ショート・ストーリーのKUNI[253]【番外編】芸術だと思いました?
── ヤマシタクニコ ──

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10月14日で終了したが、あいちトリエンナーレを観てきた。「表現の不自由展・その後」も観てきた。と書くと柴田編集長が顔をしかめるかもしれないが、別に柴田さんにケンカを売るために行ったわけではない。ちなみに、私は柴田さんが大嫌いな朝日新聞の購読者でもある(笑)。

あいちトリエンナーレに興味を持ったのは、芸術監督を務めることになった津田大介氏が、「参加アーティストの男女比を半々にする」と表明したときからだ。そうしようと思ったきっかけは、昨年に発覚した東京医大の不正入試問題だったそうだ。

あれは、私にもものすごいショックだった。この社会で女が不当に差別されていることは、もちろんいやというほど思い知らされてきたし、そのくらいのことはあって当然だなという気持ちも一方であったけど、一方では、いやー、冗談ですよギャグですよ、そんなことあるわけないでしょ、これはどっきりカメラ(古い)ですよ~、とだれかがへらへら笑いながら登場して、はいおしまい、とまっとうな現実に引き戻されることをかすかに期待していた。

だけどそんなことはなかった。そのときの情けなさ、悔しさ、絶望感といったら、藁人形やサンドバッグがいくつあっても、どれだけやけ食いしても足りないほどだ。

だから、これはぜひ、あいちトリエンナーレなるものに行かなければなるまいと決めた。まだ4月だった。東京在の友人K氏に「行こう」と声をかけると「行こう行こう」と返ってきて、でも開幕までだいぶあるなあとか言ってたような。





ところが、開幕早々、あいトリの中の企画である「表現の不自由展・その後」がめんどくさいことになってしまったのはご存じの通り。「不自由展」以外の作家の中にも、抗議の意を込めて作品を引き揚げる人が出てきたりして、あれまあと思った。

でも、とにかく行くつもりではあったのだが、たまたま2人とも仕事が忙しくなり、8月、9月はとても行けなかった。はっと気づくと、10月14日で閉幕だという。あわてて、とりあえず10月8日(なんとなく土日や祝日は避ける)に出かけたのだが、結果的に「表現の不自由展・その後」再開初日にあたってしまったのだ。

再開とはいっても、簡単には見せてくれない。抽選で、しかも一回につき30人(翌日から定員を増やしたらしいが)という。

名古屋駅で落ち合ったK氏と、ほかの展示を見たりしながら、受け付け開始時刻の午後1時ちょっと前に受付場所に行くと、もう行列ができていて、すでに50人は超えていたようだ。

それ以降も、列はどんどん伸びる一方(700人以上だったとか)。こりゃだめだ。ガラガラ抽選でもティッシュしかもらえず、コンビニで缶コーヒーが当たると、これは夢かと思う私が当たるわけない。

はずれる気満々だが、こういうのもまあなんというかレアな経験だよなー、当たる当たらないの問題ではないんだよなー、うんうん、と自分を納得させる。

メディアの取材もすごくて、「リストバンド型抽選券」を腕につけてもらうところでは、でかいカメラを抱えた人が何人も待ち受けている。「ここでこのようにして抽選券を腕につけてもらうんですね!」などと、レポーターが実況中継してたりするので超はずい。顔を隠しながら進んだ。

その後、他の展示を観たりしてるうちに抽選発表の時間になったので、番号が表示されるモニタ前に。人垣をかきわけて番号を確かめるが、やっぱりはずれた。K氏も同じく。くやしい。「こりゃだめだ」とか言いつつ、やっぱりくやしい。当たりたい。それが人情だ。

てことで二回目(3時から)に挑戦。また列に並ぶ。またリストバンド型抽選券をつけてもらう。そして40分後にまた抽選発表のモニタ前に行くと……。

なんと、当たってしまった。K氏ははずれたが、私だけ当たったのだ。若干びみょう。でもK氏は「いいよ。どっかで待ってるから」という。うーん、なら、そうするか……。

このときもモニタ前はものすごい人だかり。メディア関係もさらに増えていて、私にも「すいません、ニュースウォッチ9ですが、当選された方ですか? 見終わったあとでお話を聞かせてもらってもいいですか?」「○○テレビです。ひょっとして当選された方ですか」等声をかけてきたが、丁重に無視させていただいた。

私をだれだと思ってるんだ。大阪で一、二を争うシャイなおばはんなんだからな。

4時になって抽選にあたった30人は「不自由展」会場へ。すでに報道されてるとおり、金属探知機をあてられ、脚立に乗ったカメラマンがずらっと並んで、ばしばしシャッターを切る横を通り、やっと展示室へ入った。

見終わって出ると、また何人ものメディア連中に声をかけられる。「すいません、抽選ではずれた連れが待ってるんで」「これからすぐ大阪に帰るんで」と振り払ったが、中に一人、追いかけながら質問してきた女性がいた。

「どうでした? 芸術だと思いました?」

えっ、と思った。無視してもいいけど、いろんな意味でひっかかって、思わず立ち止まった。

芸術だと思いました?

