日々の泡[015]評価は他人がするもの【ものぐさ精神分析/岸田秀】/十河 進

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僕には説教癖はなかったとは思うけれど、それでも勤めている頃、若いモンと飲んだとき、「評価は他人がするもの。自己評価は何の意味もない」とよく言っていた。多分に、自分に対する戒めの言葉でもあった。もっとも、若いモンが僕の言葉を聞いて雷に打たれたように感じ、納得していたとはとても思えなかった。

人は、何かと自己評価をする。「僕ってシャイだから」という男はサイテーだと思うけれど、同じようなことを多くの人は言っている。たとえば「私、人見知りだから」とか「私、口べたでしょう」とか、日常的によく耳にする。それも一種の自己評価、あるいは自己イメージの他者への強制である。

しかし、ある人は僕のことを「親切な人だ」と思っているかもしれないが、別の人は「無愛想で不親切で、いけ好かない奴」と思っているかもしれない。ある人は僕を「人見知りで照れ屋」と思っているかもしれないが、別の人は僕を「傲慢で人を見下す、唾棄すべき奴」と思っているかもしれない。





評価とは、結局、そういうものなのだ。人の性格、能力、容姿、その他モロモロ、他人が自分をどう思うか、ということで評価は決まる。「あの人の歌は素晴らしい」と大勢の人が評価すれば、その人はプロの歌手になれるかもしれないし、「あの人の書くものは面白い」と大勢に評価されれば作家になれるかもしれない。

しかし、世の中の多くの問題の原因は、自己評価と他人の評価の落差によるものが大きいのではないか。たとえば、若いモンが「私は仕事で評価されていない」と飲んだ席でグチるとき、彼の自己評価と会社の評価には大きなズレがある。また、「自分探し」という言葉があるが、それも「本当の自分」がいるという、過大な自己評価が生み出す幻想だと思う。

「本当の自分」などいない。他人が見た僕が「本当の僕」なのだと、あるときから僕は言い聞かせてきた。もちろん、僕も十代・二十代の若い時分には、「本当の自分」みたいな幻想を持っていたし、自分が世の中に受け入れられず不遇だと感じ、鬱屈やルサンチマンを抱いて生きていた。しかし、それは結局、自己憐憫にしかつながらなかった。自己憐憫は、何も生み出さない。

三十を過ぎ、勤めている出版社の労働組合委員長を経験し、日本出版労働組合連合会の業種別組織の事務局長を経験したとき、大勢の人(最大で13組合500人くらいになったことがある)をまとめる大変さに、「自分と同じ考えや感じ方、同じ美意識や価値観を持つ人」は世の中にひとりもいないことを実感した。自分の考えや感じ方は、自分だけのものなのだと当たり前のことを思い知らされた。

そう学んだとき、何かが吹っ切れた。僕が提起する運動方針を「是」と評価する人が過半数を超すと、民主的な手続きとして採択されるわけだが、それでも多いときには半数近くの人が「非」としているのだと学んだのである。その頃に、僕が出合った本が岸田秀さんの「ものぐさ精神分析」だった。1982年、僕は30歳、平組合員からいきなり執行委員長になった頃だった。

岸田秀さんの理論は、ものすごくアバウトに言うと「すべては幻想である」ということになる。日本人としての「共同幻想」があり、「本能の壊れた人間の幻想」があるのだ。僕は岸田秀さんが分析する現象のひとつひとつに納得し、目から鱗が落ちる思いをした。

その本の中でも僕の意識を徹底的に変えてしまったのが、「自己嫌悪の効用----太宰治『人間失格』について」と「セルフ・イメージの構造----主観と客観の逆比例の法則を提唱する」という文章だった。文庫本で、それぞれ10ページほどの短文だが、30年生きてきた僕の意識を変革させてしまったのだった。

岸田さんは「自己嫌悪とは、つまり、『架空の自分』が『現実の自分』を嫌悪している状態」と分析し、「社会的承認と自尊心が自分を有能だと思いたがるとき、あるいは、卑劣漢が自己を道徳的だと思いたがるとき、その落差をごまかす支えとなるのが、自己嫌悪である」と結論づける。

