[4864] 谷根千のトマソンの巻◇日本語ワープロ専用機という時代があった

投稿:  著者:  読了時間:23分(本文:約11,300文字)



《微妙なニュアンスのせめぎ合い》

■わが逃走[245]
 谷根千のトマソン の巻
 齋藤 浩

■もじもじトーク[114]
 日本語ワープロ専用機という時代があった
 関口浩之




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■わが逃走[245]
谷根千のトマソン の巻

齋藤 浩
http://bn.dgcr.com/archives/20190919110200.html
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アートテラー・とに~氏が主催する『みんなの大東京建築ツアー』。

今回は「谷根千トマソン建築ツアー!!」ということで、さぞかし競争率も高いのでは? と思いつつ申し込んだが、なんとか無事に参加することができた。

(ちなみに前回のトマソンツアーは『わが逃走 第216回 銀座のトマソンの巻』に書いています。よろしければ是非ご覧ください)

http://bn.dgcr.com/archives/20180426110200.html

(トマソンとは、前衛美術家である赤瀬川原平先生が発見・提唱した、建築概念。大雑把にいえば、かつて機能していたものがその一部を封じられることで生まれる、無用の物件をさす。その強烈な存在感に対し作り手の意図が存在しないため、芸術を超えた「超芸術」といわれている。ネーミングは、高価な契約金に対しまったく役に立たなかった野球選手に由来する。)

さて、この日の講師は建築家・伊藤嘉郎氏。このあたりは芸大テリトリーゆえ、彼の庭のようなもんである。そんなわけで猛暑も和らいだ9月半ばのある日、ツアーは千駄木駅よりスタートしたのだった。

●モナリザをX線解析を行なったら、下からもう一人の人物が! 的な

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スタートして10歩ほどのところに、もうこんな物件が。看板の下から古い看板の文字が浮き上がって重なっている。しかも美しく。

面白いのは、薬局の看板の下から、同じ薬局の異なるデザインが浮き出ているという点。それぞれの書体の違いも興味深いし、書いてあることはたいして変わらない点にも美学を感じる。店舗前に設置されている自販機のようなものは、おそらく自販機型の募金箱だろう。

●商店街を見上げると原爆型のトマソン

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原爆型とは、家屋が取り壊されるなどして消失した後にも、隣接する壁面に残された建築の残像をいう。

名称の由来は広島における“焼き付けられた影”なわけだが、近年その呼称が不謹慎である、という声もあるらしい。確かに今だったらこの名称にはならなかったかもなあ。

(これがトマソン界における正式名称である点、インターネットの世の中になるはるか以前、80年代の、しかもメインストリームから外れた芸術と非芸術の境界線近くで発見された“現象”に、過去の“現象”になぞらえてつけられた名称であるという点、赤瀬川先生の著作『超芸術トマソン』の文脈からも偏見、差別を助長する意図はないと判断できることからも、ここではオリジナルの名称のまま書こうと思います。)

多くの原爆型と違い、これは増改築の痕跡が地層状に現れているようにも見え、興味深い。地上3階あたりの高さで、複数の頂がリズミカルに構成されているさまは、1920年代の抽象画を見るようでうれしくなる。

●トマソンのお手本のような美しい高所ドア

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「高所ドア」は、以前外階段や渡り廊下等が存在していたものの、何らかの理由でそれらが消失、ドアのみ残されたといった物件。

知らずに扉を開け、うっかり一歩外に踏み出してしまうと怪我をするので注意だ。ここはかつて物干があったように見受けられる。手前の草ぼうぼうランドの空間との対比も美しい。

●謎の温度計

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これはトマソンというわけではないが、シュールな物件。道路脇の塀に、唐突に温度計がぶらさがっていた。ちゃんと機能している。現在26℃。お散歩日和だ。

