Otaku ワールドへようこそ![306]意識に身体は必要か/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:31分(本文:約15,300文字)



意識にまつわる議論の足場を固めるべく、前回、「脳(だけ)エージェントモデル」を提唱した。その続き。なんだか論文めいてきた。

●つまらない話ですが

今回のは、まあ前回のもそうだけど、最後まで読んでも「つまらない」ことしか書いていないことをあらかじめ保証しておく。

自覚があるんだったら、さっさと引っ込めて、もっと面白いことを書け、と怒られそうだが、そういうことではない。面白いことを書く才能がないんだから、しかたがないじゃないか。って、いやいや、そういうことでもない。まあ、才能はないけど。

お土産を渡すときに「つまらないものですが」と謙遜するのは、最近だと字義通りに解釈するヤツが増えてきて、成立しづらくなっている。って、いやいや、謙遜して言っているわけでもない。





じゃあ、どういう話か。数理体系を築こうとするとき、まずは定義から入るのが常套である。数学というのは自由自在に遊ぶことのできる抽象概念の世界であり、体系内部で矛盾を引き起こさない限り、何をどう定義してもよいことになっている。

これから何か抽象世界を話題に上げようとしているならば、その世界とはこれこれこういうものですよ、と定義しておかないと話が始まらない。体系内部で矛盾を来たすような世界を定義してはいけないのだが、その体系と我々が生きているこの実世界との間では、整合性がとれていなくてもぜんぜん構わない。

1足す1が2にならなくてはいけないなんていう法律はない。ある世界に数は0と1しかない、ってことにして、

  0 + 0 = 0
  0 + 1 = 1
  1 + 0 = 1
  1 + 1 = 0

ってことにしておけば、これでひとつの体系ができている。新しく世界を定義するのだから、演算結果なんて好き勝手に決めてよいのだが、上記の例では割と良心的に取り決めてある。この世界には単位元が存在して、それは0であり、0には逆元が存在してそれは0であり、1には逆元が存在してそれは1である。この世界は「2を法(modulo)とする剰余群」と呼ぶことができ、数学では市民権を得ている。

何が何でも我々が住んでいるこっちの実世界に持ってきて理解しなければ気が済まない、という人はいるかもしれない。例えば0を角度の0°だと思い、1を角度の180°だと思うことにして、360°になったらそれは0°と同じことだと思うことにすれば、感じがつかめるかもしれない。でも、そういう理解のしかたって重要なのだろうか。そうとも言えるし、そうでないとも言える。

多種多様に構築しうる抽象世界として、いま定義したあるひとつの世界において起きていることを、こっちの現実世界の出来事にたとえていうと、どういうことになりますか、と聞きたくなる気持ちはよーく分かるし、うまいたとえがあれば理解が進むのは確かなのだが、まあ、そううまくいかないときもある。あっちの世界のことは、あっちの世界に住んだつもりになって、その中で理解したほうが早い、ということがある。

1足す1は2になると決まっているのだから、そうならない世界なんて考えても無駄である、と主張する人がいるかもしれないが、私からコメントするとしたら、それも思想の自由、というか、思想の不自由を選択する自由というか、そんな窮屈な現実世界にみずからを縛りつけて生きるのも、まあ生き方の選択肢のひとつでしょうね、としか言いようがない。

こっちの世界では平行線は行けども行けども交わらないが、平行線が交わる世界というのを試しに想定してみてもよい。上手に定義すれば、内部で矛盾を来たさないように世界を構築することができるし、そういう世界は、実は何種類もある。非ユークリッド幾何学である。

また、この世が3次元だからといって、4次元や5次元や無限次元の空間を定義してはいけないということはない。世界なんていくらでも作れちゃうのだ。

さて、世界を定義したら、そこから一分の隙もない論理を駆使して、演繹的に推論する。その結果、なんらかの正しい命題にたどり着き、その命題が計算途中のようなごちゃごちゃした形ではなく、ある種のシンプルさを備えているとき、この命題を定理と呼んでよかろう。世界の定義から定理に至るまでの論理の道筋が、この定理の証明である。

ここまで論を進めることができれば、「面白い」話になる。そこまでたどり着かなかったとしても、問題提起だけして逃げるというのはアリだ。これこれの命題は成立するでしょうか、成立するなら証明してください、成立しないなら反例を挙げてください、と投げておく。その問題が考えるに値するものであれば、じゅうぶんに「面白い」。

