[4844] 評価は他人がするもの◇ペンの持ち方フォーム改造◇ユーロマンガコース

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《逃げ場がなくなってしまうではないか》

■日々の泡[015]
 評価は他人がするもの
 【ものぐさ精神分析/岸田秀】
 十河 進

■グラフィック薄氷大魔王[621]
 ペンの持ち方フォーム改造 4回目
 吉井 宏

■ローマでMANGA[145]
 ユーロマンガコースの卒業講評
 Midori




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■日々の泡[015]
評価は他人がするもの
【ものぐさ精神分析/岸田秀】

十河 進
https://bn.dgcr.com/archives/20190821110300.html

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僕には説教癖はなかったとは思うけれど、それでも勤めている頃、若いモンと飲んだとき、「評価は他人がするもの。自己評価は何の意味もない」とよく言っていた。多分に、自分に対する戒めの言葉でもあった。もっとも、若いモンが僕の言葉を聞いて雷に打たれたように感じ、納得していたとはとても思えなかった。

人は、何かと自己評価をする。「僕ってシャイだから」という男はサイテーだと思うけれど、同じようなことを多くの人は言っている。たとえば「私、人見知りだから」とか「私、口べたでしょう」とか、日常的によく耳にする。それも一種の自己評価、あるいは自己イメージの他者への強制である。

しかし、ある人は僕のことを「親切な人だ」と思っているかもしれないが、別の人は「無愛想で不親切で、いけ好かない奴」と思っているかもしれない。ある人は僕を「人見知りで照れ屋」と思っているかもしれないが、別の人は僕を「傲慢で人を見下す、唾棄すべき奴」と思っているかもしれない。

評価とは、結局、そういうものなのだ。人の性格、能力、容姿、その他モロモロ、他人が自分をどう思うか、ということで評価は決まる。「あの人の歌は素晴らしい」と大勢の人が評価すれば、その人はプロの歌手になれるかもしれないし、「あの人の書くものは面白い」と大勢に評価されれば作家になれるかもしれない。

しかし、世の中の多くの問題の原因は、自己評価と他人の評価の落差によるものが大きいのではないか。たとえば、若いモンが「私は仕事で評価されていない」と飲んだ席でグチるとき、彼の自己評価と会社の評価には大きなズレがある。また、「自分探し」という言葉があるが、それも「本当の自分」がいるという、過大な自己評価が生み出す幻想だと思う。

「本当の自分」などいない。他人が見た僕が「本当の僕」なのだと、あるときから僕は言い聞かせてきた。もちろん、僕も十代・二十代の若い時分には、「本当の自分」みたいな幻想を持っていたし、自分が世の中に受け入れられず不遇だと感じ、鬱屈やルサンチマンを抱いて生きていた。しかし、それは結局、自己憐憫にしかつながらなかった。自己憐憫は、何も生み出さない。

三十を過ぎ、勤めている出版社の労働組合委員長を経験し、日本出版労働組合連合会の業種別組織の事務局長を経験したとき、大勢の人(最大で13組合500人くらいになったことがある)をまとめる大変さに、「自分と同じ考えや感じ方、同じ美意識や価値観を持つ人」は世の中にひとりもいないことを実感した。自分の考えや感じ方は、自分だけのものなのだと当たり前のことを思い知らされた。

そう学んだとき、何かが吹っ切れた。僕が提起する運動方針を「是」と評価する人が過半数を超すと、民主的な手続きとして採択されるわけだが、それでも多いときには半数近くの人が「非」としているのだと学んだのである。その頃に、僕が出合った本が岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」だった。1982年、僕は30歳、平組合員からいきなり執行委員長になった頃だった。

岸田秀さんの理論は、ものすごくアバウトに言うと「すべては幻想である」ということになる。日本人としての「共同幻想」があり、「本能の壊れた人間の幻想」があるのだ。僕は岸田秀さんが分析する現象のひとつひとつに納得し、目から鱗が落ちる思いをした。

その本の中でも僕の意識を徹底的に変えてしまったのが、「自己嫌悪の効用----太宰治『人間失格』について」と「セルフ・イメージの構造----主観と客観の逆比例の法則を提唱する」という文章だった。文庫本で、それぞれ10ページほどの短文だが、30年生きてきた僕の意識を変革させてしまったのだった。