●でっぱり

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ふと足元に目をやると、謎のでっぱりが。

隣接する建築が取り壊され、更地になり駐車場となったんだと思うが、なぜかここだけでっぱっている。

よく見ると、継手・仕口のようにコンクリ面に食い込んでいるようにも見える。それにしてもこのでっぱり、厚さ、幅、奥行き、どれをとっても程よい大きさで好感が持てる。

白い直方体の上にそっとのせて美術館に展示すれば、これはもう立派な彫刻といえなくもなくもないかもしれない。

●庇タイプ

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かつて窓などを日差しや雨から守るべく設置された庇が、守るべきものを失い、孤立しトマソンとなったもの。

この場合は郵便受けだが、丁寧にセメントで塞がれ、壁と同じペイントを施された上で、美しく保存されていた。

●純粋階段の一種か

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階段とは、この場から目的の場所(たとえば扉等)までの高低差をつなぐものだ。しかし、この物件の場合、昇った先に、なにもない!

外壁パターンの違いから推測するに、かつてそこには屋上が存在していたが、後年三角屋根が設置されるに伴いその入口も閉鎖され、階段がトマソン化したようだ。

外階段というものには独特の風情を感じるが、役目を終えても階段でありつづける姿はなんとも健気である。

●高所ドアその2

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これも見事な高所ドア。1階の扉よりも年代は新しいようだ。機械式のガレージからよじ登ることはほぼ不可能に思えるし、手前の駐車場にかつてビルが建っていて、2階は通路で繋がっていたのだろうか。想像していると夜も眠れない。

●庇タイプその2

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見事だ。実に美しい。今日も「無」を日差しから守りつづけるひたむきさに心打たれる。

●水平人工地層の一種か

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今回最も感動したのはこの物件。住宅の建て替えのために道路両サイド(3方向?)がセットバックした結果、
路面にこんな形状が現れた。

凸型の路面に合わせて、地下の雨水路も同じ形状をしているらしい。まっすぐに配管すればいいのになぜそんな無駄なことを?それは建築家にもわからないそうです。行政における管轄が違うのだろうか?

●代表的な原爆タイプ

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隣接していた建築の形状がしっかりわかる。長屋建築がつぎつぎと切断建築となり、このようなトマソンが全国で出現しているようだが、それらもいずれ消えゆく運命にあるのだろう。

●ヌリカベタイプ

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かつてドアだったであろう部分が埋められ壁となったようだが、微妙に壁になりきれてない感じがするのは鉄格子付きの窓のせいか。その上の庇も『無用ヒサシ』になりきれてない。

しかし、この微妙なニュアンスのせめぎ合いが、独特の美を作り出している。給湯器下のボックスもワンオフっぽいし、庇上の通風口もいい味出している。壁全部が現代アートのレリーフのようで、実に楽しい物件だ。

以上、今回のツアーのほんの一部をご紹介しました。午後1時から4時間くらいかな。4キロくらい歩いています。もちろん途中休憩もありましたが、実に濃密なコースでした。

とに〜さん、伊藤さん、参加された皆様、おつかれさまでした。伊藤さん、この物件の数々を全て脳内地図に暗記してるんですね。驚愕です。というわけで、谷根千トマソン建築ツアーのご報告でした。


【さいとう・ひろし】
saito@tongpoographics.jp
http://tongpoographics.jp/

1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。


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■もじもじトーク[114]
日本語ワープロ専用機という時代があった

関口浩之
http://bn.dgcr.com/archives/20190919110100.html
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こんにちは。もじもじトークの関口浩之です。

僕は歴史を紐解くことが好きです。なぜなら、歴史を動かした先人や第一人者を深く知ると、学ぶべきものがたくさん出てくるからです。

そして、その時代の背景や文化を調べると、新しい気付きがたくさん出てきます。それって、学生の時に学んだ教科書には、全く出てこないものなんです。

もじもじトークの過去記事では、文字の誕生、活版印刷、写真植字、タイプライター、宇宙の歴史などに関するものが多かったような気がします。

さて、今日のもじもじトークは、「1980年代に独自の進化を遂げた日本語ワープロ専用機」をお送りします。

●手書きで書類を作成していた時代

もじもじトークの読者の中には、今まで、手書きで書類を作成した経験があまりないって人、結構いるかもしれませんね。

「だって、学生時代に書いた卒業論文も、社会人になってからの社内文書も、手書きで書く必要ないじゃん。パソコンやタブレットがあるし……」ということですよね。

昔ばなしをするのは、ダメなおじさんの要素のひとつと言われてますが、少年時代の手書き原稿の昔話をしますね!

