[4851] はぐれの「怠け者原論」みたいなもの

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《はぐれの取扱説明書の超ダイジェスト版》

■はぐれDEATH[83]
 はぐれの「怠け者原論」みたいなもの
 藤原ヨウコウ




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■はぐれDEATH[83]
はぐれの「怠け者原論」みたいなもの

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20190830110100.html

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最初に断っておきますが、哲学的・科学的・思想的・宗教的・生理学的その他諸々の、アカデミックな考察と同列に考えてはいけません。

坂口安吾の『堕落論』のような文学的な要素ももちろん皆無です。ボクは「超」がつく怠け者のエカキなので、怪しい記憶のみで記述することをまずここに宣誓します。

よって、文中においていかなる間違い・差別的表現・反社会的表現があっても、それはボク個人に帰するモノであり、他の誰のせいでもないことをまず断っておきます。また、拙い作文による誤解等もすべてボクの責任です。

とまぁ仰々しく始めたが、それほど大層なことを書く気はない。そもそも面倒臭いしね。文献を遡るなんて間違ってもやらない。知ってても説明が面倒になったらジャンジャン飛ばして、ノったら関係無いことをダラダラ書く、いつも通りのスタイルだ。


◇編集部注◇ 一気に怒濤の一人語りに入ります。もはや中見出しをつけてい場合ではない。本当は既定の字詰め、改行さえ不要です。全部続けて文字で真っ黒な紙面(っていうか?)にしたいところですが、さすがにそれはできません。中見出しもつけられません。気合いを入れて一気読みをオススメします。


そもそも怠け者というのは能動的な活動をしないのである。実はこれは相当キモである。

下手をすれば回避できる死すら、「面倒臭い」の一言でほったらかしにする。ボクは日常的にしているわけだが(食事が面倒くさいから食べないとかね)、逆に自ら進んで自殺などという、めちゃめちゃ能動的なこともしない。

死ぬのになんでわざわざ色んな準備せなあかんねん。他人様に迷惑を掛けるのもイヤだから、公共の場での自殺はあり得ないし(そのあとかかる原状回復の手間暇や費用を想像したら、そっこーアホらしくなる)、人知れずどこかの場所へというのも移動が面倒臭いからイヤ。

しつこいようだが、「死」はすべての生命に等しく与えられている。逃げようと思って逃げられるものでは決してない。死んであたりまえであり、死を直前にジタバタするのは、あくまでも「種の保存」がベースにしかならないはずである。

人の場合は、この辺の境が非常に曖昧になるケースが良くあるが、ボクに言わせれば「いつ死ぬかも分からんのに、ようそんだけ騒げるな」と呆れるぐらいである。

あくまでも人特有の諸々の事情がこうした現象を生み出すのだろうが、事情を持つコトだってボクには面倒なのだ。生きてるからほっといても色んな事情は出来るんだけど、極力大人しくすることでこうしたこと(特に「大人の事情」は面倒にも程がある)から遠ざかるようにはしているが、これだって徹底しているわけではない。てきとーな所でほったらかしにしているのが実情だ。

食事を抜くのだって本気では間違ってもしない。ダイエットする必要もないしね。連載を辛うじて持っているので、てきとーなところで(それでも2〜3日は平気で抜く)食べるけど、それだってもう本当に面倒臭いのだ。

「これ書いてるやん」と突っ込みたい読者の皆様が少なくないと思うが、ここの不定期連載は再三述べているように、「編集長に頼まれた」というそれだけの理由でやっているのだ。最初からボクが「これを載せたい」というのは皆無に等しい。ないとは言いません。企画展の宣伝をさせてもらったし。多分これだけだけど。

ボクは基本はとことん受動的である。挿絵を描くというお仕事自体が、もう既に100%受注オンリーだしね。就職した会社も意図はしなかったが、基本は受注産業である。それなりの営業はするが、それでもクライアントが「じゃあ、それやりましょう」なんてのは、ドラマの世界の話以上に少ない。

ここしばらく創作もどきでバタバタしているが、これだって担当さんに説得されて負けたからやる羽目になったのであり、今だって逃げ出したい気分なのだ。逃げないけどね。引き受けちゃったし、ちょっと面白くなってきたから(笑)