問題提起したついでに、私は答えを知っているけど、余白が狭すぎて書ききれない、などと思わせぶりなことを言い残して、後の人が360年にわたって苦労させられたという実例もある。挙句、言い出しっぺは実は解けてなかったんじゃないか、なんて嫌疑をかけられたりしているが、真相は誰にも分らない。

もし、定義だけしてみたものの、問題提起も定理の提示もありません、ってことになったら、これは正真正銘「つまらない」。そりゃあ、誰が何をどのように定義したってかまわないけど、その先が何もないんですかい? とツッコまれて、ぐうの音も出ない。

今回の話が「つまらない」と言った、そのつまらなさの意味は、これである。「科学的知見として実りを収穫するまでには至らない」ぐらい。

では、なぜ、わざわざつまらない話をするのか。その意図は、議論を整理したいから。

人類がまだ正解を知らないような問いについて論考するとき、いくつもの仮説が提示されてよいし、どの仮説を支持するかは人によってバラバラであってよいし、相異なる仮説を支持する者どうし、活発に議論しあうのはよい。

ただし、その議論が楽しかったり意義深いと感じられたりするのは、話がかみ合っている限りにおいて、である。議論がかみ合わず、どこにすれ違いポイントがあるのかさえ見えないような泥沼にはまると、何も生み出さない不毛感に悶絶し、議論そのものがエネルギーの浪費にすぎなかった徒労感でへとへとに疲れる。

意識の問題について論じようとするとき、とかくこの沼へハマりがちだ。議論がかみ合わないと言ったって、お互いふつうに生活できている以上、ここまでは合意できるよね、というベースはあるはずで、ここから考え方が分岐していくね、という分岐ポイントがどこかにあるはずだと思う。それを発見したいという狙いがある。

なので、ここまでは万人が納得するよね、というアタリマエのことを、まず言っておきたいのである。

●分かりづらくてすいません

あと、分かりやすさという観点からすると、あまり親切ではないかもしれない。以前にも書いたが、「連続」とはどういう概念かを説明するのに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とやれば分かりやすいかもしれないが、厳密ではない。

一方、ε(イプシロン)とδ(デルタ)を使って論理式で表現すれば、厳密ではあるが、解読するだけでも一汗かかされる。分かりやすさと厳密さとは両立しないことがしばしばあるのだ。コンフリクトしたときは後者を優先したい。

●登場人物、整列! 前へならえ!

前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。やりたいことは、とかく混乱しがちな意識にまつわる議論を整理したいということ。オープニングでは、登場人物たちに、まず、顔だけ見せてもらっておこう。

最初に、客観世界と主観世界とを区別しておく。客観世界の住人として登場するのは「(物理)宇宙全体」、「一個体」、「(一個体の)身体」、「(一個体の)脳」である。主観世界の住人として登場するのは、「心」、「意識」、「無意識」である。

まずは、客観世界の住人である「宇宙全体」と「脳」について、モデルを定義しておきたい。これは、前回の復習である。

●前回の復習:脳(だけ)モデルを定義する

前回、「脳(だけ)モデル」を定義した。ざっと振り返ってみよう。

(定義 1)考える対象の全体は、物理的な実在としての宇宙全体とする。これをUと表記する。

(定義 2)全宇宙Uをある特定の領域とそれ以外の残り全部の領域という2つのパートに切り分けて考える。前者をBと、後者をB'と表記する。特定の領域Bは任意に定めてよい。Bを「エージェント」と呼び、B'を「環境」と呼ぶ。

UがBとB'とに切り分けられたことを、集合の式で表せば、下記のようになる。

U = B ∪ B'
B ∩ B' = φ
ただし、φ は空集合。

Bは、その3次元領域さえきっちりと特定できるのであれば、何であってもよい。時間推移によってBは位置が移動したり形状が変化したりしてよいが、B'との境界面が崩れて中と外とが混ざっていってはならない。

Bは概念的な対象物であり、栄養分の取り込みや老廃物の排出といった、物質の出入りはあってもよい。Bは何でもよいのだから、その一例として脳を取り上げたってよかろう。

(定義 3)BとB'との相互作用の手段には、ビット列の同時並行的な入出力があり、それ以外には何もないものとする。B'からBへ渡るビット列を入力信号と呼び、BからB'へ渡るビット列を出力信号と呼ぶ。