僕が小中学生だった1960年代後半から1970年代前半は、もっぱら手書きの時代でした。だって、パソコンもワープロもない時代ですから。コピー機もなかったと思います。テスト問題用紙や学校からの案内文書は、先生がガリ版で書いていました。正式には謄写版(とうしゃばん)といいます。

えっ、ガリ版って何? ガリ版を知らない人もいると思うので、ガリ版印刷機や仕組みが分かる写真を何枚か掲載しますね。じゃ~ん!
http://bit.ly/2mphVFr

僕、ガリ版、大好きです。中学生の時、学級新聞を作りました。ガリ版は「ヤスリ版」の上に、「ロウ原紙」をのせ、「鉄筆」でガリガリと書きながら、版を作ります。風情があっていいでしょう!

筆圧が強過ぎると、ロウ原紙が破れてしまうので注意しましょう。また、筆圧が弱すぎると、その文字は印刷されません。ちょうど良い筆圧の範囲で、ロウ原紙にエッジングするのが重要なのです。慣れるまで難しいけど楽しいです。文字だけでなく、飾り罫やイラストを描くこともできます。

版作りが完成したら印刷です。ガリ版印刷機にロウ原紙を挟んで、インクをのせたローラーを転がします。すると、下に敷いた紙に、鉄筆で削られた部分からインクが紙に写ります。とてもシンプルな印刷手法ですよね。

ガリ版は「孔版」のひとつの方式です。孔版とは「版に微細な孔を多数開け、圧力によってそこを通過したインクを紙などに転写する方式」のことです。

シルクスクリーンも「孔版」のひとつ方式です。プリントゴッコも孔版のひとつです。プリントゴッゴの説明をすると長くなるので、またの機会に書きますね。押入れに、印刷可能なプリントゴッコがありますので。

●いつの年代まで手書きで文書作成していたか?

なぜ、ガリ版が学校で広く普及したかというと、当時、複写機がまだ普及していなかったからだと思います。なので、多くの人に同じものを配布するためには、自分で印刷するしかなかったのですね。

一方、商業印刷においては、活版印刷や写植を活用した印刷が普及していました。しかしながら、家庭や学校には、そんな機材はなかったので、自分でガリ版印刷するか、手書き原稿を複写機でコピーするしかなかったのです。

さて、僕は高校生になると、両親にねだってタイプライターを購入してもらいました。なので、英語の文書作成においては、手書きではなく、タイプライターで書類を作れるようになったのです。

でも、日本語の文書作成は、僕が社会人になる1980年代半ばまで、手書きでした。大学の卒業論文も手書きだったし。

みなさんは、いつまで、手書きで文書作成していましたか? 明確に記憶していますか? 僕は1984年から手書きで文書作成することが極端に少なくなりました。

●日本語ワープロ専用機の誕生

社内書類を手書きで作成することが激減した年は、企業によりまちまちだと思います。僕が明確に1984年と断言できるのは、日本語ワープロ専用機等を開発しているメーカーに入社したからなのです。

日本語ワープロの1号機は、1978年に東芝から発売された日本語ワードプロセッサー「JW-10」です。9月26日が発売日だったので、その日は「ワープロの日」と制定されたようです。

当時の「データーショー」や「ビジネスシヨウ」行くと、ワープロ専用機の新商品も並んでいたのを思い出しました。

日本初の日本語ワードプロセッサーは、こんな感じでした。

東芝未来科学館サイト
https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1978word_pro/index_j.htm

なんか、すごいでしょ。大きな机一個分あります。キーボードから文字を入力すると、モニターに「かな漢字変換」された候補が表示されます。

プリンタ(たしか、ドットプリンタ)で、すぐに文書が印刷できることも、当時、非常に画期的なことだったのです。価格は630万円でした。びっくりですよね。

その後、富士通、NEC、シャープ、キヤノンなどが、ワープロ市場に参入しました。1981年に、JDLの文作くんが138万円のワープロを発売し、その頃から、日本語ワープロ専用機が企業に本格的に浸透していったのです。

