Otaku ワールドへようこそ![312]床と壁と釘の問題で考える意味の意味/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:20分(本文:約9,600文字)



●次の問題を解いてみてください

出題意図は後で明かすことにして、ちょっと次の問題を解いてみていただけないでしょうか。3つの設問のすぐ後に、私の答えを書きますけど、それを読む前にぜひ自力で取り組んでみていただけると。

【問題】
壁に釘を打った。次いで、床にも釘を打った。釘が水平なのはどちらか。

(設問 1)
あなたの答えを下記(a)~(c)から選んでください。
(a)壁に打った釘
(b)床に打った釘
(c)その他

(設問 2)
あなたはこの問題を易しいと感じましたか、それとも難しいと感じましたか。

(設問 3)
あなたがどのようにしてこの問題を解いたか、説明してください。





では、私の答えを書きます。あくまでも、私だったらこう答えるという回答例であって、模範解答ではありません。正解であるという保証はないし、正解だったとしても、唯一のものではなく、他にもあるかもしれません。

ケバヤシの回答:
(設問 1)
(a)壁に打った釘
(設問 2)
そうとうな難問と感じた。
(設問 3)
下記のように考えた。

(1)3次元ベクトル空間があると仮定する。以降のことはすべてこの空間内でのことと仮定する。
(2)このベクトル空間は重力場であると仮定する。すなわち、空間上の任意の1点に対して3次元重力ベクトルが1本対応しているものとする。
(3)このベクトル空間上のどの1点においても、その1点に対応する重力ベクトルは(大きさ・向きともに)一定であると仮定する。(この仮定は、地球の接平面と地面とを同一視できる狭い範囲内に限って近似的に成り立つものであり、地球の丸みが効いてくる広域では成り立たない)
(4)重力ベクトルに垂直な直線および平面は水平である。
(5)重力ベクトルに平行な直線は鉛直である。また、鉛直な直線を含む平面もまた鉛直である。
(6)水平な平面に垂直な直線は鉛直である。
(7)鉛直な平面に垂直な直線は水平である。
(8)問題文より、壁に釘を打った。
(9)たいていの場合、壁は鉛直な平面とみなすことができる。
(10)たいていの場合、釘は直線の一部とみなすことができる。
(11)たいていの場合、釘は面に垂直に打たれる。
(12)(8)~(11)より、たいていの場合、壁に打った釘は、鉛直な平面に垂直な直線の一部とみなすことができる。
(13)(7)と(12)より、たいていの場合、壁に打った釘は、水平な直線の一部とみなすことができる。
(14)問題文より、床に釘を打った。
(15)たいていの場合、床は水平な平面とみなすことができる。
(16)同様の推論により、たいていの場合、床に打った釘は、鉛直な直線の一部とみなすことができる。
(17)(13)と(16)より、水平な直線とみなすことができるのは、壁に打った釘である。

いかがでしたか? あなたの答えもだいたい同じような感じでしたか?

「んなわきゃねーだろ! おめーは人工知能か?」とツッコミが聞こえてきそうです。

●直感的な解法の裏には論理的思考の支えがあるのか、ないのか

まず、自分の思考過程がどういうふうに湧き出してきたのか、そのココロにあたるところを少々掘り返してみよう。問題文に「水平」という言葉が登場する。この問題が意味のあるものとして成立するためには、まず、水平という概念が意味のあるものとして導入されていなくてはならない。

水平という概念が成立するのは、どのような空間か。無重力の宇宙空間では、成立しえない。重力があったとしても、地球の丸みが効いてくるような大きなスケールでは、水平の向きが一定しない。

宇宙空間では一般に水平という概念が成立するとは限らないので、この問題は不良設定問題である、として、問いそのものを却下してしまうのも、正しい回答のひとつだとは思うが、慣習としてそういうことはあまりしない。

問題に精いっぱい歩み寄り、述べられているような状況が成立するような空間はどのようなものであるかを考え、枠組み設定から入るのが筋というものだ。まず、空間設計から始めよう。

それが、(1)~(3)である。設定した空間上で、水平および鉛直という概念を定義しておく。それが(4)(5)である。この問題を解くためには、水平と鉛直について成り立つ、ある性質を使わなくてはならない。それを述べたのが、(6)(7)である。これで、下ごしらえが整った。