(定義 4)1/100秒を1単位とする等間隔に刻まれた離散時間を導入する。

(定義 5)Bは出力信号をすべて決めることができる。しかし、Bは入力信号をどれひとつとして直接的に決めることができない。

(定義 6)初期状態において、Bは、B'に関する情報を何一つ保持していないものとする。

以上が、「脳(だけ)エージェントモデル」である。詳しくは、前回のを参照してください。
『脳エージェントモデルという枠組みで意識を捉えなおす』
http://bn.dgcr.com/archives/20190531110100.html

ここまでのところ、論理的な観点からすれば、問題はひとつもないように思う。内部で矛盾を引き起こさない限り、誰が何をどう定義してもよい、という原則に則り、世界を脳とそれ以外に分けて捉えるモデルを定義した、ってだけの話である。

●個体と身体についても同様にいける

客観世界の4人の住人「(物理)宇宙全体」、「一個体」、「(一個体の)身体」、「(一個体の)脳」のうち、「宇宙全体」と「脳」のモデルの導入が済んだので、残るのは、「一個体」と「身体」である。これは、前のモデルにおいてBの具体例を差し替えるだけで済んでしまう。

Bは何でもよかったので、その一例として、今度は「一個体(individual)」を採用する。一個体としては、一人の人間であってもよいし、一匹の猫であってもよいし、一体のロボットであってもよい。

一個体にもし脳が備わっているのだとしたら、その脳はその個体の一部をなしているはずである。一匹の大腸菌とか、一本の松の木とか、脳に相当するものがあるんだかないんだかよく分からないやつは、ちょっと脇に置いておこう。

集合の式で書けば、こうである。

(一個体の脳) ⊂ (一個体)

一個体から、その脳を除外した、残りの部分を身体と呼ぶことにしよう。
すると、こうである。

(一個体)=(一個体の脳)∪(一個体の身体)
(一個体の脳)∩(一個体の身体)= φ

一個体から脳を除外した残りの部分をもって身体の定義とする、ということにしておけば、それ自体、明確で問題ないが、別の流儀として、脳を身体の一部とみなすという考え方もある。考え方としては否定しないが、用語の定義としては、「身体」に脳を含むバージョンと含まないバージョンが出てきてしまい、混乱の元になりかねない。含まないほうを「脳外身体」とでも呼んでおくか。

しかし、このモデルの中で、脳を含むバージョンの身体を考えると、それは個体と同じことになってしまう。もろもろ鑑みて、本稿に限っては、「身体」と言えば、脳を含まないバージョンのほうを指すものとしておく。

これで、客観世界側の役者が出そろった。まとめると、物理宇宙全体は一個体とその他とに分けることができ、一個体は脳と身体とに分けることができる。

このまとめを読んで「そんなのあたりまえじゃん」と思われた方には、そこに至るモデル化の長ったらしい話は必要なかった。「そんなところで切り分けるのはけしからん」と言う人がいるかもしれないことを想定して、論理的にはどんなルールにも違反していませんよ、問題ないでしょ、というのを示したかったのである。あたりまえのことしか言っていないけど、それをあえて言う必要があったということ。

客観世界をモデル化するのは、比較的簡単であった。次は主観世界なのだが…。

●意識が登場するといきなりつまずく

話題の俎上に載せたいのは、ほかならぬ「意識」なのであるが、こいつはなかなかやっかいなやつで、登場しただけでもう大混乱を巻き起こしかねない。

やっかいさの元凶は、意識とは何かについて、科学の言葉でまだちゃんと定義できていない点にある。これが定義できたら意識の謎が半分解けたも同然だとも思える。

「フェルマーの最終定理」や「ABC予想」のような数学の問題は、解くのが困難ではあるけれど、問い自体は明確に立てられている。意識の謎は、それとは違い、そもそも意識とは何であるかがよく分からないというところから問題が始まっている。

われわれ自身は「意識」という言葉が何を意味しているのか、概念的には分かっているような気がしているかもしれない。しかし、それは、意識を備えた主体である人間が、その意識を使って、意識という概念を理解しているので、その成り立ちからして循環論法の香りがぷんぷん漂う。定義文の中で、定義したい対象を使っちゃいかんのだ。