無理矢理押しつけられて(失礼)いやいや始めたものの、やってみたら結構面白くて、気がついたら好き勝手やりすぎて「当初の目的はどこへいった?」というぐらい、明後日の方向で嬉々としてやらかしているのがボクという人物なのだ。

しつこいようですが、本業では間違ってもやりません。ここの不定期連載を途切れさせないように、可能な限り原稿をストックしているのも理由は似たようなもので「ヤヤこしいコトに他人を巻き込まない」ためと、「責任を負わされるのがイヤだから」という身も蓋もない理由で徹底的にリスク管理をしている。

これが社会とボクが持つギリギリのラインで、これ以上となるとやっぱり面倒臭いが勝つ。正直、日本国籍とやらも邪魔くさくて仕方がないのだ。

ボクだけなら別にどうなってもイイのだが、他人様が巻き込まれるのは本意ではない。炎上ならボクが一人で受けていればいいのだし、そもそも炎上していることに気がついていることすら怪しい。

騒ぎたければ勝手に騒げばいいのであって、ボクがイチイチ反応することはあり得ない。なぜならもうそれだけで面倒臭いからだ。そもそも炎上ネタなど書かなければいいのだろうが、本人にはタブーでもなんでもなかったりするので、この辺の世間様の線引きはよく分からん。とにかくボクの中で本当にどうでもイイ事しか書いてないし。

まずボクにとって面白そうなことしかしない、というところでもう既に十分人として終わっているのだ。やってみて面白くなかったらとっとと放り出すし。自分が気をとられたことに反応しただけの話で、それ以上でもそれ以下でもないんだから。

飽きてもやめるな。まぁ基本長続きするタイプではないし、目先の面白さにすぐ気をとられるから、そういう意味での忍耐力は0だ。じゃ長続きしていることは忍耐をもってしているのかというと、そんなことはまったくない。

ここに忍耐力が登場する必然性は皆無である。楽しいから続けてやってるだけ。その結果がどれほど膨大なものになろうと単なる結果であり、そこに質を求めるコト自体をボクがしない。極端な話「疲れ果てて動けなくなる」までずっと続ける。

このへんは、ももちの行動パターンによく似ている。終わったらボクも忘れてるし。もっとも、ももちの方がボクよりも遙かに健康的である。(ももち=猫)

そもそも自然に備わった性質を素直に100%発揮しているだけなので(好きな時に好きなだけお外で遊べるという環境が既におかしいという意見もあるだろうが、ウチはそれがでふぉなのだ)本人は気楽そのものである。

もっとも気楽と思っているのはこっちだけで、ももちはももちで結構気を使っているのかもしれない(笑)

絵を描くのだって、忍耐力を発揮することはまぁまずないな。再三書いているように、呼吸に等しい運動律に過ぎないのだ。

考えてみたら、他人に絵を見せるというコトすら意識したことはほとんどない。もちろん本業は別です。

描いた絵を、親・親族にすら進んで見せようとした記憶もない。とにかくジャンジャン描き飛ばしていた記憶だけはある。さすがにお袋は、ボクが知らない時に見ていただろうが、だからといってどうこう言われたこともないし、絵というのは自己完結してお終いだと相当長いこと思っていた。

小学校に入って(幼稚園は通っていない)初めて他の誰かの目に自分の絵がさらされることになったのだが、このコト自体は別にどうでも良かったし(描き終わってるからね)それでナニかの賞をもらっても、格段満足した試しもない。むしろ「なにがよかったんや?」と疑う始末である。

というのも、小学生低学年時代のボクの絵の評価はものすごく不安定で、同じ担任の先生でも良し悪しがコロコロ変わるのだ。こんなワケの分からない評価基準にイチイチ付き合うほど、ボクは社交的ではなかったので、さっさと自分が楽しいと思うことだけをやるコトにした。クラスメイトの絵と比較すらしてなかったんちゃうか? そもそもボクが気をとられる絵がなかったし。

これで色々問題やら事件を起こしているのだが、どうでもよろしい。

描き直しや塗り直し(これは正直めちゃめちゃ腹が立った)はしょっちゅうだったし、それでもこっちはもう完全にふてているので、どれだけ枚数を描かされようが絶対に先生の意に沿ったようなことはしてあげない。