さて、数学の文章題ではよく太郎君とかリンゴとかが登場し、この問題では、壁や床や釘が登場し、現実世界の問題であるという体裁に仕立て上げられている。

しかし、問題を解くためには、太郎君の年齢とか顔立ちとか、リンゴの色とか味とかは、たいていの場合、要らない情報である。現実世界のごちゃごちゃした枝葉をそぎ落として問題のエキスを抽出し、純粋な問題に仕立てなおすことで、話を数学の世界に持ち込むことができ、解きやすくなる。現実世界の話をイデア界へ持っていくというか。これをモデル化という。

この問題を解くという目的に限定すれば、壁と床は平面とみてよいし、釘は直線の一部とみてよい。このモデル化を記述したのが、(9)(10)である。

さて、この問題を解くための鍵となる情報がある。それは、釘は面に垂直に打つものだ、というもの。それを記述したのが(11)である。あとは、論理的に推論していけば、答えに至ることができる。この問題を解くための道筋としては、これ以外にありえないと私は思う。

この問題は超がつく難問だと思う。では、どこがどういうふうにむずかしいのか。この問題を解くためには、少なくとも3つの前提知識が要る。

・たいていの場合、壁は鉛直に設置されているものである
・たいていの場合、床は水平に設置されているものである
・たいていの場合、釘は面に垂直に打つものである

しかし、これらの必須な前提知識は問題文のどこにも書いていない。自前の常識データベースから引っ張り出してくる以外にないのだ。

しかし、自前のデータベースには、種々雑多な情報がごちゃごちゃごちゃごちゃーっと格納されている。「高円寺駅の両隣りの駅は中野駅と阿佐ヶ谷駅である」とか「橋本環奈はかわいい」とか。膨大な知識の山の中から、問題を解くのに必要な知識をどうやって選び出したらよいのか。

例えば、問題文に登場する「釘」というキーワードで検索をかけたとしても、「釘はかなづちで打つものである」とか、「かけた努力の割に効果が薄いことをぬかに釘という」とか、「釘宮理恵という声優の熱烈なファンの挙動は釘宮病と呼ばれる」とか、いっぱいひっかかりすぎて、絞り込みがまだまだたいへんそうである。

この問題のいちばんむずかしいポイントは、そこなんじゃないかと思う。ごちゃっとした知識の山から、この場に必要な知識をどうやって選り分けるのか。

この問題の答えに至る論理の道筋を、上記のに近い形で回答できた人はどれだけいるだろうか。いやいや、俺は断固として、そんな小難しい論理をこねくり回してなんかいないぞ、もっと簡単に、すっと解いたぞ、とおっしゃるむきもあろう。

これをどう解釈するかは、ふたつの流儀が考えられると思う。

第一に、この問題を解くための道筋は上記以外にありえない、とする立場に立ってみよう。もし自分はそんな思考なんかしていないぞ、と思うのであれば、きっとそれは意識に上っていないだけであって、無意識側にたくさんいる小人さんたちのうちの一人が、代わりにせっせと考えてくれたおかげなのではないだろうか。

無意識小人さんって、ひょっとしてけっこう賢い? その疑いはある。両眼立体視できるためには、三角関数が必須であるようにみえる。サイン、コサイン、タンジェント。

意識側において、数学がすこぶる苦手だって人はそこらへんにうじゃうじゃいるが、そんな人であっても、無意識側においては、その程度の数学ならほいほい使いこなせているのかもしれない。意識側へ自由自在に引っ張り出せたらよかったのにね。

その仮説を否定する、第二の立場を考えることもできる。この問題が簡単に解けたという人の多くは、実際に壁や床に釘を打つ場面を思い浮かべたのではないだろうか。ありありと思い浮かべることができれば、答えはもうすでにそこに描いてある。

壁に打った釘は水平だし、床に打った釘は鉛直だ。どんな条件が論理的にどういうふうに効いてそうなったのかなんて考えるまでもなく、一足飛びに正解にたどり着けている。

先ほどの、順々に論理を組み立てていく解法では、具体的な問題を抽象的な空間へと移し替えてから、数学の問題として解くという方針をとった。

しかし、一般的には、具体的な問題を抽象化することで解きやすくなると感じるのはむしろ少数派であって、数式で抽象的に表現されるよりも、リンゴやミカンでたとえてくれたほうが、イメージが湧きやすく、問題が身近になると感じる向きが多いのかもしれない。

もしかすると、思い浮かべて解く解法は、論理的に解く解法とは別アルゴリズムだったという可能性について、目を向けておいたほうがいいのかもしれない。

思い浮かべられた壁や床や釘は、一般的な壁や床や釘ではなく、あるいはイデア界の理想的な壁や床や釘でもなく、ある壁や床や釘の一例なのではなかろうか。だとすると、壁に打った釘が水平になっているというのも、この一例ではそうなっているってだけのことであって、一般的に成り立つ保証はないということになる。

