まにまにころころ[164]ふんわり中国の古典(論語・その27)君子の道で貴ぶものは三つある
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。八月、終わっちゃいましたねえ。暦の上ではセプテンバー。ガンガンにエアコンつけていますが、気分だけはもう秋になっちゃった感。

いや、気分だけじゃなかった。週末、なくなる前に夏物を買い足しておこうとユニクロ行ったら、もう完全に秋物に変わっちゃってて。汗だくで行ったのに。オンラインストアでも夏物はもうほぼ欠品。早いよ。

でも、もう季節の変わり目なんですね。寒暖差が大きくなったりと体調を崩しやすい時期、皆さんお気をつけください。

では、本題に移ります。






◎──巻第四「泰伯第八」一

・だいたいの意味

泰伯こそ至徳と言えるだろう。三度も天下を譲ったのだ。民はそれを知らず、称えることもなかった。

──巻第四「泰伯第八」一について

ちょっと分かりにくいですね。泰伯(たいはく)は人名で、太伯とも。

殷王朝の時代のこと。周の国王に三人の息子がいまして。その長男が泰伯です。弟である三男に昌(しょう)という息子がいて、その昌はとっても優秀な子で。国王もその昌をとってもかわいがっていました。

泰伯と弟である次男は、父王がゆくゆくは昌に王位を継がせたいんだろうなと察して、国を出たんです。三度も天下を譲った、というエピソードは伝わっていないようですが、父の意を汲んで王位を手放したと。

孔子先生は泰伯を至徳って言ってますが、次男も一緒に譲ってるんですけどね。

で、まあ、そんなことがあったんですが、さりげなく身を引いたこの話は、民には伝わらなかったのか、とりたてて称えられることもなかったとのこと。

前回、「述而(じゅつじ)第七」三十で、魯国の昭公が、呉から同姓の夫人を娶ったという話があったのを覚えてますでしょうか。その呉の国を建てたのが、周を去った泰伯と次男の兄弟だと言われています。

魯は周公旦の国なので、周、魯、呉は親戚でして、姓は「姫(き)」です。

封神演義好き、あるいは周の建国話が好きな方はピンときたかもしれません。泰伯が国を譲った、三男の息子は昌。つまり、あの姫昌です。周の文王です。武王・姫発と周公旦のお父さんです。伯邑考の肉を食べさせられた姫昌です。

ということは、泰伯が身を引いたことが、結果としてはめぐりめぐって、周が殷を倒すことに繋がっていったんです。

周を理想として、周公旦を尊敬してやまない孔子先生ですから、泰伯を至徳と称えるのには、その辺りのことも関係しているのかもしれません。

父の意を汲んで、そっと弟と甥っ子を立てて身を引いた泰伯と次男。もちろん、周から「出ていかないでよ、帰っておいでよ」って迎えは来たんですが、二人は髪を切って全身に刺青を入れて「ほら、もう周にはふさわしくないから」と断ったそうです。

ちょっと泰伯の話が長くなってしまいましたが、まだ続きます。

この泰伯兄弟、呉を建国したらしいとさっき書きましたが、実はもうひとつ、泰伯たちが建てたという説がある国があるんです。泰伯たちというか、末裔が。

なんと今も続いていて、今これを読んでる方なら誰もが知ってる国です。

……日本です。

神武天皇の祖先が泰伯であるとの説が古くからあり、時代時代で議論も起きているようです。どれくらい古くからかと言うと、中国では唐の時代には。日本でも南北朝の時代にはその説が伝わっていたようです。

真偽は確かめようもありませんし、神話との兼ね合いもあって面倒くさい話となるかもしれませんけど、個人的にはロマンあっていいなと。

キリストが生き延びて日本に辿り着いていたって話よりは好きです。(笑)


◎──巻第四「泰伯第八」二

・だいたいの意味

うやうやしく振る舞っていても、そこに礼がなければ苦労するだけだ。
慎ましやかに振る舞っていても、そこに礼がなければびくびくするだけだ。
勇ましく振る舞っていても、そこに礼がなければそれは乱暴なだけだ。
実直に振る舞っていても、そこに礼がなければ窮屈なだけだ。

君子が近親者に手厚く思いやりを示せば、民も仁の心をおこすし、昔なじみを忘れないでいれば、民も情に薄くならない。

──巻第四「泰伯第八」二について

立派に思える態度も、そこに礼で芯を通さないと残念な結果になるって話です。

君子が〜以下の部分は前段とは繋がらないので、別の章とすべきものが手違いでくっついてしまったんだろうとのことです。


◎──巻第四「泰伯第八」三

・だいたいの意味

曾子が重い病に伏した。門人を集めて言うには、私の足を見なさい。私の手を見なさい。詩に「戦戦兢兢として、深淵に臨むがごとく、薄氷を履むがごとし」とあるが、これから後は、私はもうその思いを免れるのだよ、君たち、と。

