)

この名前、昭和のワに歴史のシで、カズヒト。なかなか読んでもらえません。カズシかカズフミですね、だいたい。同名の方もまれにいらっしゃいますが、自分の名前でなければ私だって読めません。

古代史の本など読んでいると、史(ふひと・ふみひと)という官職が出てきて、文書や記録を扱う職だとのことで。毎度駄文ながらこうして文章を書いていることを思うと、どこか名前に引っ張られてるんでしょうかね。もうひと文字の和にもなんとか影響受けて、和んでいただけるような言葉を紡ぎたいものです。





さて今回もまたどうでもいい話から始まりますが、大河ドラマ『いだてん』、ご覧になってますか? 前回からずいぶん話はすすみましたが、昨夜もこれまた見どころの多い回でしたよ。その中でも昨夜は、なんといっても森山未來!

これ、見ていない方に説明するのは大変なんですが、若き日の古今亭志ん生、美濃部孝蔵を演じる森山未來さんが、志ん生の息子である金原亭馬生と古今亭志ん朝の二役を昨夜演じられまして。

時系列の入り組んだドラマなので、何のことか分からないと思いますが、まあ、作中で一人三役、語りも入れたら四役やったという話です。

昨夜出てきたのは、金原亭馬生と古今亭志ん朝の二役なんですが、これがもう。演じ分けも見事で。どなたかのツイートを見て後から調べたんですが、表情も雰囲気も、ちゃんと金原亭馬生と古今亭志ん朝に寄せた感じで。

やー、見事でした。

一方で古今亭志ん生を演じるビートたけしは逆に、本人に一切寄せない作り方で演じられていて、それはそれでアリだとこれまで見てきたのに、森山さんが寄せたせいで、たけしさんが浮いて見えちゃったりもして。

なんにせよ、視聴者は大盛り上がりでした。

中村勘九郎さんと綾瀬はるかさんも毎回素敵だし、周りも、登場人物の大半が良すぎて胸焼けするほど豪華で素晴らしく、魅せてくれます。ええ、もうね、言いたいことは結局、ピエール瀧よ、瀧さんよ、最後まで見たかったよと……引き継がれた三宅弘城さんも素敵ですけどね。

そういえば、安仁子演じたシャーロット・ケイト・フォックスさんと、志ん生のところに転がり込んだ五りんの彼女知恵を演じる川栄李奈さんが、ほぼ同時期にご懐妊の報道と、おめでたいニュースもありました。

瀧さんの件と視聴率以外は色々ばっちりなんですけどね、いだてん。

昨夜のストーリーでは、岩松了さん演じる岸清一もよかったですねえ。厳格で、嘉納治五郎を追い落とすように体育協会の二代目会長になった役なんですけど、箱根駅伝のゴールに立ち会って熱くなる姿にグッとくるものがありました。

大河らしくない大河ですけど、いだてん、いいですよ。配信サービスか何かで是非ここまでの19話を観て、来週から一緒に観ましょうよ。(笑)

いだてん話が長くなっちゃいましたが、ここからはまた『論語』です。


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」十四

・だいたいの意味

子游が武城の宰(取り締まり役人)となった。孔子先生が、有能な人物は得られたか、と仰った。子游は答えた。澹臺滅明(たんだいめつめい)という者がいます。道を進むにあたっては近道を選ばず、公務でなければ私の部屋にも来たことがありません。

──巻第三「雍也(ようや)第六」十四について

特にこれといって解説もないんですが、弟子の子游、ひいては孔子先生が評価する人物像が垣間見えますね。正々堂々とした振る舞い、上司におもねろうとしない公正な態度、それがこの、なんとも難しい名前の人なんでしょう。

澹臺滅明も孔子の弟子なんですが、孔子は最初、彼の容姿が醜かったことから軽んじていて、後に大成した彼に対して自省したという話が伝えられています。『論語』にはここにしか出てきませんし、諸説あり、本当に人名なのか、また本当に実在したのかも疑われていたりしますが、まあどうでもいいことですね。


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」十五

・だいたいの意味

孟之反(もうしはん)は(自らの功績を)誇らない。(軍が)敗走した際に殿を務めたが、(帰投して)まさに城門をくぐろうとした時に馬に鞭を打って、「あえて遅れ(殿を務め)たのではない、馬が進まなかったのだ」と言った。

──巻第三「雍也(ようや)第六」十五について

殿(しんがり)というのは、敗軍の最後尾として追撃を防ぎながら引き上げる、敗走時には最も危険で難しいポジションのことです。孟之反はこの殿を務めて、無事に帰投しながらも、あえてそんな大役を果たしたわけじゃないよ、自分の馬が走らなかったから最後尾になっただけだよ、と言ったわけです。

殿という重大な役を見事果たし、功を誇らない態度を孔子先生は評価しました。

孟之反、かっこいいですね。孔子先生と同時代の魯の人です。

渋沢栄一も孟之反を取り上げ、事業について語られています。

・公益財団法人渋沢栄一記念財団
デジタル版「実験論語処世談」(28) / 渋沢栄一
https://eiichi.shibusawa.or.jp/features/jikkenrongo/JR0280.html