岸田さんは「自己嫌悪とは、つまり、『架空の自分』が『現実の自分』を嫌悪している状態」と分析し、「社会的承認と自尊心が自分を有能だと思いたがるとき、あるいは、卑劣漢が自己を道徳的だと思いたがるとき、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である」と結論づける。

たとえば「酔って女性に浅ましいことを言って口説いた」男が、翌朝、「本当の自分は、そんなことをする人間じゃない」と自己嫌悪に陥ったとする。そのとき、「本当の自分」とは「人にそう思ってもらいたいところの自分」であり、「本当の自分」などではなく、「架空の自分」であると岸田さんは指摘する。

「自己嫌悪は一種の免罪符である」と、岸田さんは手厳しい。「自己嫌悪をよく考察してみると、たとえば、自分のあるいやらしい行為を嫌悪しているとき、そのいやらしさの肝心なところはすっぽり抜けており、『どうかしていた』自分の行為として許せる範囲内の、むしろ抹消的な点が主として嫌悪の対象となっている」と容赦ない。

この文章を読んで以来、僕は「自己嫌悪」に陥ることさえできなくなった。であるなら、自己嫌悪になるような浅ましい言動を慎めばよいのだが、酔っぱらっての失敗はその後も続き、二日酔いの頭で「ああ、酔って、せこく、浅ましく、卑怯未練で、小心な、本来の自分が出てしまったな」と戒めるしかなくなった。

また、「セルフ・イメージの構造」という文章は、「『生きるのが下手な人へ』という本が出て、ほぼ二十万部とか三十万部とか売れたということを聞き及び--(中略)--世の中には、本気で自分のことを生きるのが下手だと思っている人が大勢いるらしいということを知り」と始まるのだけど、それを読んだだけで僕はテーマに共感した。

----人間は誰でも自分について、おれはかくかくしかじかの性質だとか、このような性格だという一定のイメージをもっている。自分は生きるのが下手だというのも、このようなセルフ・イメージの一例である。--中略--このセルフ・イメージは、当人の客観的性質の反映ではなく、他の人びとに対する当人の期待ないし要求の反映なのである。

ここまで分析されてしまうと、手の施しようがない。セルフ・イメージとは、その人物が他の人びとに「こう思ってもらいたいイメージ」にすぎないと指摘されているのだ。だから「生きるのが下手な人」と思っている人は「生きるのが下手で損ばかりしている人と思われたい、浅ましい人」であり、裏返せば「もっとうまく立ちまわって得したい」と考えているのである。

また、岸田さんは「人間は自分を正当化せずにはいられない存在である」と書く。しかし、ここまで突き詰められると、逃げ場がなくなってしまうではないか。僕は岸田さんの本で目から鱗が落ちまくったけれど、結局、自分とはどういう人間であるのか、他人から見た自分ではなく本来の自分の姿をどう見出すのか、そしてその自分としてどう生きていけばいいのか、という迷宮に迷い込むことになった。

その結果、僕が落ち着いたところは、中学生の頃から愛読してきたハードボイルド小説や冒険小説の主人公たちの行動律を見習うことだった。「自分のモラルとルールを持ち、己に恥じることをしない」という簡単な行動律である。それが、かっこよく言えば僕の美学に適ったのだ。しかし、そうは言っても実行するのは困難だった。

僕は「自覚的に生きる」ことを幼い頃から己に課してきたつもりだが、経験の中から自分のモラルとルールを築き上げるには長い時間がかかったし、己に恥じることをしないために自己のモラルやルールのハードルを下げることもままあった。つまり、ある局面(たとえば上司からの強い圧力など)において妥協をしてしまうのだ。

そのことを、ある時期、僕は「守るべき最後の砦がどんどん後退していく」とよく嘆いた。それでも、何とか四十年の勤め人生活を果たし、今、振り返ると「(たとえば、同僚を売らない、部下に責任を押し付けない、といった最後の砦は守ったつもりだし)己に恥じることはしてこなかった」という想いはある。それだけでも、よしとすべきか?

