[4877] ノンフィクションの魅力◇YMO/「坂本教授の電気的音楽講座」にハマる

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《制作過程は作品そのものより面白い!》

■日々の泡[018]
 ノンフィクションの魅力
 【パリは燃えているか/ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール】
 十河 進

■グラフィック薄氷大魔王[628]
 YMO/「坂本教授の電気的音楽講座」にハマる
 吉井 宏




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■日々の泡[018]
ノンフィクションの魅力
【パリは燃えているか/ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール】

十河 進
https://bn.dgcr.com/archives/20191009110200.html

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このところ白水社から翻訳出版されている、ジャーナリストやノンフィクション作家が書いた現代史の本を読んでいる。ベルリンの壁ができる頃の冷戦状況を描いた「ベルリン危機1961」、ベルリンの壁が崩れて始まったソ連崩壊を描く「東欧革命1989」、真珠湾攻撃後の日系人強制収容を取材した「アメリカの汚名」などだ。

どの本もそれぞれ興味深いのだけれど、すべて重厚長大なハードカバーで重いのが難点だ。寝転んでは読めない。先日読んだ「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」も本文は500ページを越え、資料リストや索引などが60ページ以上ある分厚さだった。筆者ロベルト・ゲルヴァルトは、ドイツ人の歴史家で現代史の教授である。

ラインハルト・ハイドリヒは、1942年5月27日にドイツ軍の占領下プラハで暗殺されたナチ高官だ。まだ38歳だったが、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐSS(ナチス親衛隊)の有力者だった。また、「ユダヤ人絶滅政策」と呼ばれたホロコーストを急進的に推進した責任者でもあった。生きていれば、戦後、厳しく罪を問われただろう。

ハイドリヒが「死刑執行人」と呼ばれていたのは、フリッツ・ラング監督の「死刑執行人もまた死す」(1943年)を見たときに知った。フリッツ・ラング監督はサイレント時代からドイツ映画界で名作を作ってきたが、ユダヤ人であったことからナチスが政権を取った後の1934年にフランスに亡命し、その後ハリウッドに移った。

ハリウッドでは多くのフィルム・ノワール作品を手がけたけれど、特に劇作家ブレヒトの協力で制作した「死刑執行人もまた死す」は、ハイドリヒ暗殺事件の翌年に早々と公開した作品でありながら、その完成度の高さには目を見張るものがある。全編、緊迫感に充ちた傑作だ。

僕が初めて「死刑執行人もまた死す」を見たのは、アメリカ公開から四十年以上経ったときだった。それまで日本公開がなかったからだが、その圧倒的な迫力に圧倒された。この映画が制作された頃、ナチス政権はまだ盤石でヒトラーは意気軒昂だった。ヨーロッパはドイツ軍に席巻されていた。

映画は、プラハの街角から始まる。ヒロインのマーシャが買い物をしていると、ナチ親衛隊員たちがバラバラと現れる。ハイドリヒが暗殺されたというのだ。マーシャはひとりの男と知り合い彼を助ける。しかし、周囲を封鎖され脱出できなくなった男は、マーシャの家にかくまわれる。

彼は医師でありレジスタンスのメンバーであり、ハイドリヒの暗殺犯だった。一方、ゲシュタポは犯人が逮捕されるまで市民を無差別に逮捕して銃殺すると宣言し、マーシャの父親も逮捕される。マーシャは男を探し出し、自首してくれるように懇願するが----。

この映画から74年後、「ハイドリヒを撃て!『ナチの野獣』暗殺作戦」(2016年)が日本公開された。これは歴史的事実を踏まえた作品で、イギリスの戦闘機からふたりの男が落下傘でプラハ近くの森林地帯の雪原に降下するところから始まった。

ふたりは、ロンドンのチェコスロヴァキア亡命政府から派遣された暗殺チームである。ハイドリヒ暗殺作戦のコードネームは「類人猿作戦」だった。ふたりはプラハのレジスタンス組織と接触するが、彼らはハイドリヒ暗殺に反対する。

ハイドリヒ暗殺に成功したとしても、報復として大勢のプラハ市民が殺されるだろうとレジスタンスのリーダーは言う。しかし、レジスタンスにかくまわれながら、ふたりは準備を進め、ハイドリヒを襲撃する。そのときの傷によって6月4日にハイドリヒは死に、暗殺者たちはレジスタンスにかくまわれる。

