日々の泡[012]何でも書ける作家がいた【秋津温泉/藤原審爾】/十河 進

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先日、ユーチューブでいろいろ見ていたら「地獄の曲り角」という古い日活映画が出てきた。昭和34年(1959年)のモノクロ作品だ。主演は葉山良二で、恋人役は稲垣美穂子だった。南田洋子が事件の裏を知る悪女役で出ていた。

葉山良二は三流ホテルのボーイだが、犯罪じみたことにも手を染める小悪党である。ある夜、汚職事件に関係しているらしい男がホテルの部屋で殺し屋に殺される。ボーイはその部屋であるものを見つけ、強請りを企てたために政治的陰謀に巻き込まれるという話だ。その原作者が藤原審爾だった。





藤原審爾原作の最も早い時期の映画化作品は、黒澤明が脚本を書いた「獣の宿」(1951年)である。昭和26年、藤原審爾は新進作家だった。同人雑誌で注目され純文学から出発した藤原審爾は、病気や結婚などもあって読み物作家として様々なエンターテインメント作品を手掛けていた。

藤原審爾の作品を振り返ってみると、初期には恋愛小説の傑作「秋津温泉」があり、その後、やくざを主人公にした作品、殺し屋小説、脱獄囚の物語、警察小説のハシリのような「新宿警察」シリーズ、スパイ小説、任侠小説、時代小説、動物小説などがあり、そのジャンルの広さに驚いてしまう。

1950年代から70年代にかけての30年ほどの間に、藤原審爾は映画に60本近くの原作を提供した。中でも、1959年に5本、1961年に7本、1963年に6本、1964年に5本、1967年に4本、1971年に4本、1972年も4本と集中しているし、その他の年にも1、2本の映画化作品がある。

それらの作品群は「地獄の曲がり角」のように時間と共に忘れ去られた作品もあるが、多くは映画ファンに知られている。「恐喝こそわが人生」は二度映画化されたし、「よるべなき男の仕事・殺し」は市川雷蔵の「ある殺し屋」「ある殺し屋の鍵」(1967年)になり、村川透監督によって「よるべなき男の仕事・殺し」(1991年)としてリメイクされた。

カルト的人気のある作品としては、新東宝の「地平線がぎらぎらっ」(1961年)や日活の「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)などがある。前者は黒澤明監督の「用心棒」(1961年)の冒頭、桑畑三十郎に片腕を斬られるジェリー藤尾が同じ年に主演した脱獄ものだ。後者でも、ジェリー藤尾はスナイパー宍戸錠の弟分を演じた。

僕は石井輝男が新東宝から東映に移って監督した「花と嵐とギャング」(1961年)「恋と太陽とギャング」(1962年)が大好きだ。若き高倉健がよく喋るトッポいチンピラ(「スマイリー健」という通り名)を演じているのが楽しい。ガンブームの頃に作られた映画だから、ガンアクションに凝っている。もちろん、原作は藤原審爾だ。

藤原審爾はチンピラ小説も書いており、チンピラと良家のお嬢様の純愛を描いた「泥だらけの純情」は1963年に18歳の吉永小百合と浜田光男が映画化し、14年後の1977年に山口百恵と三浦友和でリメイクされた。「秋津温泉」でわかるように、元々、藤原審爾は純愛小説の名手だったのだ。

意外なことに山田洋次監督の「馬鹿まるだし」(1964年)も原作は藤原審爾だし、森崎東監督の「喜劇 女生きてます」シリーズの原作も藤原審爾である。かと思うと、江波杏子主演で加藤泰が監督した「昭和おんな博徒」(1972年)や高倉健主演「日本やくざ伝 総長への道」(1971年)なんてのもある。

日本映画史上の名作として残っているのは、今村昌平が監督した作品だ。「果てしなき欲望」(1958年)は、今村監督の三作めである。終戦時に軍医が埋めた大量のモルヒネを掘り出そうとする、五人の男女の欲望に駆られた姿を描き出す。今村作品独特の、人間のエネルギー(欲望)にあふれた力強い画面が印象に残る。