ちなみに、つい最近、岸田秀さんの新刊「唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか」を読んだのだが、岸田さんはまったく変わっていなかった。これが最後の本になるようなことを帯で書いていたけれど、岸田さんの理論は相変わらず一貫している。岸田さんは、僕と同じ「うどん県」こと香川県の西讃出身である。郷土の先達として、明晰な分析と理論を生み出す頭脳を尊敬している。


【そごう・すすむ】
ブログ「映画がなければ----」
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「映画がなければ生きていけない」シリーズ全6巻発売中
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■グラフィック薄氷大魔王[621]
ペンの持ち方フォーム改造 4回目

吉井 宏
https://bn.dgcr.com/archives/20190821110200.html

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●ペンの持ち方フォーム改造 4回目

板タブ。ペンの持ち方のフォーム改造は、十数年前から3回にわたってやってきた。改造直後は「今までと違ってぜんぜん描きやすい!」とか思うけど、次第に満足できなくなってくる。

グラフィック薄氷大魔王[130]鉛筆の正しい持ち方
https://bn.dgcr.com/archives/20080402140200.html


グラフィック薄氷大魔王[473]ペンの持ち方のフォーム改造再び
https://bn.dgcr.com/archives/20160420140100.html


グラフィック薄氷大魔王[520]ペンの持ち方のフォーム改造、3回目
https://bn.dgcr.com/archives/20170517110100.html


とにかく、描画面上(つまりリアルサイズ)で3〜5cm程度の丸をクルッと描いたとき、ちゃんと円形にならずに歪むのだけは修正したい。

先日から持ち方をいろいろ変えて丸を描いてて気が付いたのは、「人差し指」がジャマをしてるってこと。ペンに人差し指が接触しないように、親指と中指だけで挟むようにして描くと、丸が歪まないようだ。あれ? 描けちゃう! って驚き。

ただし、可動範囲が狭いので大きな丸は描きにくいのと、正確に動かせる代わりに筆圧をかけにくい。普段の「肩から腕全体を動かす方式」はペンの持ち方は関係ないので、「肩から動かしつつ、細かく描く時は人差し指を使わない」がいいかも。この持ち方に慣れるか、しばらくやってみる。

● WACOM Cintiq 新しい22インチ

なぜフォーム改造か? というと……。今、WACOMの液タブは一台もなく、液タブが必要な場合はiPad Pro 12.9+Apple Pencilを使ってる。しかし、肩から動かして描くには狭すぎる。

かといって、Cintiq 27インチを始め数々のCintiqに慣れずに、涙を飲んで手放した悔しさ(w)を思い出すと、大型液タブをもう一度導入するのは精神的にキツい。首が痛くなるのも懲り懲りだし。

そんなところに「Cintiq 22」の発売。「Pro」がつかないリーズナブルCintiq。22インチ(正確には21.5インチ)なら大きすぎないし、筐体も小型で手軽。昔の15・17インチCintiqと同じ使いやすい可変スタンドが復活。これならほしい!
https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1196367.html


……と思ったけど、今までの液タブと同じ運命をたどる可能性大って考えると躊躇する。そんなわけで、板タブIntuos Proの描きやすさを、あらためて追求してみようと思ってフォーム改造に取り掛かったのでした。

● 2Dスケッチの魅力

仕事で、TDWキャラのポーズや表情のバリエーションを作成するために、半日かかって十数点のスケッチを綿密に描いた。次に丸一日かけて、Modoでスケッチのとおりにポーズや表情など作成した。う〜〜ん……。

確かに線画スケッチのほうが面白みがあるよなあ。TDWキャラの完成3Dと2Dのカラーラフの比較画像をfacebookにアップすると、必ずコメントに「2Dのほうが面白い」って書かれるのだw 3Dの作業がまるまるムダじゃん。
https://yoshii-blog.blogspot.com/search/label/TDW_sketches