向こうが諦めるまで、とにかく好きに描いては提出し、突き返されまた好き勝手描きを延々繰り返すのだ。実際、お袋はこの件で学校に呼び出されているのだ。まぁお袋はお袋でいつもの「余所は余所、ウチはウチ、どうぞ0点にでも何でもしてください」と抜かす始末である。相当イヤな親子やなぁ。

我が家の「余所は余所、ウチはウチ」は、今で言う自己責任論とは恐らく根本的に違うと思う。完全に分かってやってるからね。他人様のせいにする気は毛頭ない。

そもそも他者の押しつけを徹底的に嫌がるのだ。自分で決めたことしかしない以上、その責任が自分に降りかかるのはむしろ当然であり、それこそ他者に責任転嫁などもってのほかであり、これはおねえちゃんにだって徹底している。それこそ4代以上続いている鉄の掟なので、重みも説得力も一族内にいれば当然圧倒的になる。

そもそもこの鉄の掟を生み出したのが、人格的にも社会的にも本当に立派な人格のご先祖様だったりするので、どうしようもないのだ。あ、社会的に立派というのは資産家という意味ではありません。こっち方面はむしろ貧乏そのもの。

資産はそれこそめちゃめちゃあるのだが、自分や家族のために使うことを拒否した人だったのだ。こんな人がいると子孫は実に大変な目に遭うのだが、もうこればかりは仕方ないし、おねえちゃんにも「おねえちゃんもこういう血族の末裔だからあきらめろ」とあっさり言ってる。

ここで「ええ!ウソやろう」とならずに、「そうか、しゃぁないな」となるのもおねえちゃんだったりするので、我が家的におっけーなのだ(本当にイイのか、それで?)。

それはともかく、低学年の時は徹底的に拒否しまくったので、図工の授業ほど苦痛なものはなかった。かと言って、他の科目はちゃんとやったかというと、もちろんそんなことはなく、面白そうなことしか熱心にしなかった。当然、通知表の評価は無茶苦茶である。

テストでさすがに0点はなかった。単に教科書と副読本を読むのが面白かったので、それなりに書いてあることは知っていたが、授業はまったく聞いていなかった。

それでも面白そうな所は隅から隅を通り越して、家に帰ってから百科事典で調べるぐらいのことは普通にやっていたので、テストの結果は相当バラツキがあったものの、それほど酷い点は取っていない。義務教育レベルなら教科書熟読すればほぼマスター出来ますよ。これすら出来ないという方がボクには不思議でしかたがない。

それはともかく、努力はほとんどしていないのだ。とにかく面白い事しかしない。これは初等教育におけるボクの経験が、元々の悪い癖に拍車を掛けただけの話だ。

それでも、小学校に入った時に初めて出くわした「同級生」という概念(!)には正直驚いた。学年が一緒なだけでこれだけ色んな人がいる、というのは結構なカルチャーショックで、これには本当にたまげた。が、すぐに「めんどくさ」となったのも事実である。

当たり前の話だが、集団活動ではそれなりの規律や気配りが必要である。これだけでも十分面倒なのに、頼んでもいないことやワケの分からない嫌がらせをする馬鹿が周りにいれば、もう完全にこっちが見放しますよ。

ボクの場合は「無視」。これが一番エネルギーを消費しなくてイイし、楽ちんである。間違っても反論したり、親に報告したりとかしない。それこそエネルギーの無駄遣いだからだ。

もう完全にボクの独断でしかないのだが、馬鹿の相手ほど疲れることはない。無駄骨だし、実際これは低学年の時に二度ほど抵抗して、すぐに「もうこいつらあかんわ」と担任の先生もろともクラス全体を、ボクのほうから見放しているのだ。この件以来、ボクは基本一人でいることにした。

ここに通知表という得体のしれない評価が加わると、もう完全にこっちは混乱する。集団にいる以上は、成績という形でそれなりのヒエラルキーが作られるのだが、ボクの通知表に限って言えば、この評価が異常に上下していた。ちなみにこれは、社会人になってもまったく改善されていない。

当たり前である。面白そうなことしかしないのだ。5段階評価で1学期5だった学科が2学期に1になるなど日常茶飯事だった。タチが悪いのは5という評価が出てきてしまうことである。ちなみ10段階なら10です。中学以降の定期試験の席次だって滅茶苦茶だったし。