試しに「意識」を辞書で引くと「心が知覚を有しているときの状態」とある。「心」は「人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの」。「知覚」は「感覚器官を通して外界の事物や身体内部の状態を知る働き」。循環していないのは大したものだと思うけど、じゃあ、意識と心との関係性はいったいどうなっているのかと考えると、よく分からなくなってくる。

意識について科学的な視点から論じる書物などでは、意識は「主観的な体験」のこと、とされている。Wikipediaには「現象的意識」という見出し語があって、「現象的意識(phenomenal consciousness)は、人間の意識という言葉に関する区分のひとつで、質的な内容を持った、主観的な体験のこと。現象的意識に含まれる個々の質感のことをクオリアと言う」と説明されている。

これは言い換えにすぎない。試しに猫をつかまえて、「主観的な体験はありますか?」と聞いてみたとしても、せいぜい「にゃあ」という答えが返ってくるくらいで、これでは猫に意識が宿っているかどうかの判定には使えないだろう。

意識のあるなしを判定しようとするならば、クオリアを持ち出してくる流儀がある。定義にはなっていないまでも、Wikipediaに載っている説明は分かりやすいと思う。

---(ここから引用)-------

簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される。例えば波長700ナノメートルの光(視覚刺激)を目を通じて脳が受け取ったとき、あなたは「赤さ」を感じる。このあなたが感じる「赤さ」がクオリアの一種である。

人が痛みを感じるとき、脳の神経細胞網を走るのは、「痛みの感触そのもの」ではなく電気信号である(活動電位)。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係があるだろうものの、痛みは電気信号や脳の状態とは別のものである。クオリアとは、ここで「痛みの感覚それ自体」にあたるものである。

---(ここまで引用)-------

クオリアがひとつでもあれば、それをもって意識があると判定しよう、ということにしている。

視覚クオリアがあるかどうかは、錯視が見えるかどうかをもって判定できる。錯視は、静止画像や動画に対して、客観的にはこうなっているという現実の姿とは異なって見える現象である。目の錯覚。

錯視の一例として「両眼視野闘争」がある。どう解釈しても立体視することが不可能な 2 枚の画像、例えば、縦縞と横縞の一方を左目に他方を右目に見せると、どちらか一方だけが見えていて、適当なタイミングでぱっぱと切り替わる。そのタイミングは、人それぞれ、ばらばらである。

画像のほうは時間的にまったく変化していないので、この切り替わって見える現象は、純然たる主観の側の作用によって生じたものである。

動物をトレーニングするなどして、どんなふうに見えているかを報告させ、その報告を信じることにすれば、錯視が見えているかどうか判定できる。サルは両眼視野闘争を起こすことが知られている。上記のロジックにしたがえば、サルにも意識がある、ということになる。

また、「蛇の回転」と呼ばれる画像は、静止画像なのに、ぐにょんぐにょん回転しているように見える。これに猫がじゃれつくことから、猫にとっても、動いて見えているらしいことが分かる。マウスは、ビジュアル・バックワード・マスキングという錯視を起こすことが知られている。

便利な判定方法を編み出したもんだと思うけれども、同じ判定方法をコンピュータに適用してよいかとなると、ものすごーく慎重を要する。

2019年06月06日 22:23
ScienceTime
【認知】錯視を知覚するのはヒトだけではない。猫も、そしてまた人工知能も、錯視を知覚する!
http://sciencetime.seesaa.net/article/466639202.html

これ、すっと読むと、ついにコンピュータにも意識が宿ったか、と思えてしまう。いやいや待て待て。

私は、下記の2つは別のことであり、区別すべきものだと思う。
(1)与えられたある画像について、人間がそれを見たときにどのような錯視を起こすかを、コンピュータが正しく予測した
(2)コンピュータに視覚クオリアが宿った

上記記事に書かれている内容は、(1)に相当するにすぎないだろうと私はみている。そうでないと大変だ。

しかし、そこをちゃんと区別するためにも、「錯視が見える」とはどういうことかを、もう一歩踏み込んで定義しなおさなくてはならないと思う。

いろいろややこしくてたまらないのだが、一番大事なのは、意識がまだ科学側からちゃんと定義できていないって点である。意識をめぐる議論が混乱に陥ったとき、お互いに意識を何だと思っているか、そこからしてズレている可能性があるという点に注意が要る。