2Dスケッチの面白みを3Dで表現するのは、たいてい「元があっての再現」になってしまうため、パワーが落ちるのはわかる。手間も半端なくかかるし。

何なら、スケッチをそのまま色つけてフィニッシュってことにしちゃっても悪くないなあw やっぱ2Dもやりたいかも。今後に向けて。


【吉井 宏/イラストレーター】
HP  http://www.yoshii.com

Blog http://yoshii-blog.blogspot.com/


デジクリ夏休みに気づかず、7月末に「来週バタバタするから次回分も今のうちに書いておかねば」って急いで書いたのでした。一回分、得したw

○吉井宏デザインのスワロフスキー、7月半ばに出た新製品4つ。

・幸運の象 LUCKY ELEPHANTS
https://bit.ly/30RQrqV


・HOOT HAPPY HALLOWEEN 2019年度限定生産品
https://bit.ly/2JZVVcm


・SCS ペンギンの赤ちゃん PICCO
https://bit.ly/2JStbC4


・SCS ペンギンのおばあちゃん
https://bit.ly/2YbmnJ7



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■ローマでMANGA[145]
ユーロマンガコースの卒業講評

Midori
https://bn.dgcr.com/archives/20190821110100.html

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ローマ在、マンガ学校で講師をしているMidoriです。私の周辺のマンガ事情を通して、特にmangaとの融合、イタリア人のmangaとの関わりなどを柱におしゃべりして行きます。

●卒業講評

7月5日に卒業試験に当たる講評があった。卒業講評には外部から講評者を呼ぶ。昨年に引き続き、マンガ家・編集者のビンチェンツォ・フィローサ氏にお願いした。
https://www.facebook.com/profile.php?id=1295001512


フィローサ氏はマンガ・mangaが大好きで、生徒の作品やスケッチをいくら見ても疲れない。昨年は8人の講評をするのに一人に1時間くらいかけて、終わったのが午後6時過ぎだった。ほかのコースでは昼食時間前後に、さっさと終わってしまっていたのに。

でも、最終学年でこれで学校を出るという生徒の作品をじっくり見て、今後のサジェスチョンをしたいよね。

今年のユーロマンガコースは14人。一人にかけられるのは20分から25分くらいだ。とりあえずそのように、事前にフィローサ氏にお願いした。結局、もうちょっと時間がかかってしまったのだけれど。

特に最初の二人には、ほぼ1時間くらいかけてしまった。名簿順で上手い子たちが二人続いたし、今年最初に見る作品ということで、フィローサ氏は嬉しそうにじっくり見てしまったのだ。

しかも、「上手い子」は仕事が早くて、宿題もきちっとやってくるので、講評に持ってくる作品の総数が多い。

部屋に私とフィローサ氏が並んで座り、生徒が一人づつ入って、テーブルに作品群をのせる。フィローサ氏が作品をめくり、私は説明するように生徒を促す。

フィローサ氏は優しいので、度々「ワオ!」と感嘆する。良いところを見ようとする態度だ。レベルが低い生徒には、一日にどのくらい絵を描くのか聞いた。2時間くらい、と答えると、「少ないね。10時間は描かないと」と言っていた。

お昼休みの12時過ぎ、まだやっと3人目に入ったばかりだった。フィローサ氏にスピードアップをお願いした。持ってきた作品をじっくり見ても、さっと見ても、作者の力量はわかる。じっくり見るのは、見て楽しいからにすぎない。

最終学年の最終講評は、プロのレベルにどのくらい近づいているか、それが評価基準になる。

点数は5項目について30展満点で評価して、5項目を合計して5で割った数字が最終の評価点になる。

項目は以下の通り:探究と企画 / 物語 / スタイルの探究 / プロフェッショナル度 / 彩色とインク

結果、満点の30点を獲得したのは、年間を通してその優秀さを示した4人プラス一人。この最後の一人は、この一年間で自分のスタイルを見つけて、また卒業制作には新たなやり方を試したりして、順調に、確実に育って行った。

もともとmangaにはそれほど興味ないんだけど、と言いながらオリジナル作品を作るという授業に惹かれて、ユーロマンガコースを選んだ生徒。

欠席が多く、なんでこの学校に来てるのか分からない生徒は、ギリギリ卒業証書がもらえる18点。落第させてもよかったんだけど、卒業証書自体に意味がないし、とりあえず最終講評日に来たことを評価した。

あまり点数が良くなかった(23点)一人は、点数が発表になってからボイスメッセージを送ってきた。「なぜなの? ただ、ただ、理由が知りたい」

かなりショックを受けた様子がわかる。でも、あの作品でもっといい点を取れると思う時点でわかってない。23点はまぁ、彼女なりに頑張ったから、という、頑張り点であって、プロには程遠い。