たとえば「酔って女性に浅ましいことを言って口説いた」男が、翌朝、「本当の自分は、そんなことをする人間じゃない」と自己嫌悪に陥ったとする。そのとき、「本当の自分」とは「人にそう思ってもらいたいところの自分」であり、「本当の自分」などではなく、「架空の自分」であると岸田さんは指摘する。

「自己嫌悪は一種の免罪符である」と、岸田さんは手厳しい。「自己嫌悪をよく考察してみると、たとえば、自分のあるいやらしい行為を嫌悪しているとき、そのいやらしさの肝心なところはすっぽり抜けており、『どうかしていた』自分の行為として許せる範囲内の、むしろ抹消的な点が主として嫌悪の対象となっている」と容赦ない。

この文章を読んで以来、僕は「自己嫌悪」に陥ることさえできなくなった。であるなら、自己嫌悪になるような浅ましい言動を慎めばよいのだが、酔っぱらっての失敗はその後も続き、二日酔いの頭で「ああ、酔って、せこく、浅ましく、卑怯未練で、小心な、本来の自分が出てしまったな」と戒めるしかなくなった。

また、「セルフ・イメージの構造」という文章は、「『生きるのが下手な人へ』という本が出て、ほぼ二十万部とか三十万部とか売れたということを聞き及び--(中略)--世の中には、本気で自分のことを生きるのが下手だと思っている人が大勢いるらしいということを知り」と始まるのだけど、それを読んだだけで僕はテーマに共感した。

----人間は誰でも自分について、おれはかくかくしかじかの性質だとか、このような性格だという一定のイメージをもっている。自分は生きるのが下手だというのも、このようなセルフ・イメージの一例である。--中略--このセルフ・イメージは、当人の客観的性質の反映ではなく、他の人びとに対する当人の期待ないし要求の反映なのである。

ここまで分析されてしまうと、手の施しようがない。セルフ・イメージとは、その人物が他の人びとに「こう思ってもらいたいイメージ」にすぎないと指摘されているのだ。だから「生きるのが下手な人」と思っている人は「生きるのが下手で損ばかりしている人と思われたい、浅ましい人」であり、裏返せば「もっとうまく立ちまわって得したい」と考えているのである。

また、岸田さんは「人間は自分を正当化せずにはいられない存在である」と書く。しかし、ここまで突き詰められると、逃げ場がなくなってしまうではないか。僕は岸田さんの本で目から鱗が落ちまくったけれど、結局、自分とはどういう人間であるのか、他人から見た自分ではなく本来の自分の姿をどう見出すのか、そしてその自分としてどう生きていけばいいのか、という迷宮に迷い込むことになった。

その結果、僕が落ち着いたところは、中学生の頃から愛読してきたハードボイルド小説や冒険小説の主人公たちの行動律を見習うことだった。「自分のモラルとルールを持ち、己に恥じることをしない」という簡単な行動律である。それが、かっこよく言えば僕の美学に適ったのだ。しかし、そうは言っても実行するのは困難だった。

僕は「自覚的に生きる」ことを幼い頃から己に課してきたつもりだが、経験の中から自分のモラルとルールを築き上げるには長い時間がかかったし、己に恥じることをしないために自己のモラルやルールのハードルを下げることもままあった。つまり、ある局面(たとえば上司からの強い圧力など)において妥協をしてしまうのだ。

そのことを、ある時期、僕は「守るべき最後の砦がどんどん後退していく」とよく嘆いた。それでも、何とか四十年の勤め人生活を果たし、今、振り返ると「(たとえば、同僚を売らない、部下に責任を押し付けない、といった最後の砦は守ったつもりだし)己に恥じることはしてこなかった」という想いはある。それだけでも、よしとすべきか?

ちなみに、つい最近、岸田秀さんの新刊「唯幻論始末記 わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか」を読んだのだが、岸田さんはまったく変わっていなかった。これが最後の本になるようなことを帯で書いていたけれど、岸田さんの理論は相変わらず一貫している。岸田さんは、僕と同じ「うどん県」こと香川県の西讃出身である。郷土の先達として、明晰な分析と理論を生み出す頭脳を尊敬している。


【そごう・すすむ】
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