実際、宇宙空間に床と壁がそれぞれバラバラに浮遊していて、水平も鉛直もない、なんて状況を思い浮かべる人はあまりいないだろう。

この思い浮かべて解く解法は、論理的な観点から検討を加えると、不完全な答えしか得られないことになりそうだ。しかし、その不完全さと引き替えに、込み入った思考をバイパスして即座に答えに行き着けるという利点を獲得しているのかもしれない。そうだとしたら、先ほどの論理的な解法とは別アルゴリズムだったってことになりそうだ。

そのアルゴリズムは、まだ人類の誰にも発見されてない、未知のものなのかもしれない。もしこれを明示的に記述できれば、それをソフトウェアに落とし込むことができ、人工知能が飛躍的に次のステージに進めるかもしれない。

「思い浮かべる」という操作は、目の前の現実世界に由来する視覚クオリアとは別に、想像上の釘を打つ場面の視覚クオリアを自由意志の力で意図的に脳内に生成したということなのか。

もしそうだとすると、意識は、ごちゃごちゃした論理操作を回避して、問題をダイレクトに解いちゃう、すばらしい機能を呈するってことになる。

私は、これをあんまり支持したくない気持ちがある。意識というのは、どちらかというと錯覚に近く、受動的で間抜けなやつだというイメージがある。無意識下で問題が解けちゃってから、時間的には少々遅れて、無意識側から意識側へ報告がなされ、それを受けた意識側は、オレが自力で解いたのだ、と勝手に思い込んじゃう、みたいな。

たいていのことは意識なしに遂行可能で、意識がないと出来ないことなんて、そうそうないのではなかろうかと。工場が稼働すれば煙突から煙が出るけど、それは、工場の稼働が原因で、煙が結果なのであって、煙が工場の稼働状態に影響を及ぼしうるものではない。

それと同様、意識はその作用が現実世界に影響を与えることはできない。これを「意識の随伴現象説」という。

意識なんて、大したものではない。というか、事実上、何もしていない。部下が自主的になした仕事に対して、それを後から見て、あれは俺が命令してやらせたのだ、あるいは、オレが自力でなしたのだ、と錯覚する間抜けな上司みたいなもんである。

そうだとすると、問題を魔法のように簡単に解いちゃう、なんていうファンシーな芸当を、意識がやってのけるような感じがしないのだ。

ところで、AIは与えられた問題に対して答えだけは返してくるけれども、その答えに至った理由を説明してくれない。だからダメだ、それじゃ結果を信用できない、と批判する人がいる。

そう言っている人たちは、壁と床と釘の問題を自分はどうやって解いたか、ちゃんと説明できただろうか。

●「意味を理解する」とはどういうことか

現時点において、コンピュータは意味が分かっていないと言われている。さしあたって精密な議論抜きに感覚レベルで言えば、私も同意する。

もしコンピュータに意味が分かっていたら、人間相手に何の不自然さを露呈することなく、雑談を延々々々続けることができるであろう。対話を重ねることによって、人は、こいつが自分のことを徐々に徐々に深く理解するようになってきたという親しみの感覚を得ることができたであろう。

あるいは、「カレーライス作って。足りない材料は買ってきてね」といった大まかな指示を与えるだけで、後の細かいところは主体的によきに判断して遂行してくれるメイドロボットが、すでにできていてもおかしくないはずだ。

今のところ、そこまでの域には至っていないとみえる。簡単な命令に応じたり質問に答えたりしてくれるアップルの Siri や、Jeopardy! というクイズショーで、2011年に人間のチャンピオンを破って1位を獲得した IBMの Watson の自然言語処理技術はスゲーな、とは思う。けど、まだ意味理解には至っていないと思う。

囲碁においてコンピュータが人間のチャンピオンを負かしているのだから、カレーライスを作るくらいお茶の子さいさいだろうと思うかもしれない。ところがそうはいかない。

課題として、囲碁よりもカレー作りのほうが遥かに難易度が高いのである。人間とコンピュータとの間で、易しいと難しいとが往々にして逆転することがあり、これをモラベックのパラドクスという。

感覚的にはそんな感じでいいとして、意味が分かるとはどういうことか、あるいは、対象物がたしかに意味を理解していると判定するためにはどんなテストをもってすればよいのか、もっと根源的な観点から精密に論じようとすると、「意味」の問題もけっこうやっかいであることに気づかされる。意味の意味とは?