当時、「プリンタが搭載された日本語ワープロが約100万円で買える!」ということが、大きな話題になったのです。

社内文書や提案書、見積書などが、ポールペンと修正液を使用せずに作成できることは、大革命だったのです。

社会人になった1984年当時、大企業では、ワープロ課とかいう部署がありました。各部の稟議書や企画書の手書きの下書きを、ワープロ課へ持参するのですが、ワープロの台数が限られていると順番待ちになっちゃうんです。そんな光景を実際に目にしました。

1980年代後半、ワープロの低価格がどんどん進みました。各社から続々と発売された日本語ワープロ(日本語ワードプロセッサー)の名称を、Wikipediaから抜粋してみました。

さて、皆さん、いくつ、記憶に残っていますか。

○OASYS(富士通)
○書院(シャープ)
○文豪(NEC)
○TOSWORD、Rupo(東芝)
○ワードボーイ、キヤノワード(Canon)
○パナワード(パナソニック)
○カシオワード(カシオ計算機)
○サンワード、ワープロ博士(三洋電機)
○ワードパル(日立製作所)
○文作くん(JDL)
○ヒットビットワード(ソニー)
○ピコワード(ブラザー工業)
○ワードバンク(セイコーエプソン)
○ワープロエース(ミノルタ)
○マイリポート(リコー)
○レターメイト(沖電気)
○レタコン(ぺんてる)
○ワーディックス(横河電機)

当時、ワープロ専用機を製造していたメーカーは、パーツは外部調達していたけどプリント基板や筐体、キーボードを独自開発していました。

さらには、独自OSを開発し、その上で動くアプリケーションソフトもすべて独自開発ということをやっていました。まさに、日本語ワープロが、ガラケー文化のように、ガラパゴス状態だったのです。

例えば、罫線の概念が、あるメーカーでは文字記号罫線だけど、他メーカーはグラフィック罫線だったりしました。記録媒体フロッピーディスクのフォーマットが独自仕様だったり、キーボード配列も各社独自仕様でした。

キーボードにはファンクションキーがたくさんあって、「均等割付」「ルビ」「罫線」など、機能毎にボタンが配置されてました。各社、独自の生態系で進化をしていったのです。

各社のデータ保存形式はまちまちで、メーカー間の互換性はありませんでした。なので、ワープロ専用機市場が下降し始めた頃から、「リッチテキストコンバーター」という変換ソフトが流行りました。

例えば、OASYSのデータを一太郎の形式に変換できるというということです。それなりの金額のソフトウェアだったと記憶してます。

変換は完全ではありませんでした。文字変換については、JISコードなので変換精度は高かったのですが、罫線や複雑な書式などは変換できないこともありました。

●突然死した日本語ワープロ専用機

1986年から1995年は、日本語ワープロ専用機の年間出荷台数が、毎年200万台を超えていました。2000年までの日本語ワープロの累計出荷台数は、3,000万台を超えたといわれています。

一世を風靡した日本語ワープロ専用機も、1995年以降に市場が一気が縮小し、2000年以降に新製品はほとんど発売されなりました。パソコンにワープロソフト一太郎やWordをインストールすれば、高度な文書作成が実現できるようになったからです。

日本語ワープロ専用機が大流行しているときに、「専用機には専用機の良さがある。『印刷』ボタンを押せば簡単に印刷できるし、『罫線』ボタンを押せば簡単に罫線が引ける。汎用機としてのパソコンとワープロソフトでは限界がある。当面、ワープロ専用機の市場は活況が続く」と書いてある記事を読んだことがあります。

インターネットが普及していない、そしてMS-DOS全盛期に、10年先にパソコンがここまで進化することを予見できなかったのだろうか……。

1995年のWindows95がリリースされたのを契機に、日本語ワープロ専用機は突然死したような状態になりました。昨今、ワープロソフトの存在は知っていても(Wordを知らない人はいないですよね)、ワープロ専用機の存在を知らない人が増えてきたような気がします。