予想通り、ナチスの報復はすさまじく、さっそく犯人たちをかくまった村の数百人が銃殺される。暗殺者に対する追及は苛烈を極め、通報者には莫大な報償が約束される。その金に目がくらみ、家族の安全を保証させ、密告したのはカレル・チャルダだ。イギリス仕込みのチェコ工作員でありながら、ゲシュタポ本部に出頭し仲間を売る。

映画は、実在の彼らを描いた。ふたりの暗殺者は、ガプチークとクビシュである。彼らをかくまっていた主婦マリエ・モラヴェッツはゲシュタポに踏み込まれ、青酸カリのカプセルを飲んで自殺する。夫はレジスタンスと無関係だったが、息子と共にゲシュタポに逮捕され拷問される。

「ヒトラーの絞首人ハイドリヒ」によると、そのときの描写がすさまじい。息子は「二十四時間近くの残酷な尋問に耐えたあと、水槽に入った母親の生首を見せられ、おやじの首も並べるぞと脅されて、口を割った」という。暗殺者たちは隠れていた教会を包囲され、壮絶な銃撃戦の果てに自決する。拷問されるより死を選んだのだ。

ナチの報復は続く。彼らをかくまっていた数人の司祭は死刑になり、数千人が逮捕され千人以上が処刑された。さらに四千人ほどの人が強制収容所あるいは一般刑務所に収容されたという。ひとりの暗殺に対して、ナチの報復は信じられない執拗さだった。また、ハイドリヒ暗殺以降、ユダヤ人のホロコーストはさらに加速した。

ところで、僕が海外のノンフィクション作家やジャーナリストの、重厚長大なノンフィクション作品を好んで読むようになったきっかけは、やはり中学生の頃に常盤新平編集長時代の「ミステリマガジン」を定期購読していたからだと思う。

初めて買った「エラリィ・クィーンズ・ミステリマガジン」の真ん中あたりにあった早川書房の新刊を告知するページでは、「パリは燃えているか」というタイトルが目立っていた。ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールが書いたパリ解放のノンフィクションだった。

そのタイトルに興味が湧いた僕は書店で実物を手にしたが、中学生には手が届かない値段だった。結局、原作を読んだのは数年後だったが、それより前にルネ・クレマン監督によって映画化された「パリは燃えているか」(1966年)を見た。ただ、多くの人が登場するものの明確な主人公のいない物語は感情移入できず、中学生にはよく理解できなかった。

「パリは燃えているか」の数年前、コーネリアス・ライアンが書いた「ザ・ロンゲスト・デイ」がアメリカでベストセラーになっている。ただし、日本では映画化された「史上最大の作戦」(1962年)が公開されて一般的に有名になり、主題歌もヒットしたが、原作はあまり売れなかった。

「ザ・ロンゲスト・デイ」は様々な人物に取材してノルマンディー上陸作戦を描いたものだから、日本が悲惨な敗戦を経験してからまだ十数年の時期では、連合軍の勝利の物語を読む気にはならなかったのかもしれない。それに、翻訳ものがそれほど売れる時代ではなかった。

コーネリアス・ライアンは第二次大戦時にヨーロッパ戦線や太平洋戦線を従軍記者として取材した人物だが、それから半世紀以上を経て戦後生まれのアニトニー・ビーヴァーが書いた「ノルマンディー上陸作戦1944」が白水社から上下二巻で出ている。こちらも、近々、読んでみようかと思っている。


【そごう・すすむ】
ブログ「映画がなければ----」
http://sogo1951.cocolog-nifty.com/

「映画がなければ生きていけない」シリーズ全6巻発売中
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%81%E6%B2%B3-%E9%80%B2/e/B00CZ0X7AS



●記事内で紹介された書籍・映画 

ベルリン危機1961
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560083711/dgcrcom-22/


東欧革命1989
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560095523/dgcrcom-22/


アメリカの汚名
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560095833/dgcrcom-22/


ヒトラーの絞首人ハイドリヒ
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560095213/dgcrcom-22/


死刑執行人もまた死す
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00U7C7JP0/dgcrcom-22/


ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0777R797P/dgcrcom-22/


パリは燃えているか
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150504555/dgcrcom-22/


パリは燃えているか(映画)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B073XF7377/dgcrcom-22/


ザ・ロンゲスト・デイ(邦題:史上最大の作戦)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150501874/dgcrcom-22/


史上最大の作戦
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002PHBINO/dgcrcom-22/


ノルマンディー上陸作戦1944
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560081549/dgcrcom-22/



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■グラフィック薄氷大魔王[628]
YMO/「坂本教授の電気的音楽講座」にハマる

吉井 宏
https://bn.dgcr.com/archives/20191009110100.html

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僕個人がYMOにどう影響を受けたか? を一度ちゃんと書いておきたかった。実は、結成40周年だった昨年に書き始めたのに、僕の中でYMO観はいつも微妙に変化してることもあって、まとめられなかった。なので、断片の雑記です。全4回、その3。

グラフィック薄氷大魔王[626]YMO・僕的ビッグバン前夜
https://bn.dgcr.com/archives/20190925110200.html


グラフィック薄氷大魔王[627]YMO◇「BGM」と僕らのカルチャー
https://bn.dgcr.com/archives/20191002110200.html



●自分でコントロールできる音楽

・子供の頃にピアノやってたし、吹奏楽部だったし、ブルーグラスのバンジョーやフラットマンドリンなどやってた。範囲が偏ってるものの、いくつかの楽器をやった結果、個別の楽器の演奏そのものにはあんまり深入りする気がないことに気づく。だって、複数人で演奏しないと「レコードで聴けるような完成した音楽」にならないんだもん。

・もちろんそれをやるのが「バンド」なわけだけどね。何度かバンドに入りかけた経験はあるけど、上手くやっていけると思わなかったし、音楽の趣味が全員違うしw もし音楽を作るとしたら、全部自分でコントロールできなければ気が済まなかった。

・シンセサイザーには興味があった。冨田勲が「いろんな楽器の音が出せるシンセを駆使して一人でオーケストラ」やってるのは知ってたから。多重録音とか知らなかったし、具体的にどうやって作るのかは不明だった。そんな頃、YMOブームでシンセサイザーの本やムックなどが出てくるようになった。

●坂本教授の電気的音楽講座

・FMラジオ「サウンドストリート/坂本教授の電気的音楽講座」を聴いた。第一回目の放送は1981年8月10日だそうで、YMOに目覚めて2ヶ月後くらいか。

コンピューター(というかMC-8というシーケンサー)でコントロールしたシンセ、多重録音やエフェクトによって、坂本龍一が一曲丸ごと一人で作り上げるドキュメンタリー(ニコ動やYouTube等で聴ける)。音楽ってそうやって作るんだ! 衝撃的だった。全回録音して何十回と聴いた。

・ラジカセ2台とオルガン(ピアニカも使ったかもw)を使ったピンポン録音をやってみたら、めちゃくちゃ面白い! って、熱中。

最初は畳を叩いてバスドラム、紙くずやお菓子の袋を丸めたのを叩いてスネアドラムとかw オルガンはデザイン学校でハードロックのバンドに誘われて、勢いで買ったコンボオルガン。その後、友人から単音のシンセ、KORG MS-10を譲ってもらったり。

・雑誌の「売ります買いますコーナー」で、無用の長物になりかかってたオルガンをKORG DELTAに交換。電子オルガンにシンセ的なコントロールをつけたような簡易なストリングスシンセなんだけど、和音が出せるシンセは貴重だった。

その頃、ようやく本格的なポリフォニックシンセ(KORGで言うとPoly sixやMONO/POLY)が発売され始めたけど、高くて手が出なかったから。

・同じ曲を機材を新しく入れるたびに4回も録音した。最終的に、TEACのオープンリールの4chマルチトラックデッキ(MTR)と、ミキサーやエフェクタなど機材一式を購入。その後も何度か機材を買い換えたため、ずいぶん後までローンに苦しむことにw

・1997年、メディアアーティスト岩井俊雄×坂本龍一のコラボコンサートに行ったとき、たまたま楽屋に入れてもらって坂本氏と一瞬だけ会話したことがある。「電気的音楽講座」にハマって宅録やって、ローンが大変だったことを話したら苦笑いしてたw そういう人、多いんだろうな。