冒頭に挙げた壁と床と釘の問題が解けたら、意味が分かっていると判定してよいだろうとする考え方がひとつある。たしかに、この問題は、自前の膨大な知識データベースの中から、問題を解くのに必要な、文脈に合った情報を選り分けるという、難しい問題をはらんでいる。これをうまくクリアーできれば、「おっ、こいつ、なんか分かってるな」という感じを呈するかもしれない。

しかし、私の考えでは、この問題がただ解けたというだけでは不十分で、どう解いたかによるのではないかと思う。

というのは、私の回答と同様、論理思考によって解けたのだとしたら、釘の何たるかを理解していなくても、「釘」という記号にまつわる形式的な論理操作で正解にたどり着くことができてしまいそうだからである。正解できたのに、しかしその実、意味にはまったく立ち入っていなかったということがありうる。

「じゃあ、釘とは何ですか」と重ねて聞いてみたら、「分かりません」と返してくるかもしれないし、材質とか形状とか用途とか扱い方とか答えてくるかもしれない。答えられたとしても、辞書を引くように、「釘」という記号に紐づけられた記号列を返してきているだけで、その実、釘の何たるかが全然分かっていないという可能性がある。

もしこのレベルだったとしたら、雑談が続かないし、カレーライスも作ってくれないのではないか。

この問題には「記号接地問題(symbol grounding problem)」という呼び名がついている。システム内で取り扱っている記号と、現実世界の意味とをどうやったら結びつけることができるか、という問題。現時点においては、記号接地問題はまだ解かれていないという認識で合っていると思う。

「コンピュータは意味が理解できない」は正しい。しかし、この問題は本質的に解くのが不可能であり、未来永劫、解けることはないのだと証明した人もまだいない。未解決問題なのである。

未解決問題に対して、将来いつごろ大天才が現れて解いてくれちゃうだろうか、なんて予想するのは、土台無理な話である。

その無理を百も承知の上で、最近の科学・技術の進歩の速さや、予算のつぎ込み具合や、どれほどの頭のいい人たちが本気で取り組んでいるかなどを総合的に加味して、だいたい30年後ぐらいかなぁ、などと言ってみるのは、まあ、ギャンブルとしてはそんなにオッズの低い賭けではないような気がする。

もし30年経っても解決していなかったら、見通しが楽観的すぎたね、と笑われるだけで、さほどの実害はないだろう。逆に、ぜったいに解けるわけがないと断言していて、数年後に解かれちゃったら、それはそれで大きめの恥をかく。

もし「30年後にはぜったいに解けているはずです」と断言しちゃうと、それを真に受けてあたふたした人たちに対して無責任だというそしりを受けるかもしれないし、根拠薄弱なことを断定的に言うのは宗教的な狂信の香りが漂うと言われちゃうかもしれない。

しかし、少なくとも私はそこまで言っていない。そもそも精度よく言い当てるのが無理な未来のことについて、だいたいこのあたりかなぁ、という大雑把な予想を述べているにすぎないということに多分に自覚的であるのだから、無責任とか狂信的といったそしりを受ける筋合いはないものと思っている。

今までにも何回か述べてきたが、根源的なところへ立ち返れば、脳といえども物質であることに違いない。物質であるからには、物理法則に厳密にしたがうしかない。いわば、機械のようにしか動作しえないということになる。人間と機械とを分かつ、本質的な壁は存在しないと思う。

この前提に立てば、いつかすごーく頭のいい人が現れて、脳で起きている物理現象はこれこれである、と解明してくれちゃうかもしれない。

そうしたら、そのメカニズムをほんとうの人工物としての機械の上で再現できちゃうかもしれない。そうしたら、人間にできるおよそすべてのことは、原理的には人工物にもできる、ってことになる。この考えに賛同する科学者はけっこう多い。

ただし、一方、問いのむずかしさをナメてはいけない、というのも当然ある。私はそこも認識しており、そうすぐにはなんとかなったりしないだろう、とも思う。

もうひとつ、記号接地問題のご近所の問いとして、意味がほんとうにちゃんと分かっているということと、意味が分かっているフリが上手いということは、同じか違うかという、これまた根源的な問いがある。

アラン・チューリングは、同じと考えていた。両者は見かけ上、区別がつかないだけでなく、本質的にも同じことなのではないかと考えていたフシがある。「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」と徒然草にも書いてある。

そうだとしたら、がんばって記号を接地させようとせずとも、記号を操作するだけの形式論理の枠組みの中だけで、フリの上手さを洗練させていけばいいじゃないか、という方針も有望でありうる。

