晴耕雨読[55]1990年代のCG・影像制作を振り返る
── 福間晴耕 ──

投稿:  著者:



むかし関わった会社がきれいさっぱりなくなってたり、当時は業界内では誰もが知っていたことが、今では誰も覚えてなかったりしてることに気がついたので、もう古参のCG業界人しか覚えていない話を、備忘録代わりに残しておこうと思う。

学生時代からのことなので、自分がCGに関わり始めたのはずいぶん昔になる。当時(1990年代)は、個人でもようやく影像制作用のソフトに手が届くようになりつつあり、これまで数千万かけて機材を揃えなければできなかったCGやビデオ編集が、個人でもできるようになるのではと騒がれた頃だった。

当時、テレビではフジテレビ系列で「ウゴウゴルーガ」という番組が放送され、このCG部分がパソコン(アミーガ)によって作られていたことは、業界人やCGを趣味でやっていた人達に衝撃を与えたものだった。





当時の自分の日記を振り返ると「これでようやく個人でCG製作ができる時代が来た。これで一人で映画を作ったり、(これまでプロダクションレベルでしかできなかった)影像制作の仕事を、個人でできるようになるに違いない」と語っているのに、自分でちょっと驚かされる。

そう、当時は皆バラ色の未来を夢見ていたのだ。バラ色の未来と言えば、作り手側もそうだった。1994年にはちょうどPlayStaionが発売され、CGを作れる人間は引っ張りだこの状態だった。そして日本初の多くのソフトは全世界に売り出されていた。

当然、自分もPlayStationのゲーム開発に加わって、「自分の作ったものが全世界でプレイされる」のを夢見ていた。当時の自分の労働時間を振り返ってみると、どうしてこんなペースで働けたのか判らない程だった。

なにせPlayStationのゲーム開発をしながら、雑誌の連載を抱え、更には個人でも影像制作の仕事を受けて、更に個人でプロモーションビデオまでも作っていたのだ。

テンションが高かったのはゲーム業界だけではなかった。今では信じられないかも知れないが、当時はまだCGソフトも多くのソフトが乱立し、そのいくつかは日本で開発されたものだった。

まだどのハードやソフトが勝ち組になるか、誰にも判らない時代だったのだ。そして、それは開発する環境側も、ソフトを遊ぶためのプラットフォームも同様だった。

ゲームやTV・映画以外も同じだった。まだバブルの余韻があったことから、建築シミレーション用の影像の需要が高まりつつあり、また多くの建築事務所がちょうどCAD・CGを導入しようとしていたからだ。そして、当然ながらCAD・CGソフトでも、多くの国産メーカーが参入を計っていた。

あれから20年近くが過ぎた。当時、同じ業界で働いていた人達の多くは、Webやスマートフォンなどの新しい仕事に移ったり、元の業界へと戻っていって、半分以上も残っていない。

当時、精力的に働いていた人達も働き過ぎのせいか、体を壊して引退したり、亡くなったりしてしまった。そして、当時設立された会社もまた、倒産したり吸収合併されてなくなった所もある。CGソフト会社の多くもAutoDeskに吸収され、今はAutoDeskの一人勝ち状態になっている。

仕事としてのCGは寂しくなってしまったが、VRoidやNMM(ニコニコムービーメーカー)コンテストなど、個人のCG製作はむしろこれからが盛況だ。願わくば、これが仕事としてのCGに繋がってくれればと思っている。


【福間晴耕/デザイナー】

フリーランスのCG及びテクニカルライター/フォトグラファー/Webデザイナー
http://fukuma.way-nifty.com/


HOBBY:Computerによるアニメーションと絵描き、写真(主にモノクローム)を撮ることと見ること(あと暗室作業も好きです)。おいしい酒(主に日本酒)を飲みおいしい食事をすること。もう仕事ではなくなったので、インテリアを見たりするのも好きかもしれない。