さすがに中学・高校になると、最初は戸惑っていた先生方もボクの「好きなことしかやらない」癖に気づく。下手に高得点とか、ほぼ全科目で取れたりするので(全科目同時は一切ありません)「努力して安定した好成績を残す」ことを当然期待するし、これもイチイチ通知表に書かれるは、親には言われるは、挙げ句の果てには妹にまでとばっちりがいったらしいのでボクとしては正直迷惑だったりもする。

もちろん、好意でしてくださっているのは百も承知です。先生方に悪気は1mmもない。教育者の立場としては当然の行為に過ぎない。それがこっちも分かっているから、余計に身の置き場がなくなる。

とか言いつつ、登校拒否など思いつきもしなかったし、平日学校に行かないという選択肢は基本一切ない。自分でこれ書いてて「こいつの頭おかしいんちゃうか?」と本気で思いだしたぐらい狂ってるよな、これは。

よくよく考えたら、高校時代に登校してなんか頭がぼーっとすると思って保健室に行ったら、熱が40度出ていて、そっこー帰されて2〜3日休んだ以外は、ほとんど登校してるんとちゃうか? 発熱に気がついていないというのもどうかと思うが。

それはともかく、やはり周りの人や環境に恵まれていたのだとしか思えない。そういう意味では、抜群に運が良かったと思う。小学校の中学年になるのと同時に転校したのだが、この時になってやっと少し人付き合いを始めたのかな? それでも人数はめちゃめちゃ少ないけど。

好意的に接してくれれば、クラスメイトや他のクラスの子、上級生、下級生、先生、このへんは区別しなかった。それでも、深入りすることだけは可能な限りしなかった。しなかったと言うよりも、面倒臭かったが正しいのだ。

こんな面倒くさがりが、本気で積極的な行動に出るのは相当異常な事態だが、これまた小学校・中学校時代に2〜3の事件を起こしている。この辺はもう説明するのが面倒臭いので端折るが、要は「キレた」のだ。面倒くさいを感情が上回ってしまったわけだ。結果、「お咎め無し」と「あいつヤバい」になったことだけ記しておく。

まぁ「あいつヤバい」のおかげで、周りがほっておいてくれるようになったので(!)ボク的には結果オーライなのだが、何しろ本来なら面倒臭くて絶対にしないことをせざるを得なくなったのだ。これだけでボクとしてはもう大迷惑なのだが、さすがに後の騒ぎまでは想像してなかったなぁ。

この時の経験があるので、集団にいる時は基本自分の中にある「キレる」スイッチには相当気をつけている。このスイッチが入ったら、めちゃめちゃ疲れる上に不毛な結果しか生まないのを、小学校の時に実体験として知ってしまったからだ。

ちなみに、「キレたフリ」は割とよくやる。社会人になってから特によく使うようになった。これで周囲は大抵ほっといてくれるしね。

それでも感情の抑制は、基本していないのだ。そもそも我慢が出来ないし。特に自分のこととなると、リミッターは常に解除している状態である。人付き合いの時はさすがにがっつり抑制しますが、それでもいい加減なので割と分かりやすく顔に出るらしい。

これはこれで結果オーライで、ボクが「イヤな人」と思えば露骨に顔に出るので、そういう人は二度とボクに近づこうとしない。こういうのを「ウインウイン」という(ウソだ)。

腹の探り合いだって面倒臭いからやらない。やらないけど何となく「ああ、この人相手にしてても無駄やわ」というのにだけはやたらと敏感なので、さっさと聞いたフリだけして流す。

他者との良好なコミュニケーションを行うには、それなりの手順なり暗黙のルールが必要なわけだが、ボクは知っててやらないところが多々ある。これまた面倒臭いの一言でバッサリいってしまう。

何が面倒かと言って、それだけの手順を踏んで良好な関係になったとしても、相手が馬鹿では意味がない。ただこっちが疲れるだけだ。だったら最初から積極的なコミュニケーションなど破棄してしまった方が気が楽だし、いい人なら(馬鹿も混じってるけど)向こうがちゃんとしてくれる。

ボクは素直にほいほいのっていればイイだけの話だ。かといって、このような都合のイイ話が世の中ごろごろあるわけではない。極めて特殊で稀少な例である。だからボクの人間関係は極めて狭い。それでも結構手一杯なんですがね。