さて、主観世界側には登場人物があと二人「心」と「無意識」がいる。

ちなみに、「心」は英語で何と言うか。日本人の多くは"heart"と答えそうだが、ここで言っている心は"mind"である。「無意識」のほうは、"unconsciousness"と言うと気絶して意識がないほうになってしまうので"subconsciousness"を使う。

●意識よりもいっそうやっかいな心と無意識

意識はまだよかった。科学的に定義できないまでも、一般的な言葉でああだこうだ説明していくうちに、なんとなくそのイメージが形成されてくるものであった。

ところが、心とか無意識の領域に立ち入ると、もうどこからどこまでがそれなのか、わけが分からなくなってくる。

脳科学や心理学の一般的な用法としては、心、意識、無意識の三者の間が、

(心)=(意識)∪(無意識)
(意識)∩(無意識)= φ

という関係になっているようである。実際、Wikipediaには「無意識」という見出し語があり、「心の中の意識でない領域」と説明されている。これは、上記の集合の式で言っていることと同じである。

これを採用したとしても、これだけでは、心が何であるかと無意識が何であるかが両方とも決定できるわけではない。どちらか一方が定義されるか、あるいは、関係性がもうひとつ提示されるかすれば、両方とも決まるかもしれない。

じゃあ「心」とは何なんだ。Wikipediaには「心」という見出し語があり、次のように説明されている。「心は非常に多義的・抽象的な概念であり、文脈に応じて多様な意味をもつ言葉であり、人間(や生き物)の精神的な作用や、それのもとになるものなどを指し、感情、意志、知識、思いやり、情などを含みつつ指している」。いろいろ例示してみせたところで、言葉の指し示す範囲がどこまでかを限定する輪郭線が引けてなくて、すっぽ抜けてるよね。

正直なところ、私はこの領域にあまり踏み込みたくない気持ちがある。心については、フッサールの「現象学」などの哲学や、精神分析学・心理学などで連綿と論じられてきた。議論が深まってきた歴史はあるのかもしれないけれど、私は全体をひっくるめて「どうもなぁ」と思っている。

主観の側から主観を論じると、いろいろ言えはするけど、とりとめなく何とでも言えちゃうので、結局、白黒はっきりさせる手段に乏しくて、絶対的に確かなことは何も言えないのではないかという不信感が払拭できずにいる。酔っ払いが「オレは酔ってないぞ」と言ってるようなもんではないかと。

哲学全般に対して不信感を抱いている私であるが、その一ジャンルである「心の哲学」にはある程度の信頼を置いている。扱う対象は主観世界でありながら、なるべく客観的な視点から問題や思想を整理しようとする姿勢が好ましく感じられる。しかし、心の哲学においては、関心対象が意識にフォーカスされているようで、無意識領域も含めた心全般について、積極的に定義しようとしたり、考察対象としようとしたりする姿勢があまり感じられない。

無意識のなんたるかは、ほんとうに、よく分からない。「意識が宿る」とか「意識がある」とは言うが「無意識が宿る」とか「無意識がある」という表現はあまり聞かない。無意識は宿ったりあったりするものですらないのか。

電卓は、自分自身がいまどんな計算をしているのか意識していないと思うが、ではそれは無意識なのか? でも、それを無意識と認めちゃうと、電卓に心があることを認めることになりはしないか?

定義できないどころか、概念の範囲の輪郭すら見えないのであれば、やっぱりあまり触りたくないなぁ。

一休さんから知恵を借りてきて、「びょうぶのトラ」方式でいきたいと思う。一休さんはお城に呼ばれ、殿様から「びょうぶに描かれたトラを縛り上げてくれ」と言われた。答えていわく「トラをびょうぶから追い出してください。すぐに縛ってご覧に入れます」。

それだそれだ。「心と無意識を定義してください。そしたら、論考してご覧に入れます」。

ここまで、客観世界の言葉と主観世界の言葉とを混ぜないように気をつけて、慎重に土台固めを進めてきた。さて、"frontier"を「辺境」と訳すか「最先端」と訳すかでだいぶ印象が異なるのは置いておいて、科学のフロンティアにおける超ムズカシイ問題は、往々にして、客観世界と主観世界とにまたがった領域において提示される。

「意識のハードプロブレム」もそのひとつだ。世界を理解しようとする上で、基礎の基礎にあたる根源的な問いに限って、科学ではまだ解き明かされていないのだ。たいへん不安になる。