──巻第四「泰伯第八」三について

分かりにくいですね。曾子は手足、要するに体をとても大切にしてきたんです。慎重に慎重に体を気遣ってきた。死期を感じた曾子は、最後までしっかり守り抜いた手足を見せつつ、もうこれからは慎重に気遣う必要も無くなるんだと。

最期の時が近づいている。でもほら、体はずっと大切にしてきたんだよ。もうその気遣いもいらなくなるみたいだけどね。

病床の師匠に呼ばれて、そんなことを言われた門人たち。泣けますね。

曾子は別に、健康オタクとして手足を自慢する話をしたわけではありません。『孝経』という経書があります。孔子が曾子に対し孝の道を説く形式を取った書物で、孔子の作とも、曾子の作とも、曾子の弟子筋の作とも言われる書です。

おそらくは曾子の弟子筋の作というのが正しいように思いますが、誰が書いたのかはさておいて、孝といえば曾子、という認識が当時あったんだと思います。

その『孝経』の冒頭に、「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という一節があります。

髪の毛一本、皮膚一枚、身体というものは全て父母から授かった大切なもの。それを傷つけることのないように努めるのが、孝の第一歩だと言うんですね。

漫画や小説で『三国志』が好きな方は、身体髪膚これ父母に受くと聞けば、夏侯惇のエピソードを思い出されるのではないでしょうか。呂布討伐の戦場で流れ矢が左眼球に刺さった夏侯惇は、矢を眼球ごと引き抜くとそのまま食べたという話。描かれ方は色々ありますが、名シーンの一つです。

吉川英治『三国志』では、

曹操麾下の夏侯惇は、呂布の大将高順と名乗りあって、五十余合戦ったが、そのうち高順が逃げだしたので、「きたなし、返せ返せ」と、呼ばわりながらあくまで追い馳けまわして行った。

すると、高順の味方曹性が、「すわ、高順の危急」と見たので、馬上、弓をつがえて、近々と走り寄り、夏侯惇の面をねらって、ひょうと射た。

矢は、夏侯惇の左の眼に突き刺さった。彼の半面は鮮血に染み、思わず、「あッ」と、鞍の上でのけ反ぞったが、鐙に確と踏みこたえて、片手でわが眼に立っている矢を引き抜いたので、鏃と共に眼球も出てしまった。

夏侯惇は、どろどろな眼の球のからみついている鏃を面上高くかざしながら、「これは父の精、母の血液。どこも捨てる場所がない。あら、もったいなや」と、大音で独り言をいったと思うと、鏃を口に入れて、自分の眼の球を喰べてしまった。(「草莽の巻」健啖天下一 六)

「夏侯惇か、その眼はどうしたのだ」曹操の訊ねをうけて夏侯惇は片眼の顔を笑いゆがめて、「先の戦場において喰べてしまいました」と、仔細をはなした。

「あははは。わが眼を喰った男は人類はじまって以来、おそらく汝ひとりであろう。身体髪膚これ父母に享くという。汝はまた、孝道の実践家だ。暇をつかわすゆえ、許都へ帰って眼の治療をするがいい」(「草莽の巻」黒風白雨 三)

このように描かれています。

なお『孝経』は、日本にも奈良時代には伝わっていたようです。

話がだいぶ逸れつつありますが、さらに逸れてみましょう。

「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と、体を大事にすることが孝の始めというなら、終わりは何か。これもセットで書かれています。

「身を立て道を行ない、名を後世に揚げ、もって父母を顕わすは、孝の終わりなり」

身を立て名をあげ「ああ、あれは誰々さんのお子さんだよ」と父母の名も顕彰されるようになることが孝のゴールだと。

身を立て、名をあげ……中年以上の世代は、どこかで聞いたフレーズですよね。「仰げば尊し」の一節です。二番の歌詞ですね。

「仰げば尊し 我が師の恩」なんて歌詞を、当の教師に歌わさせられるというのはどうかなんて言いがかりじみた話もあって、最近は歌わないそうですが、昭和生まれにとっては卒業式の定番ソングでした。いい歌なのに。

さて、曾子の話、ここからしばらく続きます。


◎──巻第四「泰伯第八」四

・だいたいの意味

曾子が重い病に伏した。孟敬子が見舞うと、曾子が言った。

鳥がまさに死なんとする時、その鳴き声は悲しい。人がまさに死なんとする時、その言葉は善いものだ。

君子の道で貴ぶものは三つある。容貌に気をつければ、周囲の暴力や傲慢を遠ざける。顔色を正せば、信に近づく。言葉に注意すれば、卑俗なものを遠ざける。祭器のことなどは担当官に任せておけばよい。