この辺の機微が露骨にあらわれたのが、今は閉鎖しているボクのまともな方の(!)HPである。まずUIからして不親切にも程がある。何しろどこをどう押したらどうなりそうか、という匂いすら漂わせていないのだ。

カーソルが所定の所に来たら、そこのブロックが反転したり、色が変わったりするようなことは一切していなかった。そういうシステムそのものが、ボクには面倒で仕方がないのだ。

多分、CSSが出始めの頃が最後だったと思うのだが、とにかく面倒臭い。ボクにはプログラムなど興味の対象外だし、勝手に用意してくれるサービスのものなど怖くて使えない。というか、使う気にさせてくれるようなものは皆無だったし。この辺は無駄に厳しい(笑)

とにかく、ボタンやらカラムやらがやたらと沢山あって、それが見ていて邪魔で仕方なかったのだ。だから最終的にはFlashで作るという暴挙に出ている。確か固有のスクリプト名があったと思うのだが忘れた。その程度ですよ、暴挙といっても。

この時は知人のとある人に散々迷惑を掛けたのだが、彼から「藤原さん、ちょっと不親切すぎですよ」と苦笑混じりに言われたもんだ。イヤ、マジメな忠告ですよ。それはボクも分かっている。それでもやらない。

面倒臭いし、そもそもわざわざ見に来るような奇特な人がいるかどうかすら、ボクは疑っていたのだ。そんなもんにエネルギーを使いたくない、というのがボクの率直な意見だ。

「不特定多数の人に情報を発信する」ためのツールとしてHPを作っているのに、この体たらくである。どうしようもないではないか。こちらからコミュニケーションを積極的に拒否していると思われても仕方がないのだが、それも承知でやっていた。

もっとも、Flaah Playerが悪意のある使い方をされて、メイン・ブラウザから外されていくようになったので「この辺が潮時」と嬉々として閉じたのだ。更新ももう面倒になってたしね。

そもそも様々な、いわゆる「イラストレーター年鑑」らしきものにも、ボクは成果品をほとんど発表していないのだ。

ちゃんとしたところから無償でページ提供の打診もあったのだが、これらの好意をボクは尽く握りつぶしている。さすがに「面倒臭い」というワケにもいかなかったので「あくまでも文章がないと成立しない絵しか成果品はないので、絵だけ独立して取り上げられるのは本意ではない」と丁重にお断りしたのだ。

実際、この理由はウソじゃない。最も重要な断る理由でもないんだけど。あくまでも根っこは「面倒臭い」である。

とにかく、成果品をセレクトすることを考えただけでうんざりする。それでなくても、描いてしまったものは見向きもしないし、さっさと忘れてしまう人がどれだけの量とヴァリエーションが成果品にあるのかを、把握しているはずもない。

更に「どこに特化するのか」という問題も出てくる。実はここが一番困るのだ。

ボクは来るお仕事は断らない。どんなジャンルだろうが、どれほど新人だろうが、逆に大家であろうが、態度は「やらせて下さい」である。

そもそも「文章を良く絵にする」コトに特化しているだけなので、絵そのもののスタイルなど二の次にしている。とてもではないが、こんなことを他の同業者に混じって説明しようとは思わない。異常だからね、こういう態度自体が。

「来たお仕事は断らずに誠実にしますよ」だけしか言えないので、絵だけ出しても意味ないのだ。もっとも相手がちゃんとしてくれなきゃ、それなりの報復はしますが、あくまでも受注産業だし、こちらは個人である。組織に敵うはずがない。これで一社確実に冷戦状態になっているし、その余波だって決して小さくはない。

しつこいようですが、自分で追い込んでいるわけではない。というか「追い込んでる」とも思っていないし。完全に歪なボクの性格に起因しているので、個人的にはノー・プロブレムである。居直ってるわけでもないです。「自分らしさの追求」というような高尚なことでもない。ただひたすら面倒臭いだけの話なのだ。

「自分らしさの追求」をマジメにすれば、創作だってそれなりにできるだろうし、実際にこの稼業をするにあたって試みてはいる。

ここで再三取り上げているボクの歪な「創作論」の骨子は、この時にほぼ完成したし、あとは知識が増えたら増えただけ先鋭化する一方なので、創作などとんでもなく面倒な話にしかならないから、怠け者のボクはさっさと創作なる行為を放棄しただけだ。