・この宅録環境でYMO関連の曲は「Mass」などいくつか試しに作ったくらいで、「スイッチト・オン・バッハ」の方向に行っちゃうんだけどね。

デザイン事務所に入って5年くらい、忙しくてほとんど何もできなかった。上京直前の88年くらいに、例のPWL(バナナラマ、デッド・オア・アライブ、カイリー・ミノーグ、リック・アストリーなど)の打ち込み系音楽にハマり、カセット式MTRやデジタルシンセなど機材を一新したものの、数曲作っただけで上京時に全部手放した……。

・音楽制作は中途半端な遊びに終わったけど、「電気的音楽講座」と宅録経験の僕にとっての収穫は、「制作過程は作品そのものより面白い!」だった。

玄光社「イラストレーション」誌の「How to Draw」という下地もあったけど、一つの作品を作っていく途中の過程や作者の迷いや判断など含め、めちゃくちゃ面白い。それが後年、Painterの解説本や記事で、「イラストの制作過程を見せる」に繋がった。

・っていうか、今でもフィギュアとか立体制作の、何週間にもわたる制作過程をリアルタイムでFacebookやブログなんかにアップしてたりする。何かがだんだん出来ていくのを見るのは、誰にとっても面白いはずだ! という思い込みかもしれんけど。

・音楽制作は15年くらい前にReasonやGarageBandによって再開。コピーでない自分の曲を2ダースくらい作ったけど、いつのまにか遠のいちゃった。時々発作的にやりたくなって、アプリや入力用MIDIキーボードなど買い込んだりするけど、ちゃんと作るところまで行かずに醒めちゃう。

●テクノロジーを駆使!

・YMOがコンピュータを制作のツールとして、駆使する姿勢にもあこがれた。僕の制作といえば「アクリル絵具で紙にイラストを描く」だったから、ハイテクの入り込む余地なしw 当時は「コンピュータを制作に活かす」はどうやるのか見当もつかなかった。

80年代半ば、Quantel Paintboxという1億円すると噂のシステムを使い、有名イラストレーターたちが試作してるのを知って、これだ! と思った。そのうちきっと安くなるだろう。

・だから、Macに飛びつくのは早かった。1992年夏だから、個人のイラストレーターとしてはかなり早かったはず。1990年にはカタログを入手してたけど、まったくの高嶺の花だった。田町の駅近くにあったApple専門店も、高級感あって入りにくかった。

・Mac導入の直接のきっかけは、仕事でややこしいカリグラフィー風のロゴのラフを提出したところ、「急いでるのでこちらでトレースしておきますね」って言われ、帰宅したらもう完成ロゴがFAXされていた!

丸一日かかると思ってたのに! もうロットリングと雲型定規では太刀打ちできない、と、翌日、虎ノ門のMac販売店に駆けつけたのだった。ちょうどIIciが大幅値下げされたタイミング。

・ペンタブ導入もMacと同時。Photoshopでアナログ風の絵が描けるとは思ってなかったけど、絵具でマチエールを作って、スキャン、スタンプツールで移植しながら描けそうだと目論んでた。

結局、数ヶ月後にPainterを手にして、「コンピュータでアクリル絵具のように描く」が実現するのだった。


【吉井 宏/イラストレーター】
HP  http://www.yoshii.com

Blog http://yoshii-blog.blogspot.com/


来週はいよいよYMO最終回の、「どの曲がいちばん好き? 問題」について。ペンタブやアプリその他で書き溜めた普段ネタが、賞味期限切れになりそう。

◯Studio City Macauのデコレーション展示中
https://bit.ly/30olPNF


○吉井宏デザインのスワロフスキー、7月半ばに出た新製品4つ。

・幸運の象 LUCKY ELEPHANTS
https://bit.ly/30RQrqV


・HOOT HAPPY HALLOWEEN 2019年度限定生産品
https://bit.ly/2JZVVcm


・SCS ペンギンの赤ちゃん PICCO
https://bit.ly/2JStbC4


・SCS ペンギンのおばあちゃん
https://bit.ly/2YbmnJ7



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編集後記(10/09)