「オントロジー(ontology)」という方法論がある。情報科学でのこの用語は、哲学用語としての「存在論」とは意味が異なる。

「母の母は祖母」とか「日は東から昇る」とか、世界のありとあらゆる事物の関係性を記述した項目の集まりからなる巨大なデータベースを構築しておき、それを推論エンジンから参照できるような仕組みにしておけば、壁と床と釘の問題も含め、われわれの日常生活に関連する様々な問いに的確に答えることができるようになり、世界をそこそこ理解しているかのように振舞えるのではないか、という考え方に基づく。

私の中のイメージでは、この方法論は第二次AIブームのときに流行ったものであり、今も取り組んでいる人はいるにはいるだろうけど、主流として期待を集めているという位置づけではなくなっていると思う。

第一に、世界のルールを登録しても登録しても際限がなく、完成がちっともみえてこないというのがあるのだと思う。もうひとつは、登録されていない、目新しい事態に直面したとき、柔軟な判断ができず、フリーズしてしまいそうだということ。今、熱いのは、機械学習あたりか。なかでも、教師なし学習あたりか。

コンピュータに意味を理解させる技術を確立するのは非常に困難なことであり、そう簡単には実現しないだろうとは思う。しかし、どうせ数十年のオーダーでは解けっこないのだから、未来永劫解けないものと思っておいて心配なし、とまで言い切るのはいかがなものかと思う。

ましてや、間もなく何とかなっちゃうかもしれない派を、無責任だとか、宗教的狂信者だとかレッテル貼りしようとする態度は、まったくどうかしていると思う。

30年後に必ず来るぞ、なんて預言者めいた言い方、してないじゃん。未来のことについて精度よく予想するのは、非常に困難なことであるという前提の下、マイルドな予想を述べたにすぎないじゃん。それのどこが悪い。

問いのむずかしさをナメてはいけないが、科学・技術の進歩の速さもナメてはいけない。

マスメディアも、どうにもなりっこない派の意見を取り上げて、冷静な感覚だ、などとほめそやしているようじゃ、みずからの不見識を露呈して、見ているこっちがこっ恥かしい。あんたのとこには理系の人材がぜんぜんいないんだね、っていうのが丸見えだ。

囲碁において、コンピュータが人間のチャンピオンを負かしたというような出来事があれば、華々しいし、衝撃が一般の人々にも伝わりやすいので、大々的に報じられる。

その後、それに匹敵する衝撃的なニュースが出てこないので、一般の人々は、AIの進歩が停滞しているかのように思っているかもしれない。しかし、実際はそうではなく、新しいアルゴリズムはどんどん考案・発表されていて、技術は勢いよく進歩している。

ただ、新しい手法が開発されましたとか、推論エンジンがリリースされましたというようなニュースは、一般の人々の興味を引きづらいので、あまり積極的に報道されないってだけだ。

Google の BERT とか、OpenAI の GPT-2 とか、自然言語処理の界隈では、そうとうな衝撃をもって受け止められている。

囲碁で人類を超えた Google AlphaGO だって、その後、AlphaZero に進化している。以前は人間のプロが打った手を教え込んでおく必要があったが、後継手法では、そういうのなしに、自力で勝手に強くなっていく。

また、同じプログラムが囲碁だけでなく将棋もチェスもできるようになっており、しかも囲碁では以前よりもさらに強くなっている。

今のAIは特化型ばかりしかなく、ひとつのAIプログラムが汎用的な機能を呈するようにはなっていないと言われている。

それはまあその通りなのだが、囲碁のプログラムは囲碁しかできない、なんていまだに言っている人がいるのは驚きだ。情報がちゃんと伝わっていないんだね。AIのアルゴリズムは、汎用性を備える方向へも着実に進化しているのだ。

マスメディアはそういう話題をちゃんと取り上げて、一般の人々に伝えるべきだと思う。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/

9月5日(木)、この原稿を編集部に送稿したら、入院し、その日に手術を受けます。でも、まったく深刻なことではなく、予定では翌日退院して、自分の二本の足でてくてく歩いて帰ります。まあ、タクシーを拾うかもしれないけど。

2007年11月29日(木)、左目の白内障手術を受けた。その時点で、右目も少しなりかけていると言われていた。それが進行して今に至る。

すでに左目でやっていることなので、だいたい勝手は分かっている。全身麻酔よりは局所麻酔のほうが安全性が高いのはいいのだけれど、何が進行しているのか、いやおうなく分かっちゃうところがたまらない。