「創作」という概念だって素朴な疑問の発露であり、あとは毎度の如く気が済むまで(あるいは飽きるまでか疲れ果てるまで)徹底的に調べ上げ、考察したのだ。

これはもう完全に楽しい部類なので、それこそ根掘り葉掘り調べまくりましたよ。洋の東西を問わず、あらゆる分野のそれっぽい資料は一通り目を通したし、それこそ宇宙の誕生まで遡ったりもしている。

その結果が、「創作など到底不可能」という身も蓋もない結論になったのには、やはりボクの性格があるのだろう。まったく同じ調べ方をして、ポジティブな結論に辿り着く可能性をボクは否定しないが、少なくともボクには無理。

もしボクがポジティブな結論に達していたら、それこそ創作そのもにだって、差して躊躇うことなく手をつけていただろうし、上記した「イラストレーター年鑑」にだって、平気な顔をして掲載してもらったりしていただろう。

創作については師匠とも話したのだが、「わしらネクラだからまともなもんできひんで」という結論で、お互いあっさり笑って解決した。こういう師弟関係も正直いかがなものかと思うが、逆にこういう反応をしてくれるから安心して師事できるのだ。

話は逸れるが、師匠の脳内シミュレーション能力は完全に化け物のレベルである。ボクなど足元にも及ばない。原稿を見せてもらったことがあるのだが、「これはとてもではないけどボクが作るのは無理やわ」と思った。ああ、もちろん印刷原稿です。

ものすごく細かく丁寧に注意書きをしているのに、印刷会社が「意味分からない」と言いだして、製版工場まで足を運び、現場に立ち会わないと製版すらままならなかったという一品。

今思い出しても無茶苦茶だし、あれに比べればボクの原稿なんぞカワイイもんである。ちなみにこの時の原稿をボクが作るのは無理ですが、内容もどう印刷したらいいのかも、ボクはすぐに分かりました。ちゃんと書いてあるからね。想像力が足りないから分からないだけの話だ。こんなんが製版にいたらあかんねんで、ホンマは。

まぁ、こんな人達ばっかり相手にしているから、こっちはどんどん気楽になれるのだが(挿絵業界となるともう沢山いる)、はっきり言って時代遅れどころか、価値観そのものが現代では通用しないし、それこそ「ヤバい話」にしかならない。実際、ボクもそういう扱いだしね(笑)

しかし、ボクには彼らの話が不思議と「ヤバい話」には聞こえないのである。むしろ「ああ、なるほど」としか思えない。ボクに比べれば人格だって圧倒的に練れてるし(ものすごい年上やからな)、温厚そのものである。やってることは無茶苦茶だけど。実際、憧れますよ。

じゃ、そうなるように努力するのかというとやっぱり努力しない。そうなろうと色々するけど、これは努力でもなんでもなく単に楽しいだけなのだ。

実際、先輩方がやっておられた時とは違いすぎるのだ。もちろん、今も現役の先生は大勢いらっしゃるが、こうした皆様は既に業界内でのポジションをそれなりに確立しているので、大勢には影響ないだろう。ボクみたいに使い捨てが出来るコマは、勝手に向こうからじゃんじゃん飛び込んでくるし、重要な案件だけ任せておけば問題ないのだ。

さすがに「完全に老人性痴呆になっているのにゲラを読み始めると絵を描き終わるまで正常に戻る」先生の話を聞いた時はビビったが、よくよく考えれば、そうなるのがこの先生にとっては自然なのだ。

もちろん件の先生が意図してそうなったはずもなく、それを聞いたボクは自分に置き換えて(そこまで長生きする気は毛頭ないけど)「長生きして実現できたら笑いのネタにはなるな」と密かに思ったのも事実だ(失礼だし迷惑)。

次のお仕事の打ち合わせが終わった直後(まだ担当さんが帰りかけた時)に、老衰でポックリお亡くなりになられた方もいらっしゃるが、それこそ「エカキ冥利につきる」と思った。死因はもちろんよくある「急性心不全」だ。

昨日の晩まで元気にピンピンしてた人が、翌日朝にお亡くなりになっている例をボクは二度ほど見ている。祖母と曾祖母である。寝てたか起きてたかの違いはあるにせよ、打ち合わせをしていた時はピンピンしていたらしいので、似たようなもんだろうとボクは思っている。なにしろ前兆がないんだから。本人もやる気満々だったようだし。こういうのを大往生というのだ。