──巻第四「泰伯第八」四について

孟敬子(もうけいし)は魯国の重臣です。

鳥がまさに〜のくだりは、当時のことわざらしいです。死に臨んでの言葉には虚飾もない真実の重みがあるものだと。

だから聞いてね、と言ってるんですね。そう前置きして曾子は、為政者としての心構えを語ります。

姿かたちに気をつけること。見た目だけでなく、振る舞い方も含めてですね。すると、暴力的な行為を誘発したり、侮られたりしにくくなると。

若き日の織田信長が斉藤道三に会いに行くエピソードがありますよね。当初、とんでもない格好で美濃にやってきて、それを物陰から観察していた道三は、信長を侮り、これなら潰してしまえる、いっそこの機に消してしまうかなどと考えるんですが、いざ面会の場には居住まいを正し堂々たる姿で現れた信長を見直したとかなんとかっていう話。あの話を思い出しました。

そして、表情に気をつけること。チャラチャラした顔をせずに、重みと威厳を表情に宿すことで、誠実なやり取りができるようになると。

みっつ目の、言葉遣いに気をつけるというのは、そのままですね。

そういった大事なことをしっかりと押さえることに注力すべきで、祭祀の備品がどうのなんて些事は担当官に任せなさい、と。


◎──巻第四「泰伯第八」五

・だいたいの意味

曾子が言った。本人には十分な才能があるのに、才能が無いものにまで教えを請い、豊富な知識を持ちながら、知識の少ない者にも教えを請う。有れども、無きがごとく。十分持ちながらも、空っぽであるがごとく。何者かに攻撃されても手向かいしない。昔、私の友はそのようであったよ。

──巻第四「泰伯第八」五について

謙虚さをずっと持ち続け、また争いごとを好まない。そんな友だちがいたと。内容はそのままですが、その友というのは顔回のことだというのが定説です。顔回のほうが年齢はずいぶん先輩ですが。

誰のことかと確定する証拠はないんですが、曾子の身近な人でそんな人なんて顔回くらいしかいないだろうとのこと。


◎──巻第四「泰伯第八」六

・だいたいの意味

曾子が言った。幼い孤児を託すことができ、百里四方の国の政治を任せることができ、大事に臨んでもその志を曲げない。そのような人は君子か。君子だ。

──巻第四「泰伯第八」六について

曾子が思い描く君子像を自問自答しています。

井波律子『完訳論語』に書かれていて「本当だ、まさに!」と思ったんですが、曾子の生きた時代よりずっと後の人で、まあ主に創作物の中での話ですけど、ここで曾子が思い描いている君子像に、ビックリするくらいに当てはまる人がいますよね。劉備から劉禅と蜀国を託された諸葛孔明です。

『三国志演義』の作者は曾子の言葉を踏まえてイメージしたのかもしれません。


◎──巻第四「泰伯第八」七

・書き下し文

曾子曰わく、士はもって弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁もって己が任と為す。また重からずや。死して後やむ。また遠からずや。

・だいたいの意味

曾子が言った。士というものは、度量と、強い意志がなくてはならない。その任務は重く、道のりは遠いのだから。仁こそが己の任務であると自認するのだ。なんと重いではないか。そして死ぬまでやめないのだ。なんと遠い道のりか。

──巻第四「泰伯第八」七について

士というものは、と、ここでいう士は、文意的に「仁の道を志す者」ですかね。孔子先生を師と仰ぎ、仁の道の実践者とならんとする門下一同に向けた言葉と考えていいんじゃないでしょうか。


◎──今回はここまで。

今日は曾子の話が続きましたが、曾子といえば孝、孝といえば曾子です。

ずっと前、ここで『孫子』の話の中などで「武経七書」について触れたことがあったと思いますが、武経七書のうち『呉子』を著したとされる呉起は、曾子の門人だったそうです。

『孫子』と並び賞されるほどの兵法書を著した呉起ですが、軍事で頭角を現す前は仕官先も見つからないまま家の財産を食いつぶし、そのことを馬鹿にした人間を殺害して故郷を去ったという、まあ、ろくでなしです。

そんな事件を起こしたために、母の死に目にも会えず、葬儀にも出られずで、不忠者として曾子からは破門されました。

馬鹿にしたやつを殺害したからでなく、母の葬儀に参列しなかった、というか、参列できなかったからというのが破門の理由であるあたり、曾子らしいですね。

これまで何人も孔子先生の弟子が出てきましたが、曾子、子路、顔回あたりはそろそろ人物のイメージができてきたんじゃないでしょうか。あと子貢もかな。

子貢:秀才。三国志で言えば孔明キャラ?
曾子:親孝行。三国志で言えば劉備キャラ?
子路:一本気。三国志で言えば張飛キャラ?
顔回:実直。真面目で素直で勤勉で、愛されて。三国志で言えば……超雲?

こんな感じでしょうか。この四人だけでもイメージできると、ぐっと面白くなりますよ。

【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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