●うわー、懐かしいぞ、Quantel Paintboxでの制作。わたしは東洋美術学校に入り浸っていて、ペーター佐藤、山口はるみなど多くの有名イラストレーターの制作に立ち会った。銀座で大規模な展覧会も開いたが、いつ頃だったか、もう忘れた。と思ったら、古い記録が出てきた。1996年の週末日記である。

玄光社で「SUPERDESIGNING」という季刊誌を作りながら、インプレスで「デジタルイメージギャラリー」という作品集をノーギャラで作っていたという、働き者がわたしだ。1996年3月に太田出版から府川充男「組版原論―タイポグラフィと活字・写植・DTP」が出版された。当時の5800円はトンデモ高い。日本の組版史において貴重な資料となるので、20年後に友人の大学教授に贈呈した。

この本にあった見出し組版サンプルが素敵で「莫迦な編輯者や無智なデザイナーと仕事するくらいなら昼寝をしていた方がよい」のオンパレードで笑えた。取材という名目で頻繁に大阪に遊びに行った。福岡や金沢にも行った。世の中まさにバブルのまっただ中、なんでも経費で落とせたんだからたまりません。

「Wonder-J」というオンラインマガジンを作っていて(当時webなんて言葉はなかった)、5月○日に阪急淡路でプロジェクトチームDoGAの鎌田さんを取材し、午後3時ごろ四条河原町。当時、京都におけるわたしのセレモニーは、新京極の錦天満宮で名水を飲み、ロンドン焼き(1個45円)を買うことだった。それから四条通を烏丸に向けて歩いていたら、「あら、柴田さん」という声。

藤原ヨウコウ・井上佳子の「デジタルふーふ」であった。彼らはジュンク堂書店に資料を探しに来たのだという。その翌日は中津のインターメディウムインスティテュート・グラデュエイトスクールに行って、エルキ・フータモ、草原真知子の両氏を取材。美々卯本店で豪華なランチを御馳走になる。京漬物と大阪昆布と伊勢の赤福という恒例のお土産を買い込んで新幹線。この出張は自費。

その次の土曜日は、尼崎のDC工房へ行って若い人が中心のパーティーに参加した。会費2000円。一人1分間の自己紹介が始まった。どうして関西の人って、こういうとき超絶面白いんだろう。司会者の絶妙なつっこみ、見ず知らずの人の鋭いつっこみ、それにちゃんと応じるんだから、一人5分以上かかる。みんなちゃんと芸がある。東京ではこんな面白い自己紹介に出会ったことがない。

ボケとつっこみは関西人のエチケットだという。握手みたいなもんで、応えないとせっかく出された手を無視するくらい失礼なんだとか。延々2時間くらい自己紹介が続き、みんな最後までしっかりとつきあっていた。1996年後半の記録が一束、そのうちまたネタ切れのとき使いたい。ノーベル医学生理学賞、残念だ。平和賞は、スウェーデンのグレタ・トゥンベリは絶対にダメ。(柴田)


●誰にとっても面白いと思います!

/勉強会続き。Nuxt.jsの環境構築のために、そしてプログラミングに便利だからと、「Visual Studio Code」をインストールすることになった。Windows用、Mac用があるので同じ画面で受講できる。

コードを書くのにはテキストエディタやHTMLコーディング用エディタを使っていた。プログラマーではないので事足りていた。

「Visual Studio Code」には、テキストエディタやHTMLエディタにある拡張機能とはまた別の便利さがあり、プログラムメインの時はこっちを使おうと思ったのであった。

npmのインポートが簡単だし、他の言語もサポートされているし、何よりコード補完機能が便利すぎ。

変数をクリックしたら、使われているところがハイライトされ、されるべきところがされていないと、スペルミスが簡単に見つかったりする。利用言語のエクステンションをインストールしたら、入力中にエラーまで教えてくれる。(hammer.mule)

Visual Studio Code
https://azure.microsoft.com/ja-jp/products/visual-studio-code/

無料。日本語化には「Japanese Language Pack」をインストール

Visual Studio
https://azure.microsoft.com/ja-jp/products/visual-studio/

先生はこっちを使ってらした。たぶん

Nuxt.jsについて社内研修会を行いました。
https://www.t-web.co.jp/blog/nuxtstudy/