●これまでの自分の仕事をちょっと振り返ってみた

僕が、パソコンや文字に関して、幅広く、そしてまあまあ詳しいかというと、小さい頃から家電やマイコンや看板が好きだったからかもしれません。

でも、本当のルーツは、社会人になった1984年から約10年間、電子機器メーカーでその分野の仕事をしていたからなのだと思います。

その10年間で、日本語ワープロ専用機、日本語DTPシステム、カラードットプリンタ、レーザープリンタ、電子ファイリングシステム、CADデータのラスタライザー(ベクトルデータのビットマップ変換)などの新規事業開発に携わっていました。

Windows95がリリースを控え、オープン化の波が確実に押し寄せてきてることを感じていた1995年10月に、ソフトバンク技研(現在のソフトバンク・テクノロジー)に転職しました。

約10年間勤務した電子機器メーカーには、今でも感謝しています。その間、いろんな貴重な体験したことはラッキーでした。

転職した直後、1995年10月にWindows95が発売され、パソコン量販店の支援プロモーションの仕事をしました。その後、1996年4月1日にサービス開始したYahoo! JAPANの検索エンジンの、データ構築プロジェクトリーダーも担当しました。

1980年代と1990年代は、ただ、がむしゃらに仕事をしていた時代でした。今になってみると、当時のひとつひとつの仕事の経験が点と点で繋がり、それらが有機的に繋がり平面になり、それら知識が立方体になったと感じています。

2年ぐらい前から、多くの人から「フォントおじさん」と呼ばれるなりました。

現在の「フォントおじさん」にいたるまで道のりは順調そうに見えますが、ここでは書けない、たくさんの困難な出来事や浮き沈みがありました(笑)

だけど、それらの出来事も含めて、化学反応としてできあがった有機化合物が「フォントおじさん」なのかもしれません。

「日本の文化である活字、文字、フォントの知恵や知見、そして歴史を後世に楽しく伝承する」ということを、ライフワークにできるといいなぁと思った、今日この頃です。

では、また、2週間後にお会いしましょう。


【せきぐち・ひろゆき】sekiguchi115@gmail.com
関口浩之(フォントおじさん)

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1960年生まれ。群馬県桐生市出身。1980年代に日本語DTPシステムやプリンタの製品企画に従事した後、1995年にソフトバンク技研(現 ソフトバンク・テクノロジー)へ入社。Yahoo! JAPANの立ち上げなど、この20年間、数々の新規事業プロジェクトに従事。

現在、フォントメーカー13社と業務提携したWebフォントサービス「FONTPLUS」のエバンジェリストとして、日本全国を飛び回っている。

日刊デジタルクリエイターズ、マイナビ IT Search+、Web担当者Forum、Schoo等のオンラインメディアや各種雑誌にて、文字やフォントの寄稿や講演に多数出演。CSS Niteベスト・セッション2017にて「ベスト10セッション」「ベスト・キャラ」を受賞。2018年も「ベスト10セッション」を受賞。フォントとデザインをテーマとした「FONTPLUS DAYセミナー」を主宰。趣味は天体写真とオーディオとテニス。

フォントおじさんが誕生するまで
https://html5experts.jp/shumpei-shiraishi/24207/

Webフォントってなに? 遅くないの? SEOにはどうなの?
「フォントおじさん」こと関口さんに聞いた。
https://webtan.impress.co.jp/e/2019/04/04/32138/


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編集後記(09/19)

●偏屈読書案内:青山透子「日航123便 墜落の波紋 そして法廷へ」2

(9/18からの続き)筆者が催した英国での会議で、2015年8月12日に飛行航路真下で発見された、相模湾に沈んだままの日航123便の残骸の報道(テレ朝ニュース)を見せると、一人の出席者の表情が真剣になった。これはAPU(補助動力装置)とその周囲にあるものだといいながら、このような重要な証拠物をいまだに引き上げていないという事実に、非常に驚いていた。