前にも「覚悟」という言葉をよく使っているが、実はこの「覚悟」だってボク的にはそれほど大層なことではない。なにしろ徹底的な怠け者がする「覚悟」にどれほどの重さがあるというのか? まぁめちゃめちゃ軽いですよ(笑)

「覚悟」の数だって片手で済む程度しかないし。もちろん、その片手で済む「覚悟」から派生するものはそれなりにありますが、それだって本業以外の所はほとんどほったらかしにしているし。

これだけ手を抜いているのに神経が崩壊するというのは、怠け者以前に生き物としてどうよ、とも思うのだが、これまた今更どうこうなるもんでもないので、さっさと努力を放棄した。せいぜいお医者さんに行ってお薬をもらうだけだな。

そもそも薬物に依存して生きるコト自体、ボクに言わせれば不自然そのものであり、本来ならとっくの昔に死んでいて当然だったのだ。「タチの悪い風邪」と勘違いして、おねえちゃんの保育園の近所のお医者さんに行ったのが運の尽き(?)、神経がズダボロになっていることを発見されてしまい、対処療法としての投薬で生き延びているに過ぎない。

この時にお医者さんに行かなければ、とっくの昔に死んでいてもおかしくない。そこまでグチャグチャになっていたようだ。

「ようだ」というのも無責任極まりないように聞こえるかもしれないが、なにしろこっちはそこまで深刻に考えていたわけではないのだ。「タチの悪い風邪」と断じていることでも十分にご理解いただけると思うのだが、いかがなもんだろう?

吐血だって死んでも不思議ではない出血量だったのだ(というか、らしい)。救急車をとっさに呼んだのは「大家さんに迷惑を掛けてはいけない」という明後日の理由からであり、移動中の救急車内なり、病院で死ぬ分には別に何とも思っていなかった。むしろ、死に場所としては「ラッキー♪」ぐらいの勢いである。

吐血するぐらいだから相当な痛みはあったんですよ。それでもお医者さんに行かなかったのは、それこそ医者嫌いと面倒臭いの複合だったからに過ぎない。お医者さんに行くよりも、痛みを我慢した方がマシというどうしようもない理由だ。

自分自身の「死」に関しては、おそらく一般的な人達よりも寛容だろうと思うが、最初からこうだったわけではありません。

「タチの悪い風邪勘違い事件」の時は、ほとんど臨死体験に近いところまで行ってるし、「明日も生きて起きられるのか?」という恐怖の日々でもあったことは以前にも白状してるはずだ。

冗談抜きで自分の身体から「死の直前の匂い」がしたときは、本当に怖かった。まぁこの時は本業で抱えてる案件が中途半端にあって、「まだ終わっていない」ということで恐怖したことも以前に白状しているが、実際そうなのだ。

これはマジメとかそういう問題ではなく、とにかく引き受けたお仕事は最後までやりたい、というボクのワガママ以外のなにものでもない。「死」に今目の前にある楽しみを奪われるのがイヤだった、と言った方が分かりやすいのか?

とにかくこの時の体験はキョーレツだったし、後にも先にもこの時ほど死に怯えたことはない。今はだいぶてきとーになってるな。本気で「死んだらその時まで」と思っているし、今やっている創作もどきでジタバタしている間に死んでも別に何とも思わないだろう。

それなりに死を回避する手段はとっていますが絶対ではないし。色々と運試し的な要素満載ではある。そもそも回避の仕方も相当てきとーだからなぁ。

結局のところ、「面倒臭い」という分かりやすいにも程があるのが怠け者の本質だろう。

それにしても「よくまぁ、これだけアホな事例を列記できるなぁ」と、あきれる方も少なくないと思うが、これは自虐ネタでもなんでもないのでご注意願いたい。怠け者である以上、自覚しておかないといけないコトは、ここに書いているだけでは到底済まない。面倒になったからこの辺でやめるけど。

自分の取扱説明書の超ダイジェスト版みたいなもんだ、呵々♪


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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編集後記(08/30)