正解はたぶん誰にも思いつかないようなところに埋まっている。いつか大天才が現れて、突拍子もない発想で理論をひねり出してくるのかもしれない。

望月新一氏(京都大学数理解析研究所教授)の「宇宙際タイヒミューラー理論」みたいなことになっちゃうのだろうか。望月氏はこの理論でABC 予想を証明したと主張するが、理解できる人間が世界中に一人もいなくて、肯定も否定もされないまま 9 年近く経つ。

●意識のハードプロブレム

「意識のハードプロブレム」についてはこれまで何回も述べているけれど、今回、議論を整理するのが目的なので、もう一回、述べておきましょう。

われわれの脳といえども、物質であることには違いない。物質であるからには物理法則に厳密にしたがうはずである。言うなれば、機械のようにしか動作しようがない。それなのに、その“機械”の上には、いったいどのようなメカニズムによって意識が宿るのか。これが「意識のハード・プロブレム」である。

脳という“機械”の上に現に意識が宿っているのだとしたら、人工物としての本当の機械の上にも宿りうるのではないか。これが派生問題。

私の考えでは、意識のハードプロブレムが終止符を打つのは、下記3つのうちいずれかひとつの状態に至ったときである。
(1)人工物の上に意識を宿らせることに成功し、意識がちゃんと 宿っていることが何らかの手段で確認できている
(2)そのようなことは原理的に起きえないことが証明されている
(3)原理的には可能かもしれないが、実際的にはほぼ不可能とあきらめがついている

意識のような得体の知れない対象について、その正体を明かそうとするとき、その対象をよくよく観察してみようというアプローチは正攻法ではあるが、それ以外にも(1)のように、人工的に作って動作させてみることによって理解を深めようとするアプローチも考えることができ、これを「構成論的アプローチ」という。

私の勝手な予想だが、構成論的アプローチをとるにしても、まず、意識の生じるメカニズムを理論的に説明づける、ほぼ確信に近い仮説が立っている必要があり、それがあって、しかる後に、その理論を機械に適用するという手順を踏んで初めて実現するのだと思う。いろいろごちゃごちゃと試行錯誤しながら手を動かしていくうちに、なんかそれっぽいものがだんだん出来てきた、という可能性もなくはないけど、確率的に非常に低いとみている。当てずっぽうにそこらへんを掘ったら、金脈に当たる確率、ぐらいの低さで。

闇雲な試行錯誤ではどうせうまくいきゃしないのだが、そのうまくいかないという現実と、本当はこうなってほしかったという理想との間のギャップを直視することで、どんな要因が足りていないのかがみえてくるはずである。問いをさらなる構成要素に分解する手段としては有用であろうとみている。構成論的アプローチの狙いがここにあるというのなら、大いに納得がいく。

確信に至るほどの根拠はないけれども、私は、意識の謎はとんでもなく根が深いとみていて、終結までには少なくともあと 300年はかかるだろうとみている。現時点で学者先生方の意見がばらんばらんで、どの山に登ったら宝が埋まっているだろうかと、ふもとで議論しているような調子なのだから。

●意識に身体は必要か

「意識に身体は必要か」。これについては、前回も同じ見出しを掲げて自分の立場を表明した。この問いこそが、2回を通じての本題である。今回は、少し補足しておきたいと思う。

この問いもまた、主観世界と客観世界とにまたがった領域に位置している。意識がちゃんと定義できていない以上、問いもちゃんと立てられたものになっていない。しかし、意識の定義が不完全であるにしても、いちおうそれが何であるか説明することはできた、ということを受け容れるならば、問いもまた、意味は分かる、程度に受け入れることができるのではなかろうか。

この問いに対して私がどのような立場をとるかは前回述べたとおりで、2週間で撤回ということはないのだが、問い自体の土台が盤石ではないのだから、答えに関する自分の立場への確信度なんて、吹けば飛びそうな程度のもんである。現時点では、ここらへんを支持しておくのが自然なんじゃないかなぁ、くらいの緩~い感じである。

なので、他の立場があってよい。ただ、私自身は、乗り換えたほうがいい理由が今のところ見出せていないので、もしあったら教えていただけるといいなぁ、と思う次第である。

で、私は、意識は脳に宿る、という立場をとる。根拠のひとつは、前回書いた通り、「意識に相関した脳活動(Neural Correlates of Consciousness; NCC)」についての研究がすでにあることである。下記の本でも解説されている。