それも、水深160メートルとさほど深くないところの、飛行ルート真下に沈んだ物体である。事故調査委員会が出した結論が、推定のままであって不起訴に終わっているのであれば、このような重要な証拠物を引き上げて再調査すべきところをいまだに放置していることは信じがたい。当時もこれを引き上げることを検討すらせずに、なぜ報告書を書いたのか、書けたのか大きな疑問だ。

現在において、その場所までわかっているのだから、生存者や遺族が真っ先に声明を出すべきである。それにしても、日本の事故調査委員会は何をしているのか、と彼らはあきれる。つまり、これはあたり前に調査すべきことだったのである。素人でも分かる。ところが、520人もの被害者それぞれの遺族と、4人の生存者の中で、筆者の調査結果に反応した人はわずか数人に過ぎない。

現場状況からも、木っ端微塵になった第4エンジンが、なんらかの武器によって破壊された形跡があるという疑問は拭えないのだ。《以下推定》相模湾上空で通常にフライト中のJAL123便に対して、海上自衛隊の護衛艦まつゆきの海上公試中にオレンジ色の飛翔体が飛び出し、日航機の垂直尾翼の一部を破壊した。

目撃者の証言によれば、日航機は飛翔体が胴体部分に付いたまま、低空飛行をしていた。それを追尾するF-4EJのパイロットが確認したが、横田基地への緊急着陸は無理と判断し、二次被害の大きい市街地を避け、山の中への不時着を促したとするならば、さらにJAL機が何処を向いて飛んでゆくか分らないゆえの、緊急避難として、エンジンの一つを撃ち落としたとするならば……

以上のことは、憶測の領域ではなく筋の通った推定であるが、これならば目撃証言や現場検証との矛盾は見られず、一本の筋が通る。事故調査報告書も、その内容を反映した米国NTSBの捜査資料も、第4エンジンの状況や現場状況の不自然さに言及していない。無言が事実を物語っているのである。相模湾に沈んだ機体の残骸引き上げは、今後も政府が絶対にやらせないだろうと私は思う。

遺族の吉備素子さんが、日本航空社長高木養根氏と面談した際に「(首相官邸に行けば)殺される」と極度に恐れ動揺していたという。河村一男事故対策本部長は、「事故原因を追究すると米国と戦争になる」と言ったという。その河村氏は県警を辞職し大阪で再就職、時々電話をかけてきて、いかにも見張っているような口ぶりで、事故原因を追及しないよう圧力をかけてきたという。

「墜落をめぐる無駄な論争を仕掛け、姑息な手段で追及を逃れる人生を送ってきた人の行為に終止符を打ち、明らかになった事実を正面から見つめる機会を与える」と、これで4冊目の本になる「青山透子」は宣言する。彼女の名前は元・上野村村長の故・黒澤丈夫による。著書「墜落の新事実」は全国学校図書館協議会選定図書となったことで、全国の高校生、大学生から骨太の感想文が届くという。日航123便墜落の原因は未解決だ。幕引きは許されない。(柴田)

青山透子「日航123便 墜落の波紋 そして法廷へ」2019 河出書房新社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309028128/dgcrcom-22/


●トマソン、面白すぎる。/子供の頃、ガリ版印刷手伝わされていたわ。学校の先生に。今だとまずいんじゃないかな。男の先生と二人きりだったと思う。

/昨日のハンドクリームで思い出した。キューティクルオイル。爪用。

爪が弱く、長く伸ばしていなくても、爪の横の皮膚との境目あたりから横に割れることが多かった。缶ジュースを開けるのは怖い。ボーリングなんて行ったら絶対割れるのがわかっているので、絆創膏を貼って予防するけれど、やっぱり割れる(笑)。

この割れや欠けの違和感って大きくて、かさぶたみたいなもので、つい触ってしまう。爪の先の方なら深爪すればごまかせたりするのだけれど、根元の方だと伸びるのに数ヶ月かかる。何かに引っかけると痛い。出っ張る。服の繊維を引き出してしまうこともある。

ネイルサロンによっては、割れ爪補修は断られることがある。技術が必要らしい。続く。(hammer.mule)