そのことを説明したメッセージを返し、また彼女から「それなら何で講評の時に褒めたの? 意味がないじゃない」。理解が及ばないのでは仕方がない。可哀想だけどそのままにした。

●SMAの結果

3月31日締め切りの「サイレント・マンガ・オーディション」第11回に、授業の一環として強制参加させた。件の優秀生徒4人はどこかに引っかかるのではないかと、期待していたのだけど、まったくダメだった。

https://www.manga-audition.com/sma11-silent-manga-audition-2019-award-winners/


(今回、最優秀賞は該当作品なし。イタリアからの入賞は3人。インドネシアが健闘)

ものすごく責任を感じてしまう。

14名のネームを見るのには時間がかかる。効果的に見る方法を考案しないといけない。それには、SMAのネームにかかるまでにmanga文法をしっかりわかってもらう必要がある。それには授業内容を見直す必要がある。

●来年度の授業内容変更

ユーロマンガコースがこの二年間、何が問題だったのか。何が良かったのか。

一つには、manga構築法、manga文法は言語を学習するのと同じく、学習すべきことが沢山あること。もう一つは、講義を聞くだけではなく、実践しないと作品に反映できないこと。

これを実質半年、いや、二か月半で習得してもらわねばならない。無理、と言ってられないので、良い方法を考案せねばならない。

セミナーだった頃から、最初の授業にやる「マンガとmangaの違い」をアルゼンチンのエンリケ・アルカテーナ氏の「コナン」と、井上雄彦氏の「バガボンド」を使って解説するのは残す。

今まではその後、読みの速度をフキダシの位置でコントロールすること、誰の視点からその場面を描くのか、コマの大きさと形の意味をそれぞれ独立して解説していた。

これを一緒くたに説明することにして、キャラの感情を描いているページをいくつも用意して、徹底的に分析解説する。さらに宿題としてそれぞれが選んだ(あるいは課題として全員同じ題材の方がいいかな?)ページの分析をしてもらって、演出の目を養うことをしたらどうだろうと思ってるところ。

1ページで分析しやすいものから始めて、ページ数を増やしていく。できれば16ページほどの短編まで持っていく。

最初は分析の項目をしめす。例えば、誰の視点から描いているか。描かれた感情はどんなものか。その感情を読者に示すためにセリフの位置、コマの大きさと形、構図、表情、小道具、背景はどんな選択をされているか。などなど。

この方法に合うmanga作品を選ばねば、の、夏休みになりそう。


【Midori/マンガ家/MANGA構築法講師/】

あいちトリエンナーレ:「アート」と言えば何でもOKになるのか?「表現の不自由展」は内容から見て、公的資金で展示するものではないと思う。だいたい、あの「作品群」は「反日をテーマにした罵倒」であって、アートではないと思うけど。

どの「作品」にも「美」はかけらも認められないし哲学もない。誰かをバカにしたり、罵倒したりする場面を見るのは気分が悪い。

猛暑:連日30度超え。しかも、湿度が高い。地中海の夏はもっとさっぱりしてたはず。郊外だから日が沈むと気温が下がって、熱帯夜にはならないのが救い。

Unlimited:キンドルの読み放題に手を出してしまった。ちょっとハマった「神様とお話」系と漫画を読む。コナリミサトさんの「凪のお暇」が気に入る。
https://www.akitashoten.co.jp/works/nagi/


「空気を読みすぎてストレス溜まって過呼吸になってしまった凪さんが、自分らしく生きよう」とする話。絵はイマイチなんだけど、コマ運びや感情の表現、セリフがうまい。演出がいいっていうことか。

今は無料の30日お試し期間だけど、月額980円で続けてしまうかも。お金出してまで欲しくないけどちょっと興味あるかな、という本や、知らない漫画家さんの一巻目など読める。日本語の本はあっという間に読めて良い。

息子のバンドPSYCOLYT [注・親ばかリンク] (活動停止中)


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編集後記(08/21)

●偏屈BOOK案内:加門七海「鍛える聖地」

加門七海といえばオカルト、風水、民俗学などに強いお方。たまたま図書館で夏向きホラー傾向の本を展示していて、その中から見つけたのがこれ。12本の不思議体験レポートである。不気味で怖いいや〜な話もあるが、筆者は基本、怪異を当たり前と思っていて、あまり怖がらずに淡々と描く。だから怖いんです。