どう答えたらいいのか一瞬迷い、とりあえず「えっと……すごく問題視されていた映像作品ですけど、終わったときに自然発生的に拍手が起こりました」そう答えると女性は意外そうな顔をした。

この日は展示された作品鑑賞と別に、一回目の鑑賞ではマネキンフラッシュモブのパフォーマンスとディスカッションが行われ、2回目(私の観た回)では大浦信行氏の「遠近を抱えて Part II」が上映された。

「遠近を抱えて Part II」は、当初、壁面のモニタで流されていたらしいが、そこは立ち止まってじっくり見にくいところであるし、一部だけ見て誤解される可能性があったという反省からか、この日は大きめのモニタ前にみんな集まり、椅子や座布団に腰を下ろしてじっくり観たのである。

作品は過去、富山県立近代美術館で展示されたあとに問題となり、展覧会の図録が焼却処分になったという作者の体験が核となっている。映像と音楽のコラージュといった感じだが、言いしれぬ緊張感に満ちた、きわめて内省的な作品と感じた。

拍手をした人は複数いて、それぞれがどんな気持ちで拍手をしたのかは微妙に異なるかもしれないが、拍手が起こったことをその場の人たちは普通に受け入れてるという感があった。その後、みんな静かに展示室を出た。

芸術って何なのだろうか。この作品が芸術だとか、そうでないとかは、どうやって決めるのだろう? それ以前に、芸術って何なのか。あのときの女性が口にした「芸術」と、私が芸術と聞いて思い浮かべるイメージはたぶん、少しずれているだろう。だから困った。

芸術という言葉が用いられているシーンを思い浮かべる。高校のとき、美術や書道、工芸といった科目をひっくるめて「芸術」と言ってた。「芸術、何取るん? 書道? 美術?」みたいに。

「芸術家」という言葉があるし、「愛知芸術文化センター」などと、施設名にも普通に使う。「いやー、あの人は芸術家やからねー」みたいな言い方をされることもある。

「芸術」は重々しい響きとはうらはらに、けっこう俗な使われ方をする言葉のような気もする。「芸術」という言葉を簡単に使う人って、芸術に関心ない人のような気もする。そんなことないか。

「芸術だと思いました?」と聞いてきた人は、あえていえば「すぐれた芸術」という意味で聞いてきたのかと思うが、そんなこと簡単に言えない。

「感動しました?」みたいな意味で聞いたのかもしれない。だが、その場でびびびっと来る感動もあれば、10日くらい後でじわじわ来る感動もあるし、ごくごく冷静に「うーん、この手があったか……」と、思わず腕を組んでしまうような感動(というのかどうか?)もあるだろう。

少なくとも私は、芸術とは個人的な体験であり、瞬間だと思っている。世間の人がどれだけ「これはすばらしい」「まさに芸術だ!」と言おうが、それはそれだと思っている。私にとっての芸術は私だけのものだ。ほっといてほしい。

万人が認め、未来永劫変わらず誰もが芸術と認め続けるものがあるのかどうか。あるかも知れんけど。

書いた瞬間にいちいちひっくり返して何やねんといわれそうだが、要するに私も分ってない。わかってたら苦労せん。私みたいな人が多くてめんどくさいから、最近「アート」という言葉が多用・乱用されてるのかもしれないとも思う。字も簡単だしな。ごちゃごちゃ考えんと、なんでもアートでええんちゃうん~っていう。はいはい、別にいいですよ、それで。わたしゃ単なるアマチュアもの書きですよって。

話はそれるかもしれないが、朝ドラではけっこう「つくる人」が主人公だったりする。ケーキ作りだったり手芸や洋裁の人だったり、まんが家後扇風機作るひとだったりアニメーターだったり今度は陶芸家だったり。

アニメーター(「なつぞら」)のときは、へー、こんな風に作ってたんだとか、当時のアニメ作りの現場を知ることができて興味深かったりする。

だけど、主人公が、ほんとにその世界がむちゃくちゃ好きで、描きたくて、つくりたくてたまらないからその道に進んだのかどうか、いまいち伝わらない。

常に主人公は明るく前向きで、いろんなことができて人に好かれて、ついでにちょっと、つくるのが好き、程度にみえる。ものすごく努力してるような気がしない。

まあ主人公が「つくる人」であっても、それ以外の生活や人間関係の描写がメインなので、そうなってしまうのだろう。半年続けないといけないしね。結局「つくる人」であることは単なるネタでしかない。

さらに、いやなのが「○○でみんなを笑顔にする」みたいなセリフがよく出てくることだ。なんでだれかを笑顔にするために、描いたりつくったりしなきゃならないのだ。いや、そう思う人がいてもいいけど、自分が描きたいから作りたいから、ではいけないのか、見るひとを怒らせるようなものは作っちゃいけないのか……ケーキは食べた人が怒り出しては、売り物にならないけど。店つぶれる。

あ、そうか。つくる人、描く人はいいけど、「ゲージュツカ」は困るということか。己の内なる衝動に従い、表現することを第一義とするような「変な人」が主人公では、朝ドラは成り立たないんだよね。

いや、「まんぷく」の立花萬平は寝食忘れて発明に夢中になる「変な人」だったじゃないか。そうか。男は変な人でもいいが、女は社会と折り合いをつけながら、ほどほどにやっていける普通の人じゃないとだめなんだな。

おっと、話がずれてきた、ようにみえるがずれていないぞ。だからあいちトリエンナーレでは、参加作家を男女半々にという試みがなされたのではないか。とかなんとか考えながら、私は友人K氏が飲んだくれて待つ栄界隈へ急いだのであった。


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「不自由展」でもうひとつ大きな話題となっていた作品「平和の碑」(少女像などと呼ばれる)だが、これについては難しいなと思っていた。日韓関係のさまざまなこと、先入観抜きで単なる少女像として観られるかどうか、自分でも自信がなかった。

だが、広い真っ白な展示室で静かに座っている少女を観たときは、なんともいえない気持ちになった。この子は作品としてこの世に生まれ落ちた瞬間から重いものを背負わされ、おそらくこれからも苦労していくんだなあと思って。そんなおばちゃん的な感傷がふさわしいのかどうか知らんけど。