渡辺正峰(著)『脳の意識 機械の意識 ― 脳神経科学の挑戦』
中央公論新社(2017/11/18)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121024605/dgcrcom-22/

また、夢をみることができるということは、視覚信号が脳に送り込まれていないときでも視覚クオリアが発生していることを示している。つまりは、BとB'との間の入出力信号がなくても意識が生じていることになり、意識は脳に宿ると考えてよいのではないかと思う。

意識に関連する仮説として、カール・フリストン氏の「自由エネルギー原理(Free Energy Principle; FEP)」とジュリオ・トノーニ氏の「統合情報理論(Integrated Information Theory; IIT)」があるが、どちらも身体にはろくに言及していない。

前者は、エージェント対環境のモデルをベースにしており、エージェントとは何を指すかを明言していないものの、おそらく一個体を念頭に置いていると思う。そうだとすると、身体はエージェントの内部にあることになる。

身体の機能のひとつは、環境から情報を得るセンサーとしての機能。もうひとつは、ものを別の角度から眺めなおしたり、手を伸ばして触覚を獲得しにいったりする行動を起こすことによって、環境に作用する機能。いずれも身体の役割は外界とのインタフェースにすぎず、外界のありようを推測するモデルの本体としての役割は与えられていないようにみえる。

後者は、脳神経細胞のシナプス結合によるネットワーク構造の上に意識が宿るという仮説の下、その量や質を数理的に同定しようとしている。身体の役割についてはまったく触れていない。

なので、私自身、意識を考える上で、身体については大して考慮に入れてこなかった。

ただし、発達の段階で、意識が宿るようになるまでの過程で、入出力ビット列が必要だったはずだと、ほぼ確信をもって考えている。ビット列の出入りがまだひとつもない段階においては、脳は意識を宿す潜在能力だけ備わっていて、意識そのものについてはろくなものが宿っていなかったであろうと考えている。

視覚クオリアであれば、あったとしても、形のない抽象的なもや~っとしたものであろう。視覚情報を載せたビット列が入ってきて、脳がそれを処理できるようになって初めて、脳は明瞭な視覚クオリアを形作ることができるようになるはずだと思う。つまり、視覚クオリアが形成されるまでの発達の段階においては、目に相当する何かが必要であろうと考えている。

「脳エージェントモデル」において、脳Bと(身体も含めた)外界B'との間の連絡手段はビット列の入出力以外に何もないので、視覚信号を送り込んでくる神経の元に本物の目があるかどうかを直接的に確認しに行く手段は何もない。なので、シミュレーションで生成したニセモノの世界を「見た」ことに相当する視覚情報ビット列を送り込まれたら、脳はそんな世界が実在すると信じ込む以外にない。これが「水槽の脳」である。

水槽の脳において、本物の身体はどこにも実在しないが、しかし、脳に五感のクオリアは宿るはずである。つまり、私の立場は、クオリアがちゃんと形作られるためには入出力信号が必要であるが、それが実在する本物の身体とのインタラクションである必要はなく、シミュレーションであってもじゅうぶんに成立するものと考えている。

アントニオ・ダマシオらは、意識の生成を脳だけで説明しようとする理論では不十分なところがあり、脳に加えて身体まで含めた総体のダイナミックな相互作用が意識や心という現象を作り出しているとすべきだ、と指摘している。「ソマティック・マーカー(somatic marker)仮説」というらしい。

私はダマシオの主張をちゃんと理解しているわけではないので、自分の立場と相容れないのかどうかも判然としない。ダマシオは意識は脳と身体とにまたがって宿る、とまでは主張していないと読めるが、実際のところはどうなのだろう。理解しようとすると「情動」という新しい登場人物を迎え入れなくてはならず、ちょいともう自分の容量の限界という感じもしている。

私の立場では、発達段階まで考慮に入れたとしても、意識それ自体は、一貫して脳に宿るものと考えている。

現時点では、この立場に立つことが苦しくなってくるような事象としてどんなものがあるのか、よく知らない。なので、立場を変える必要性を特に感じていない。しかし、私はただ正解を知りたいだけであって、自分の立場を何が何でも守り切ろうという姿勢はないので、何か決定的な事例を示されて、行き詰まりを感じたら、さっさと乗り換えるつもりである。