富士山樹海、富士山・お中道、高尾山、御岩山、金袋山、鋸山、今熊山など山登り系がほとんどで、平地では船橋三番瀬、鹿島神宮、江ノ島、そして皇居が「聖地」となる。初出タイトルは「もう普通のパワースポットじゃ物足りない! 鍛える聖地〜 パワーが欲しけりゃ、ここまで来い!」である。変な表現だな。

筆者にとっての聖地とは、寺と神社とそれにまつわる土地・自然、そして妖怪モノノケが潜んでいるらしきアヤシイ場所。人間以外のモノが元気よく、活き活き暮らしているところのことである。いわゆるパワースポットとも言えるが、宗教者が守ってきた所だから、あえて「聖地」という言葉で語っている。普通の旅行者にはハード、山屋や冒険家にはぬるい、そんな味のあるレポートだ。

聖地に辿り着くには心身共にもっともっと鍛えなくてはなりませんなあ、という気分がタイトルになっている。社寺と山のマナーについても常識的に書かれている。また「聖地では空気を読む」のが大切だが、筆者は30年以上も神社仏閣を巡り歩いて、そのノウハウを体得したらしい。山や聖地でのうんと怖い話を読みたかったのだが、この本ではだいぶ抑えめ、ちょっと期待外れであった。

樹海の中の「精進お穴日洞」へ行く。よほどの物好き以外は使わない精進湖口登山道から、樹海に入る。自殺の名所。なんと言えない緊張と恐怖に囚われる。霜の降りた道は踏むとザクザク音がする。それに混じって人声がざわざわ、笑い声、すすり泣き、呻き声。風向きが変化して腥い臭い。その方向は自殺の現場、絶対に見ない。見たら一生のトラウマになる。同行の編集者は気付かない。

洞窟は聖地として生きていなかった。いきなり遠くでダーンという音がする。それがどんどん近づいてくる。人為的ではない。自然現象でもない。自然的なナニカ様が起こした現象。おそろしく巨大な気配が近づく。筆者は目を向けず、おいしくないよ、おいしくないよ、おいしくないよと必死に呪文を唱える。効果はなかった。一陣の風が筆者らの真横の木のてっぺんでピタリと止まる。

上からガン見されている。恐怖のあまり新たな呪文を送る。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。とりあえず謝る。この呪文は効果てきめんである。樹上の大きな気配は、ふーんといった感じでやがて立ち去った。このテに面と向かったら、下手すると命を取られる。この件も、編集者は何も気付かず、樹海に見入っていた。自死を選んだ人の気配が絡み合って蠢く感じがした。

編集者は道すがら自殺者の霊について語り続けていたが、そういうは話は確実に「寄せる」。実際、寄せたが、筆者は騒ぐと厄介なので放置した。その後、人穴に入るが圧倒的存在感の闇で、正直、後悔する。無事に帰れてよかった。霊感のない編集者は、原稿があがったときにひきつったのは間違いない。なお、至高の聖地・皇居レポートは、宮内庁に事前に申し込む一般参観コースである。素晴らしい、素晴らしすぎる。何としても行かずにはなるまい。(柴田)

加門七海「鍛える聖地」メディアファクトリー 2012
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4840146934/dgcrcom-22/



●「凪のお暇」をTVerで見ている(=リアルタイムで見ていないので、雑談には使えない)。空気を読んで発言できない凪ちゃんの気持ち、わかるところがある。けど、凪ちゃんほど我慢できないし、読めてる空気の割合は酸素程度だと思うわ。

/レジ話続き。「レジ袋不要」の札がカゴに入っていなくても、レジ袋の要不要を聞いてくれるところがほとんど。一日に何度言うことになるのだろう。札をレジにいったん置き、次に使う人のために、所定の場所に戻す方が面倒だろうか。

と、考えることもあるが、そういう仕組みが用意されているってことは、その方がレジの人にとっては、わかりやすいのだと思うことにしている。

「研修中」の名札をつけている若い男性の時にも、同じようにカゴの縁に札を置いておいたら、彼はレジ横に札を運んだ。商品を全部通した後、提携クレジットカードで精算。ここは現金だと有人レジの先にある機械で支払いだけするようになっている。(hammer.mule)