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」十六

・だいたいの意味

祝ダ(しゅくだ)のような巧みな弁舌なく、宋朝(そうちょう)のような美貌しかないようであれば、今の時代、平穏無事に過ごすことは難しい。

──巻第三「雍也(ようや)第六」十六について

ここの読み方はいくつか説があって、
・弁舌がなくて美貌しかないと
・弁舌があっても美貌がないと
・弁舌があって美貌もないと
と、まちまちなんですが、結局のところ、口のうまさと容姿の美しさが揃っていないと世渡りに不自由する時代であることを嘆いた発言、とのことです。

孔子先生の言葉としてこれが正しいのなら、さっきの、孔子先生が澹臺滅明を見た目で判断して軽んじたって話は作り話なんでしょうね、たぶん。


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」十七

・だいたいの意味

誰でも外に出る際、戸をくぐらない者は無い。なのに、なぜこの道を通る者はいないのか。

──巻第三「雍也(ようや)第六」十七について

少し分かりにくいですが、前半の「戸」はリアルな戸です。戸口。家から外に出る際、戸をくぐりますよね。後者の「道」は、人の道、道理の道です。人が生きていく上で歩むべき道。出かける際に戸をくぐるように、生きていく上で当然この道を通るはずなのに、なぜこの道を通らないのかと嘆いています。


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」十八

・書き下し文

子曰わく、質、文に勝てば則ち野なり。文、質に勝てば則ち史なり。文質彬彬として、然る後に君子なり。

・だいたいの意味

素材が装飾を上回れば野卑である。装飾が素材を上回るのは文書を扱う役人だ。飾りと素質が調和して、はじめて君子である。

──巻第三「雍也(ようや)第六」十八について

史、出てきましたね。ここでは飾った文書を記録する役人という意味合いです。ダメな比喩に使われてガッカリです。(笑)

中国の史と日本の史は違うんですよきっと。知らんけど。

質は、素材、素質、生地、生来の資質。文は、あや、彩り、装飾、後天的に獲得したものです。

どちらが勝るのでもなく、上手くひとつの人格の中に溶け合ってこそ君子、と。

なお、文質彬彬(ぶんしつひんぴん)は、そのまま四字熟語として国語辞典に載っています。

・小学館『精選版 日本国語大辞典』
ぶんしつ‐ひんぴん【文質彬彬】
(「論語-雍也」から) 文明的なものと素朴なものとがうまく調和して備わっているさま。また、外見の美と実質とがよく調和しているさま。

個人的には、使ったことはもちろん『論語』以外で見たこともないですけどね。


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」十九

・だいたいの意味

人の生は真っ直ぐであるものだ。歪んだ生は、幸い難を免れているだけだ。

──巻第三「雍也(ようや)第六」十九について

人生というものは真っ直ぐであるのが本来の生き方で、歪んだ人生は、単に、偶然ラッキーで災難に遭っていないだけで、いずれ痛い目を見るだろう、と。

ラッキーなままに人生の最後まで逃げ切る輩もきっといるんでしょうけども、そんなこと言っても仕方ないので、真っ直ぐ歩みましょう。

真っ直ぐ生きたって、アンラッキーな災難に見舞われもするけどねっ。

孔子先生もきっと、そんなやりきれなさを感じることがあったんじゃないかと。そんなことがしのばれる一節じゃないですかね、ここ。


◎──巻第三「雍也(ようや)第六」二十

・書き下し文

子曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

・だいたいの意味

ものごとを知っている者は、そのものごとを好む者に及ばない。ものごとを好む者は、そのものごとを楽しむ者に及ばない。

──巻第三「雍也(ようや)第六」二十について

孔子先生のことですから、「これ」というのは、人としての道、君子の道や、学問などのことなんでしょうけど、趣味でもなんでも言えることですね。

面白いのは、「知る」と「好む」の差はともかく、その上に「楽しむ」があるというところで。「好む」と「楽しむ」の違いは考えさせられますね。

なんとなくですが、「好む」のほうは、まだ頭で考えて選択してる感じです。「楽しむ」のほうは、選択だの価値判断だのって域を超えているというか。

「好きだから○○します」という理性的判断じゃなくて、「たーのしー!」と、理屈じゃない領域といった感じ。

なかなか上手い喩えが思い浮かばないんですが、お祭りが好きでよくお祭りに出向く人と、岸和田でだんじり曳く人や博多で山笠担ぐ人の差、みたいな?阿波踊りで、見る阿呆と、踊る阿呆の差、みたいな?

喩えておきつつ、私はそういうお祭りはあまり好きじゃないです。(笑)伝統文化としての側面は好きですけどね。騒がず、読書が楽しいです。


◎──今回はここまで。

次回には、巻第三「雍也(ようや)第六」が終わりそうです。全十巻なので、道のりはまだまだ長いですが、完走目指して進みます。スッスッ、ハッハッ!


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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スッスッ、ハッハッ……いだてん金栗四三さんが走る時の呼吸法です。