自分のとっている立場にさほどの確信がない以上、異なる立場を認めないということもない。「意識は脳と身体にまたがって宿る」という仮説についても、ハナっから否定してかかっているわけではない。

ただ、脳だけあれば十分説よりも、そちらのほうが見込みが高そうだとしたら、その根拠として何があるのか、見えていないので、ぜひ知りたい。

話題を変えて、「無意識」については、私はこれまでほとんど考えに入れてこなかった。漠然と次のように捉えているにすぎない。

意識と無意識を総称して心と呼ぶことにすると、心もまた脳のはたらきの一部である。言い換えると無意識まで含めた心もまた脳に宿る。

しかし、確信どころか、ほんとうは黙っておきたいぐらいの自信のなさである。無意識とは何かについてそもそもまるで見当がついていないのに、いったいどんな主張ができようか。一休さんじゃないが、まず虎を追い出してください。

無意識のイメージとしては、黙ってせっせと仕事をしている小人がわんさかいて、なんかちょっとした事件がある(=一瞬前になした予測が外れる)と、そのことを意識側に報告しようとして、中でもいちばん大声を上げたひとつの事象だけが勝ち抜いて意識にのぼる、という感じである。

この感じを反映した理論に「グローバル・ワークスペース理論(Gobal Workspace Theory)」がある。感覚的には無意識と意識との関係性をよくモデル化できているようにも思えるが、脳にそんな機構が備わっているかどうかは賛否両論あるようだ。無意識領域のことは、話を整理しようとしても、ちょっと手に負えない。

まとめておくと、「意識に身体は必要か」という問いに対して、私が暫定的にとっている立場は、意識は一貫して脳に宿るので身体を必要としないが、意識が形成されるまでの発達過程において(実在してもしなくてもよい)身体に相当するものとの間のビット列のやりとりは不可欠である、というものである。現時点において、それを最有力とみなして支持しているだけで、確信があるわけではない。

無意識や心の領域については、そこへ立ち入ろうにも、そもそもそれらが何であるか、よく分かっていない。虎を追い出してください。


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《客席の面々も、やけに豪華》

6月8日(土)に東京で開催されたシンギュラリティサロンでは、吉田正俊氏(生理学研究所 助教)が「自由エネルギー原理」について、中身まで立ち入って解説した。
https://peatix.com/event/676133

2017年7月9日(日)に大阪で開催されたシンギュラリティサロンで、金井良太氏(株式会社アラヤ 代表取締役)が意識の話をした際、意識には大きく2つの理論が提唱されてるとのことであった。
(1)カール・フリストンの「自由エネルギー原理」
(2)ジュリオ・トノーニの「統合情報理論」
前者は意識を作るほうに関係し、後者は確認するほうに関係する。

理論があることだけ知って、その中身を理解しないで放っておくと、いつまで経っても外野から眺めているだけの素人の域から出られないぞ、と思っていた。今回のは、前者についてちゃんと理解するいい機会と思い、聴講してきた。

吉田先生がウェブサイトに上げているPDF文書『自由エネルギー原理入門 改め 自由エネルギー原理の基礎徹底解説』は、68ページにおよび、自由エネルギー原理の中身を理解するための、この世でいちばんいい教科書だと私は思っている。これを読んでも理解できなかったら、もう、自分の頭が悪いせいだと思ってあきらめるしかない。
http://pooneil.sakura.ne.jp/EFE_secALL0517.pdf

この回は、客席の面々もやけに豪華だった。
金井良太氏(株式会社アラヤ 代表取締役)
渡辺正峰氏(東京大学 准教授)
三宅陽一郎氏(Square Enix)
中ザワヒデキ氏(美術家)

吉田氏の講演後、みんなでお茶して、さらに飲みになだれ込み、最後は吉田氏、渡辺氏、もう一人の聴講者、私の4人になり、9:00pm過ぎにお開きとなった。

意識研究のトップクラスのスター研究者たちに、ド素人が質問をぶつけ放題という、おそろしく贅沢な時間を過ごさせていただいた。意識研究の先生方って、優しい人が多いなぁ。おかげで、自分の中のごちゃごちゃ、もやもやがだいぶ整理されたし、今回のを書くのに大いに参考になった。


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