●偏屈BOOK案内:春日武彦・平山夢明「サイコパスの手帖」

自らを「顰蹙ものの隠れサイコパス」という作家と精神科医による放談大会。調律の狂った人たちをネタに延々と語り続けるんだから、こりゃまとめるのが大変だよ、編集者は。いまどきの「文字起こし」はどうやっているのか知らないけど。音声データ自動テキスト変換ツールなんてのがいくつもあるんだね。対談形式だが、話がつながってないじゃないか、って部分もあったりする。

春日が個人的に気になっているのは、「座間9遺体事件」だという。事件の真相とかではなく、世間の事件に対する急速な冷めっぷりに。平山も、あの事件は宮崎事件とか酒鬼薔薇事件ぐらいおかしな話だと応じる。春日が思うには、あの事件が今どうなっているのか、深追いも深掘りもないのは、それを世間が求めていないような気がする。確かに完全に忘れられた事件になっている。

(以下、二人の発言をmix)今でも疑問に思うのは「ひとりでやれたのかな」ということだ。9人も部屋に引き込んで殺すなんて、とんでもない根気と労力が要る。住宅街の普通のアパートで、部屋の広さも13.5m2しかない。そんなところで遺体の解体なんかできるかね。本当だったらすごい体力と気力だ。

こんな凄惨な事件が起きても、「ま、そういうこともあるんじゃないの」という程度の反応で、報道も短期間に終わった。「あんなこと本当に可能なのか」という謎は残ったままである。もしあの狭いアパートで本当に全部やっていたら、日本犯罪史上でも相当に稀有な事件のはずなのに、報道はけっこうショボかった。犯人像をふくめ、後追い記事が全然出ないというのも変な話だ。

なにかそこに触れてはいけない部分があるのかと勘ぐりたくなる。隠蔽されて
いるものがあるんじゃないか。おそらく事件の関係者とかに、エラい人がいる
んですよ、きっと。日本における「ダークマター」ですよ! 「それは触れて
はいけない」って感じで。みんな躊躇しちゃってるんじゃないですか。うーむ。

最近は変な事件が起きると、ワイドショーとかに精神科医がコメンテーターと
して出たりするが、なんであんなポンコツな奴ばかりなのかと春日が憤る。酒
鬼薔薇事件のときに臨床心理士の学会らしきものが緊急に開かれて、いちおう
専門家の話が聞きたいみたいな感じで春日が呼ばれた。「神戸の事件をどう思
うかと聞かれ「あれは、ただのレアケースでしょ」と応じて会場はドン引き。

つまり会場にいた人たちは、事件を「時代の病理」とか「心の闇」とか「良心の喪失」というような文脈で解釈したがっていたわけで、春日の「レアケース」発言は大きく滑った。酒鬼薔薇の治療・矯正に当たったチームがあるが、その後の酒鬼薔薇の行動を見れば、明らかに失敗だった。何の解明もされていない。

この本には「精神科医と作家にとってのトラウマ映画」という章があり、二人合わせて33本のタイトルが並ぶ。一本として被りがない。トラウマは「心の傷」なんて言われるが、精神医学的には「記念碑」という表現がしっくりくるという春日。「記念すべきこと」であって、そんなにネガティブにぐじぐじと言うことではないんだよと言う。「だからどうした」という精神科医って。(柴田)

春日武彦・平山夢明「サイコパスの手帖」2019 洋泉社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4046040793/dgcrcom-22/



●世界柔道選手権。男子81kg級決勝動画は、テレビ局サイトに結局上がってこなかったわ。テレビでは技ありリプレイ明けに、勝敗が決まって、選手が喜んでいる姿を見ただけ。どんな技で終わったのか見せてよ〜。速報サイトの試合動画は日本では見られないのよ〜。

/レジ話続き。ショップ公式アプリの割引クーポンのQRコードに、リーダーがかざされると、レジの合計金額が自動的に変わった。「それから〜」と言いつつスマホ操作をしている最中に金額が告げられたが、そのまま別アプリにあるギフト券を提示したら「同時には使えません」とのこと。

スーパーなら割引後に金券使えるけどなぁと思いつつ、「では割引分をキャンセルして、ギフト券だけを使いたいのですが」と伝えたら、「できないんです」。

「使えなくなりますがいいですか?」と言われたので、いったん読み込んだクーポンは使用済みになってしまい、次の時に使えないってことねと解釈し、月末期限のギフト券を使いたいので「いいですよ」と答えたら、「キャンセルできません」と。(hammer.mule)