今村昌平監督の「赤い殺意」(1964年)も名作の誉れ高い作品だ。夫(西村晃)に虐げられ、いつもおどおどしている妻(春川ますみ)が、ある日、強盗に犯される。妻は首を吊ろうとするがロープが切れて(春川ますみの小太り体型に説得力があった)死ねず、その後、しぶとく強い女に変貌していく姿を生々しく描いている。

しかし、僕が昔から日本映画ベスト3の1本としているのは、岡田茉莉子の100本記念として制作された吉田喜重監督の「秋津温泉」(1962年)である。他の2本は成瀬巳喜男監督の「浮雲」(1955年)と川島雄三監督の「幕末太陽傳」(1957年)だ。「浮雲」と「秋津温泉」には人生の真実を教わり、「幕末太陽傳」からはしぶとく生きることを学んだ。

「秋津温泉」は18歳の時に見て、生涯忘れられない一本になった。結核で岡山の叔母の家を頼った主人公の河本(長門裕之)には、藤原審爾自身の姿が重なる。秋津温泉の秋津荘の娘・新子(岡田茉莉子)の看病で病気から回復した河本は、戦後、岡山で塾を開きながら小説を書いている。

ある日、妻の兄(宇野重吉)が文学新人賞を受賞したと知らせがあり、地元の新聞記者たちが取材にやってくる。帰宅した河本は妻に「私が働きますから、あなたもいい作品を書いてください」と言われ、「俺はどんなに堕落しても、あんな大衆小説は書かん」と怒鳴りつける。

それから十数年後、東京の出版社の立派なビルのロビーで、河本はショップの店員をしつこく口説く中年になっている。流行作家になった義兄の紹介で出版社に入り、長い年月が過ぎたのだ。そこへエレベーターから編集長と義兄が降りてくる。編集長は、「わが故郷」というエッセイの取材で義兄と岡山に同行しろと言う。

「故郷でいいことなんて何もなかった」と答える河本だが、同人誌に純文学作品を書いていた頃、安酒で酔いどれては「おめおめと、また秋津か」と言いながら新子に救いを求めて秋津温泉へいっていた。河本は十年ぶりに新子を訪ねるが、今の彼は新子の肉体だけを求める、つまらない男になっている。

原作が発表されたのは戦後すぐの1946年だったが、映画版「秋津温泉」は原作を大胆に脚色していた。ファーストシーンは、岡山空襲の直後である。山陰に疎開した叔母の下へ向かう途中、結核で動けなくなり秋津温泉の宿に泊まり、女学生姿の新子と出会う。そこから終戦、戦後を経て、映画制作時の現在までを描いている。十数年に及ぶ男女の変遷が僕に「人生の真実」を教えたのだ。

「秋津温泉」を見てから数年後、僕は薄い文庫本を入手した。「秋津温泉」は、美しい文章で綴られた恋愛小説だった。「鮮烈」という言葉が浮かんだ。映画とは違った感動があった。しかし、その後の藤原審爾の作品群は、完全なエンターテインメントばかりだった。それを知ったとき、河本が義兄の作品に向かって放った言葉が浮かんできた。

しかし、純文学をエンターテインメントより上位に置いていた若き日の僕と違い、今は藤原審爾という作家の凄さがわかる。「小説の名人」と異名をとったそうだが、それも納得する。何でも書いた(書けた)作家だった。現在、作品が入手しにくいのは残念だ。ちなみに、娘は藤真利子という名で女優になった。

「秋津温泉」を見て以来、僕は己に忸怩たる想いが湧くと「おめおめと、また秋津か」と口にするようになった。大学時代も、勤めているときも、何度「おめおめと、また秋津か」とつぶやいたことだろう。今でも、深夜ひとりもの思いに沈むとき、思わず口を衝いて出ることがある。

----おめおめと、また秋津か!!

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