エセー物語(エッセイ+超短編ストーリー)[35]朝(あした)の話・水色の散歩道/海音寺ジョー

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◎朝(あした)の話

最近、美食問題を考えている。巷にある名歌セレクションとか名句アンソロジーを読むと、良い歌・良い俳句にどっぷりと浸ることができる。

ネットでも甚大なアーカイブ(貯蔵庫)がある。各新聞紙にもウン十倍の競争率で選び抜かれた、秀歌佳句が週ピッチで掲載される。加えて総合誌と呼ばれる専門の月刊誌、季刊誌などが大量に良い言葉を……と、もう例え毎日の睡眠時間3秒にしても読み切れたものではない。

このことがインフレをもたらすと思うのだ。例えば、新人の歌人の方が失恋の悲しみを歌に詠んだとする。するとその歌を読むぼくは、またこのパターンか、と感じてしまう。

言葉が消費され尽くされて、その人にとっては真剣そのもののかけがえのない言葉だったとしても、その慟哭が感じ取れないのだ。心が言葉に慣れ、鈍化してしまって。これをぼくは短歌の美食問題と定義している。





単純な、ありきたりの言葉で編んだ詩は、じゃあ低得点、価値がないのかと言えば、そんなはずはねーだろ、と反発心が湧く。美食に慣れきった評者選者に読んでもらうために、技術とか工夫とか「枠」の部分を異常発達させざるを得ない現況に、一条の光のようなヒントが欲しい、と思った。

去年新宿の砂の城で、屍派最年少コンビに会う機会があり、俳句甲子園のことを有紀さんと望さんに聞いてみた。

「相手のチームはとてもふざけた句で勝って、それが悔しかった」「こちとら考えに考えて、練りに練ったガチ真剣な句で臨んだのに」と、当時のことを思いだしたのか、キッとなった表情で話してくれた。

朝(あした)は、才守有紀と新妻望の二人で構成される俳句短歌ユニットだ。有紀さんが俳句、望さんが短歌担当である。文芸活動メインだが、ライブで歌も歌う。あとで聞いたのだが、もともと高校の軽音楽部で知り合ったのが、朝結成のきっかけだったとのこと。

ところで、急に話を変えてなんですが、流れ星って見たことありますか?これまで50年近く生きてるけど、ぼくは一回しかない。しかし高校生の頃、鳥取県・大山登山の修学旅行で宿舎に泊って、その高原で「あっ、見えた!」と誰かが叫んだので、自分にも見えた気になったのかもしれない、程度の「見た」である。

それは見たことになるのだろうか? しゅっ! と流れ去る光の軌跡が見えた、気になっただけなのでは? あるいは見えたとしても、それは実際の星じゃなくて、花火や夕陽の残像のようなものでは? と考えていくと、星が定点から任意の位置まで動くまでの「時間」を見ることなんて不可能じゃないか、と思えて来る。

いったい、自分はこの世の何を覚知でき得てるのだろう? と、足場を見失っておぼつかなくなる。

「朝」の二人が同じような喪失感を抱いたのかどうかは知らないけれど、卒業文集のようなものを出そうと、どちらかが言い出したか、両者が同時に思いついたのだろう。2018年、「朝(あした)」という冊子が出来た。高校卒業記念と銘打って、プリントして希望者に配布した。その一部が、僕のところにも縁あって届いた。

もらった夜に、通読した。掲載されていた作品はとても良かった。何がどう良かったかというのを克明に訴えたいのだが、技術的なことはどう伝えてよいかわからない。説明がしづらいことはないのだが、ただ静かな熱を感じた、熱に圧迫されたというのが一番正確な感想だ。

その熱は情熱というやつだろか? そんなわかりやすい、熱血っぽいものではない。もっと斜に構えている。正面衝突は避けるが戦いには勝ちたい、というような粘着的な熱だ。現代的で、現実的な。深海で眠っている燃える氷・メタンハイドレートのような、埋蔵量が未確定の熱源。二人の句作、歌作に、そういう印象を受けた。

ただ生きることしか能のないぼくが一番弱い理由を言えよ

「朝」所収の、新妻望さんの歌。ぼくはこの歌が、ミニ文集の中で一番好きだ。音読する時は、叫ぶ。叫ぶように読むのが、最も正しいと思う。望さんにとって、学校ってどういう場所だったのだろう?

周りに好きな者同士のグループが自然発生的に形成されていった時、どれかに属さなければという強迫観念が生じるけれど、属すことに成功してからでも常に疎外感と同居している、ぎこちない不安がなかっただろうか。

そんな途切れない不安の海中から、渦(うず)のように逆巻いてくる咆哮だと思った。

手の甲を破れば蛇の生まれくる

「朝」所収の、才守有紀さんの句。この文集で、一番不思議な句だった。4月に砂の城で本人に尋ねてみたら、これは自傷のことだと教えてくれた。そういう喩えだったのか。ただ変異のことを、文字通りに想像した。

蛇は、蛇だけだと夏の季語だが、蛇穴を出づとすると春の季語になる。この不穏。春の愁いと同期したような狂気が、やたら説得力がある。この俳句から、やはり有紀さんの高校生活の事を想像する。

二人にとって、言葉は逆境を抜ける為の大切な鍵なのだろう。もっと言葉の上手な使い手はいる。何人もいる。だけど、彼女らは彼女らの戦い方を掴んでいて、さらに磨きをかけようとしている。

先に書いたような名歌、名句の数々。そういう過去の宝石群の輝きに目をやられているぼくにとって、一つの回答を「朝」から得られた気がした。

自分が読みたいと思う、最高の傑作というのは、まだ不確定の靄(もや)の中なのだ。一番ぼくが見てみたいのは今からこの世に生まれる、未明暗黒の空から降りてくる、まだ誰も見たことのない言葉だ。

「朝」VOL.2は、2019年4月末に刊行予定だという。


◎水色の散歩道

「散るが愛しい」詩人にそう言われて赤色は削ってもらってて、水色にはそれが面白くない。水色は詩人が大好きであったので、自分も削ってもらいたかった。紫色はクールに、水色の羨望に満ちた顔を無表情で観察していた。

まったく詩人に触られたことのない白色は、水色に少なからぬ同情を抱いた。長身を起こし、「気散じに、ちょっと出ないか?」と誘いの声をかけた。白色に連れ添うようにして、水色はコロコロと一緒に転がっていった。

白色と水色のささやかな反逆を、赤色や青色や茶色は他人事として横目に眺めていた。しかし黒色は薄目をあけて、白色と水色が何処まで行くのかを、静かな情熱をもって見届けようとしていた。

黒色の瞳は、他のすべての色を真っ直ぐに見据えることに長けていた。他は皆偏った見方しか出来なかったが。

白色は机のわきのゴミ箱に落ちてしまったが、水色はまだ勢いを残し、階段まで達し転がり続けていく。皆気づいてなかったが、黒色はずっと目で追っている。見えなくなってもカン、コンと水色の足音を聴いている。

(500文字の心臓タイトル競作「水色の散歩道」応募作品)

(付記)屍派、砂の城については、拙バックナンバーの「城に泊まった話」に詳しく載ってます。

「朝」VOL.2、どなたにも予算の限界部数まで無料配布してくれるとのことなので、気になった方は「朝」のツイッターアカウントをチェックして下さい!

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